彼は既に死人同然

2017年08月19日 21:02

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 21:00:53.48 ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)


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ともかくも仰せには

2017年08月11日 17:29

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』


今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

上野介、良く聞け。

2017年02月08日 10:34

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 21:02:00.89 ID:4ith6HzQ
本多佐渡守正信がある時、子息上野介正純に言った

「逆心は天命に背くと知りながら、北条義時が主君の後を断絶し、己が威を逞しくし、
天子を改めるなど、無双の悪逆を行いながら、時の勢いにてこれに与するもの多く、九代天下を
保った。
その後も北条の業績を真似る者はあったが、北条ほど事を謀るものは無かった。

細川勝元が先祖頼之の業績を学ばず、遠き北条の後を追い、応仁の乱を引き起こした。
これは細川、山名が威を振るったためである。であれば彼らが志を立てて名を揚げたかと言えば、
そうではない。共に死亡して、あまつさえ将軍家の武威を失落させた。

上野介、これを思え。
勝元がたとえ逆意を振るっても、その子政元に忠義が有れば世は治まったはずだ。
しかし政元はますます驕りを極め、将軍義材を退けた。
この君が悪主であったのなら替える例もあるだろう。しかし義材には武道尊氏の風格あり、
六角高頼を退けた時は、足利家は昔に帰るかと言われたとか。
それなのに政元はこれを廃して、幼主義澄を伊豆国より申し上らせ、己が威を恣にした。
彼も父に劣らぬ不忠至極の者である。よってその身も終に滅びた。

上野介、良く聞け。
武家は軍法、武備を諸道の根本としている。軍法と言っても戦をする事ばかりではない。
軍法とは常の備えである。善政は勝ち、悪政は負ける。勝ち負けの根本は国を治めることにある。
例えば、樹木の根が深く入り能く栄えているためには、まず根本を培う事が大切である。
それから段々と成長するに従い、養いを能くすれば、枝葉栄え、花咲き実も多く成る。
少々枝を刈り取ったところでその樹の本体が痛むことはない。
このように、天下国家の基本となる大法を取り失わない事が肝要である。

士農工商は天下の四民であり、そのうち士において、家の老職を仕る者は、農工商を以て
木の根を培うように、これを慈しむべきなのだ。
諸士は木と同じであり、合戦の仕方は枝葉と同じである。そして勝ち負けは花や実に等しい。

基本を失ってはならない。基本というのは忠信を成すことであり、そこから諸事は出るのだ。
おおよそ、忠を成すにも色々とある、身を以て忠を致すもあり、心を以て忠を尽くすもあり。
家老、侍大将などの忠は、主人の前には一月に一度も出なくても、一筋に忠を以て君を守護し、
政道順行を以て君の英名を高くするのを、良き家司と言うのだ。

また、忠ににた不忠がある。
例えば石田三成は、非常に上慢な人物であり、大風雨の夜など、御城廻りの破損の状況を逐一
見て回り、明けて卯の刻(午前6時頃)には報告した。御普請奉行からの報告は巳の刻(午前10時頃)
であった。
これは一見、その職の責任感より生じた、分別ある行動に見えるが、実際にはその家、その家中のために
成っていない。

人は心入こそ大切である。一言の情に一命を惜しまないのは、士が義を知るが故なのだ。
とりわけ老臣は、心入一つの者であり、忠義を心にかけて思う時は、自分の位階、職分、身代より
心を引き下げるべきである。
私は佐渡守にして頂き、重用していただいているが、元来愚痴暗鈍の者であり、多くの御慈悲により
今日までつつがなくご奉公することが出来たのだ。
その方もお側でお言葉を伝える役目を務めているのだから、後々重用されるだろう。しかし驕る心が
少しでもあれば、それは不忠、不孝の至りであるぞ。」

(武野燭談)



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 15:10:50.62 ID:p76OzpPh
主君に仕えるには忠心一番でいいかもしんないけど問題は家臣同士の争いだよねー
隙を見せると足下すくわれるからなあ

小身の益、大身の損

2016年05月09日 21:04

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 22:18:00.14 ID:42bWAfDU
徳川家康が遠州浜松に在陣していた時、或る夜、本多正信、並びに外様の者三人、御用の事あって
御前に召し出され、御用済み、三人は退出しようとしたが、その内の一人が御前において、鼻紙袋から
書き付けた物を一通取り出し、家康にそれを差し上げようとした。

家康は尋ねた「これは何か?」
この者答えた「日頃、私の存じ寄りたることを書き付けて置きました。憚りながら、万に一つも御心得にも
成るかと思い、ご覧に入れ奉るのです。」

「それは奇特な心入である。」家康は感心し、「佐渡守(正信)は聞いても苦しからず。
そこにて読んで聞かせよ。」

そこでその者は、数箇条あるものを一つ一つ読みあげた。家康は彼が一箇条読むごとに、「尤もなる事」と
返事をし、「その書き付けたものをここに」と取り寄せ

「これに限らず、今後も思ったことが有れば、少しも遠慮なく申し聞かせよ。」と言うと、この者
「お聞き届け遊ばし、有り難く存じ候!」と感動して御前を下がった。

その後には本多正信一人残ったが、彼は家康に言った
「さてさて、彼の者は卒爾な者です。彼の言ったことの内、一箇条も御用に立つと思えるものは
有りませんでした。」

しかし家康、手をふって
「いやいや、さして用の立つほどのことはないけれども、その身相応の思案を尽くし、内々に書付け
私に見せようと言う志は、何よりも奇特なることである。その言葉が用に立たぬのなら、用いねば
いいだけの話であり、卒爾などという事ではない。

総じて、身分の上の者も下の者も、我が身の過ちは知らぬものである。されど小身なる者は、心安き
友達傍輩などがあり、互いに身の上の悪事を言って、吟味もするほどに、気がついて改める事も多い。
これは小身の益である。

一方、大身なる者は、そういった事もなく、家臣たちは追従するばかりで、大方のことは尤もとしか
言わないため、我が身の過ちを知るすべがない。これは大身の損というべきであろう。

古より富貴なる者で、国を失い家を滅ぼすのは、大抵は自分の過ちを申し聞かせる者がなく、自身のことを
宜しきとばかり思う故である。
であれば、自身の悪を言い聞かせるものは、大切に想うべきではないか?」

正信はこの時家康から聞いたことを、後日、嫡子上総介(正純)に聞かせ、上がご思慮の深きに加え、
御仁厚成ることを申し、落涙に及ぶのを、上総介は聞いて

「で、その人は誰で、申し上げた内容はどんな物だったのでしょうか?」と聞いた。

佐渡守は怒り叱りつけた
「この話はな、ただ上の思し召しの厚さを承るのだ!その他のことをお前が聞いてどうするというのか!?」
そう言って言った人物や内容は、遂に言わなかった。
これは、上総介が若年故に、その人を侮る心があるのを佐渡守が察し、それを抑えようとしたのである。

(新東鑑)



707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:04:02.90 ID:0CFR/PL/
無能な働き者って言葉が浮かんだんだけど

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:39:50.85 ID:SIIba21c
家康の言葉が見えてますか?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:10:47.14 ID:saQw9OQd
この話は前にも出てたけど、これが一番まとまってるな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:17:21.93 ID:vl+MZ50d
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1251.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7344.html?sp&sp
正純といえばその話、ていう定番逸話だと思ってた

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 10:04:02.61 ID:6/81B7mK
この人でいい話あるん?悪口ばっかやん

片桐且元の「十一ヶ条」

2016年04月12日 16:37

516 名前:1[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:09.37 ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517 名前:2[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:36.34 ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」

518 名前:3[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:56.35 ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。



死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじ

2015年10月20日 10:06

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 06:59:49.20 ID:TfHHbej3
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川家康の御前において本多上野介(正純)がこんな事を言った

「木村長門守(重成)の討ち死には早かった。せめて7日まで生きていれば、秀頼公を連れて参っただろうと、
佐渡守(本多正信)も申しておりました。」

これを聞いた家康は何も感想を述べなかったが、非常に機嫌の悪い様子であった。

また正信はこんなことも言ったそうだ
「木村重成によって佐竹家の渋江内膳が討ち取られたのは早すぎた。三弥(本多正重)はどう思うか?」

これに本多正重は答えた
「いやいや、死にたくて死ぬバカはいないだろ。」
(いやいや死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじといはれし)

(武功雑記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 07:44:32.09 ID:MCiCx0uG
最後のは正信じゃなくて正純だろうな
正純は失言が多いって印象付けしてんのかしらん

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 17:32:29.27 ID:GQyXHJc6
「木村長門と佐竹家人の渋江内膳の討死は早かった」じゃないかな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 23:29:01.93 ID:YdwXRHRU
前者と後者は違うエピだからそうだな。。。
指摘してて間違ってたな サーセン 

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 07:36:05.72 ID:2CfP03AX
切腹を申しつける!でゴザル

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 09:52:26.83 ID:NJU4BYQk
泣いて馬謖を斬るでゴザル

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 11:46:50.92 ID:k4uaGpXi
ノッブ「バザールでゴザール」

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 19:50:03.53 ID:nHOmSxEM
乙坂家秘伝のピザソースでゴザル

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:42:07.57 ID:TiZG/uFK
いやぁ~乱世乱世!17世紀始めの大坂の話でゴザルよ。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 23:47:17.98 ID:zMeGdL5U
訳わかんねーこと言ってんじゃねー

本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由

2014年10月02日 18:53

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:48:53.33 ID:qh3k8BE1
関ヶ原の後、石田三成が捕縛されてからの東軍諸将との逸話は
人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。

本多正純石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)

黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話

関連
本多正純、石田三成を尋問す



清正を褒められたものではない

2014年09月21日 14:47

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:00:27.88 ID:rTETO/zD
徳川家康が、二条城で物語をしていた折、「現在天下には、加藤肥後守清正に及ぶものは居ない」と発言した。
この時、本多佐渡守正信は例のごとく空寝していたが目を見開き、「殿はどなたを褒めたのですか?」と
尋ねた。家康はこれを聞くと
「加藤肥後の事だよ」

「加藤肥後…?それは太閤の時に虎之助と言っていた小倅のことですか?」

家康呆れたように
「肥後の事を知らない者がおるものか!」

「いやいや、それがしも年老いまして、もの忘れすることの迂闊さよ。
されど、殿が信玄謙信を始め数多の名将を御覧し尽くされてきたその御目で、加藤などのことを
褒められるのはどうしてでしょうか?
それにしても加藤にとってはこの上なき名誉なことです。」

「肥後のことは、私はよく知っている。現在、彼に西国のことを任せておけば心安いのだが、
彼には一つ疵があるので、ひたすらに頼むというわけにはいかないな。」

正信、驚いたように
「疵?それはどういうものですか?」

「肥後は、ものに危うき心がある。今少し心落ち着けば、実に彼に立ち並ぶ人物は居ないであろう。」

「なるほど、仰るとおりです。危うき心があって剛気に過ぎるのは大いなる疵です。
武田勝頼にもそのような癖があった為に、ついには国を失いました。惜しむべきことです。」

この座には京の商人などが陪席していたのだが、彼らが後に、この会話の内容を清正に告げ伝えた。
清正はこれを聞くと
「さては家康公は私を、心危うき者と考えられているのか。」
そう思い、これより物事を慎重にするようになった。

後年、本多正純がその父正信に、この事を尋ねた事があった。
正信が語ったことは
「これは実際には、清正を褒められたものではない。その頃は当家草創の時期であったから、
清正がもし鎮西の人々を糾合して秀頼に与党せしむれば、由々しき事態となったであろう。
しかし、殿の『彼に危うき心がなければ』との一言が、彼には何となく心の重石になって、生涯過誤無く
果てた。これは家康公の御智略の深遠であり、凡慮の計り知ることではない。

それを何だお主は、言葉の表面の意味だけだと思って私に問うてくるとは。お前は知慮が浅い!
その心では天下の機務を執る事など出来ないぞ。よくよく工夫せよ」と諭したのである。

(駿河土産)




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:11:22.12 ID:fqb2tt9n
>例のごとく空寝していたが
酷いw

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:18:14.41 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5243.html
これにもあるけど、狸寝入りが正信の助言スタイル

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:19:29.43 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2264.html
実際有名だったようだ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 23:04:46.23 ID:+P9ZyDx6
>>316
清正公は警戒されてたんじゃな。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 01:36:52.79 ID:agaXous5
ちょっと調べてみたら駿河土産にこの話がないっぽいんだが、マイナーな写本出典とかなのだろうか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:01:19.18 ID:Lpg/YPD5
>>321
『東照宮御実紀附録』巻十二に出典駿河土産で出てる

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:10:36.91 ID:agaXous5
>>322
おおそうか。ありがとう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 09:03:52.19 ID:sarunVYn
安定の親父のオチ要員な正純w

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 14:02:19.69 ID:QiJaL7ae
>>316
名将の例として真っ先に信玄謙信が出てくるんだなぁ

松平忠輝のご乱行

2014年03月06日 19:10

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/06(木) 00:25:26.40 ID:v/CCyRB7
元和元年(1615)8月5日、上洛を終え関東に戻る途中の大御所・徳川家康は、近江の水口でこのような話を聞いた

「今回、越後少将(松平忠輝)が上洛の時、森山草津あたりにおいて、幕府御家人である
長坂某、伊丹某と不慮に行き会い、理不尽にこれを殺した。」

家康はこれを聞くと、奇怪の事ゆえたちまち不快な表情になり、本多上野介(正純)を呼んで
その仔細を問うた所

「そのような風説はたしかにありますが、詳しいことは私は存じません。」

そこで家康は近江の代官である長野内蔵充、小野宗左衛門、観音寺を呼び出し、

「お前たちは事件のあった近辺にいる。必ずこれについて知っているはずだ。」

と聞くと、彼らは

「少将殿(忠輝)がこちらにお出でになるということを知らず、長坂某と伊丹某は行き会ってしまったのですが、
この時彼らの前駆の者達が、少将殿の御前を乗打するような形になってしまったのです。
そのため『狼藉、曲事である!』と言われ、彼らを殺しました。」

と証言したという。

(駿府記)

いわゆる、松平忠輝のご乱行についての記録である。





豊臣秀頼による弁明と、家康の反応

2014年01月06日 19:05

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 10:16:55.81 ID:syN1rPCO
豊臣秀頼が片桐且元を襲撃したとの報を聞いた徳川家康は駿府を出立。10月19日、美濃国岐阜へと
到着した。ここで徳永左馬助が到着し、豊臣秀頼からの書状を家康に披露した。
その内容は

『今度市正(片桐且元)がこの秀頼に対し様々な不届きが有ったので、かれを折檻に及んだ所、
大御所は以ての外に御立腹になり近日御出馬あるとのこと。まことに以って理解の出来ないことである。
何故なら御両所に対し、秀頼は毛頭野心など考えていないからである。この旨を申し上げていただきたい。

10月9日  秀頼(黒印)』

これを本多上野介(正純)が申し上げた所、家康はこう言われた。

「秀頼は若輩であるから、織田有楽や大野修理たちが様々に陰謀をめぐらしてそれを提言しているのだろう。
秀頼の意向は解っている。去る3月、大野修理より加賀肥前守(前田利長)の元へ一通の書状が遣わされた。
その内容はこういうものだった。

『秀頼は全ての才覚が日を追って増進しており、時分はこの時です。早々に上洛され、
秀頼のご指南をなさって下さい。
兵糧に関しては、大阪には福島左衛門大夫(正則)の元に3万石、秀頼の蔵に収めてあるものが7万石、
その他商売のための米穀が数多あります。
あなたお一人の指導を承ります。』

この書状は利長の死(6月27日)後、子息の筑前守(利常)より本多上野介を通して提出された。
大阪に別心があることは必定である。どこにそれを疑うべき点があるのか。」

また島津陸奥守(忠恒)、毛利宗瑞入道(輝元)、鍋島加賀守(直茂)、黒田筑前守(長政)、
福島備後守(忠勝)、松平武蔵守(池田利隆)、同松平左衛門督(池田忠継)、同宮内少輔(池田忠雄)、
浅野但馬守(長晟)、蜂須賀阿波守(家政)、加藤左馬助(嘉明)、森美作守(忠政)、田中筑後守(吉政)、
生駒讃岐守(正俊)、その他中国西国の人数数万人が、大阪表に押し寄せるよう、本多上野介に命じた。

(駿府記)

大阪冬の陣が起こる直前の、豊臣秀頼による弁明と。それに対する家康の反応である。






宇都宮の事件、実は

2013年08月14日 19:55

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 08:22:17.86 ID:7ccVNWd2
本多上野介正純滅亡の事であるが諸記録には「遠慮の事ありて記しがたい」
とありその理由を知ることはできない。

古老の伝説では秀忠公が日光御社参の時に正純の居城宇都宮にお泊りになる
予定であったが、上野介が逆意をもって御湯殿に落とし穴を設けて秀忠公を
弑し奉るたくらみが露見した。

秀忠公は密かに酒井雅楽頭(忠世)のみをお供にして引き返され江戸城へと
お帰りになり、松平下総守(忠明)が秀忠公の御装束を着て代わりに御社参し
上野介を謀ってこれを捕えて流刑にされたと言う。

(翁草)

宇都宮の事件は落とし穴だったと言う異説である。

なお翁草の筆者は他の説も併記しつつ、どの説も裏付けが取れなくて怪しい
んだよねぇとか身も蓋もない事を書いてたりする。




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 13:49:58.55 ID:t/giXINN
>>158
してその古老の名はなんと

それは曲事であるぞ!

2013年06月29日 20:00

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 21:56:17.04 ID:WzbYBEfU
(大阪夏の陣が始まろうという時、二条城の徳川家康は伏見城にある秀忠からの使い、土井利勝と
酒井忠勝が到着したのを受け、本多正純、安藤帯刀、成瀬隼人らとともに、合戦の軍議を行った)

その日の晩、灯火をつける時分の事である。「日向に御用がある、お城に上がるように」
との上使が下されたので、私(水野勝成)は早速二条城に登り家康公に御目見得をすると、
膝近くまで寄るように、との御意なのでお側まで近づいた。

この時家康公が仰せになったのは、
「藤堂和泉守(高虎)に一番備、並びに伊井兵部(直孝)に二番備を申し付けた。
そして其の方は大和口より押し立て、この両人とその先で合流せよ。
そのため大和衆を其の方の旗本に申し付けるので、召し連れて行くように。」

私は、これを聞いてこう申し上げた
「去年(大阪冬の陣)、私は堀丹後(直寄)を召し連れて参陣いたしましたが、今回も同じく
堀殿に申し付けて頂けますか?」

「宜しい。丹後を召し連れて行くがいい。」

この時私は、去年の大阪冬の陣で、大和衆は藤堂高虎の麾下を仰せつかったのに、彼らは高虎を侮り、
仕寄りの時など高虎の言うことを聞くものがおらず、命令を聞かせても何かと我儘を言って
少しも役に立たなかった、ということを知っていたため、このように申し上げた

「私は藤堂高虎よりも小身であります。であれば私の言うことを、大和衆は聞かないでしょう。
ですのでこの仰せをお請けいたしても、もし前線で役に立たなければ、両御所様の御意に違う
結果となってしまいます。」

家康公はこれを聞くと殊の外機嫌を悪くされ、このように仰せになった

「藤堂と日向を一所にして、大和者共がとやかく申して来ると言うのか!?
もし我儘を言うものがあれば、公儀の命令を心得ぬ者どもは、一人でも二人でも踏み殺していけ!」

私はこの仰せを聞いて、家康公に直に申し上げた
「この上は、どんなことでも御意の通りに致します!」

すると家康公のご機嫌は治られた。御側に在った本多上野介(正純)がここで言った

「日向殿とあの時の藤堂殿を一所にして申すことはできません。今回日向殿は、上様の名代として
軍を率いるのです。ですので、もし我儘を言うようなものが在れば成敗されてかまいません。」

「忝い」と申し上げた。すると家康公が御意に

「良いか?今回は其の方に軍勢を率いさせるために申し付けたのだ。絶対に絶対に、
昔の一本槍の覚悟で身稼ぎをしてはならん!それは曲事であるぞ!」

と仰せられた。
(水野日向守覺書)

水野勝成、家康から大役を仰せつかるも最期に一言釘を差される、というお話。
家康はやっぱり勝成の事良くわかっているのですねw





家康公我に向かって発砲せる兵卒を許す

2013年05月08日 19:51

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 12:13:00.93 ID:97/v4Lob
家康公我に向かって発砲せる兵卒を許す

帯刀が喉が渇いたと言っているのに!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6770.html

大坂落城の日、上記の逸話の直後のお話

家康公は茶臼山へ登られたが、谷合から家康公めがけて鉄砲が
打ち込まれた。

お供の衆は大いに騒いだが小従人衆の三人がそこへ駆けつけ、
鉄砲を打ち込んだ者を見つけると、それは金笠をかぶった足軽
一人だったので、これを召し捕えて茶臼山へ引っ立てた。

本多上野介がその場に居合わせ、お前は誰の家来で只今鉄砲を
打ち出したのだと尋ねられると「私は本多上野介の足軽です。
上様とは存ぜず、敵と思い打ちかけました」と話すと上野介は
「言語道断不届きなる奴かな」と言い放つ。

家康公は小従人衆の方へ向かわれ「放してやれ放してやれ」と
仰せられたので足軽は追い放された。

上野介が「不届きな奴なので成敗しようと思っていた所、御意を
もって助けられ冥加に叶いたる奴です」と申し上げると、

家康公は「我らは本道ではなく脇道から来て、その上に持旗長柄等
も無かったのだから敵だと思うのも道理であり、足軽どもには罪は
ない」と仰せられた。

(近古武談)




219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 12:17:39.48 ID:c1R9hiqg
ここで万が一銃弾に当たって家康が死んでたら正純も切腹かね?

本多正純のこと

2013年03月18日 20:00

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 17:20:13.65 ID:dmvAtqb1
台徳院様の御時に本多上野介殿の身が果てたことについて、世上には色々と雑説が多く、
逆心の様に取り沙汰されるが論じるまでもないことだ。上野介殿は誠に忠臣というべき人である。

父佐渡守は智謀の深き人ではあったがいやなる人で、上野介殿はその子ながら父には似なかった。

権現様が最初に結城の秀康公を御立てになるべきか、台徳院様を御立てになるべきかと老中へ
意見を求めた時、佐渡守は「秀康公は一度太閤へ御養子になされ、結城の家を御継ぎに
なったのですから、天下は秀忠公が御継ぎなさるのが当然の理でございましょう」と申され、
老中はいずれもこれに同意した。

しかし、上野介只一人が「佐渡守の申すことではありますが、私は左様には思いません。
どのようであれ、秀康公は御長子でございます。只今までは太閤に御遠慮にてわざと御疎々しく
なされたといっても、御父子の情に変わりはないのですから、長子に御生まれになりながら、
庶子になられては御痛わしきことです。秀康公こそ御順道と思います」と申された。

その時、佐渡守が「悴は何を思って粗忽なことを申すのか!」と叱られると、上野介は座を立たれた。
結局は佐渡守の考えに極まり、秀忠公を御総領に御定め、秀康公は越前へ封ぜられた。
台徳院様はこの事を殊の外御遺恨に思し召された。

――『鳩巣小説』




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 21:46:50.73 ID:6bSE+HXy
秀康が西軍に着いちゃえば面白かったのになー

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 21:52:41.87 ID:4X1WrXap
秀康がもう少し長生きしたらな

本多正純の「それは誰ですか」について

2013年03月04日 19:51

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 23:17:06.96 ID:feui2987
本多正純の「それは誰ですか」について。

「『きっと、その人が申したことは何の役にも立たない可笑しいことだったので
上野介は誰なのか尋ねたとみえる。それゆえ佐渡守はとどめた。

佐渡守はその人が御前においても馬鹿げたことを申し上げたから、
その姓名を誰にも語らない心得でいて、子の上野介にも言わなかった。古人の篤実だ。

その時の父子の心得は違っている。佐渡守は権現様の言の御用のところを申したくて話したが、
それを聞く上野介(の心得?)は全く異なっていた』

そのように新井氏は古人の批判をされた。そこで私が、

『佐渡守殿がとどめたのは、きっとその様子を見ていたゆえの儀でしょうが、
只今推し量りますに、上野介殿も父に代わって権柄を取る人ですから、その人の名を聞いておき、
後には選挙しようと思っていたのかもしれない。

その人の志を奇特と感じて姓名を尋ねたのかもしれませんから、一概には言えないと思います』
と言ったところ、新井氏も『なるほど。それもそうだ』と言われた」

――『鳩巣小説、責而者草』




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 23:31:07.60 ID:QKVR9Pno
>>605
新井氏って新井白石かな?

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 00:53:48.72 ID:Tjz062dG
室鳩巣と白石は同門だっけな~
同世代だけど一緒にいたかは知らんけど

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 05:57:06.89 ID:n+2WfLfA
室鳩巣は武田信繁を再評価した人だという知識はあるが、
なんて読むのか知らないんだよねw

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 07:12:55.85 ID:qAbHI9m1
室鳩が名字だとおもったら室さんなのね

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 14:17:34.97 ID:YqyWQql3
>>605
それはそれで、諌言もどきをして栄達しようとする
不心得者が続出しそうな気がする。


捕縛後の三成

2013年02月12日 19:50

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:13:26.65 ID:+YqTz4/J
このことについては日付は忘れたが、関ヶ原の決戦のあと、逃亡した石田治部少輔(三成)を捕縛するよう
田中兵部少輔(吉政)に仰せ付けられ、田中兵部は近江の国北の郡を草を分けるかのように細かく探索したが
それでも行方は知れなかった。

或夜、吉政の宿舎の前を、夜中だというのに一人通るものがあった。
番の者がこれに気が付き、お前は何者かと尋ねると、台所に水汲みに行くのです、と答える。

「水汲みであっても、何者も通すことは出来ない!」

怪しいと感じた番の者達はこの男を取り囲み捕らえた。
その夜は小雨が降り、暗い夜であった。火を燈してこの男の顔を照らしてみると、
なんと、この者は石田三成であった。
この時のいでたちは、綾の茶の小袖、裏は浅黄。笠をかぶり腰蓑をして端折れの脇差を差していた。
この脇差を取って見てみると、これは吉光作の名物であった。

三成は大津まで連行され、そこで本多上野(正純)に預けられた。
この時三成は下痢を患っており、食事も殆ど取れず昼夜寝ていたそうである。

本多中務(忠勝)が見回りに来た時、三成と対面した。
忠勝は三成の前で畏まり、両の手を前について申し上げた

「治部少輔殿、あなたは分別を間違えたために、そのような体に成られたのですぞ!」

しかし三成は何の返事もせず、ただ寝ていたと言う。
これは本多正純の家臣で、三成の番をしていたものが後に語ったことである。
(慶長年中卜斎記)

慶長年中卜斎記より、捕縛後の三成の様子についての非常に興味深い記録である。







土井利勝、大久保忠隣・本多正純改易について

2012年12月17日 19:50

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 10:05:37.76 ID:bP7jvpZP
大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖より代々御当家に仕え、大功ある人々の子である。
然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。

この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと

「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。

それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。

今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。

そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」

その様に申されたという。
(武野燭談)

大久保忠隣本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である




江戸城および徳川秀忠のこと

2012年12月14日 19:51

775 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 06:02:36.12 ID:djwypYrW
『…(江戸に)到着二日後、皇太子(徳川秀忠)が海の長官(向井正綱)に、私を2度訪ねさせた。
秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。

あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。

主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。

隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。

第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。

第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。

厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。

その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。

壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。

我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。

776 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 06:03:22.59 ID:djwypYrW
皇太子(秀忠)は私を大広間で待っていた。その中央に段が3つあり、7歩ないしは8歩ばかり前方に、
床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。

私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。

皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。

私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。

以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)

1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。




777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 08:08:43.87 ID:wDwyjJQi
>>775
>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。

畳の説明が新鮮だw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 17:04:12.73 ID:qw3BQS3p
>>776
こういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな  同じだと思ってた

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 19:11:16.06 ID:YmFPR2w8
>>775
当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
[ 続きを読む ]

本多正純の廉潔

2012年12月10日 19:52

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 19:36:22.64 ID:DMf07Ddb
(1611年7月5日。この前日、セバスチャン・ビスカイノ一行は、駿府城において
徳川家康との会見を行った)

『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。

しかし、すぐに次のように言った

「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。

私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」

我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。

その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。

使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

本多正純の廉潔、についての記録である。




721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 19:44:45.55 ID:twLCN4Fg
この辺も正純と三成は似ているなあ

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 20:53:21.21 ID:S3kKq5Re
>>721
三成は普通に受け取ってるでしょ。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 21:23:14.71 ID:FULY31Rh
受け取った上で、大御所に報告するなり献上するなりすれば良かったのに

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 22:17:43.30 ID:mkdcHAvr
他国からの高価な贈り物だからな
報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 22:33:35.76 ID:0W2BG9LS
>>725
そう考えると受け取らないほうが悪い気がしてきた

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:44:58.04 ID:mkdcHAvr
なぜそうなるんたw
他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ