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父には似ざらる者かな

2022年04月13日 17:53

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/13(水) 16:00:40.46 ID:Vd6/BRm7
本多出雲守忠朝という人は、中務大輔忠勝の二男にして、去る関ヶ原合戦でも高名あり、大御所(徳川家康)も
甚だ称賛していた。

例年、出雲守は参勤の折に、大御所に蝋燭を献上していた。大御所はこの蝋燭を「他に異なる」と褒める
仰せがあった。
ある時、忠朝が参府し、晩景に及んで出仕し、在所の鹽肴を献上した所、老中一同がこのように申した
「足下が献上した蝋燭が、御旨にお叶いになった。今回も蝋燭を献上されるのがいいだろう。」
しかしこれを聞いた忠朝は
「その事を知らざる故に、用意しておりません。」
と申した。

本多上野介(正純)はこれを聞くと
「然らば、御納戸に置いてある蝋燭で、間に合わせれば良いでしょう。」と言った。
これに出雲守大いに喜び、その蝋燭を献上した。

さて、忠朝退去の後、大御所がその献上された蝋燭を灯された所、前のものと違い大いに流れた。
これを御覧になって

「出雲の父は武勇のみだけではなく、このような小事であっても、曾て越度がなかったが、
父には似ざらる者かな」

と仰せになった。

新東鑑

本多正純の罠だったのかたまたまなのか



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玉ノ跡七ツト哉ラン有之由

2019年07月16日 15:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 01:34:51.74 ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 07:49:46.14 ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 10:26:56.94 ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 14:56:32.28 ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか

ともかくも仰せには

2017年08月11日 17:29

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』


時節相応に主とする所を、

2017年02月13日 08:40

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 00:02:48.09 ID:X+1KO4ez
本多忠勝の嫡子・美濃守忠政がまだ平八郎と名乗っていた時、弟の内記忠朝と共に
鑓の稽古をしていた所、これを見た忠勝が言った

「私が若かった頃は小身であったがために、鑓の働き第一と心がけていた。
しかし今は御厚恩を以て大身となった以上、人数を取り廻す采配の取り様や備立てなど、
総じて大将が知らなくてはならない道こそ、専一に学ぶべきである。
かといって、鑓の稽古を止めろと言っているんのではない。時節相応に主とする所を、
専らに励むべきなのだ。」

そう戒めたという。

(武野燭談)



629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:27:47.87 ID:1F6Bnp81
>>627
父には遠く及ばないので新たな才能を開花せよ、と言ってます

「”おたぎ”とは何と書くのか?」

2014年06月15日 18:53

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 20:26:44.94 ID:Nz+VFiol
本多出雲守(忠朝)という人が四五年ほど前、上総国の”おたぎ”という所を知行した。
そこを実地検分し、「”おたぎ”とは何と書くのか?」と問うと、里の翁が
「仔細は知りませんが、昔より”小瀧”と書きます。」と答えた

出雲守はこれを聞いて「小を捨て大を取ると古人も言っている。前々はそうであっても
今からは”大瀧”と書くべし!」と申し付けた。このため領主の考えに従い
大瀧と書くようになった。在所の者達も、「確かに小より大が勝る」と言っているとか。

(慶長見聞集)




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 20:33:30.53 ID:MOyKLytE
愛宕(おたぎ)かとおもった

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 23:24:46.99 ID:yFh4eWdD
>>135
もしその字だったら、地名はそのうち「あたご」に変わっていたに100カノッサ

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 23:29:51.97 ID:PqZO9B7B
ああ、そういえば小多喜は本多が入ってだんだな
息子の代に字を変えたのか

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 00:46:36.05 ID:c8509mK3
えっ、おおたきのことなのか

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 00:53:55.56 ID:6+OL2oYZ
大多喜と非常に演技のいい字でまとまったというオチが付くわけですな。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 07:22:17.59 ID:7ARKo848
へーあそこ地名変わってたんだ。

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 05:59:35.25 ID:tfFgUliP
やたらと地名に「松」を入れたがる人もいるが

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 08:58:50.51 ID:04L+/68s
>>141
再生工場「松」

「さすが忠朝の子だ」

2014年05月05日 18:08

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 15:25:17.84 ID:CRF45HGC
大坂夏の陣で本多忠朝が討死した時、彼には二歳になる男子(政勝)がいた。

その男子はいまだ御用には立ち難いということで忠朝の兄忠政のところへ引き取られ、
忠朝の家督は忠政の二男甲斐守(政朝)が相続して元のとおり五万石を領した。

ある時、忠政は引き取った二歳の甥に蜜柑をやろうと思って彼を呼んだのだが、
甥はどのように思ったのか忠政の側に来なかった。そのため忠政は蜜柑を甥へ
投げて与えたが、それでも甥は蜜柑を取らなかった。

そこで乳母が蜜柑を拾って甥に「さあ頂戴なさいませ」と言ったところ、
甥は「投げたものは嫌だ」と言った。忠政はこれを聞いて「さすが忠朝の子だ」
と言って褒めた。

――『明良洪範続編』


続き
貴殿の御一言で私めの胸中は開けた


221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 20:58:08.56 ID:llXB0Lk/
ちょっと悪い話スレだから、子供が折檻される話かと
思ったがそうではなかった。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 21:13:59.58 ID:IFd5Lhkm
>>219
最初に受け取らなかったのはなんでかな
毒か・・・とか思ったのかな

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:03:21.23 ID:vUnb2zlB
物にはつられない二歳児。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 00:32:47.55 ID:/dH2LL0X
>>219
凄く普通っぽい反応なのに「さすが」って言われるのも何か気の毒だな

上総浦にて黒船損する事

2014年03月30日 17:13

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 19:19:13.82 ID:jpXucXi0
これは慶長6年(1601)の秋ごろのこと。上総国大瀧の浦に黒船が流れ着き破損した。
これは呂宋国よりのびすぱん(ヌエバ・エスパーニャ:メキシコ)へ渡る船であった。
数々の物資を積んでいたため、宝の山ともいうべき物であった。
その積み荷は海岸へと打ち上げられた。これを安房、常陸、下総の者達が集まって拾い上げたが
それでも尽きぬほどの量であると風聞された。

そこでこれを聞いた江戸の町人も、15歳以上60歳未満の者達は、上総国の浦に走り寄ってこの荷物を
拾おうとした。この浦のあたりは、本多出雲守(忠朝)という人の領地であった。

かく言うこの愚老(作者)も、この荷物をひろおうと人並みに上総まで行ったのだが、
時既に及ばず拾うことは出来ず、他の人が拾ったものを、骨折り代を出して貰い取り江戸に帰った。

そこでつらつらと考えたのは、『この荷物を京都で売れば過分の金銀を得ることが出来、私も一時を
楽しめるのではないか。であれば他の者達が持って行かない内に!』と心がけ、旅費を費やし
夜を日に継いで京へ上った。
そして10月20日、京二条の問屋、島屋與右衛門という人の宿についた。
そこに京の町人たちが

「音に聞こえた大黒船の拾い荷物が、早くも京に登ってきたのか!いざそれを見よう!」

と、島屋の家に数百人入り込み、家の中は立つ所もなく、門外に人が立ち並んで、まるで市が開いた
ようであった。私はこれを見て、

「そうだ!夜を日に継いで人より先に上ってきたのは、これを願っていたんだ!
今日は10月20日、えびすの祝日に京に着き、めでたき吉日である。値を高く売ってやろう!」

と心嬉しく、宝の山に入ったような心地であった。

ところが、島屋に集まった人々が皆このように言った

「慶長元年の9月8日に、土佐の浦戸湊より18里沖に、夥しい黒船が流れてきました。
これは南蛮よりのびすぱんへ渡海する商船でしたが、悪風に逢い梶を害いそのまま漂流したため、
糧も無くなり乗員のうち500人が死亡、残った200人は生きていました。この事は長宗我部より
通報され、その頃秀吉公は大阪におられたのですが、急ぎ増田右衛門尉長盛を検視として遣わされました。

大工に命じて船の大きさを計測させたところ、長さ36間(約65.5メートル)横20間(約36メートル)で、
梶の穴の広さは畳五畳敷でした。これに積まれた荷物は宝の山ともいうほどで、西海の大船200余艘に
この荷物を積んで、増田右衛門尉が奉行して大阪の浦に着岸しました。秀吉公はこれを大いに喜ばれたものです。

ところで今回、関東に漂着した船は、この土佐の船よりも大きいそうですね。
日本は小国ですから、その積み荷を人が集まって20年30年売買し続けても、その黒船の荷物が
尽きることはないでしょう。明日になれば、その荷物が山崩れのようにこちらにやってくるでしょうね。」

そこで宿の島屋の主人は言った

「どうでしょう、今日の町人の方々、元よりこの荷物は関東で拾われたもので、無料です。
そうではありますが、この人の京への上り下りの路銀を出して、この品物を買い取ってはいかがでしょうか?」

しかし京の町人たちはその助言にも頷かず、購入しようとしなかった。だからといって私はこれを
捨てることも出来ず、結局、帰路の路銀分だけの値段で売って、江戸へと戻った事は、たった今
貴重な玉を淵に沈めたような気持ちであった。さてまた、宝の山に入って手を空しく帰ったのと、
何ら変わらない出来事であった。

(慶長見聞集)

難破船の荷物を売って一儲けしようとしたのが大失敗、というお話。京の商人はさすがエグいですね。





839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 20:56:23.49 ID:hH5U23LS
この人江戸で商人やってたのにな

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 07:50:56.89 ID:/QNF2Ncz
なんかやるおみたいだなw
そうだいいことおもいついたお!ピコーン
大失敗だったお・・・グスン
2chに書き込んで後生のネタにするお・・・おっおっおw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 10:14:06.30 ID:J3aDo8X7
転売ヤー@戦国版

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 17:24:45.59 ID:69z0XVnz
リーフデ号の商品って家康は金払わなかったっけ
勝手にとってって罪に問われないのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 18:17:51.44 ID:ouuzHa7b
>>842
漂着したのが大多喜でのびすぱんとあるからドン・ロドリゴの方だよ。
たぶん年を間違って記載してる。

844 名前:842[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 18:26:47.20 ID:yk8vFEfq
いやそうではなくて、リーフデ号の商品には権現様自ら金払ったのだから
ほかの船の商品は勝手に持って行ったら罪には問われないのか、てこと

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 19:33:02.01 ID:ouuzHa7b
>>844
ああ、そういう事なら沖で座礁したので積荷は広い範囲に漂着したんだそうな。
漂着物の横領を禁止した話も慶長見聞集あたり(ちとあいまい)にあった筈

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/01(火) 11:43:58.08 ID:jBcgiO80
流れ着いた物にも興味はあるけど
命助けてもらって、積荷の代金払って、とも
言いにくかったかな。

本多忠朝「討死しよう」

2013年10月18日 19:03

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 18:01:01.38 ID:b+pXQo94
徳川家康が大坂城を攻めた時、本多忠朝は家康の仰せを受けて向かったところ、
川が前方に流れていて水は深く、城を攻めるには機会が好ましくなかった。

忠朝がこの事を家康に告げると、家康は機嫌を損ねて「お前の父は合戦の時に
山だろうと川だろうと厭わなかった」と言った。

忠朝は口惜しく思って「討死しよう」と思い定めたが、程なく東西が和睦したので
心中穏やかでなかった。しかし、明くる年の夏に再び戦いとなったので、
忠朝は「今度こそ本意を遂げるぞ」と思い、戦って死んだという。

忠朝の朗等は主の遺体をもたれかけて家康の御馬の前を過ぎ、家康はこれを見て
涙を流したということである。(此時忠朝の家臣五人に感状を賜りしと云)

――『藩翰譜』





本多忠朝「人は子孫に幸を遺そうと思うのなら」

2013年08月31日 19:52

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 18:40:52.73 ID:0Kx82jpi
本多忠朝は老臣の春野某に戯れて「武士が力の及ぶ限り高名を立てて大福を得ているのは、
その身一人の栄華を極めるというわけでもない。皆々がこのような太平の時に巡り遭って、
福を子孫に遺そうと思うのは、万人にとって同じ事であろう。其の方もそのように思うか」
と、尋ねた。

これに春野は「その通りの御尋ねでございます。御馬の先の働きも只今の御治世の勤めも
皆御意の通りです。自分の子孫をも潰し、忠義の為に身を落ちぶれさせる者は、
古よりめったにない有り様であると存じます」と答えた。

さらに忠朝は「人々がこのように大切でいとおしい子孫に、よく教えようとしないのは
何事であろうか。多くの人はその身が大禄、高位になると、自分が下賤だった時を忘れて

子孫にも栄華に奢らせてしまい、自身が死んで三年も経たないうちに家風は甚だ衰微し、
老功の家来も散々になってゆく。そんな様子を私は数多く目の当たりにした。

かつて駿府の町人に一子がいた。その者は子のためと一生稼ぎ、万両を重ねて与えて死んだ。
ところが、子は栄華に育ち、万金を宝とも思わず、五年のうちに尽く他人の宝となった。
ついに子は家を売って乞食となってしまった。

これを町人は愚かだと言う人もいるが、武士も多くはこれに似ている。人は子孫に幸を遺そうと
思うのなら、教えが第一なのだ」と言った。この春野には一子がいて寵愛していたので、
忠朝はこのように風刺したのであろうということだ。

――『責而者草(太平将士美談)』




19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 22:55:01.32 ID:EnTIpPlY
>>17
鳥居さんとか榊原さんとかの家の未来予想図だな

一つだけ羨ましきこと

2013年04月11日 19:50

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:20:03.47 ID:A4sSkpRd
相馬利胤が江戸に在府していた頃の話である。
ある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った

「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」

列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は

「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の親愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。

私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。

一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。

相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。

尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。

関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。

ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態ほど、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」

この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて

「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」

この本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)

相馬家の記録に残る、本多忠朝についての逸話である。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:39:50.21 ID:LBOqjtB8
長いけど、いい話だね

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:40:34.28 ID:P2BlyUI/
>幾度も分に過ぎた大敵と対戦
ああ、あいつね…

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:50:03.64 ID:+g8ljOBv
>>25
アレですね。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:21:05.84 ID:VaBqG/LL
奴だな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:39:10.88 ID:kyiGr4DV
で高名な武士って誰よ?

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:53:35.61 ID:FP5ZV500
那須、相馬は一騎当千

小田は...(´・ω・`)

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 01:01:12.02 ID:pWR8nQsB
ぶった切っちゃうが
相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような

相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 04:09:43.58 ID:xklBYn3s
相馬氏は特に700年くらい在地領主として一貫して相馬を支配してきたんじゃなかったっけ
江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 12:57:10.59 ID:UYFpWIUM
>>30
細川護煕が総理になった時に家老の家に連なる爺さんが殿がやっと天下を取られてとか言ってたなw

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:33:47.48 ID:Ms41/CEE
小田何とかさんが総理になって菅谷と名乗る爺さんが殿がついに天下を取られて、
と号泣してたら海外に移住しなくては

首都が陥落してしまうw

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:48:49.48 ID:oMB5PsNs
取り返すまでが小田総理の実力だろ
菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:27:53.24 ID:pn0sfKu+
佐竹なら、佐竹の殿なら…

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:45:09.90 ID:kfOqjU8h
佐竹さんとこは、完全な与太話じゃないからなぁwww

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:57:48.45 ID:nCXbk00z
>>34
奪還されるとはいえ何度も陥落して戦場になる首都に住んでいたくないなw

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 16:17:53.65 ID:/N+KTY3m
>>18
石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:47:44.51 ID:wcXnoL+X
>>23
>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:57:43.82 ID:qRBbOEcE
>>46
相馬家だけは死んでもマーくんとは慣れ合わんだろうなあw

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 01:52:31.95 ID:ahRJfDKC
秀忠が利胤と政宗を酒宴に呼んだときに
「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 09:46:22.98 ID:itxyye5q
>>46
次の間に座ってる身分だから
もっと軽輩じゃないかな

ある武将が、天寿をまっとうし、亡くなった

2013年02月19日 19:52

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 00:52:07.03 ID:FVy3qKxR
まとめを見た所、出てなかったので。
ある武将が、天寿をまっとうし、亡くなった。
武将には、すでに他家に嫁いだ娘がおり、嫡男と次男に遺言を残した。
『家督、武具、茶道具は、嫡男に譲る、金5万両は次男に譲る。』
これに、嫡男は『嫡男である、自分が、全部相続するのが筋ではないか。』
と、遺言を守らず、金を蔵に仕舞い込んでしまった。嫡男付きの家老が、次男に申し訳なく、説明したら、
次男は、『さもありなん、兄上は自分と違い、大身の身、小身の自分には、もったいない、どうぞ
役立っててください。』と、恨み言を言わず、笑顔で、家老に申し渡した。
それを聞いた、嫡男は、自分の大人げい振る舞いを、恥じ、『遺言どうり、お前が受け継いでくれ。』
しかし、次男は『いえいえ、兄上がお持ちなってください。』
と、譲りません。
困った両家の家臣達は兄弟の親戚に説得をお願いします。
これに次男が『では、使う機会がある時まで、兄上が預かってください。』
で落着します、が、次男は永遠に使う事ありませんでした。
父の名、本多忠勝、兄の名は、本多忠政、弟の名は、本多忠朝


関連
本多忠勝と二人の息子・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-806.html


454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 01:03:07.36 ID:KhJv7QCW
どうでも、いい、が、ちと、読点、が、多いの、が、気に、なる
渡辺、陽一、です

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 01:36:10.06 ID:r6zJgGQQ
「ある武将」とか、伏せる意味あったのだろうか

まあ、このスレに住んでる人ならみんな知ってる話だけど、
まとめを補充してくれるのは助かる

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 10:08:31.48 ID:3nifdYVc
>>453
既出ですな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-806.html

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 13:57:35.70 ID:N2MeEExr
>>455
誰もが知ってる有名逸話がまとめサイトにない場合あるからな
知られてるからあえて誰も投稿してないのかも

本多忠勝からの、息子への訓戒

2012年11月19日 19:53

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 19:56:07.35 ID:LSDQzCQm
本多忠勝の嫡男、美濃守忠政が未だ平八郎と呼ばれていた頃、その弟の内記忠朝と共に槍の稽古をしていた。
それを見ていた忠勝は、二人にこのように声をかけた

「私が若い頃は小身であったために、槍の働きこそ第一だと心がけた。
しかし今は、御厚恩を以って大身となった以上、軍勢を指揮する采配の取り様や備立てなど、
全て大将が知らなくてはいけない分野こそ、第一に学ぶべきだ。

だからといって、槍を学ぶな、と言っているのではない。
時節相応に、主とすべき分野を、専らに励むべき、ということなのだ。」
(武野燭談)

本多忠勝からの、息子への訓戒である。




459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 20:12:58.00 ID:M4aIiWhx
だったらお前も老いてからだろうと手習いくらいしとけよ

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 21:10:51.12 ID:knmQNTW/
>>459
忠勝は内政も頑張ってるぞ。

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:32:26.52 ID:Yy+lfbdE
清正や市松もそうだけど、槍一筋の武辺者の癖に統治能力が高いのはどういことなんだろ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:43:10.30 ID:TEbo4fL0
森武蔵みたいにしがらみを押し通しているのだろうか?
清正は築城名人だったりするから元々統治の才があったのかもしれないけど

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 22:45:07.32 ID:uukB3FHG
軍隊を維持するのって高度な組織力、つまり優れた官僚機構が必要
それを上手く内政に転化すればいい
トップが暴走しなければ組織が支えてくれるので、たいていはそこまで酷いことにはならんよ

問題は駆け引きとか組織を上手く行きぬく処世術的な意味での、政治力だな
市松さんは政治力無いから、統治能力はあっても失脚しちゃったわけだし

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 23:20:57.48 ID:V8QOjqds
ほんとうの意味での馬鹿でなければ
それなりの官僚機構があれば酷い事にはならない気がする

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 01:08:56.24 ID:749WevT5
忠勝 「>>459の忠告に従って彫り物でもするか」

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 07:38:17.00 ID:Itc9X9lt
>>470
桜吹雪ですね(違

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 12:30:12.04 ID:h3wlSL+V
>471
本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?

本多忠勝、伊勢桑名の城下巡視中に

2011年08月04日 23:01

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 12:04:43.99 ID:+1nATF/z
前回は本多正信さんのいい話だったけど
今回は中務の方の本多さんで。出典は桑名の図書館にあった資料から

一応http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2414.htmlの中で触れられてはいるけど
全体を書いたものは(少なくとも本多忠勝カテには)なかったので

本多忠勝が伊勢桑名に移封された晩年、二男の忠朝とともに城下を巡視した。
芦原のほとりにさしかかると忠勝は忠朝に傍らの櫂を示し「その葭を薙いでみよ」と命じた。
忠朝が葭を横殴りにすると、三間ほどの間の葭が倒れ伏した。
忠勝はそれを見て自ら片手握りに櫂を取って葭を薙いだ。
すると葭は根元から二尺ほど上のところで、刃物で切ったように切れてしまった。
今更ながら人々は忠勝の豪力に舌を巻いたという。




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 12:13:20.10 ID:2HCX4rPF
本多忠勝に槍なんて要らなかったんや

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 13:40:35.78 ID:jN2bfeEn
当たらなければどうということはないの忠勝からすると、
櫂を通常の3倍の速度で振れば葭も斬れるのか。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 06:20:10.81 ID:gDgYc2UM
>>977
小学校のマンガ(割と真面目な雰囲気の)だと
忠勝が薙ぐと異次元への扉が開いてすぐ閉じた気がする
あれなんだったんだろ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 09:04:15.34 ID:fjDUUUDX
>>978
天下無槍って事ですね

本多忠朝、神となる

2011年06月13日 00:01

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 20:13:49.54 ID:5BMuyxCm
便乗して神様ネタ(?)

本多出雲守忠朝は平八郎忠勝の次男であり、父に従って参戦した関が原の戦いでは『島津の退き口』に遭遇して、
太刀が曲がって鞘に収まらなくなるほどに奮戦し、「行く末、父親に劣るまい」と絶賛された。

しかし、大坂冬の陣において配置換えの申し出、あるいは深酒による不覚によって大御所家康に「父に似ぬ子息よ!」
と叱責を受けた忠朝は、続く夏の陣において「討ち死にして汚名を返上せん」と覚悟を決めた。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1151.html

天王寺口で毛利勝永隊が、松平忠直・真田信吉・秋田実季ら相備えの隊を蹴散らし突き進む中、忠朝は
「本多出雲守、これにあり。返せ戻せや!」と吠えながら八尺余の鉄棒を振り回し、勝永隊に突っ込んだ。

良き敵ぞ、とばかりに向かって来た騎馬武者二人を馬ごと鉄棒で叩き潰した忠朝は、さらに五、六騎を打ち殺して
その手槍を奪うと、鉄棒と槍でもって敵中を縦横無尽に暴れ狂った。かなわぬと見た勝永隊の中から、
紺地の陣羽織をまとった武者が十匁筒(約18mm口径の大型銃。普通は二~六匁)を持ち込み、忠朝を狙撃した。

弾丸はあやたまず忠朝をブチ抜き、その胴から血煙が上った。が、忠朝は少しもひるまず馬から飛び下りると
太刀を抜き、狙撃した武者の首を斬り飛ばすと再び馬に乗り、さらに鉄棒と太刀を振り回しまくった。

ようやく勝永隊が大坂城内に引き上げたころには、忠朝は二十余の傷を負い、ついに地面に倒れ伏した。
一命を賭して汚名返上した忠朝を、賞賛せぬ者はなかったが、忠朝は
「戒めるべきは酒である。今後、わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」
と、無念の言葉を吐いて息を引き取ったという。

その後、忠朝は酒封じの神様として崇められ、大阪一心寺にある彼の墓には、今も禁酒を誓うノンベエが訪れる。
ttp://www.isshinji.or.jp/event_honda.html
(増補難波戦記及び一心寺寺伝より)

命と引き換えに名誉を回復して神にまで上った話・・・
ではあるが、そんな親父とか古の坂東武者みたいなマネ出来るなら最初からやれ、と思わんでもないのでこちらに。





620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 21:01:38.96 ID:axYSqfbc
親父に批判されながらあれほど槍術の鍛錬積んでたのに
いざ戦闘では鉄棒がメインウェポンなんですか。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 21:11:01.55 ID:6UftsQfM
>>620
槍だと上手すぎて討ち死にすること無くうっかり生き残ってしまうと考えたのかも。