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『唐の頭に~』について

2023年05月17日 19:47

759 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/17(水) 11:52:46.46 ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/



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我、若年より大君の御近習に侍り

2021年09月02日 18:23

475 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/01(水) 20:57:04.11 ID:OeDTsDxd
「我、若年より大君の御近習に侍り、幸ひに御心に合いて、隙なく相勤るを以て学問などするに暇なし。
文盲至極なりといへども、大君の金言を不断承りたれば、家を斉へ国を治る事、少しは心得たるやうなり。
大君天下を知召(しろしめす)に至って、我等も御慈意の御恵みにて、大身となし給ふ。
如レ斯御厚恩なれば、子孫の汝等忘れ奉らざるやうにと存じ、則承り覚たる所の御意※に、
大より小に至るまで先ず心得べき事あり」

 ※御意に 東大本ではこの所「御意を記して汝等に残し置所なり。能々一句々を守りて忘るべからず。
      大君の御意に」とある。

476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/01(水) 21:12:49.18 ID:OeDTsDxd
「第一に、人としての恩を知らずんば人にあらずという事は、誰も誰もいふ事也。
然れども是に近道のある事を知らず。主を主とし親を親とすといふ事は、いかなる愚鈍なる主にても
無理なる親にても、やれいとしや、やれ笑止やと育てゝ、如何にもして主は主の道を立、親は親の道を
立てるやうに、寝ても起きても思ふが第一の事なり。
扨、左様に思ふに付ては、己が身持ちをたしなまずしてはならざる事は、勿論其中にあるなり。
一旦の欲心にて、莫大の恩を忘れ、おのれおのれが身を立る心にては、何とかしか我心を知って守らんや。
この心よりおこれば、譏(そし)るにも叱るにも皆欲心なり。此心を弁えざれば、褒めるもいとしがるもみな
己が欲心なりといふ事を知るべし。能々(よくよく)こゝを弁え、深く味わふべき事なり。」



権現様依仰 忠勝様御宗旨御改被遊候事

2021年07月05日 18:12

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/05(月) 01:38:30.42 ID:qTe29Ja5
権現様依仰 忠勝様御宗旨御改被遊候事

永禄5年之頃

権現様参州一向寺一揆乱逆の佐崎・野寺・針崎3ヶ寺破布遊さるべく思し召される由。
この時、御譜代の御歴々過半が宗門に属して御敵対。本多佐渡守殿(正信)、その時
は弥八郎殿と申して一揆の頭をなされて御敵対であったとの由。

この故に権現様にも御難儀遊ばされたが、忠勝様(本多忠勝)は少しも御別心なく御
味方にて御忠戦遊ばさる。忠勝様は御両親様より一向宗であったが、その節に浄土宗
に改められよとの上意に付き、御宗旨を御改め遊ばされたとの由。

――『忠勝公御武功其外聞書』



早川弥三座衛門の先見

2021年05月25日 17:10

232 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/05/25(火) 15:57:25.60 ID:0lkDvxNO
早川弥三座衛門の先見

小牧山対陣の時、秀吉が『中入り』の策を立てて失敗し、池田(恒興)、森(長可)を戦死させたことは
前に記したため、大略ご承知であろうが、この時、徳川家康の内部に関する異聞がある。
この事は山鹿(素行)先生の物語として、山鹿流に伝わった口授であるから、世上では知らぬ話である。

先生曰く、大軍を引き廻すこと至って難しいものであるが、羽柴(秀吉)殿は五万六万の人数を自由に
引き廻される大将である。小牧山に東照公(家康)御籠もりになられた時、秀吉は五万ばかりの人数を
七、八段に立て小牧を引き包むように人数を勧められた。これに東照公は大いに急かれて
「平八!平八!」と本多忠勝を頻りにお呼びに成り、

「秀吉のやりようは我等を踏みつけにした仕形である。我等がこの城にあるのを知りながら、
かの体は何事ぞ。平八、出て蹴散らすように。」

との上意であった。この時、酒井忠次は脇目も振らず秀吉の人数の進退を見ていたが、
「平八出るな!」と、忠勝を制した。東照公は「平八早く出て追い散らすように!」とひたすら
仰せに成る。平八郎も如何すべきか途方に暮れた体であった。

その内に秀吉の旗本より黄母衣の使武者が七、八騎乗り出し、先手に命を伝えた様子が見えた。
すると忽ち、貝の音高くあがり、一の備えは左に押し廻して退く、その次へ二の備え入れ替わると
見る中に、これも左に押し廻す。その跡へ三の手また押し出す。斯く段々に進みて繰り引きに引く
様子は、あたかも糸を付けて引いているようで、この人数の遣い方には、徳川方の人々も感心して
鳴りを鎮めて見物していた。

東照公は忠次に尋ねた、「その方は敵の人数が引き取ることをどうして存じていたのか。」
本多忠勝を制していたのは、それ故だったのだ。忠次は云った

「(早川)弥三座衛門が申したのです。あの人数は必ず引き取ります、と。
彼は甲州の言葉で『隠れ遊び』という軍法によく似ていると見切りました。それ故に平八を止めたのです。」

東照公はその弥三座衛門を呼ぶようにと云い、彼を召した。この早川弥三座衛門は甲州武士にて、
馬場美濃守の部下であり、長年教訓を受け、軍事にかけては最も老巧の人であった。

233 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/05/25(火) 15:57:50.30 ID:0lkDvxNO
東照公は彼に命じた
「只今、敵の人数は引き取ったが今後の様子は覚束ない。楽田、羽黒辺りへ言って見て参れ。」
早川畏まって、一騎敵陣近くまで乗り寄せ、篤と見届けて立ち返り、

「敵は味方を兼ねたる体にて候」

と云う。東照公「味方を兼ねたる敵とは何事を言っているのか。」とお尋ねになると、
「されば、敵は土手を築き柵を結い廻し厳しく備えを固めております。これを『陰の敵』と申します。」
東照公これを聞かれ

「ということは、敵は我等を柵際に引き寄せ、鉄砲にて撃ちすくめんとする手立てをしていると
いうことか、思いもよらぬことだ。」と仰せになった。これに早川

「いやいや、信長公が長篠にて柵を付けて甲州勢に打ち勝ったのは近年のことであり、天下の人、
皆知る所ですから、今更その故智を真似て勝利を得ようとは致さないでしょう。
これはおそらく、我々を憚っての用心でありますから、『味方を兼ねたる敵』と申すのです。
楽田、羽黒辺りにて合戦は無いでしょう。この小牧山を攻めることも勿論無いでしょう。」

「では今度は戦は起こらないのか、又は何方にて始まるか、その方はどのように考えるか。」

「長久手山辺りにて、御合戦になるでしょう。その仔細は、池田の聟の森武蔵は、先日八幡林にて
打ち負けたため、是非にもこの遺恨を晴らさんと考えているでしょうし、また池田は賤ヶ岳にて、
秀吉に疑われた事があり、なにか一手柄現して秀吉の機嫌を取りたいと考えています。池田、森が
このように張り切っている以上、殿様(家康)がここに居られるのを幸いに、岡崎の御城下へ押し込み、
焼き働きなど仕るでしょう。秀吉としては、他に手段もありません。」

そう述べると、東照公「これは能き心付なり」とて、篠木。柏井辺りの重立ちたる百姓に金銀を遣わして
内通を頼み、森の陣に間者を入れ、近辺に巧者の物見を出し置いたところ、池田、森が忍びやかに
篠木、柏井に一泊し長久手の方に押し通ったのを。百姓たちが直ちに小牧山に内通した。ここにおいて、
小牧より先手、旗本の二備えの人数を密かに出して、池田、森を追跡して大勝利を得たのである。
全く早川の巧者の見地によって無類の御勝利となる云々、とある。

この事、徳川家の歴史には無き所である。

伝説研究・歴史之謎

真偽不明ながら、小牧・長久手の戦いに関する伝承。



槍下手の本多平八郎も面白し

2021年05月21日 16:58

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 13:13:57.45 ID:5HKrj848
本多家の譜代の士、小野某の家の記録に云う、

(本多)忠勝様は世に名高き蜻蛉切の槍にて数十度と功名、天下にその聞こえあれど、
槍術は至ってお下手なり。ご隠居後、桑名にて家中の若侍相手に槍の試合をなさる。いつも
入身をなさるに、殊の外拙にて、まだろくろく修行も積まぬ若者にも突かるる事あり。
ある時入身を突きたまうに、槍先不器用にて一向に利かず、遂にその時も負けたまう。

林氏の物語に
『忠朝様、表書院にて槍の師匠と頻りに稽古をなされ候。そこへ忠勝様御出なされ、かの者は
いずれの者なるや、家中には見覚えぬ顔なりと仰せらる。その者平伏して居れば、傍らより
忠朝様、これは槍の指南仕り候、何某と申す者にて、信州の浪人に御座候、と申し上げる。

槍の指南なら拙者相手なるべしと仰せらるる。世に名高き忠勝様の御事故、槍の師匠も遠慮致して
御相手を致さず。「是非立ち会い候へ」とひたもの御勧めにて、「少しも遠慮なく突き候へ」と
仰せられ、御立ち会いなされたるに、最初は互角の槍と見え候ところ、忽ち忠勝様胸を突かれ、
続いて槍をはね飛ばされ、尻もちをつきたまふ。

大いにご立腹して、「ヤア誰かある、蜻蛉切をもて参れ」と呼びたまふ。師匠吃驚したり、はや
逃げ出し候事に御座候』

とあり。槍下手の本多平八郎も面白し。

また信州の保科弾正(正俊)は、世に槍弾正と呼ばれ、戦場にてはこの人の槍先に向かう者、
必ず斃れずという事なし。然るに家中の者を集めて稽古するに、いつも勝ちたる事なし。
稽古は至極拙なりと承り候と、『長谷川運平筆記』にあり。
実地の事は全く別なりと知るべし。
道場で叩き合う剣術、槍術すべて華法なれば、実地に臨んでは何に役にも立たぬものなり。

伝説研究・歴史之謎



745 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/21(金) 20:32:13.92 ID:ZuSEJof4
>>744
可児才蔵には宝蔵院流槍術を学んだばかりの頃はむしろ槍が上手く使えなくなったって言う話があったかな。
道場の教えが本当に実地では役に立たないのか合わなかったのか?何なんだろね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 21:44:39.04 ID:k7YOddEN
稲富「稽古で下手なのに実地で上手く出来るのかな?」

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 21:56:18.10 ID:+qedGPpg
>>744
こういう話はよく聞く。
戦国武将からは外れるけど新選組の近藤勇、
道場ではどっちかてえと不器用な竹刀捌きだったそうだが実戦では滅法強かった。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:08:34.33 ID:BMBwzAZo
>>745
才蔵の場合は無手勝流の時は怖いものなしでガンガン突っ込んでいけたけど
なまじある程度槍を習ったら恐怖を感じ取れるようになってびびっちゃった
って事だったような

道場の教えが実戦で役に立つとか立たないという単純な話ではなく
個人戦と集団戦では強みが違ってくるという事だろう

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:16:41.06 ID:i6H2cVOe
>>747
どっちかっていうと、天然理心流は柔術や他の武具術も含めた総合的な体系だからじゃねえかな。
竹刀だけに特化した剣術家と竹刀で試合したら、そら分が悪い。

総合格闘技の選手とプロボクサーを国際式ボクシングルールで試合させるようなもん

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:53:40.71 ID:By0VHP+h
>>749
なるほど。
良い喩えで解り易い。ありがとう。
本多忠勝の件も何かその辺のことがあるのかな。

751 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/22(土) 15:59:31.94 ID:YXS2jksv
加藤清正が吉岡憲法に全く勝てなかったが、実戦では違うと槍甲冑を持ちだしたら、恐れ入ったように
憲法が振る舞ったって話はどこで聞いたんだっけかな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 20:22:30.66 ID:/PHcjahT
黒田家家臣、野口一成の槍術・いい話
の逸話でもあるけど
ゴッツイ籠手付けて左手で敵の攻撃を受け止めて
頑丈で切っ先だけ鋭い太刀で突き殺すなんて戦法
こんなの剣術的には大問題だけど
戦場じゃ有効だった訳だしな

二番槍では詮なし!

2021年05月16日 16:37

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/16(日) 16:27:20.73 ID:3Js1RWNV
今川氏真公の士大将・小原肥前守(鎮実)が参州吉田の城を守っていたのを、権現様は御攻め
遊ばされ、御人数を二連木・加須塚などの要害へ遣わされた。すると小原肥前守はこれを見て
吉田川の辺り下地と申す所へ打ち出て防戦仕った。

その時、忠勝様(本多忠勝)は一番に御掛かりなされ、牧宗治郎と槍を御合わせなさり、比類
なき御働きであった。

時に蜂屋半之丞(貞次)が申されたのは、「毎度一番槍を突くところで、この度本多に越され
二番槍では詮なし!」と、槍を捨て刀を抜いてかけ入り、敵を幾人切り伏せなさった。

その時、敵方より河井正徳と申す剛の者が鉄砲を持って蜂屋を狙い撃った。あやまたず眉間に
当たり、蜂屋は討死致された。

――『忠勝公御武功其外聞書』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/16(日) 18:00:02.67 ID:P/x14cNk
美味しいとこだけ持っていくカスって昔から居たんだね

721 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/16(日) 21:55:48.69 ID:Qd68O4B2
>>720
>>719の話のことだったら何処にカスが居るのか?と。
騙し討ちならともかく、日本各地の戦場に弓矢どころか鉄砲が普及してるこの時代に、スナイパーにやられたことを卑怯だの力スだのなんて言ってたらシモヘイヘやベトナムゲリラ兵はどうなるのかと。

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/16(日) 23:11:54.09 ID:XILAtUGd
小原の悪いところはこれじゃないからなぁ

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/17(月) 00:02:52.81 ID:OeKrAtqm
>>721
第二次大戦以降も狙撃兵は敵からは憎悪されて
味方からも忌避される存在だったけどな

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/17(月) 04:56:39.66 ID:Ap+cpwvI
>>723
命と領土をガチで取り合ってる戦場でそんな甘っちょろいこと言われてもな。
寝言は地獄でどうぞとしか

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/17(月) 05:20:15.60 ID:Ap+cpwvI
もう一つ言わせて貰うと、射程距離短い火縄銃時代の狙撃と近現代の狙撃を一緒くたに語るのもどうかとは思う。遠くから攻撃してくる弓兵も卑怯なのか?って話にもなるし。

本多忠勝に負けたくないと更なる武功を求めて前に出て奮戦した蜂屋さん。
乱戦の中、前線で味方に仇なす敵の猛者を銃で討ち取った河井さん。
互いにやるべき事やった結果だし、出典元でも河井を剛の者と評価はすれど、卑怯者なんて評価はしてないのでは?

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/17(月) 09:03:33.43 ID:XQuYmwNe
>>719
常山紀談版だと、ほぼ同じ内容で本多忠勝と牧宗治郎に出遅れて一番槍を取られた蜂屋が他の士に遅れを指摘されたことに腹を立て、
本多忠勝に一番槍取られたなら一番太刀を取ると言って槍を捨て、敵前衛に斬り込んで2人を倒し、銃を構えた河井正徳を見つけてそこに向けて刀を持って突進された所を撃たれて立ち上がって退いたが亡くなったと言う風に描写されている。

で、蜂屋の母が息子の死に様を聞いて無様でない死に様に安堵したとある。

少なくともこの逸話に美味しいとこだけ持ってくカスは居ないと思うな。

727 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/17(月) 12:24:41.53 ID:DVsEXiw2
河井正徳も名前が残るだけあってなかなかの剛の者。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4308.html

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/17(月) 13:09:27.50 ID:YUH6x6+h
>>726
むしろ、みんなやるべき仕事やった感があって、悪い話ですらないかも

「過分に存じ奉ります」

2021年04月08日 19:39

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/08(木) 14:59:30.05 ID:/oR0YyLC
福島正則は)今度(関ヶ原)忠節の仁であるので、福島殿へ安芸、備後両国を遣わすことになり、
その御使として本多中務大輔(忠勝)、井伊兵部少輔(直政)両人が遣わされた。
そして両国を遣わされる事を、福島殿がもし不足に思っていてはと、両人も間を取り、申出して、
如何かと様子を見ながら、御意の通りに両人が申すと、福島殿は思いの外機嫌よく

「過分に存じ奉ります」

と申した。両人は大いに喜んだ。

慶長年中卜齋記



100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 12:29:03.81 ID:xFBl5jAz
直政不死身かよ

中務は小姓共ばかりにて

2021年04月03日 17:49

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 15:55:34.81 ID:4Y2Pco0n
関ヶ原の合戦の時、本多中務大輔(忠勝)は、馬に鉄砲があたり、下り立って石に腰を掛けて
いたところ、兵部(井伊直政)家来の木俣清左衛門と申す者が馬にて通った。ここでは馬を
お貸しするべきだったのに、貸さなかったという。

中務は押合いのための雑兵も、四百に足らぬ人数であったという。
本多家の能き者共は美濃守(本多忠政)に付けられ、秀忠公のお供に参っていたため、中務は
小姓共ばかりにて天下分け目の御合戦の先駆けを致されたという。

慶長年中卜齋記



「相馬利胤と競馬」

2020年11月10日 16:15

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/10(火) 10:19:40.67 ID:4Md3hubl
「相馬利胤と競馬」(『中泉記』より)
関ヶ原の合戦後、佐竹氏と親密な関係を結んでいた相馬氏は、佐竹の与力大名と目され改易を申し付けられた。
家中は佐竹を頼って秋田へ行くべき派と、先祖代々の地を枕に討ち死にする派で分かれたが、若き当主利胤は家臣たちを制して
「私が直々に江戸に行き、内府様に弁明する」と主張、江戸に出立した。
上杉と対陣した証拠を以て、相馬は徳川に弓を引いてはいないと説明する利胤に対し、家康は取り合わない。
しかし本多忠勝や本多正信は若い義胤に同情し、家康に執り成しをした。
すると家康は「儂の馬と相馬殿の馬とで競馬をし、相馬殿が勝てば所領安堵しよう」と言った。


競馬勝負の当日、家康が用意したのは南蛮渡来のアラブ馬。
一方義胤が駆るのは国産の小型馬。
馬力はさておき、競争をすれば前者が勝つのは目に見えていた。
仕切り役の忠勝の号令を合図に二頭の馬は走り出すも、障害の空堀をひょいひょい飛んでいくアラブ馬に対し義胤の馬はどんどん置いて行かれる。
その時、一発の銃声が鳴り響いた。予め忠勝が用意していた空砲である。
家康のアラブ馬は驚きつつそのまま駆けていったが、義胤の馬は空堀の中に落っこちた。
すると忠勝が「勝負あった」の法螺貝を吹いた。
「この競馬勝負、相馬殿の勝ちである」

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/10(火) 10:23:19.39 ID:g76GPFP8
納得いかないのは家康である。
「儂の馬の方が先を走っているし、相馬の馬は堀に落ちているではないか!?」
それに対し忠勝
「殿、戦場で銃声が聞こえた際にそのまま駆け抜ければ馬も主人も死に申す。
 銃声を聞いて馬と共に穴に身を隠すことこそ優れた馬術です」
忠勝に仕切りを任せた以上文句の言えなくなった家康は、仕方なく義胤の主張を認め、相馬氏は
宇多・行方・標葉三郡の所領を安堵されたのだった。

相馬が助かった話としては政宗の執り成しが有名だけど、本多忠勝・正信の助力もあったという逸話。
後世の創作だろうけれど、十代の若い義胤とそれを応援する忠勝と正信という組み合わせが実に「いい話」だなと思ったので。



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/10(火) 12:17:45.87 ID:DY8T00l1
利胤と忠勝と正信の3Pがまず思い浮かんだ

691 名前:人間七七四年[saga] 投稿日:2020/11/10(火) 16:58:23.22 ID:wpOwM4Wp
義胤と利胤がごっちゃになってる気もしますが利胤の方が先に亡くなったんだっけ。

真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな

唐の頭に本多平八

2019年11月06日 17:21

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 07:09:48.92 ID:gResndio
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。

信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った

「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」

しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。

ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。

平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。

その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は

『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』

(甲陽軍鑑)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 12:54:26.21 ID:AkN9Xad1
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

形の好みから武士道に入れ

2019年06月19日 15:12

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:54:49.11 ID:XHJKzrW+
「侍は首は取らずとも手柄をせずともそれを言わず、事の難に至っても退かず、主君と枕を並べて討死を遂
げ忠節を守ることを指して、侍と申すのである。

義理・恥を知らぬ輩は物の吟味をしないために、幾度の機会があったとしても1つも関心を抱かない。禄を
もって招く時は、譜代の主君を捨てて二君に仕える輩がいる。そもそも心は物に触れて移りやすいものだか
ら、仮初にも侍道の他は見聞きせずに、朝夕身を慣わしとして武芸を心掛け、たとえ学問をするとしても忠
義と大功を聞き、冑の緒を締めて槍・長柄・太刀を揚げ、天下の難儀を救わんと志すことが侍の役目である。

世間の武士道の教えでは、形はどうであれ「好みはあってもどのような事をもせよ。武士は只々志さえ正道
で武芸を嗜み、勇猛であれば良き武士である」と教えている。これも悪いことではあるまい。しかしながら、
某の家人へ教えることは違っている。某の家人などは、形の好みから武士の正道に入れ。形の好みを見れば、
その人の心根も見える。それは心で好んでいることが外に表れるからだ。言葉もそのようなものである。

例えば烏帽子・狩衣を着ている心持ちと、具足・兜を身に着けている心持ちは皆相違することである。髪の
結い様や衣類の着様、刀脇差の差し様まで手軽く健に嗜み、器物などをあるがままに任せ、諸事を軽くして
激しいことをもって、某の家人の教えとする。合印なくとも某の家人と見えるように嗜むべし。

公家殿や上人の玩びを必ず真似してはならない。大いに禁制とする。武道が甚だ弱くなるものである。それ
よりは三味線に歌は構わないだろう。出家と深く出会えば愚痴になるものである。町人と出会えば利欲にな
るものである。(それらの人々と)密事を語るものではない」

以上の教えに背く家人はすぐに扶持を放し、また首をも刎ねて仕置きを見せるものである。その家中の者ど
もは形の好みから武士道に入れというのが、忠勝(本多忠勝)の常の教えである。

――『鈴林扈言』



津候の念珠

2019年05月23日 17:10

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/23(木) 12:29:39.50 ID:ytMhFP3J
聞いた所によると、津候(藤堂氏)の乗輿の中には天台宗の念珠が入れてあるのだという。
これは藤堂家の元祖である高虎が天海僧正の弟子と成ったため、代々この如しと云う。
また岡崎候(本多氏)の乗輿にも、浄土宗の輪数珠が入っており、これももその元祖忠勝の
遺命によって、代々そのようにしているのだとか。

現代は燈明寺という寺よりこれを調進するのだという。

(甲子夜話)



君のなさけの今はうらめし

2019年02月08日 17:58

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 17:15:27.10 ID:NxXWbqM3
本多平八郎(忠勝)死去の時、家臣の大谷三平という者が、追腹を切って殉死した。
その大谷の草履取りがさらに追腹を切ったのだが、このときの辞世の句

『死にともな あら死にともな さりとては 君のなさけの今はうらめし』

(安斉随筆)

追腹の追腹というのは、仕方ないけどさすがに不本意、みたいな感じだったんだろうな。



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/09(土) 18:45:55.75 ID:vR7mGeIJ
>>731
まとめの1047
「殉死と本音・悪い話」
で出典不明で一応既出

平八稲荷

2018年12月06日 17:39

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 22:41:22.91 ID:pN4nt+mo
豊臣から徳川へ時代が変わった頃、大坂の池田の町で奇妙な事件が起きた。
ひとりの男が寺にやってきて、亡くなった人の弔いを頼んできたのだが、
寺の僧侶が頼まれた場所に行っても誰もいない。
 寺だけでなく、葬儀屋も同じような目にあった。葬式道具をかついで
依頼された場所に行っても、該当する家がなかったのだ。
 そんな出来事が色んな寺や葬儀屋で起きたものだから、たちまち評判となった。
その話を耳にしたある寺の和尚が自分のところにそのいたずら者がやってきたら
捕まえてやろうと意気込んで待ち構えていると、ひとりの男がやってきて
弔いをお願いしてきた。
 その男の様子を見て「さては こいつに違いない」と決めつけて、和尚は
男を捕えて縄で縛り上げた。そして、和尚が「このいたずら者め!」と
怒鳴りつけて尋問すると、男は最初のうちは何とか誤魔化そうとしたが、
とうとう観念して白状し始めた。
「俺は元々大坂城に住んでいた古狐だ。侍どもが勝手に戦をしたせいで
大坂城は焼け落ちて、俺も重傷を負ってここまで逃げ延びたが、ついに
力尽きて死んでしまった。徳川の世になってから皆は戦で亡くなった人の
ことを忘れて暮らしてやがる。俺はそれが許せなかったから、こんな
いたずらをしたんだ」
 和尚がその話を感心しながら聞いていると、古狐の亡霊はこう言った。
「もういたずらはしないから、俺をお稲荷様として祀ってくれ。俺は
侍の中でも本多平八郎という奴が好きだった。強いし、気のいい男だ。
頼む。俺に平八という名前をつけて祀ってくれ」
 そう言い残すと男はすっと姿を消してしまった。和尚には古狐の気持ちが
よくわかったので、さっそく菩提を弔って稲荷の祠を建てた。
 これが今でも池田に残る平八稲荷の祠である。
 
 平八稲荷となってから、さすがに古狐はいたずらをしなくなったが、
池田の町にある他のお稲荷さんに喧嘩を売って迷惑をかけたようである。



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 14:34:12.75 ID:z0zI1XyY
>>501
オチw

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 21:24:00.56 ID:cjWmIg7g
狐と猿って相性悪くないのかな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 23:25:07.67 ID:o0R9xr8o
>>503
知り合いの姫が狐憑きになった時に、出て行かないと日本中の狐を絶滅させるぞ、と稲荷大明神を
脅迫する程度にはフレンドリー<サル

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 23:47:35.75 ID:U7W3U1dT
狐もワンワン吠えるから相性悪いはず

古老どもも古者だから捨てたか!

2018年10月29日 17:28

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 13:27:42.46 ID:2F6DKB/B
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は馬場信房の殿と討死の間に落ち延びたが、この時に相伝の旗を捨てたのを本多平八郎
(忠勝)の属兵・原田弥之助が拾い取った。梶金平(勝忠。忠勝の与力・家臣)は大声を揚げて、

「どうした武田四郎! たとえ命を惜しみ敵に押付を見せようとも相伝の旗を敵に取られるなんて
ことがあるか!」と散々に罵った。武田方の旗奉行がこれを聞いて、

「その旗は古物だから捨てたのだ!」と言えば、金平はなおも声高に「山県・内藤・馬場などの
古老どもも古者だから捨てたか!」と声を放って大笑いした。武田方はこれを聞かぬふりをして

落ちて行った。神君(徳川家康)はこの事を聞こし召し「金平、当意即妙の申し様なり」と仰せ
になり、金平は御感心に預かった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 15:04:30.49 ID:v5Mmkc9X
>>378
>古老どもも古者だから捨てたか!
煽りがうますぎるw

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 15:18:21.27 ID:Omn6ajDG
佐久間、林も古者だったな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:36:56.88 ID:c7+IdzTp
当意即妙の口ぶりなのを見ると三河者じゃなくて駿河か遠州出身なのかなとか思ってしまう

あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

多田新蔵のこと(改正三河後風土記ver)

2018年10月23日 17:17

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 05:08:14.63 ID:eTfwBn7W
(長篠の戦いの時)

本多平八郎(忠勝)は猶も厳しく武田勝頼を追って行くと、岡の辺りの松を盾に取って矢を放つ
敵がいた。本多の郎等・多門伝十郎と蜂須賀彦助は馳せ向かったが、彦助は敵を1人討ち取って

討死し、伝十郎は手傷を負って敵を追い散らした。また味方の軽卒らが1人の敵を生け捕ったが、
雑人かと思って着ている衣類を剥ぎ取って見れば、緋緞子の下帯を身に着けていた。さては只者

ではないなと姓名を問うと多田淡路守満頼の子・三八(新蔵か)であった。信長卿はこれを聞き
なさって、「それでは伯父の葬送の時に火車を切った勇士であるな。私が召し仕おう」と仰り、

長谷川竹丸(秀一)に命じその縄を解かれると、三八はその縄を引き切って近辺にいる者の槍を
押っ取りその辺りに群居する者4,5人を突き殺した。よって竹丸は槍を取って三八を突き倒し、

その首を取って信長卿の御覧に備えた。およそ今日の合戦は卯の刻の始めに押し出し、午の刻の
終わりに武田方は総敗軍とぞなりにける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 14:38:18.02 ID:+GgA7et2
>>354
この時のぶな画を討ち取ってれば…。

井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

2018年07月13日 18:15

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 15:31:24.37 ID:m3mAOga4
井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、

兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。

(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)

また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、

「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。

左様に御心得なされ」と申された。

(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)

――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』



77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:35:18.29 ID:LVuhrboZ
時間経過なのか、忠勝の方が細かい観察力が優れているという話なのか。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 09:38:24.86 ID:0uqXaRXi
そんなんだから突出して銃撃されるんだよ

正しく、素直でなければ、

2018年02月02日 18:13

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/02(金) 05:18:59.84 ID:4rWMnih/
本多忠勝が、北条家の朝倉兼也を招いて武義の物語をしたことがあった。
兼也帰って後、忠勝は言った

「朝倉兼也はなかなかの人物だと聞いていたが、武義の上の詮索、真に然らざるものであった。
何故かと言えば、彼は一度も遅れを取ったことはないと物語った。
名将と言えども、初めは万事落ち度無きとは行かないものだ。いわんや兼也程度の侍であれば、
善と悪が半々であっても、人々は盛んに褒め称えるものだ。

正しく、素直でなければ、武士の意地とは言わぬのだ。」

そう批判したという。

(士談)



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/02(金) 19:26:35.01 ID:7I1QUZnP
家康「そやそや」