ともかくも仰せには

2017年08月11日 17:29

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』


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児玉は何故語らなかったのか

2017年07月21日 10:08

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?

御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

松平家信「若輩とは十二、三歳の事」

2017年02月26日 11:24

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 10:10:07.86 ID:78MbwluU
 家康公と秀吉の御合戦の時のことです。
秀吉方から天正十二年四月に三河へ攻め込もううとしていたので、
家康公は急いで小幡へ赴かれました。
この時松平紀伊守家忠もお供されていて、
彼の嫡子の七郎家信(後に紀伊守と号す)も、父に従って出陣したいと言った。
しかし、

「今、お前は若輩である。
三河が空くので、留守をよくせよ。」

と言ってお供は許さなかった。

「若輩とは十二、三歳の事です。
勇士の子が十六歳になっても軍役を勤めないのは古法に遅れています。
是非お供させてください。」

と願うが父は許さず留守に置きました。
 しかし家信は家来を二人を召し連れて後から出て家康公の御陣所へ行き、
本多弥八郎正信(後に佐渡守と号す)を頼って始終の事を言い上げました。
その話に正信は感じられてすぐに御前へ召し出されることなりました。

「武具を持っているか?」

と御尋ねがあると、

「ようやっと家来二人を召し連れまして体で、
その上父の家忠が深く制されましたので、
所領の形原を逃げ出しましたが武具は持っていません。」

と申し上げ、朱塗りの御鎧を下されたそうです。

 その後、既に先陣にいた大須賀康高の陣脇から家信が抜け駆けして名乗り、
秀次の物頭野呂孫太夫の大剛の兵に槍で突いて首を取り、
采配に添えて、家康公へ実検に入れました。
家康公はこの武勲に甚だ厚くて感じられ、家信は御感状をもらったそうです。


『武士としては』


上野介、良く聞け。

2017年02月08日 10:34

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 21:02:00.89 ID:4ith6HzQ
本多佐渡守正信がある時、子息上野介正純に言った

「逆心は天命に背くと知りながら、北条義時が主君の後を断絶し、己が威を逞しくし、
天子を改めるなど、無双の悪逆を行いながら、時の勢いにてこれに与するもの多く、九代天下を
保った。
その後も北条の業績を真似る者はあったが、北条ほど事を謀るものは無かった。

細川勝元が先祖頼之の業績を学ばず、遠き北条の後を追い、応仁の乱を引き起こした。
これは細川、山名が威を振るったためである。であれば彼らが志を立てて名を揚げたかと言えば、
そうではない。共に死亡して、あまつさえ将軍家の武威を失落させた。

上野介、これを思え。
勝元がたとえ逆意を振るっても、その子政元に忠義が有れば世は治まったはずだ。
しかし政元はますます驕りを極め、将軍義材を退けた。
この君が悪主であったのなら替える例もあるだろう。しかし義材には武道尊氏の風格あり、
六角高頼を退けた時は、足利家は昔に帰るかと言われたとか。
それなのに政元はこれを廃して、幼主義澄を伊豆国より申し上らせ、己が威を恣にした。
彼も父に劣らぬ不忠至極の者である。よってその身も終に滅びた。

上野介、良く聞け。
武家は軍法、武備を諸道の根本としている。軍法と言っても戦をする事ばかりではない。
軍法とは常の備えである。善政は勝ち、悪政は負ける。勝ち負けの根本は国を治めることにある。
例えば、樹木の根が深く入り能く栄えているためには、まず根本を培う事が大切である。
それから段々と成長するに従い、養いを能くすれば、枝葉栄え、花咲き実も多く成る。
少々枝を刈り取ったところでその樹の本体が痛むことはない。
このように、天下国家の基本となる大法を取り失わない事が肝要である。

士農工商は天下の四民であり、そのうち士において、家の老職を仕る者は、農工商を以て
木の根を培うように、これを慈しむべきなのだ。
諸士は木と同じであり、合戦の仕方は枝葉と同じである。そして勝ち負けは花や実に等しい。

基本を失ってはならない。基本というのは忠信を成すことであり、そこから諸事は出るのだ。
おおよそ、忠を成すにも色々とある、身を以て忠を致すもあり、心を以て忠を尽くすもあり。
家老、侍大将などの忠は、主人の前には一月に一度も出なくても、一筋に忠を以て君を守護し、
政道順行を以て君の英名を高くするのを、良き家司と言うのだ。

また、忠ににた不忠がある。
例えば石田三成は、非常に上慢な人物であり、大風雨の夜など、御城廻りの破損の状況を逐一
見て回り、明けて卯の刻(午前6時頃)には報告した。御普請奉行からの報告は巳の刻(午前10時頃)
であった。
これは一見、その職の責任感より生じた、分別ある行動に見えるが、実際にはその家、その家中のために
成っていない。

人は心入こそ大切である。一言の情に一命を惜しまないのは、士が義を知るが故なのだ。
とりわけ老臣は、心入一つの者であり、忠義を心にかけて思う時は、自分の位階、職分、身代より
心を引き下げるべきである。
私は佐渡守にして頂き、重用していただいているが、元来愚痴暗鈍の者であり、多くの御慈悲により
今日までつつがなくご奉公することが出来たのだ。
その方もお側でお言葉を伝える役目を務めているのだから、後々重用されるだろう。しかし驕る心が
少しでもあれば、それは不忠、不孝の至りであるぞ。」

(武野燭談)



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 15:10:50.62 ID:p76OzpPh
主君に仕えるには忠心一番でいいかもしんないけど問題は家臣同士の争いだよねー
隙を見せると足下すくわれるからなあ

佐州は未だ御愁傷のうちに

2017年02月01日 09:17

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/01(水) 05:19:40.08 ID:ZRWtXzEx
本多佐渡守(正信)は、息女<三浦監物(重成)内室>が死去して、悲嘆の最中から
評定場へ出て、御用を心得なさったため、

「佐州は未だ御愁傷のうちに御出になられるのですか?」と、挨拶致された方がいた。

佐渡守はこれに、「どうして娘が1人死去致し申したからといって、御用を欠くべきこと
でしょうか」と、申されたという。

大久保相模守(忠隣)は息男・加賀守(忠常)が死去した時、強く悲嘆し、それからは
御奉公も勤め得ないように、思いなさったという。佐渡守と気持ちが異なっている。

――『武功雑記』



「このような者を討ち取るのは士の本意にあらず」

2016年09月08日 17:40

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 04:37:46.33 ID:HJ7j8xdk
慶長19年、大坂の御陣にて、小栗忠政は御使番・斥候の役目を承り、糧米3千俵を
恩賜され、与力20騎、弓・鉄砲の同心100人を付属された。

11月、後藤又兵衛基次と森豊前守勝永(毛利勝永)は仙波の人家に火をかけて城中
に引き入った。この時、船場の橋をも焼き捨てたのか実否は定かでなかったので、

本多正信を介して、「急ぎ見て参るように」との(徳川家康からの)仰せがあったため、
忠政はすぐさま1人で馬を馳せて行ったところ、

河野権右衛門通重は、御勘気を受けた身であったので忍んでいたのだが、忠政に伴う
ことを乞うた。それから、2人はともども船場の橋際に至り、忠政は馬を止めて静かに
その実否を見届けた。通重も徒歩で橋の向こう方に渡った。

城兵はこぞってその勇気を感心し、「このような者を討ち取るのは士の本意にあらず」
として、矢玉を放つ者はいなかった。

その後、忠政は帰って、敵の様子をつぶさに申したので、(家康から)「敵近く危うき所
に至り、よく見定めて帰った!」との、御感に預かった。

――『寛政重修諸家譜』




170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 07:09:12.21 ID:17UvBhRK
あれ?河野の手柄は?まさか…

方広寺鐘銘事件について

2016年09月03日 10:48

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね

家康が双方の扱いとした理由

2016年08月28日 13:28

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 11:11:30.58 ID:jHMGlyJV
慶長四年閏三月三日に、加賀大納言前田利家が逝去した。
その後、石田三成を討つべしと、加藤清正、細川忠興、浅野幸長、福島正則、黒田長政、
その他大名、小名たちが一体となって蜂起したため、大阪は殊の外の騒ぎと成った。

石田三成は顔を出すことすら出来ず、自分の屋敷に引き籠っていたが、佐竹義宣が伏見より
大阪に参り、人数を森口あたりに残し置いて三成の屋敷を密かに訪ね密談し、三成を女乗物に
乗せ、義宣も同道して、宇喜多秀家の居る備前島へと向かった。そして秀家は家老を差し添え、
三成と義宣を伏見へと向かわせた。

三成襲撃に決起した大名たちは、この情報を聞くと「ならば伏見で討ち取るべし!」と
この事を徳川家康に申し上げた。

この時、家康の重臣である本多正信は言った
「治部少輔の事、各々の望みに任せて討ち果たせば、諸大名は奢り上がるでしょう。」

家康はこれを聞き、
「今回は先ず、扱いにしよう。」

そう決断し、閏三月七日、石田三成を佐和山へと送り届けた。


(玉露叢)

七将襲撃事件で、家康がこの処分を双方の扱いとした理由について。



小身の益、大身の損

2016年05月09日 21:04

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 22:18:00.14 ID:42bWAfDU
徳川家康が遠州浜松に在陣していた時、或る夜、本多正信、並びに外様の者三人、御用の事あって
御前に召し出され、御用済み、三人は退出しようとしたが、その内の一人が御前において、鼻紙袋から
書き付けた物を一通取り出し、家康にそれを差し上げようとした。

家康は尋ねた「これは何か?」
この者答えた「日頃、私の存じ寄りたることを書き付けて置きました。憚りながら、万に一つも御心得にも
成るかと思い、ご覧に入れ奉るのです。」

「それは奇特な心入である。」家康は感心し、「佐渡守(正信)は聞いても苦しからず。
そこにて読んで聞かせよ。」

そこでその者は、数箇条あるものを一つ一つ読みあげた。家康は彼が一箇条読むごとに、「尤もなる事」と
返事をし、「その書き付けたものをここに」と取り寄せ

「これに限らず、今後も思ったことが有れば、少しも遠慮なく申し聞かせよ。」と言うと、この者
「お聞き届け遊ばし、有り難く存じ候!」と感動して御前を下がった。

その後には本多正信一人残ったが、彼は家康に言った
「さてさて、彼の者は卒爾な者です。彼の言ったことの内、一箇条も御用に立つと思えるものは
有りませんでした。」

しかし家康、手をふって
「いやいや、さして用の立つほどのことはないけれども、その身相応の思案を尽くし、内々に書付け
私に見せようと言う志は、何よりも奇特なることである。その言葉が用に立たぬのなら、用いねば
いいだけの話であり、卒爾などという事ではない。

総じて、身分の上の者も下の者も、我が身の過ちは知らぬものである。されど小身なる者は、心安き
友達傍輩などがあり、互いに身の上の悪事を言って、吟味もするほどに、気がついて改める事も多い。
これは小身の益である。

一方、大身なる者は、そういった事もなく、家臣たちは追従するばかりで、大方のことは尤もとしか
言わないため、我が身の過ちを知るすべがない。これは大身の損というべきであろう。

古より富貴なる者で、国を失い家を滅ぼすのは、大抵は自分の過ちを申し聞かせる者がなく、自身のことを
宜しきとばかり思う故である。
であれば、自身の悪を言い聞かせるものは、大切に想うべきではないか?」

正信はこの時家康から聞いたことを、後日、嫡子上総介(正純)に聞かせ、上がご思慮の深きに加え、
御仁厚成ることを申し、落涙に及ぶのを、上総介は聞いて

「で、その人は誰で、申し上げた内容はどんな物だったのでしょうか?」と聞いた。

佐渡守は怒り叱りつけた
「この話はな、ただ上の思し召しの厚さを承るのだ!その他のことをお前が聞いてどうするというのか!?」
そう言って言った人物や内容は、遂に言わなかった。
これは、上総介が若年故に、その人を侮る心があるのを佐渡守が察し、それを抑えようとしたのである。

(新東鑑)



707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:04:02.90 ID:0CFR/PL/
無能な働き者って言葉が浮かんだんだけど

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:39:50.85 ID:SIIba21c
家康の言葉が見えてますか?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:10:47.14 ID:saQw9OQd
この話は前にも出てたけど、これが一番まとまってるな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:17:21.93 ID:vl+MZ50d
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1251.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7344.html?sp&sp
正純といえばその話、ていう定番逸話だと思ってた

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 10:04:02.61 ID:6/81B7mK
この人でいい話あるん?悪口ばっかやん

家康と正信の謀の様子

2015年12月29日 15:25

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 11:49:28.62 ID:iXIovZrU
石川丈山(嘉右衛門重之)が語った所によると
「私は大御所(徳川家康)に多年に渡り仕えていたが、本多正信と何か事を謀っているように見えたのは、
僅かに2度しか無い。その内容も、世の人が事を謀る場合とは全く異なる、珍しきものであった。

先ず1度目は、大御所が正信の座している所を通った時、立ち止まって三言四言密かに仰せになった。
これを正信は大いに誉め、「よく候!よく候!」と申し上げていた。

もう一度は、大坂の陣が起こって、程なく和睦してのち、大御所は京に入られ、何某を召して
「汝大阪に行き、将軍にこのように申せ。家康はこれこれの日、駿河に帰ろうと思っている、と。」

大御所はそうおっしゃって、正信の方をご覧になり、「正信はどう思うか?」と聞かれた。
ところが正信は、例のごとく居眠りしており、答えようもない。
大御所は大きな声で「やあ佐渡守!!」とおっしゃった時、正信の目が開き、まずものも言わず、
右の手を上げて指を折り、物を数えるような仕草をして
「大殿よ、大殿よ、幾年前に伏見の御館にて正信が申したことを忘れ給うな。」
そう申すと、大御所は暫く案じるような御気色で、先に使いを命じた者に
「まず、今日は使いを参らせない。」
そう仰って内へと入られた。

そのようであったのに、今の世に伝わる所は、正信がややもすれば、
古を引き今を證とし、理義を分かって毫末に入るように言うのは、皆、後の弁を好む者の
空言である。」

(藩翰譜)

家康と正信の謀の様子、である

同逸話
石川丈山の見た本多正信


強からず柔らかならず、また卑しからず

2015年12月28日 08:28

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 20:58:05.08 ID:UDzJKn7e
永禄6~7年の間に一向専修の門徒たちが徳川家康に対し反乱した時、
本多正信は舎弟三弥正重と共に上野の城に立ち籠もった。
永禄7年2月28日、諸寺の門徒たちはその罪を赦され、尽く降伏した。
しかし本多正信は国を出て、都の方に赴いた。

そこで松永弾正忠久秀が、正信を見て側の者にこう語った
「私は、少なくない数の徳川家から来た侍を見た。その多くは武勇の輩であった。
しかし、一人この正信は、強からず柔らかならず、また卑しからず。
必ず、世の常の人ではない。」
そう感想を漏らしたという。

(藩翰譜)

有名な松永久秀本多正信評である。

丹羽長重が赦免された理由

2015年11月27日 17:47

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 21:19:33.99 ID:UmHPvjDh
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。

このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。

これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。

(藩翰譜)

徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 23:43:35.70 ID:Anv+yfLZ
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

本多正信壁書

2015年11月27日 17:46

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 02:36:52.67 ID:UUgAMIah
本多正信壁書

淫酒は早世の地形    堪忍は身を立てる壁

若年の苦労は栄華の礎 倹約は主君に仕えるための材木

珍膳珍味は貧の柱    多言慮外は身を滅ぼす根太

仁の情は家を作る畳   法度は僕を使うための屋根

華麗は借金の板敷    我儘は朋友に嫌われる障子

右の十ヶ条は常に忘れてはならぬものである。

――『半日閑話』



「もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

2015年10月28日 08:34

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 20:50:43.24 ID:DVPqIe60
会津征伐の途上にて石田三成の挙兵を知った徳川家康は、小山にて諸将と軍評定を行い、
その後息子である結城秀康を呼んだ。

秀康が家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って家康の御前へと出た。

家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」

秀康はみるみる機嫌を悪くし
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」

しかし家康
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、それが何十万騎となろうと何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、弓矢を取って
天下に肩を並べるものは少なかった。その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。

海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」

そう語ると、秀康は少しの無言の後
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。上方の大将にも、名を得たもの
少なく有りません。軍勢の規模もきっと多いでしょう。

秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

本多正信はこれを聞くや感極まった
「よくぞ仰せに成りました!関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」

家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して
「この鎧は私が若い頃より身につけ、ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。

上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
(藩翰譜)




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:24:59.96 ID:3XFxN570
>家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し

利用する為には、子供に対してもこんな小芝居しなきゃならんのか

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 23:14:33.66 ID:74kpQ63m
秀吉もそうだがこういう時にちゃんと泣けるのが天下人なんだろうよ

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 07:39:19.25 ID:jibHBUEb
演義の劉備は泣いて皇帝になった、と言われるが
実際役立つんだな

死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじ

2015年10月20日 10:06

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 06:59:49.20 ID:TfHHbej3
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川家康の御前において本多上野介(正純)がこんな事を言った

「木村長門守(重成)の討ち死には早かった。せめて7日まで生きていれば、秀頼公を連れて参っただろうと、
佐渡守(本多正信)も申しておりました。」

これを聞いた家康は何も感想を述べなかったが、非常に機嫌の悪い様子であった。

また正信はこんなことも言ったそうだ
「木村重成によって佐竹家の渋江内膳が討ち取られたのは早すぎた。三弥(本多正重)はどう思うか?」

これに本多正重は答えた
「いやいや、死にたくて死ぬバカはいないだろ。」
(いやいや死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじといはれし)

(武功雑記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 07:44:32.09 ID:MCiCx0uG
最後のは正信じゃなくて正純だろうな
正純は失言が多いって印象付けしてんのかしらん

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 17:32:29.27 ID:GQyXHJc6
「木村長門と佐竹家人の渋江内膳の討死は早かった」じゃないかな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 23:29:01.93 ID:YdwXRHRU
前者と後者は違うエピだからそうだな。。。
指摘してて間違ってたな サーセン 

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 07:36:05.72 ID:2CfP03AX
切腹を申しつける!でゴザル

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 09:52:26.83 ID:NJU4BYQk
泣いて馬謖を斬るでゴザル

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 11:46:50.92 ID:k4uaGpXi
ノッブ「バザールでゴザール」

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 19:50:03.53 ID:nHOmSxEM
乙坂家秘伝のピザソースでゴザル

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:42:07.57 ID:TiZG/uFK
いやぁ~乱世乱世!17世紀始めの大坂の話でゴザルよ。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 23:47:17.98 ID:zMeGdL5U
訳わかんねーこと言ってんじゃねー

神前に対しては、私こそ寄進すべきものです

2015年08月16日 20:14

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 20:30:59.10 ID:kzBvZAr2
徳川秀忠の御代、常陸国鹿島社の鳥居が破損したため、幕府により新たに建立された。
鳥居の完成後、その御礼として鹿島社の神主が江戸に出て、島田治兵衛を頼んで、
この建立に尽力した本多正信の元に参った。この時神主は正信への進物として、杉原紙三百枚を
持参していた。しかし正信はこれを見ると

「遠方よりお越しいただいてかたじけない。殊に音物まで念を入れられたこと、祝着に思います。
しかしながら、これはお返しいたします。」

そう言って進物を返した。神主はこれに困り
「少分の品ですのでお恥ずかしいですが、遠方より持参したものですので何卒御収納下さい。」
神主に同道した島田治兵衛も
「神主が、今回の鳥居建立の悦びとして持参いたしたものなのですから、御収めあって然るべきです」と
執り成した。しかし正信は笑いだし

「この進物は、社人達から代金を集め、それによって購入したものを神主は持参したのでしょう。
しかし神前に対しては、私こそ寄進すべきものです。」

そういって受け取ること無く返した。

(明良洪範)




殿様は御耳臆病ですが目は剛胆です

2015年07月21日 13:03

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 20:50:04.95 ID:TgQAjEmj
関ヶ原の時、本多正信はこの合戦を甚だ心許なく感じており、内藤四郎左衛門(正成)を呼んで言った

「私は今度のご出陣はなんとも覚束きません。第一に、上方の軍勢は15万と称しているのに、
我々は御父子合わせても漸く5万ばかりです。
危うい事ですがご出陣されずにはおられぬ情勢ですので、お留めすることも申し上げられず、
ただ朝夕案じているばかりです。

あなたは老功ですから聞きますが、これをどのように考えておられますか?」

内藤はしかし
「私はそう思いません。必ずご勝利あるでしょう。
何故かといえば、私はご幼少の頃よりお側でお仕えしていますが、殿様(家康)は御耳臆病ですが
目は剛胆です。この江戸でお気遣いしているように見えても、神奈川あたりから剛胆になっていき、
上方まで出て実際の状況が見えるようになれば、鬼のようになられるでしょう。
そこから突き掛れば、たちまちご勝利なされるでしょう。

殊に今回幸運なのは、突き掛かるべき人が此方側に3人もいることです。
一には井伊兵部(直政)、二には福島左衛門(正則)、三はすなわち我が殿様です。
この3人が突き掛かれば一体誰が押しとどめることが出来るでしょうか?
であれば、ご勝利すると考えています。」

そう語ったが、果たしてそのとおりに勝利された。
(明良洪範)




431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 20:58:19.81 ID:0uppXI6Y
何と、兵部と家康、両方とも突きだったとは
どうやってやるんだろう?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 21:36:03.26 ID:f5kM8Wzr
>>431
ちょっと待て何を想像した

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 22:24:17.38 ID:vS13F+8k
>>430
市松ってどの戦での戦功で評価が高いのかしら?
賤ヶ岳以外で大した手柄を立てていないように思うんだが。

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 22:29:00.68 ID:w5/+45hA
>>431
69すればいい

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 23:54:35.42 ID:1071id/0
正信なら家康と一緒に謀を巡らしてそうなんだけど
そんなに心配だったのかなあ

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/21(火) 00:07:02.68 ID:eFOY7ELI
>殿様(家康)は御耳臆病ですが 目は剛胆です。
この表現に似たものが
新納忠元「耳なんとか目なんとか」・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1404.html

にもありますね。
>忠平様は”耳臆病、目かいがいしい大将”であられます
>家久(善)様は”耳かいがいしく、目臆病な大将”であられます
この頃によく使われていた言葉なのかな?

大母殿の事

2015年05月31日 17:07

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:22:36.31 ID:HMaA3uKM
大母殿徳川秀忠の乳母で、賢良な女性であった。しかしその子の某は山中源左衛門の党類であったため、
流罪となった。(旗本である山中源左衛門が、江戸市中で無頼行為をしていたことが発覚し切腹となった事件)

しかしその後も、大母殿に対する秀忠の尊敬は衰えること無く、彼女の徒然を慰めるため、月に3,4度は
茶の子(菓子)を贈った。彼女はこれを近習の女中などに遣わし、話などして彼女たちの労を慰めた。

この大母殿には月に1,2度ずつ、決まって行うことがあった。
それは、大きな切板に飯をうずたかく盛って、六尺(雑務係)や中間たちまで自由に呼び入れ、
自身でこの飯を振る舞うことであった。

本多佐渡守(正信)これを聞き、初めてその様子を見て大いに驚き、大母殿に意見した
「ここには夫々の女中も多いのですから、誰かに申し付ければよいではありませんか。
ご自身で飯を盛るなど、あまりに軽々しいことです。」

これを聞いた大母殿は、飯を盛っていたしゃもじを止めて佐渡守に振り向き
「最近、あなたが驕っていると人々が言っていますが、私はそれは虚説だと信じていました。
しかし只今の一言で、そういった人々が言っていることも事実なのだと思いました。
その方、弥八郎と呼ばれた頃の事を忘れたのですか!?

この婆は三河では賤しき者であったのに、思わずも上様に御乳を差し上げ、今はこのように
御厚恩を蒙り、大変に結構にして頂いております。

私が三河にて賤しき時分は、5,6人の客人へ飯を振る舞う事も出来ませんでした。
しかし現在では、何人に振る舞うとも自由となりました。
それ故、賤しき時のことを思い出しこのように時分で飯を盛るのです。

現在は富貴の身となりましたが、この婆は昔を忘れません。
しかし其の方は、早くも弥八郎の時のことを忘れたように見えます、そんな心得では、大事のご政務に
預かっていることも心もとなく思います。」

これには流石の佐渡守も殊の外困惑して帰っていった。

その後、大母殿は病にかかり、甚だ心もとない体調であると聞こえたため、将軍秀忠は見舞いに行き
こう声をかけた
「思ったよりも顔色が良いではないか。しかし、今のうちに言っておきたいことが有れば、何事でも
申し置くように。どんなことでも叶えたい。」

その時、大母殿は
「何もありません。

今の私の願いといえば、ただ上様が、権現様の御条目を御違いあそばされず、天下のご政務が、
人に後ろ指をさされぬよう、常々ご油断の無きように願い奉る以外に、何も申すことはありません。」

秀忠も、大母殿の思いを理解した。
「しかし、それ以外に願うことはないか?」

「このように結構にして頂いているというのに、これ以上何の願いもありません。」

こうして秀忠は立座し部屋を出ていこうとした時、彼女は「上様」と呼び返した

「上様は先頃から、再三に何か願いはないかとお尋ねに成りました。この事は、私の伜のことを、
この婆が臨終に際して気にかけるとお考えに成ってのお言葉だと思います。

しかし、絶対に御赦免してはなりません。
もしこの婆に免じて御赦免されたなら、御乳を差し上げた馴染み故天下の大法を犯されたということであり、
後代まで政道に傷のつく、有るまじき事であり、それこそ私の黄泉への障りとなります。
どうか必ず、御赦免なされませんように。」

そう言い終わると、間もなく卒した。人々はみな、その志の程に感嘆したという。
(明良洪範)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 20:58:07.51 ID:nVSvJ3lg
で、正信は?

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:17:41.98 ID:TLw/66af
いい話だ…
けどその後息子はどうなったんだろう。
あと、89歳とは長命だが、55歳で乳母って本当?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:38:07.67 ID:EF3ETCaI
乳母といっても母乳を与える人だけをさすのではなく
母親の代わりに子育てや教育をする人も乳母というみたいですよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:43:19.34 ID:bw12OwFu
乳母も傅も「めのと」だしな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 23:09:52.54 ID:utGOVjQL
秀忠は実母を早く亡くしてるからか乳母とか大切にしてそうなイメージあったな
個人的に

彦左が佐渡守を中傷する話

2014年12月27日 17:26

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 03:54:17.29 ID:EDvBVJIg
また、ここに不審なことがある。犬を追っている子供まで皆が本多佐渡守(正信)が大久保相模守(忠隣)が中傷したと口にしている。
そんなことを世人が事を知らないので言っているのである。
佐渡は相模の親の七郎右衛門(忠世)に重恩を受けた者だから、恩を忘れてどうしてこんなことができようか、それは人の作り事だ。
 相模は子の主殿(石川忠総)を初め私どもの知らぬ、深い科がきっとあったのだろう。
絶対佐渡が中傷したなどということはないだろう。
今になってよくわかるけれども、町人、民百姓までがいうことだから、本当にそのようなことがあったのかと、不審には思うけれど、そんなことはわからない。
 佐渡は若いころはむごい者であると噂があったけれど、年もとったことなので、きっとなおったのであろう。
佐渡守は七郎右衛門が朝に夕に面倒を見て、女や子供を助け、塩や味噌、薪にいたるまで、面倒を見、(家康に)敵対して他国へかけおちしたときも女子を助けてやった。
そのうえ、詫びを入れさせ、国に帰してからは、先ず隼鷹匠として抱えられ、その後もあれこれととりなして、四十石の知行を与えられた。
その後も面倒を見て、除夜にはかならず嘉例として大晦の飯と元山飯を七郎右衛門尉のところで佐渡は食べたものだった。
関東へ(家康様が)お移りになった後でも、江戸でもそのことを嘉例としたほどの佐渡であるから、どうしてその恩を忘れようか。
 そのうえ、七郎右衛門が死ぬ時も。佐渡を呼んで遺言にも、相模をよろしく頼むいって死んでいったが、その時七郎右衛門に向かって
「どうしてなおざりに扱えましょう。ご安心ください。」
としっかり申したのに、もしやその心にそむいて中傷したのだろうか。
 昔は、「因果は皿の縁をめぐる」といったのに、今は「めぐり着かずに、すぐに報いが飛んで向かう」と言うことがある。
今どきどうであろうか、と思うけれども、「人にさえずらせよ」ということもあるから、そういうものであろうか。
「善き因果は報いがあってもおぼえがない。悪い因果が悪い報いを起こした場合は、わかりやすい。」
そういうものであろうか、佐渡は三年もすぎることなく顔に唐瘡ができて、顔半分がくさり奥歯の見えるほどになって死んで、
子である上野守(正純)は改易になって出羽の国、由利にながされて、その後秋田へ流されて佐竹殿にあずけられて、四方に柵を付け堀を掘られ、番を付けられた。
皆々口にするほどのことも確かにあることのようだ。相模守の改易も、デウス退治の処置とあって、京都に使いに行き、その後改易にあった。
また、上野守の改易の時も、最上の仕置きをせよと命ぜられて、使いに行ってその後改易になったのもおなじようなことだ。
さては中傷したので、因果の報いかと、また世間では犬を追っている子供まで言うようだ。
 『史記』のことばに、
「蛇はとぐろを巻いても吉方に首を向け、鷺は太歳の方角に背を向けて巣をつくり、燕は戌巳に巣を食い始め、鰈は河口に向かってはかたたがえをする。
鹿は玉女に向かって伏せる。」
とある。このように動物でも身の程に従う心があるそうだ。
 顔だけは人でも心は畜生であったか。
(三河物語)

彦左が佐渡守を中傷する話