東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

2017年06月03日 14:21

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:38:20.51 ID:I0x5Dvyw
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)



977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:24:26.85 ID:4Ghf+TWg
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 12:36:01.54 ID:dYQCQZul
本多忠勝

「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」

武具も実用より見た目重視だから

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:12:34.08 ID:Mg9NhrRV
>>978
それは「まず形から」って話かと

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:15:57.43 ID:Lh7C7hE7
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 14:15:54.11 ID:Ljz3XT3y
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 19:11:33.78 ID:R/r5VpoW
テラフォーマーかよ
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岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

軍令違反者には御宥恕がなかった

2017年04月13日 11:20

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 22:50:47.55 ID:7Xqwitvs
大須賀五郞左衛門康高の甥の弥吉が御軍令にそむき、(高天神城の)勝頼の旗本へ討ち行って高名をなしたところ
(家康は)もってのほかお怒りになった。
弥吉は恐れて本多平八郞忠勝の家に逃げて赦免をお願いしたが、お許しなくついに切腹をおおせつけられた。
(家康は)何事も寛容な方であったが、軍令違反者にはこのように御宥恕がなかった。

「柏崎物語」



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/12(水) 23:51:14.81 ID:Wv5bFBU9
これで武田の軍門に降る道が断たれたわけですな

「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」

2017年02月14日 10:10

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 21:52:47.71 ID:X+1KO4ez
天正の初めの頃、甲斐武田家の部将、山県昌景が大軍を以て天龍川近くに進行してきた時、
この方面の徳川軍は少数であったので、天龍川を越えて退却した。
この時、本多平八郎忠勝が殿をし、ただ一騎、後から川に乗り入れ退却していた。

しかしここに、後ろより山県勢の先鋒百騎ばかりが追撃してきた。
忠勝はこれを確認すると同時に、河中より取って返し、これを攻撃した。
その勢い、まるで龍神が波を蹴り立てるような激しさであったという。

これに甲州兵たちは「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」と叫び、尽く逃げ去った。
追う者がいなくなったので、忠勝はまた河に入り、心静かに向こう岸へと渡った。

河の中流から引き返すというのは、成し難いことだと言われている。それを安々と
行った本多忠勝の働きというのは、筆舌の及ぶところではない。

(武野燭談)



時節相応に主とする所を、

2017年02月13日 08:40

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 00:02:48.09 ID:X+1KO4ez
本多忠勝の嫡子・美濃守忠政がまだ平八郎と名乗っていた時、弟の内記忠朝と共に
鑓の稽古をしていた所、これを見た忠勝が言った

「私が若かった頃は小身であったがために、鑓の働き第一と心がけていた。
しかし今は御厚恩を以て大身となった以上、人数を取り廻す采配の取り様や備立てなど、
総じて大将が知らなくてはならない道こそ、専一に学ぶべきである。
かといって、鑓の稽古を止めろと言っているんのではない。時節相応に主とする所を、
専らに励むべきなのだ。」

そう戒めたという。

(武野燭談)



629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:27:47.87 ID:1F6Bnp81
>>627
父には遠く及ばないので新たな才能を開花せよ、と言ってます

本多忠勝、本丸の堀を腰の高さまで

2017年02月12日 09:27

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:46:26.57 ID:p+eky8c1
本多忠勝が桑名城を拝領した時、本丸の堀を腰の高さまで埋めさせたという。
これは桑名城が海岸に築かれた城であったので、石垣の際まで敵が攻め寄せたところを、
下矢で射やすくするための改修であったそうだ。

(武野燭談)



台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時

2017年02月08日 10:35

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0
流石忠勝さんはいつも冷静だな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8~9万人も入る状態が起こり得たんだろうか

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2
俺の財布でもそんなにいないな

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?

「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

家康が茂助を遣わしたのは

2016年11月22日 09:34

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 21:26:40.39 ID:vJTZkj8O
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)



本多中務は、次の間に逃げた

2016年11月01日 18:18

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/01(火) 17:53:18.23 ID:FXCUFiSz
慶長5年8月10日、会津・上杉征伐の途中、江戸にあった徳川家康はこの日、非常に機嫌がよく、
午の刻(正午ころ)に「鶴を料理しよう」と、鍋を持ってきてそれを火にかけ鶴鍋を作った。
前には本多中務(忠勝)、某、全阿弥の3人が呼ばれ馳走され、特に中務は暖炉裏の家康の
すぐ近くに座っていた。

この時、どこから到着したのか、いかにも細かく書かれた書状が家康に渡された。
家康はこれを読んで、誰へともなく呟いた、「伏見城が、落城した。」

そして西の方を見て、はらはらと泣き始めた。
本多中務はこれを見て、御前を走り出て、次の間に逃げた。
全阿弥も逃げ、某も逃げた。

その後家康は、「中務はいるか?」と思って探した所、殿中からそのまま宿舎の方まで退出したと
いうことであった。

(慶長年中卜斎記)

家康が鶴鍋を前に泣き出したら何だか知らんが忠勝はじめみんな逃げた、というお話



270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/01(火) 18:06:12.45 ID:rD+ufxCs
一体どんなめんどくさい泣き方するんだろ

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/01(火) 20:00:44.57 ID:Iubn3vBM
忠勝が走って逃げるほどヤバい状況になったのか

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/01(火) 22:42:42.41 ID:80crETN7
感情が昂って脱糞だろうな

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/01(火) 23:21:48.40 ID:CJYMPgVy
そらもう、とりい乱しちゃうんですよ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/01(火) 23:28:30.91 ID:SYhha0a6
「卜斎記」といえば、
会津攻めの前、伏見城の千畳敷で家康が笑ってた話を思い出す

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 15:16:03.06 ID:Ih9U6azj
>>269
なんで逃げるんだよw気を遣ってさがったにしても逃げるって表記が面白い

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 15:27:11.53 ID:XeQ0r+Kz
>>273
評価する

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 20:54:16.38 ID:/RmjyhkS
>>273
やりおるのう
お味噌進呈いたす

「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…

『三要三切三行』

2016年08月16日 21:12

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/16(火) 00:01:39.72 ID:ecJmVoGk
徳川家康公のある時の御意に

「私は若年の頃駿河にあって、物読み坊主から、三哲という者の著書について聞いたが、
その中に『三要三切』という言葉があった。

この言葉、最初の『三要』とは「衣食住」の事であり、『三切』とは「軍賓旅」の事だ。
衣食住の三要は人々にとって常に必要なものであり、これらの用意がもっとも重要である。

さて、軍賓旅とは、軍道具、客道具、旅道具の事であり、これらは武士にとって肝要なものである。
これらを、分限相応に調えた上ではじめて、外の事を為すべきだと言われた。
この話は私の耳に響き、一言で役に立つ言葉だと思った。幼かった私であったが、肝に銘じて
聴き覚えたのだ。

ただ、私はこれに注釈を加え、『三要三切三行』としたい。『三行』とは「道、芸、倹」である。
先ず、道義を第一に心がけるべきである。しかし道に志し賢人の位にあっても、武芸を知らねば
軍役の役に立たない。また、不勘弁では擦り切れて果ててしまう。」

(本多平八郎聞書)

徳川家康が言った、武士にとって大切な『三要三切三行』について



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/16(火) 08:24:46.35 ID:bjrC3RKc
家康って歌を歌わないから駿河では良い待遇じゃなかったって言う人がいるけど、
経は読めるし知識もあるから、ある程度の教育は駿河で受けれてたんだろうなあ。
鷹狩りなんかもしてたみたいだし。

金言耳に逆らい、良薬口に苦しという言葉は

2016年07月22日 21:15

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 18:55:06.95 ID:oeM5MNtq
徳川家康公のある時の御意に、このようなものが有った

「金言耳に逆らい、良薬口に苦しという言葉は子供も知っているが、実際には歴々の者たちでも
知らぬのだ。
何故かといえば、大名はあまたの家来にもてはやされ、図に乗り、殿様風をふかせ、気ままで
増長し我儘になり、自分の心すら取り留めることが出来なくなる。

そんな時に、その方(本多忠勝)のような者があって諫言すると、聞くやいなや無性に腹を立て、
自分の感情に従って口論するために、目がくらむほど大変に憎くなるのである。

そういう時、よくよく冷静に成り、気を静めてみれば、家のため国のために正しいのは
どちらか理解できる。
こういったことを、我儘というのだ。この”我儘”に負けては、つまらないことですら
気に勝ってしまう。

薬は苦いが、一口飲んでみれば熱も冷め、情も静かになり、快気するものだ。
もっとも悪い状態は、身を捨てて薬を奉る家臣もなく、また怒りのあまり聞く耳を持つ主人も
無いことだ。こうなっては天下の爪弾き者であるぞ。」

(本多平八郎聞書)



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 20:10:04.68 ID:pRwHLnJA
>>956
偉くなると周りがイエスマンになるのは変わらないねー。

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 20:36:04.16 ID:Jxc4fsiO
家康の周りのイエスマンは藤堂高虎ぐらいしかいなかったんじゃない?

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 00:41:57.28 ID:3qpLlctc
>>958
高虎にイエスマン逸話なんてあったっけ?

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 05:56:50.19 ID:ent32oT8
>>960
他は家康がなんか言うと、10倍ぐらいにして言い返す三河者ばっかりだろ

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 16:40:54.74 ID:aYPdD9Gt
>>960
徳川家中では
インテリ=イエスマン
常識人=おべっか者
クレーマー=忠義者
故に高虎はイエスマンなんだな。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 23:34:51.64 ID:VyMMLeHY
高虎はインテリか?

本多忠勝は、槍術は下手であった

2016年07月04日 18:43

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 07:11:19.34 ID:hZO7KWun
本多中書、老後学鑓事

本多氏譜代の士、小野某家の言い伝わる話に、
中書忠勝は世に強く勇ましいと知られているが、
槍術は下手であったというものがある。

中書は老後まで槍を殊に執心していて、家臣を相手にして、日々のように修行していた。
そこで相手をしている若士どもに中書は身を入れるが、非常に拙技で、逆に自由に突かれたそうだ。
また人が身を入れてきたところを突くにしても、槍先がきかなかった。
自身でも残念に思われたのか、ひたすら修練を怠らなかったとか。

常はこのようであるが、戦場に臨んでは敵と戦うときは、
その技の絶倫、世で言うところのようであったと。
思いのほかの話である。
(甲子夜話)



908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 17:20:25.27 ID:fsj9O1ro
本番に滅法強いって話?

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 17:34:49.21 ID:xI1AscJ1
>>908
その通りだけど、戦であんなに強いのは衆知の通りだけど、何故か訓練だとグダグダなんだよって話し

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 19:42:57.73 ID:72KDPah3
訓練だと反則技は禁止だからね~

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 07:52:50.20 ID:MtvYi9nT
三谷幸喜がこの逸話を知ったら、訓練で小松姫にコテンパンにされる忠勝とか大河で描きそう

「本多忠勝、土岐為頼の旧臣を呼び出す」

2015年10月08日 17:55

796 名前:人間七七四年[aaaaa] 投稿日:2015/10/07(水) 14:31:36.41 ID:uZcUaUHl
「本多忠勝、土岐為頼の旧臣を呼び出す」

本多忠勝が上総小滝10万石に封じられた時、土岐為頼の旧臣を集めて召し抱えた。
弾正(為頼)は万喜を居城としていたので、世では万喜少弼と称され
武勇の誉れ高き人物であった。 忠勝が弾正のことを聞き、旧臣達が言うには
「弾正は里見義尭と戦を交えた際、敵を油断させようと舞台を設けて
舞踊をし、城門を開けたままにし、浜辺の防備を疎かにしていました。
里見の将正木大膳時綱が上陸して攻め寄せた際、城壁に掲げてあった紙旗を絹旗に取り換えたのを合図に、
ボロボロの城門より不意に討って出て、正木の軍をあっという間に切り崩してしまいました。
それ以降土岐の地が攻め入られることはありませんでした」
と答え、忠勝は「土岐は信玄や謙信にも劣らない雄将だ」と誉め、
それ以降弾正のことをお尋ねになる時はいつも「万喜殿」と呼んだそうだ。

『常山紀談』より
土岐為頼の逸話がなかったようなので一つ



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/08(木) 10:17:34.60 ID:6nmXeg8Y
毎回撃退してるけど息子の代に攻められてるじゃないかい

黒田長政が筑前を望んだ理由

2015年10月04日 12:02

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 21:41:24.88 ID:VQ5niA2W
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は東軍諸大名への論功を進める中、
黒田長政に対してはその功を賞し、豊前を改め他国を与えると決めたが、
そこで家康は本多中務大補(忠勝)にこのように言った

「甲斐守(長政)についてだが、彼には中国筋に2ヶ国も与えるべきか、また筑前は
九州都府の地であり、殊に異国からの防御のため大切の所であり、私は甲斐守をそこに
置きたいと思っている。汝に甲斐守の所存を尋ねて来てほしい。」

そこで忠勝は長政の元に行き、その内意を問うと、長政

「豊前を改め大国を御恩賜あるとの事、誠にかたじけない事です。殊に、都に近い
中国にて2ヶ国は、最も望むべきことです。

ですが、おおよそ今後、天下は泰平となるでしょうから、日本において、御恩を謝し奉る
弓矢の沙汰も起こらないでしょう。一方筑前の守護は、古来よりの都府の地、殊に
異国からの防御のため、先鋒の場所でありますから、武門の大望、これ以上のものは有りません。

であれば、筑前は中国にて2ヶ国拝領することに優っており、我が願うところです。」

これを忠勝より聞いた家康は大いに喜び、長政に筑前を与えた。

(黒田家譜)

黒田長政が筑前を望んだ理由、である。



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 23:07:35.57 ID:22KAeO00
忠勝が使者なのか

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 00:19:40.05 ID:v1ZN6V03
忠勝は外交官として、いろいろなところに出向いてるよ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 15:13:47.59 ID:9UrTgLAK
さすが長政さま(棒

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 23:04:38.34 ID:1C/BfZUU
長政って名前の人は皆根拠のない自信にあふれてる気がする

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:00:10.54 ID:6q+ElVn1
浅井と浅野、黒田に山田か
確かに自信家が多そうだ

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:12:52.51 ID:C1KVxYYq
葉を見て樹を知ったつもりになる
それも大事なことです

795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/05(月) 01:49:06.68 ID:ANXBzaWf
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は

2015年09月25日 17:59

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 03:27:22.72 ID:qIR/GHLM
慶長五年の秋、東西で一時に戦が起こった。本多忠勝は仰せを蒙って井伊直正と共に味方の大名を連れだって美濃の国に行軍し、
九月十五日の合戦に諸軍を指揮して戦わせ、自分自身も島津を打ち破る。(この日忠勝は首九十余りを得たという)

戦が終わった後、福島左衛門大夫正則が徳川殿の御陣へ参り、
「さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は、左右の手をつかうよりもなおたやすく見えました。
あっぱれよき大将軍でというものですな。」
と感じ入った。

忠勝は嘲笑って、
「敵が妨げにならないほど弱くて、戦いとはなりませんでした。」
とあいさつした。

(藩翰譜)

関ケ原の戦いも東軍の前線の方では、手ごたえがなくてあっけなさすぎだろとか思ってたんだろうなぁ




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:12:32.46 ID:1ElstaQP
大将軍てのは全軍を指揮する者のことをいう。
忠勝にそんな将器はない。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 09:09:19.93 ID:xHqsQhLX
突然の三河アンチ?

天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに

2014年12月31日 17:46

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 18:29:05.15 ID:pfgL1lxX
佐野美術館
天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに ――
ひとの縁は、ものの縁
―初公開の矢部コレクション―

平成27年1月9日(金)~平成27年2月15日(日)

織田信長が長篠の戦いでの功を賞して奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ「蜻蛉切(とんぼぎり)」。
静岡県沼津の実業家・矢部利雄氏(1905~1996)が一代で築き上げたコレクションを、このたび初公開いたします。
http://www.sanobi.or.jp/exhibition/yabe_collection_2014/



沼津の矢部氏が蜻蛉切を所蔵してるっていうのは事情通には有名な話だったんだが、本人が公開していないものを
無理やり押しかけて見ようとする人間が現れかねないので、ネット上でも配慮されてあまり名前は出てこなかったな




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 19:00:26.25 ID:e/bQGmQH
どっかで本物はもう無いって聞いたことがある気がするけど嘘だったのか
遠くないし行こうかな

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 19:26:00.11 ID:+spDRMKY
蜻蛉きりってまだ残ってたんだ

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:24:06.48 ID:RgTkWGL6
>>461
コレクションが初公開なだけで蜻蛉切は別に初公開じゃないよな?
蜻蛉切はむかし東博の特別展で見たぞ

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:34:08.15 ID:e/bQGmQH
東博所蔵のは江戸時代に作られた写しじゃなかったか

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 23:20:07.10 ID:KRqa+E01
岡崎城にも蜻蛉切あるよ。レプリカだけど

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/01(木) 09:20:23.29 ID:oQ8MzIuR
>>461
本多家で経済的苦境から、蜻蛉切か鹿角脇立兜の甲冑のどちらかを手放さなくてはならなくなったとき、
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」といわれた甲冑を手元に残したんだっけか。
こっちは岡崎市博物館に本多家から寄託されてるよね。

というようなことが過去ログにあったような。

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 22:29:13.51 ID:UMfbQ4oC
>>466
いや写しのじゃなくて藤原正真作の本物が97年の特別展に出たことがある
当時の図録もとってあるし確かなことだ

汝らは必竟小気物なれば云

2014年08月23日 18:51

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 21:01:33.83 ID:fr01M5PT
慶長元年(1596)7月12日、地がおびただしく揺れて、豊臣秀吉の居城である伏見城の楼閣は
尽く破損した。(慶長伏見大地震)

この時伏見屋敷にあった徳川家康は、急ぎ伏見城へと登り、太閤秀吉と対面してその無為を賀した。
その上で「速やかに内裏のご様子を伺うべきでしょう。」と申し上げると、秀吉も

「私もそのように思っていたのだが、このような大変で陪従の者達が未だ整わなかった。
しかし徳川殿がいち早く参ってくれたのは幸いである。徳川殿、私とともに参られよ。
あなたの従士を貸していただきたい。」

そう言って、徳川家の家臣たちばかりで共に出立した。
この時秀吉はこう訴えた

「私は久しく刀を挿していなかったが、今日は特に腰のあたりが重く耐え難い。
徳川殿の従臣に私の刀を持たせて頂きたい。」

そこで徳川家康自ら秀吉の刀を持ったが、秀吉はこれに恐縮した様子で
「いやいや、それはかえって心苦しい。どうか家臣の者に渡すように。」
と言ったため、家康は井伊直政に刀を渡した。
そうしている内に、秀吉の家臣たちも追々駆けつけ、駕輿も昇り来たため、秀吉はこれに乗ることにした。
この時、秀吉は供の一団の中にあった本多忠勝を呼ぶと、こう言った

「汝の下心には、今日こそ秀吉を討つのに良い時節なりと思っていたことであろう。
しかし汝の主人である家康は、懐に入った鳥を殺すようなことはしない人物である。

さっきはな、私の刀を汝に持たせたいと思っていたのだが、折り悪く隔たった場所にいて、
思うように行かず大変残念だ。汝に持たせたら、きっと面白かったのになあ。

私がこのように思うのも、汝が結局は小気者だからだ。
小気者よ。小気者よ。」
(かく思はるるも、汝らは必竟小気物なれば云。小気物よ小気物よ)

そう笑いながら輿に乗り込んだ。
忠勝は何も言わず、ただそこで平伏していたそうである。

(柏崎物語)




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 23:47:21.14 ID:G++3tVg/
ラスボス「汝は知恵も勇気もあるが、大気が足りない」

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 01:37:27.47 ID:mYD6yObH
>>6
これはマジに凄い逸話だな

やっぱり天下人ともなる人間の器と処世術は異常過ぎるな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/25(月) 07:50:14.27 ID:2zaoHMEQ
>>35
昨日はν速+で大坂の街作りに失敗したダメ親爺と扱き下ろされてたなあ
まあ、秀次のスレなので致し方ないが

甲冑は丈夫なものをよしとはするけれども

2014年07月05日 18:54

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 14:39:04.96 ID:0jGY9S5x
徳川家康は次のように言った。

「甲冑は丈夫なものをよしとはするけれども、あまりに重いものはよろしくない。

井伊直政は大力で重い甲冑を着てもものともしないが、戦場でたびたび傷を受けた。
井伊直政は大力にて重き甲冑を着て重しとせざれど戦場にて度々疵を受たり)

本多忠勝は直政ほど力も無く、甲冑も軽いものを用いたが戦場で傷を受けたことは一度も無い。
本多忠勝は直政ほど力もなく甲冑も軽きを用ひたれど戦場にて疵を受し事一度もなし)

だから、甲冑は着る者の働きやすいものこそがよいのだ。
また、下輩には鉄の薄い笠を着せるのがよい。場合によっては飯をも炊けることだろう」
(又下部には鐵の薄き笠を着せるがよし其時によりては飯をも焚かるべし)

――『明良洪範』




247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 15:49:33.17 ID:9zHshRiz
三歳さんも軽い素材で兜デザインしてたしな