722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 22:40:18.33 ID:Xqqni615
「大将の条件」
ある夜話に
徳川家康が本多豊後守にこう語った
「大将たる者は物事に臨んで大器量を旨とすべきである。心に余裕を持ち、
大節さえ誤らなければ、他の細かい事は忘れてよい。心があまりにも鋭いと人との交わりが難しくなる。
獣には人の役に立つ牛馬もいるし、逆に害をなす虎狼もいるのだ。人間の悪い点も時には役に立つ。
信玄や謙信は疑心から家臣を滅ぼした。しかしそれは良くない事だ
わしの父が病気の時、一族や譜代の多くの者が敵方や日和見に回り、幼いわしを助けなかった。
ところがわしに武運が回ってくるとみなそのことを忘れたように集まって軍忠に励んだ。
わしも昔のことを知らぬ顔で出迎えた
信玄や謙信のようにわしは昔のことを根に持たない。それが大将にとって大切な器量である。」
723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 22:51:50.48 ID:OwsqW06x
本多豊後って広孝か
それにしてもよく言うわw
都合の悪いことは忘れてしまったようだな家康公
724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 23:14:29.61 ID:PGtBiq3l
お前も息子がかわいいかぁ~(怨
725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 23:41:21.83 ID:Fbtukd8+
>>723
この手の家康の訓戒話は江戸中期頃に作られた話が多いのだが、
その時代、武田信玄は儒教的価値観ではいわずもがなの極悪人だが、上杉謙信も越後軍記などの
軍記物では、子供の頃あまりの凶暴さに長尾家の重臣たちが「こんな凶悪な子供は寺に入れようね」
と無理やり坊主にされるのだが、その幼少の頃の恨みを忘れず、成長して挙兵すると彼を寺に入れた
重臣たちを皆殺しにしたことになってる。
そういう信玄謙信の軍記物でのイメージが世間に広まった上で、はじめてこういった逸話が成立したと
見たほうがいいだろうね。
726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 23:42:38.38 ID:8gkZ9pyq
>>724
思わず笑った。
家康ってこんな事言うような可愛げあるのかな
727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 00:13:07.70 ID:5APFghmK
信長あたりだったら酒井さんは切腹か
728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 00:16:48.52 ID:IOUHzGU7
信康の場合は、家臣の讒言で斬ったってわけじゃなくね?
729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 00:31:34.31 ID:9jw5HCXA
怒りっぽいとか色々言われる家康だけど
家臣を手打ちにしたことはないよね
730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 00:52:32.01 ID:MmsOJugJ
>>729
ただ伝わってないだけの可能性もなきにあらず
731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 00:54:44.76 ID:4FmrEjlZ
>>730
そりゃまそうだがw
ただ家康は剣術も相当の腕前だけど、それは攻撃ではなく身を守るためのものと
実際に割り切っていたようだね。
733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 01:47:38.49 ID:bS5pBE+R
家康は恨みを忘れないよね。忘れたふりはするけど。
孕石さんにもしっかり復讐してるし。
736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 03:52:56.25 ID:yTdXORKZ
>>730
防御と言うのも念のため程度じゃないかな
本気で天下を狙うような大将なら、
部下に舐められないためとか、武家の本分を忘れないためといったメンタルの部分が大きいんじゃないかと
義輝とか義元とか信長とか、実際に戦闘になった時点で詰んでる筈
伊賀越えでは「鍛えといて良かったぁぁ」ぐらい思ってたかも知れんがw
737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 05:29:49.80 ID:7wOoCzhm
黒田長政「大将自身が戦うなんてありえない」
最上義光「ですよねー」
738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 06:51:43.45 ID:2Sb+cY4k
>>736
そりゃそうだろ
侍レベルからの攻撃武器は弓と槍(長巻きの人もいたそうだが)
刀は基本的に補助。
家康って今川の侍大将してた時期もあるんだろ?その頃は単騎駆けくらいしてたんじゃね
739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 08:23:27.23 ID:4aoJAivx
侍大将とはいっても徳川軍を率いる立場だからなー
小勢の指揮官じゃないだろ
740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 09:09:56.29 ID:15PkwuGw
>>733
まぁ本気で覚えてないものは「忘れてしまった」だけで「忘れた」とはいわないだろう。
741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 11:17:53.47 ID:XPjrNm50
>>722
今川氏真「竹千代の奴め、そんなに褒めるなよ照れるじゃ無いか」
742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 13:23:24.65 ID:xdzODYrt
氏真って家康と主従逆転した時、家康の事なんて呼んでたんだ?
やっぱ普通に「上様」、「大御所」かな
743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 13:30:16.58 ID:JIYhbnwK
>>729
出来なかっただけだろ
君主権が弱いからな > 松平家
744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 13:34:17.15 ID:5APFghmK
家臣は宝だ、だからだろ
745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 13:36:38.44 ID:EMcjw50Q
>>742
官位で呼ぶとか(ナイフ様とかウフ様とか)
746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 15:18:54.74 ID:Esd3zcNH
>>729
なんとなくだけど、若いときは作左や忠次が、年取ってからは正信が諌めて、
手打ちなんてできなかった気がする
747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 16:54:22.82 ID:72ntIoG9
信長は、後に超ビッグになったので忘れられがちだけど、親父死んで尾張がカオスだった頃は
兵数百人単位の合戦で、自ら血槍振るってのガチバトルを経験してるはず
748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 17:32:18.87 ID:cPVlTb2H
>>743
松平家は確かに君主権が弱かったけれども、家康は違う
家康は戦国でも珍しい専制君主的な大名だよ
徳川に改称して三河一向一揆鎮圧した以降だとそれが如実
749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 19:53:56.66 ID:4aoJAivx
一般的には関東入府以降、君主独裁になったって言われてね?<徳川家
750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 20:22:55.44 ID:y/iVCRT7
>>738
これは家康存命中に描かれた関ヶ原合戦図屏風だけど
大半がその補助武器を抜いて突進して行ってるな。
http://history.harikonotora.net/img/200-61.jpg
補助というか状況に応じて使い分けたってところだろ。追撃をかけるときのように
機動力重視になると刀が便利なようだな。
751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 20:45:11.92 ID:v90FH10I
まぁ取っ組み合いになる乱戦じゃ槍は邪魔だよなぁ
752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 21:49:10.72 ID:alkcyFKp
>>749
家康は五ヶ国時代すでに自力で一律の検地が出来るほど強大な君主権を確立している。
関東での施策は五ヶ国時代の延長線上だと今は捉えられているね。
三河時代から強力な君主直属軍を整備したことも含めて、少なくとも三河統一以降、あの時代でも最も強い
君主権を確立していた大名が家康だと考えていいと思うよ。
753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 21:50:09.50 ID:ai/cLeMO
さすがに刀が補助ってことはないだろw
どんな戦闘を前提に言ってんだか。