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去る七日、大阪落城致したので

2020年12月29日 17:58

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/29(火) 15:11:47.50 ID:udP4YAK5
元和元年の夏、秀頼が又叛逆(大阪夏の陣)をした事について、本多上野介(正純)より書状が
差し越され、『軍勢を催し、一報があり次第まかり登るべし』という内容を申し来たため、
その一報を待っていた所、上野介、駿河守(山口直友)より、卯月(四月)二十日の書状で
『五月の初めに到来するよう、早々に出陣するように』と申し越したため、
五月五日、島津家久(忠恒)は一万三千の軍勢を召し連ね、鹿児島を発し、領内の京泊という所から
出船し、肥前平戸に舟をかけた所で、駿河守方より、五月九日付の書状で、

『去る七日、大阪落城致したので、軍勢は残し置いて、手廻りばかりにて早々に罷り出るように』

と申し越した旨が、同十九日に到来した。そこで兵船を平戸より返し、家久は手廻りばかりにて
罷り上がり。六月二日、尼崎に着船致し、伏見に於いて権現様(徳川家康)に御目見得仕った。
行平の御太刀、正宗の御脇差、御馬ニ疋を拝領仕った。

同月二十七日、二条城に於いて舞楽を仰せ付けられた。七月朔日、御能が有り、同八日、
伏見の御城に於いて御能が仰せ付けられた。何れも家久は召し出され、見物を仰せ付けられた。
有り難き上意共であった。

島津家譜

大阪夏の陣における、島津の遅参について



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/29(火) 16:11:07.65 ID:IlJRnCay
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5369.html
この逸話では島津義弘が天文を見ながら「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る
自分が城中にいれば」
と嘆いてるけど、とてもそんな様子じゃないな
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禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす

2020年12月26日 18:29

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:46:43.11 ID:1Nc7UExF
蘭奢待は信長以降だと『当代記』(寛永年間)、『新武者物語』(宝永年間)によれば、徳川家康本多正純大久保長安を派遣し
正倉院宝庫の調査を実施したが、実際には切り取らなかったといわれているが・・

近衛信尋本源自性院記』寛永5年10月1日条に「嶋津家久を訪ふ」、「禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす」とあるそうで、
これはいつのものになるんだろうか?




西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より

798 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:48:31.14 ID:1Nc7UExF
本源自性院記』のこの蘭奢待の記述は、テレビの「なんでも鑑定団」で取り上げられたこともありましたね、そういえば。



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/26(土) 20:10:46.33 ID:IA6pxhFd
家久が京都に留学して公家と仲良くなってたよな
アレは何のためだったんだろう?

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 00:49:30.72 ID:MrQcvooJ
伊勢参りの話か

807 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/31(木) 11:35:21.92 ID:dvxsBnop
>>798
これは、「なんでも鑑定団」に自分は蘭奢待を持ってるって出場者がいて、肝心の鑑定結果は贋物(香木としては本物)という顛末でした。
その番組中に天下人以外でも入手した例として、本源自性院記の記述が紹介されたとのことです。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:18:33.20 ID:VGYMyiZN
>>797
史上に切り取った記述があっても、その時切り取った分の全部が下賜された、とは書いてないので、
下賜した分と別に宮中にストックされてるんじゃね?

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/01(金) 02:25:15.50 ID:fcuIiM/Y
>>809
明治の時のは粗方下賜してしまったらしいが、殆ど小さい粒状か髪の毛の様な細く刻んだものばかりだったとか。
そういやある茶道家元所有の蘭闍待もそんな感じだった。
貴重過ぎて大きく刻めないのだろう。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 09:49:01.48 ID:Zpts00sW
蘭奢待といえばあの糸川英夫が香りを全化学合成しようと研究してたってほんとなんだろうか

『駿府記』より、大阪冬の陣の勃発について

2020年09月24日 18:35

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

駿府記

大阪冬の陣の勃発について。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

『当代記』より、岡本大八事件について

2020年09月01日 17:48

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/01(火) 12:59:56.15 ID:xeG/Ao3Q
慶長十七年三月二十三日、岡本大八という者、親は江戸に在住していた。
この大八は九州長崎の有馬修理(晴信)を駿府に於いて取り持つ物であった。

彼は有馬修理に、修理方より金銀を差し越され、これを各年寄衆、并びに女房衆に彼の取成しを以て
遣わせば、九州鍋島の知行地のうち三ヶ所を申し請けることが出来ると有馬修理に対して偽りの報告をし、
有馬はこれを真と心得、金銀を大八方に渡した。
しかし素より偽りの謀であり、何の沙汰にも及ばなかった。

有馬修理が、大八が金銀を得て私に領した事を言上すると、この二十三日に安倍川原において
火炙りと成った。

(中略)

大八罪過の砌、大八は
「大御所に従い、長崎で唐船の糸やかれこれについての使いとして遣わされていた長谷川左兵衛(藤広)を、
有馬修理は闇討ちしようとした。」と白状した。

このため有馬修理は大久保石見守(長安)に預け置かれ、その後甲斐国郡内に遣わされた。
彼の子息である左兵衛(直純)は、この科に関係がないとして、有馬家の本領は安堵され
前々のごとく長崎に居住した。

五月七日
有馬修理(九州長崎主)は去る月より甲斐国都留郡に置かれていたが、「殺害に至るべし」と
大御所よりの命が下った。

当代記

岡本大八事件について



人々が因果であると申し習わすのも

2019年01月29日 21:33

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/28(月) 22:54:14.43 ID:NfnBdDvr
又々ここに不審な事がある。犬打ち童に至るまでの人々が、本多佐渡守(正信)が、大久保相模守(忠隣)を
讒言したのだと言っていることである。
そのような事、人が知るはずもない内容を申している

そもそも本多佐渡は相模守の親である七郎右衛門(忠世)の重恩を受けた者であり、恩を忘れてどうして
そんな事をするだろうか。それは事情を知らない人の無責任な噂に過ぎない。
相模については、子の主殿を初め我々こそ知らないまでも、きっとその身の科も深かったのであろう。
その上であっても、佐渡が讒言するようなことはゆめゆめ有るまじきと、今においても思っている。
町人や民百姓まで正信が讒言したと申す理由はどう言うことかとも思うが、そういう事も有るかと、
不審では有るが、ともかくよく解らない。

佐渡について、若い頃はむごい人物だという評判はあったが、歳も寄り定めてその心も直ったのだろう。
佐渡守が若い頃には、七郎右衛門が朝夕の食事の援助をし、その女子供に対しても塩、味噌、薪に至るまで、
同じく援助し、彼が御敵を申して他国へ駆け落ちした時も、女子供を援助し、その後家康公へ御詫言を
申し上げて帰国し、先ず隼鷹匠と成り、その後色々と取り成しを申し上げ、四十石の御知行を申し受けて
出仕したが、その後も援助した。

このため、佐渡は年末年始には必ず、嘉例として大晦日の飯と元三(正月三日)の飯を七郎右衛門の家にて
喰った。関東へ移った後になっても、江戸にてその嘉例を続けたほどの佐渡である。どうしてその恩を忘れる
だろうか。

七郎右衛門が果てる時も、佐渡守を呼んで遺言に、相模に不沙汰無きようにと頼み入って果てたのだ。
その時も佐渡は七郎右衛門に向かって、「どうして不沙汰などしましょうか、御安心あれ。」と、しっかりと
申したというのに、その心を引き違えて讒言するようなことが有るだろうか。

昔は因果は皿の縁を巡る、などと言っていたが、今は巡ること無く直ぐに向こうに飛ぶようだ。
今においてはどうかとも思うが、人々が囁いている事は、そのように思われる。
良い因果は報われても見えにくく、悪しき因果が悪しく報いるのは見えやすい。そういう事であろうか。

佐渡は相模守御改易の後三年も経たずして顔に唐瘡が出て、顔崩れ奥歯の見えるほどに成りそのまま死に、
子である上野介(本多正純)は、御改易となり出羽国由利へ流され、その後秋田へ流され佐竹殿に預けられて、
四方に柵を付け堀を掘って番まで付けられた。人々が因果であると申し習わすのもこれでは仕方がないかも
しれない。

相模守の御改易も、大うす(デウス)御大事の御仕置きと有って京都に召し遣わされ、その後御改易となり、
また上野介御改易の時も、最上の仕置すべしと仰せ付けられ召し遣わされて、その後にて御改易を
されたのであるから、同じような状況であり、故に「讒言申した因果の報いか」と、世間にて犬打ちの童まで
申したのだろう。

(三河物語)


心中では上野介をいかばかり

2017年12月16日 09:57

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 06:32:33.16 ID:X70udXRS
南葵文庫の蔵書によれば、福島正則は死ぬ7日前に刀・脇差・金銀の
目録を作って遺物の分配を定めた。

この事を取り扱ったのは上月文右衛門である。この人は広島で2千石を
領した物頭である。その目録の終わりに、

“右の公儀及び御旗本衆まで分配致すのも、市之丞(福島正利)のため
である。私めのためではない”とある。そのいかに子孫を思う情の厚き
人であるかと知ることができよう。

正則は遺書を記して分配品の目録を作ったが、その中に正則ともっとも
懇親の間柄だった本多上野介への遺物がない。本多の同役たる土井・
酒井・阿部などへはそれぞれ遺物がある。これは甚だもって不審である。

『健斎自言』に、正則の配流というものは、まったく本多上野介の姦計だ
との由が記される。上野介が友を売り、君を売り、もって自己のためを
謀る人物であること世説に定評がある。

よって、その事をよく調べると『福島没落記』という古写本がある。正則の
没落より79年目、宝永2年に肥前大村藩主・大村因幡守純長が筆記した
もので、老人の物語を聞き記したという奥書があるため、正則の没落を
見聞した老人の話に拠ったものであろう。それによれば、

“広島城が洪水で大破に及んだため、正則はかねてより昵懇の上野介へ
相談に及び、破損の場所を普請致したい由を上様へ言上頼み入る旨を
申し出た。

上野介が申すには少しの普請は言上に及ばず、内証にて致すべしとの
指図である。正則はなおも御目付・竹中采女(重義)へ、上野介はかよう
申されるが、しかし念のために他の老中へも

御話致したほうがよろしいかと尋ねた。采女は答えて、上野介御承知なら
他の御老中へ申すに及ばず、上野介は今御威勢至って良く、この御方の
申される事に誰が否と申すだろうか、と言った。

正則はこのため他の老中へは申さず普請致したところ、上野介は佞人で
正則は天下の御大法に背き、城普請仕り候と申し上げたため、御改易
となってしまったのである。

広島へ城を受け取りに参った衆中は「僅かな普請である。これ式の事で
両国を召し上げられることは、いたましいことだ」と申されたという。”

しかるに正則は御咎めを受けた折、流石は武士なれば上野介の指図にて
仕り候とは言わなかった。涙を呑んでそのまま御受け申し上げて大人しく
両国を差し上げたが、心中では上野介をいかばかり恨んでいたか計り難し。

――『福島正則伝』




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 07:04:04.11 ID:Rz51mSaN
>>411
最後の思い出に一杯やったんかな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:43:40.61 ID:tVG1WpAW
>>411
実際は無届けで修理してたんだから正純にとってはとんだ風評被害だな。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:55:14.70 ID:qlVFd2SG
>>413
葵三代だと、家光政権下で正純は干されかけてて、話を通してても意味が無かった、って解釈になってたな

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 10:21:27.09 ID:tVG1WpAW
>>414
さすがに古いから今の通説とは真逆の話(猪熊事件)とかもあるけど、あれは良い大河だった。
微妙な内容は視聴者に判断を委ねたり、何をやってもうさんくさく見える津川家康の名演とかね。

話を戻すと正純は家光が将軍になる前に失脚しとるので、秀忠の代の話ですな。
取次を務めてる大名は多かったけど、権勢は確かに土井利勝などの秀忠側近へと移ってますね。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 21:48:10.32 ID:yZGRFt92
それなら本多派の福島を土井らが陥れたとも言えるな
土井らへの遺品分配は付け届けとも取れる

最早五十万石を領知する者は

2017年12月13日 19:35

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 



506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

彼は既に死人同然

2017年08月19日 21:02

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 21:00:53.48 ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)


ともかくも仰せには

2017年08月11日 17:29

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』


今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

上野介、良く聞け。

2017年02月08日 10:34

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 21:02:00.89 ID:4ith6HzQ
本多佐渡守正信がある時、子息上野介正純に言った

「逆心は天命に背くと知りながら、北条義時が主君の後を断絶し、己が威を逞しくし、
天子を改めるなど、無双の悪逆を行いながら、時の勢いにてこれに与するもの多く、九代天下を
保った。
その後も北条の業績を真似る者はあったが、北条ほど事を謀るものは無かった。

細川勝元が先祖頼之の業績を学ばず、遠き北条の後を追い、応仁の乱を引き起こした。
これは細川、山名が威を振るったためである。であれば彼らが志を立てて名を揚げたかと言えば、
そうではない。共に死亡して、あまつさえ将軍家の武威を失落させた。

上野介、これを思え。
勝元がたとえ逆意を振るっても、その子政元に忠義が有れば世は治まったはずだ。
しかし政元はますます驕りを極め、将軍義材を退けた。
この君が悪主であったのなら替える例もあるだろう。しかし義材には武道尊氏の風格あり、
六角高頼を退けた時は、足利家は昔に帰るかと言われたとか。
それなのに政元はこれを廃して、幼主義澄を伊豆国より申し上らせ、己が威を恣にした。
彼も父に劣らぬ不忠至極の者である。よってその身も終に滅びた。

上野介、良く聞け。
武家は軍法、武備を諸道の根本としている。軍法と言っても戦をする事ばかりではない。
軍法とは常の備えである。善政は勝ち、悪政は負ける。勝ち負けの根本は国を治めることにある。
例えば、樹木の根が深く入り能く栄えているためには、まず根本を培う事が大切である。
それから段々と成長するに従い、養いを能くすれば、枝葉栄え、花咲き実も多く成る。
少々枝を刈り取ったところでその樹の本体が痛むことはない。
このように、天下国家の基本となる大法を取り失わない事が肝要である。

士農工商は天下の四民であり、そのうち士において、家の老職を仕る者は、農工商を以て
木の根を培うように、これを慈しむべきなのだ。
諸士は木と同じであり、合戦の仕方は枝葉と同じである。そして勝ち負けは花や実に等しい。

基本を失ってはならない。基本というのは忠信を成すことであり、そこから諸事は出るのだ。
おおよそ、忠を成すにも色々とある、身を以て忠を致すもあり、心を以て忠を尽くすもあり。
家老、侍大将などの忠は、主人の前には一月に一度も出なくても、一筋に忠を以て君を守護し、
政道順行を以て君の英名を高くするのを、良き家司と言うのだ。

また、忠ににた不忠がある。
例えば石田三成は、非常に上慢な人物であり、大風雨の夜など、御城廻りの破損の状況を逐一
見て回り、明けて卯の刻(午前6時頃)には報告した。御普請奉行からの報告は巳の刻(午前10時頃)
であった。
これは一見、その職の責任感より生じた、分別ある行動に見えるが、実際にはその家、その家中のために
成っていない。

人は心入こそ大切である。一言の情に一命を惜しまないのは、士が義を知るが故なのだ。
とりわけ老臣は、心入一つの者であり、忠義を心にかけて思う時は、自分の位階、職分、身代より
心を引き下げるべきである。
私は佐渡守にして頂き、重用していただいているが、元来愚痴暗鈍の者であり、多くの御慈悲により
今日までつつがなくご奉公することが出来たのだ。
その方もお側でお言葉を伝える役目を務めているのだから、後々重用されるだろう。しかし驕る心が
少しでもあれば、それは不忠、不孝の至りであるぞ。」

(武野燭談)



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 15:10:50.62 ID:p76OzpPh
主君に仕えるには忠心一番でいいかもしんないけど問題は家臣同士の争いだよねー
隙を見せると足下すくわれるからなあ

小身の益、大身の損

2016年05月09日 21:04

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 22:18:00.14 ID:42bWAfDU
徳川家康が遠州浜松に在陣していた時、或る夜、本多正信、並びに外様の者三人、御用の事あって
御前に召し出され、御用済み、三人は退出しようとしたが、その内の一人が御前において、鼻紙袋から
書き付けた物を一通取り出し、家康にそれを差し上げようとした。

家康は尋ねた「これは何か?」
この者答えた「日頃、私の存じ寄りたることを書き付けて置きました。憚りながら、万に一つも御心得にも
成るかと思い、ご覧に入れ奉るのです。」

「それは奇特な心入である。」家康は感心し、「佐渡守(正信)は聞いても苦しからず。
そこにて読んで聞かせよ。」

そこでその者は、数箇条あるものを一つ一つ読みあげた。家康は彼が一箇条読むごとに、「尤もなる事」と
返事をし、「その書き付けたものをここに」と取り寄せ

「これに限らず、今後も思ったことが有れば、少しも遠慮なく申し聞かせよ。」と言うと、この者
「お聞き届け遊ばし、有り難く存じ候!」と感動して御前を下がった。

その後には本多正信一人残ったが、彼は家康に言った
「さてさて、彼の者は卒爾な者です。彼の言ったことの内、一箇条も御用に立つと思えるものは
有りませんでした。」

しかし家康、手をふって
「いやいや、さして用の立つほどのことはないけれども、その身相応の思案を尽くし、内々に書付け
私に見せようと言う志は、何よりも奇特なることである。その言葉が用に立たぬのなら、用いねば
いいだけの話であり、卒爾などという事ではない。

総じて、身分の上の者も下の者も、我が身の過ちは知らぬものである。されど小身なる者は、心安き
友達傍輩などがあり、互いに身の上の悪事を言って、吟味もするほどに、気がついて改める事も多い。
これは小身の益である。

一方、大身なる者は、そういった事もなく、家臣たちは追従するばかりで、大方のことは尤もとしか
言わないため、我が身の過ちを知るすべがない。これは大身の損というべきであろう。

古より富貴なる者で、国を失い家を滅ぼすのは、大抵は自分の過ちを申し聞かせる者がなく、自身のことを
宜しきとばかり思う故である。
であれば、自身の悪を言い聞かせるものは、大切に想うべきではないか?」

正信はこの時家康から聞いたことを、後日、嫡子上総介(正純)に聞かせ、上がご思慮の深きに加え、
御仁厚成ることを申し、落涙に及ぶのを、上総介は聞いて

「で、その人は誰で、申し上げた内容はどんな物だったのでしょうか?」と聞いた。

佐渡守は怒り叱りつけた
「この話はな、ただ上の思し召しの厚さを承るのだ!その他のことをお前が聞いてどうするというのか!?」
そう言って言った人物や内容は、遂に言わなかった。
これは、上総介が若年故に、その人を侮る心があるのを佐渡守が察し、それを抑えようとしたのである。

(新東鑑)



707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:04:02.90 ID:0CFR/PL/
無能な働き者って言葉が浮かんだんだけど

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:39:50.85 ID:SIIba21c
家康の言葉が見えてますか?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:10:47.14 ID:saQw9OQd
この話は前にも出てたけど、これが一番まとまってるな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:17:21.93 ID:vl+MZ50d
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1251.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7344.html?sp&sp
正純といえばその話、ていう定番逸話だと思ってた

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 10:04:02.61 ID:6/81B7mK
この人でいい話あるん?悪口ばっかやん

片桐且元の「十一ヶ条」

2016年04月12日 16:37

516 名前:1[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:09.37 ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517 名前:2[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:36.34 ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」

518 名前:3[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:56.35 ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。



死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじ

2015年10月20日 10:06

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 06:59:49.20 ID:TfHHbej3
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川家康の御前において本多上野介(正純)がこんな事を言った

「木村長門守(重成)の討ち死には早かった。せめて7日まで生きていれば、秀頼公を連れて参っただろうと、
佐渡守(本多正信)も申しておりました。」

これを聞いた家康は何も感想を述べなかったが、非常に機嫌の悪い様子であった。

また正信はこんなことも言ったそうだ
「木村重成によって佐竹家の渋江内膳が討ち取られたのは早すぎた。三弥(本多正重)はどう思うか?」

これに本多正重は答えた
「いやいや、死にたくて死ぬバカはいないだろ。」
(いやいや死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじといはれし)

(武功雑記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 07:44:32.09 ID:MCiCx0uG
最後のは正信じゃなくて正純だろうな
正純は失言が多いって印象付けしてんのかしらん

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 17:32:29.27 ID:GQyXHJc6
「木村長門と佐竹家人の渋江内膳の討死は早かった」じゃないかな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 23:29:01.93 ID:YdwXRHRU
前者と後者は違うエピだからそうだな。。。
指摘してて間違ってたな サーセン 

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 07:36:05.72 ID:2CfP03AX
切腹を申しつける!でゴザル

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 09:52:26.83 ID:NJU4BYQk
泣いて馬謖を斬るでゴザル

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 11:46:50.92 ID:k4uaGpXi
ノッブ「バザールでゴザール」

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 19:50:03.53 ID:nHOmSxEM
乙坂家秘伝のピザソースでゴザル

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:42:07.57 ID:TiZG/uFK
いやぁ~乱世乱世!17世紀始めの大坂の話でゴザルよ。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 23:47:17.98 ID:zMeGdL5U
訳わかんねーこと言ってんじゃねー

本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由

2014年10月02日 18:53

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:48:53.33 ID:qh3k8BE1
関ヶ原の後、石田三成が捕縛されてからの東軍諸将との逸話は
人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。

本多正純石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)

黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話

関連
本多正純、石田三成を尋問す



清正を褒められたものではない

2014年09月21日 14:47

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:00:27.88 ID:rTETO/zD
徳川家康が、二条城で物語をしていた折、「現在天下には、加藤肥後守清正に及ぶものは居ない」と発言した。
この時、本多佐渡守正信は例のごとく空寝していたが目を見開き、「殿はどなたを褒めたのですか?」と
尋ねた。家康はこれを聞くと
「加藤肥後の事だよ」

「加藤肥後…?それは太閤の時に虎之助と言っていた小倅のことですか?」

家康呆れたように
「肥後の事を知らない者がおるものか!」

「いやいや、それがしも年老いまして、もの忘れすることの迂闊さよ。
されど、殿が信玄謙信を始め数多の名将を御覧し尽くされてきたその御目で、加藤などのことを
褒められるのはどうしてでしょうか?
それにしても加藤にとってはこの上なき名誉なことです。」

「肥後のことは、私はよく知っている。現在、彼に西国のことを任せておけば心安いのだが、
彼には一つ疵があるので、ひたすらに頼むというわけにはいかないな。」

正信、驚いたように
「疵?それはどういうものですか?」

「肥後は、ものに危うき心がある。今少し心落ち着けば、実に彼に立ち並ぶ人物は居ないであろう。」

「なるほど、仰るとおりです。危うき心があって剛気に過ぎるのは大いなる疵です。
武田勝頼にもそのような癖があった為に、ついには国を失いました。惜しむべきことです。」

この座には京の商人などが陪席していたのだが、彼らが後に、この会話の内容を清正に告げ伝えた。
清正はこれを聞くと
「さては家康公は私を、心危うき者と考えられているのか。」
そう思い、これより物事を慎重にするようになった。

後年、本多正純がその父正信に、この事を尋ねた事があった。
正信が語ったことは
「これは実際には、清正を褒められたものではない。その頃は当家草創の時期であったから、
清正がもし鎮西の人々を糾合して秀頼に与党せしむれば、由々しき事態となったであろう。
しかし、殿の『彼に危うき心がなければ』との一言が、彼には何となく心の重石になって、生涯過誤無く
果てた。これは家康公の御智略の深遠であり、凡慮の計り知ることではない。

それを何だお主は、言葉の表面の意味だけだと思って私に問うてくるとは。お前は知慮が浅い!
その心では天下の機務を執る事など出来ないぞ。よくよく工夫せよ」と諭したのである。

(駿河土産)




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:11:22.12 ID:fqb2tt9n
>例のごとく空寝していたが
酷いw

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:18:14.41 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5243.html
これにもあるけど、狸寝入りが正信の助言スタイル

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:19:29.43 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2264.html
実際有名だったようだ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 23:04:46.23 ID:+P9ZyDx6
>>316
清正公は警戒されてたんじゃな。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 01:36:52.79 ID:agaXous5
ちょっと調べてみたら駿河土産にこの話がないっぽいんだが、マイナーな写本出典とかなのだろうか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:01:19.18 ID:Lpg/YPD5
>>321
『東照宮御実紀附録』巻十二に出典駿河土産で出てる

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:10:36.91 ID:agaXous5
>>322
おおそうか。ありがとう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 09:03:52.19 ID:sarunVYn
安定の親父のオチ要員な正純w

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 14:02:19.69 ID:QiJaL7ae
>>316
名将の例として真っ先に信玄謙信が出てくるんだなぁ

松平忠輝のご乱行

2014年03月06日 19:10

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/06(木) 00:25:26.40 ID:v/CCyRB7
元和元年(1615)8月5日、上洛を終え関東に戻る途中の大御所・徳川家康は、近江の水口でこのような話を聞いた

「今回、越後少将(松平忠輝)が上洛の時、森山草津あたりにおいて、幕府御家人である
長坂某、伊丹某と不慮に行き会い、理不尽にこれを殺した。」

家康はこれを聞くと、奇怪の事ゆえたちまち不快な表情になり、本多上野介(正純)を呼んで
その仔細を問うた所

「そのような風説はたしかにありますが、詳しいことは私は存じません。」

そこで家康は近江の代官である長野内蔵充、小野宗左衛門、観音寺を呼び出し、

「お前たちは事件のあった近辺にいる。必ずこれについて知っているはずだ。」

と聞くと、彼らは

「少将殿(忠輝)がこちらにお出でになるということを知らず、長坂某と伊丹某は行き会ってしまったのですが、
この時彼らの前駆の者達が、少将殿の御前を乗打するような形になってしまったのです。
そのため『狼藉、曲事である!』と言われ、彼らを殺しました。」

と証言したという。

(駿府記)

いわゆる、松平忠輝のご乱行についての記録である。





豊臣秀頼による弁明と、家康の反応

2014年01月06日 19:05

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 10:16:55.81 ID:syN1rPCO
豊臣秀頼が片桐且元を襲撃したとの報を聞いた徳川家康は駿府を出立。10月19日、美濃国岐阜へと
到着した。ここで徳永左馬助が到着し、豊臣秀頼からの書状を家康に披露した。
その内容は

『今度市正(片桐且元)がこの秀頼に対し様々な不届きが有ったので、かれを折檻に及んだ所、
大御所は以ての外に御立腹になり近日御出馬あるとのこと。まことに以って理解の出来ないことである。
何故なら御両所に対し、秀頼は毛頭野心など考えていないからである。この旨を申し上げていただきたい。

10月9日  秀頼(黒印)』

これを本多上野介(正純)が申し上げた所、家康はこう言われた。

「秀頼は若輩であるから、織田有楽や大野修理たちが様々に陰謀をめぐらしてそれを提言しているのだろう。
秀頼の意向は解っている。去る3月、大野修理より加賀肥前守(前田利長)の元へ一通の書状が遣わされた。
その内容はこういうものだった。

『秀頼は全ての才覚が日を追って増進しており、時分はこの時です。早々に上洛され、
秀頼のご指南をなさって下さい。
兵糧に関しては、大阪には福島左衛門大夫(正則)の元に3万石、秀頼の蔵に収めてあるものが7万石、
その他商売のための米穀が数多あります。
あなたお一人の指導を承ります。』

この書状は利長の死(6月27日)後、子息の筑前守(利常)より本多上野介を通して提出された。
大阪に別心があることは必定である。どこにそれを疑うべき点があるのか。」

また島津陸奥守(忠恒)、毛利宗瑞入道(輝元)、鍋島加賀守(直茂)、黒田筑前守(長政)、
福島備後守(忠勝)、松平武蔵守(池田利隆)、同松平左衛門督(池田忠継)、同宮内少輔(池田忠雄)、
浅野但馬守(長晟)、蜂須賀阿波守(家政)、加藤左馬助(嘉明)、森美作守(忠政)、田中筑後守(吉政)、
生駒讃岐守(正俊)、その他中国西国の人数数万人が、大阪表に押し寄せるよう、本多上野介に命じた。

(駿府記)

大阪冬の陣が起こる直前の、豊臣秀頼による弁明と。それに対する家康の反応である。






宇都宮の事件、実は

2013年08月14日 19:55

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 08:22:17.86 ID:7ccVNWd2
本多上野介正純滅亡の事であるが諸記録には「遠慮の事ありて記しがたい」
とありその理由を知ることはできない。

古老の伝説では秀忠公が日光御社参の時に正純の居城宇都宮にお泊りになる
予定であったが、上野介が逆意をもって御湯殿に落とし穴を設けて秀忠公を
弑し奉るたくらみが露見した。

秀忠公は密かに酒井雅楽頭(忠世)のみをお供にして引き返され江戸城へと
お帰りになり、松平下総守(忠明)が秀忠公の御装束を着て代わりに御社参し
上野介を謀ってこれを捕えて流刑にされたと言う。

(翁草)

宇都宮の事件は落とし穴だったと言う異説である。

なお翁草の筆者は他の説も併記しつつ、どの説も裏付けが取れなくて怪しい
んだよねぇとか身も蓋もない事を書いてたりする。




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 13:49:58.55 ID:t/giXINN
>>158
してその古老の名はなんと

それは曲事であるぞ!

2013年06月29日 20:00

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 21:56:17.04 ID:WzbYBEfU
(大阪夏の陣が始まろうという時、二条城の徳川家康は伏見城にある秀忠からの使い、土井利勝と
酒井忠勝が到着したのを受け、本多正純、安藤帯刀、成瀬隼人らとともに、合戦の軍議を行った)

その日の晩、灯火をつける時分の事である。「日向に御用がある、お城に上がるように」
との上使が下されたので、私(水野勝成)は早速二条城に登り家康公に御目見得をすると、
膝近くまで寄るように、との御意なのでお側まで近づいた。

この時家康公が仰せになったのは、
「藤堂和泉守(高虎)に一番備、並びに伊井兵部(直孝)に二番備を申し付けた。
そして其の方は大和口より押し立て、この両人とその先で合流せよ。
そのため大和衆を其の方の旗本に申し付けるので、召し連れて行くように。」

私は、これを聞いてこう申し上げた
「去年(大阪冬の陣)、私は堀丹後(直寄)を召し連れて参陣いたしましたが、今回も同じく
堀殿に申し付けて頂けますか?」

「宜しい。丹後を召し連れて行くがいい。」

この時私は、去年の大阪冬の陣で、大和衆は藤堂高虎の麾下を仰せつかったのに、彼らは高虎を侮り、
仕寄りの時など高虎の言うことを聞くものがおらず、命令を聞かせても何かと我儘を言って
少しも役に立たなかった、ということを知っていたため、このように申し上げた

「私は藤堂高虎よりも小身であります。であれば私の言うことを、大和衆は聞かないでしょう。
ですのでこの仰せをお請けいたしても、もし前線で役に立たなければ、両御所様の御意に違う
結果となってしまいます。」

家康公はこれを聞くと殊の外機嫌を悪くされ、このように仰せになった

「藤堂と日向を一所にして、大和者共がとやかく申して来ると言うのか!?
もし我儘を言うものがあれば、公儀の命令を心得ぬ者どもは、一人でも二人でも踏み殺していけ!」

私はこの仰せを聞いて、家康公に直に申し上げた
「この上は、どんなことでも御意の通りに致します!」

すると家康公のご機嫌は治られた。御側に在った本多上野介(正純)がここで言った

「日向殿とあの時の藤堂殿を一所にして申すことはできません。今回日向殿は、上様の名代として
軍を率いるのです。ですので、もし我儘を言うようなものが在れば成敗されてかまいません。」

「忝い」と申し上げた。すると家康公が御意に

「良いか?今回は其の方に軍勢を率いさせるために申し付けたのだ。絶対に絶対に、
昔の一本槍の覚悟で身稼ぎをしてはならん!それは曲事であるぞ!」

と仰せられた。
(水野日向守覺書)

水野勝成、家康から大役を仰せつかるも最期に一言釘を差される、というお話。
家康はやっぱり勝成の事良くわかっているのですねw