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「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

2023年03月28日 19:54

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:17:16.21 ID:Kg+NQ/Y7
「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:50:17.66 ID:Kg+NQ/Y7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱


「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている



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「本庄正宗」由来

2021年07月28日 18:28

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/28(水) 16:45:08.06 ID:PxtMUnPr
天正十六年(1588)八月、出羽国庄内における十五里ヶ原の戦いで、上杉軍の本庄繁長
東禅寺義長を討ち取った。この時、義長の弟である東禅寺右馬頭(勝正)は敵中を斬り抜けていたが、
そこで義長の討死を聞いて、涙を流して申した

「私が多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃げ延びたのは、夜中でもあり、屋形(義長)の
討死を知らず、屋形が生存していれば、重ねて人数を催し、本庄を討って再び庄内の地を踏み、
本意を達しようと思ったからである。しかし屋形が討ち死にした以上、我一人、生きて更に益なし」

そう言って取って返した。その頃、本庄繁長は戦勝後の首実検をしており、右馬頭は旗も前立も
相印もかなぐり捨てて、黒糸縅の鎧を着、右の手には抜き刀を持ち、左の手には六十二間の星釜、
全小札三枚下りの錏(シコロ)を付けた首一つを掲げて、敵の備えの中を押し分けて通った。
これを咎むる者があれば「越前守(本庄繁長)被官なり!大浦民部が首を取って、実検に参り候!」
と言って、難なく繁長の旗本へ来ると、越前に呼びかけ、「高名致し候!」と言いながら近寄り、
その首を本庄に投げつけて

「東禅寺右馬頭!」

と名乗り、三尺八寸の太刀を以て、本庄の直額を、割れよ砕けよと二打打った。

しかし本庄繁長は勝って兜の緒を締めて、首実検をしていたため、兜は斬り割られず、左の
吹き返しが斬り割られ、さらに眼尻より顎にかけて斬り付けてきた。
本庄は素早く側に横たえてあった薙刀を追い取り、床几を少しも去らずして、右馬頭を跳ね返し、
脇より立ち会い、右馬頭が起き上がらない内に斬り殺した。

本庄はそのまま再び首実検をし、首帳を認めさせ、凱歌の儀式を執り行い、武名を世に高くした。

右馬頭の刀は相州正宗であった。これを本城は上杉景勝公へと差し上げた。
その後、これは景勝から太閤秀吉に進じ遣わされ、太閤より又、権現様(家康)へ進じられ、
現代は紀伊頼宣卿の元に、『本庄正宗』として所蔵されている旨を承っている。
しかし「寸長し」として、今は二尺五寸に尾磨り上げられたとも伝え聞いている。

管窺武鑑

「本庄正宗」の由来について



358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:39:09.52 ID:tRsnVVM2
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/36/15/22/src_36152261.jpg
src_36152261.jpg

現在、かつての本庄氏の本拠地、現在の村上市・村上市郷土資料館にこのときのものと言われる本庄兜が所蔵されている

>兜は斬り割られず、左の吹き返しが斬り割られ

とはあるものの画像をご覧の通り、額右上側に星(トゲトゲ)が崩れた部分が見て取れると思う
ここに刀を受けたらしい

なお画像内解説文の上州八幡銘は、現在の群馬県高崎市八幡(やわた)町の職人ではないかとみられる
上州職人による上州兜と呼ばれる逸品は、上杉、武田共に愛用されている


金沢市の加賀本多博物館にも本庄兜と呼ばれる派手目の当世兜が伝来する
これは本庄長房が本多政重のもとに一時仕えた折に置いて行ったのではないかとも推測されている

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:46:14.65 ID:tRsnVVM2
おっと、甲冑用語としては上州兜っていうか上州鉢でしたね

直江兼続の愛の兜もこの上州八幡の上州鉢で、現存する銘入り上州八幡は三つしかありません



360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/29(木) 18:32:42.26 ID:vKpBEX+E
勢力圏内だった順番に上杉、武田、北条で職人に発注してたってことですかね?

大名家他に伝来して現存するっていうと上杉家以外はどういう残り方してんのか、研究者の方々に聞いてみたいところ。

五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。

2021年07月27日 17:10

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/27(火) 15:44:16.93 ID:IgnKSJfC
天正十五年の本庄繁長による庄内の尾鐺攻めの時の事について、本庄は夏目舎人助に物語された。

「尾鐺において攻め合いの際、最上方である上山田がこちらに内通し、堅く申し合わせたが、
必ずしもこれを頼りにしなかった。戦国の最中では、こういった軍略は敵味方ともにあるものだ。
『我を欺くべし』と深く企む心根は、不明の智では知り難い。世間の約束などは、手のひらを翻すような
ものであり、思い定めた志でさえ変わることもあるのだから、上山田が内通を悔いて取りやめる可能性も
ありえる。しかしそういった事を疑っていては、出勢することも合戦することも出来なくなってしまう。

こういう所をよく思案し、予定通り上山田が裏切れば、勝利は手中にしたようなものであるが、
万一これが、上山田が越後勢を討つための詭計であったならば、これこれの武略を以て変を打ち、
それに勝つための備えを定め、五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。
これこどが誠に、危うからざる戦法である。」

この事を夏目舎人助は訓戒されたのだと、後に私(著者・夏目軍八定房)に伝えたのである。

管窺武鑑



越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事

2018年02月19日 17:52

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 19:10:30.83 ID:Z9pD70Ir
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」


重任は威が無ければなしえない

2017年06月02日 17:23

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 21:44:12.63 ID:aKCPlR46
>>815
どちらかというと徳川八万騎+親藩+徳川寄り諸藩連合に勝てるかって話じゃね?

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 23:06:55.47 ID:geu/lSHb
>>818
長州藩「旗本八万騎www」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:49:54.44 ID:10fH6c15
偽官軍だってw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:25:08.35 ID:4Ghf+TWg
奥州十万騎

「松川合戦 政宗福島城を攻める事」および東国太平記について

2016年11月15日 21:29

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:40:54.84 ID:GNgMpSHW
東国太平記巻之十五
「松川合戦 政宗福島城を攻める事」
政宗は度々上杉に打ち負かされていたため無念この上なかった。
前年七月に江戸から中沢主税が(家康によって)遣わされ「この度は景勝と合戦することはならん」
と堅く制止されていたのだが、慶長六年四月十七日、片倉景綱、伊達成実、国分盛重、
伊達阿波守、屋代景頼、茂庭綱元、高野壱岐守、桑折宗長など二万五千を引率し、白石城に到着した。
ふたたび福島城を攻めようと、誰か物見に遣わそうとしたところ
伊達成実が名乗りいで、十騎ばかり鉄砲三十挺ばかり引き連れて、上杉の守る福島城についた。
成実は、城から十三町(1.4km)手前に味方を残し、自分だけ城の堀端に乗り付け大音声で
「私は政宗の物見の者である。政宗様から城中の将兵の名を尋ねて参れ、と命令を受けた。
名のある者は名乗りいでよ」と呼ばわった。

上杉方の士卒は「なんという剛の者だ」と感心し、矢鉄砲で狙うのをやめた。
すると櫓に上杉の将である本庄繁長、その息子の充長、甘糟景継、杉原親憲、
百川(芋川?)縫殿助、岩井信能、鉄上野が各々名乗りいでたため、伊達成実は静々と帰っていった。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:42:37.80 ID:GNgMpSHW
政宗は二十一日、白石城を立ち、小山というところに出陣。
上杉方は杉原、甘粕、本庄、岩井、鉄上野、岡野左内ら六千騎で福島城を立ったが
途中で商人と高野聖が来て「伊達の軍勢は三万ばかり、これでは小勢すぎます」
と言ってきたため、はたして防戦すべきか、こちらから間の松川を渡るべきか
と論争になったが、伊達軍が川を途中まで渡った時に奇襲しようということになった。
しかし岡野は、杉原や宇佐美が制止したにもかかわらず、四百ばかりで川を渡り、
向こう側の河原にいた伊達軍に大音声で名乗りいでて突入していった。
岡野の奮戦に激怒した政宗はただ一騎で岡野と太刀を交えたが
岡野に太刀を折られ、二、三間(4,5m)後退。
岡野は具足から葉武者だろうと思い、追撃せず戻っていった。
その後上杉勢は伊達勢と交戦するも多勢に無勢で敗色が濃くなり福島城に逃亡。
政宗は後を追ったが、青木新兵衛の十文字槍により兜の三ヶ月を折られてしまい、
政宗はいそいで引き返した。
逃げる伊達軍を、福島城から出撃した本庄繁長が二千余で追い、隈川で散々に打ちすえ
伊達軍二百余を討ち取った。
その頃、会津にいた上杉景勝は、政宗が小山に出陣したという報告を受けたため、
八千騎の軍勢で援軍にかけつけた。
それを知った政宗はわずか十騎で、取るものもとりあえず白石城へ逃げていった。
この際、伊達軍は本庄親子・杉原をはじめとした上杉勢により首級七百余を討ち取られ、
辺り一面、伊達の人馬の死骸や着物や槍や刀で足の踏み場もなくなってしまった。
上杉軍のこのたび得た伊達方の首は千二百九十余で、上杉家の手柄は天下の美譚として語られた。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:44:09.26 ID:GNgMpSHW
・・・と「東国太平記」には書かれているが、この「東国太平記」、
江戸後期の本屋松沢老泉によれば「仙台藩に版木が買い取られ絶版になったと聞いている」そうだ。
また、紀州藩の漢学者、榊原篁洲によれば
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが名前を隠して書いたものであり、
宇佐美駿河守(定満)の末裔なので、東国太平記で宇佐美を褒めまくっている」
とのこと

要は宇佐美流軍学を流行させるために上杉家、宇佐美ageのデタラメを軍記に
書いたということらしい。
政宗にとっては子孫や考証家のおかげで恥ずかしい話が広がらずにすんだいい話ってことで。



368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/01(木) 12:12:38.69 ID:J2ItkSTT
>>323
この当時の伊達成実は石川昭光の預かりだったはず
国分盛重は既に佐竹氏に出奔している

理由としては、成実が伊達氏の分家で一番の家柄で石高も一番高かったのだが
外様大名だった叔父の昭光が、奥州仕置で改易されて、伊達家中に入ることになって
成実の伊達分家が、二番目の家柄になった。また、伊達領が秀吉によって3分の1に
減らされたのに昭光の石川家を抱えることになって家臣団が困窮した。
会津討伐で一番手柄をかけた伊達分家と、
政宗からすれば、人取橋で、敵側にいたとはいえ調停役を引き受けて伊達家を救った
昭光の石川家が対立。
伊達分家が伊達宗家に謀反を起こして、成実の配下は撃ち取られるも
成実は政宗も昭光も一族なので、謀反を起こさず出奔した。
政宗とは歳も近く兄弟のように育った国分盛重は、伊達宗家から国分氏に養子に行くも
大崎合戦の後、家中がまとまらず、政宗が会津を秀吉から取り上げられると
国分領のすぐ近くの北目に軍事拠点を置いたことから、国分家の家臣団は
危機感を覚え反抗する。政宗は、苦肉の策として、盛重に忠節を誓う面々と
ライバルではあるが、盛重の妹正室の佐竹氏に行くことをすすめ
盛重に反抗する国分一族を討ち果たし、国分氏の城であった千代に城を移す。
もちろん、盛重の長男は手厚く保護して、古内氏の養子となり
後の仙台藩の名家老古内主膳になる。

庄内騒乱

2015年07月27日 17:51

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 17:16:15.25 ID:YljOYMaG
庄内騒乱

天正年間の事、人民に過役や重税を掛け「義氏繁昌士民陣労」「悪屋形」と言われた大宝寺義氏が由利の支配を目指す秋田愛季と義氏排除の目的で合致した最上義光の結託と策略により、家臣の前森蔵人の謀叛によって倒れた

義氏は領民だけに留まらず、家臣たちからも疎まれ自害といった形で消されたが、その後を義氏の実弟の丸岡義高(大宝寺義興)が継いだ

しかし先に大宝寺義氏を倒し庄内の治権を手中にしようとしていた前森蔵人は酒田の地を押さえ東禅寺義長を名乗り、対抗勢力である義興を排除するために山形の最上義光に後援を頼んだ

一方義興は義長を倒すには力不足を感じ、越後村上の本庄繁長の子・千勝丸(大宝寺義勝)を養子に迎え、ここに庄内を二分する争いが起きた

「大泉叢話」

庄内の国人たちも東禅寺派と大宝寺派と分かれたが、「山向こうの山形の風下に立つのは嫌だ」「上杉の傀儡に好き勝手をされるのは好まない」「郷土は地元の人間が治めるべきだ」といった様々な思惑が
この後も禍根を引きずる原因となった




東根城下の戦い

2015年07月20日 13:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 03:00:03.78 ID:8TeZX/ko
東根城下の戦い

天正16(1588)年、地安(千安ちあん)十五里ヶ原で東禅寺・最上連合軍を敗った本庄繁長は庄内一帯を攻略し、余勢を勝って最上川を遡り、一気に最上義光の本城である山形を突こうとした

繁長には旧大宝寺領の和田源蔵、田川飛騨、鮎川宮内に近隣の余目源次郎等も加わり、数千もの兵が山形から北へわずか十里ほどの東根城まで到達した

東根城は沼沢と谷地の中の高台に築かれた浮城で、ここには東根小次郎といった者が兵200と詰めていた

戦いは数に勝る本庄軍の優勢の内に運んだが、東根勢は寡兵で城を支え、窪地に伏せた兵を巧みに展開し、散兵(ゲリラ戦)で本庄軍を防いだ

本庄軍は味方の数を頼み勢いで東根城を則(乗っ取ろ)うとしたが、その時山形の最上義光が東根へと援軍に出した鮭延秀綱率いる遊撃隊と、林崎や長瀞の国人たちの軍が突如として本庄軍の背後や側面から繁長の本陣を突いた

不意を突かれた本庄軍に、今度は正面から東根小次郎勢が残兵を率いて総攻撃に出た

この戦いで繁長自身はなんとか場を切り抜けたものの、
嫡子本庄勝重(本庄勝繁)が最上方の田村助左衛門の槍に突かれ落命し
繁長の侍大将三井某も戸部三郎左衛門に首級を取られ
余目源次郎も東根勢に討たれた

本庄軍は馬や兵糧の多くを戦場に遺したまま潰走した

後に繁長は「敵(最上勢)を侮ったために敗れずに済むいくさで多くのものを失った」とこの戦いを一生の不覚と恥じたという

「続群書類従」「奥羽永慶軍記」等





82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 11:58:15.34 ID:5656JZgd
武芸の師範を殺されたから殺す。中国物っぽいなw

庄内失地

2015年07月18日 16:59

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 14:38:27.52 ID:2AhyKDAD
庄内失地

天正16(1588)年春、東禅寺義長の治める庄内に、越後揚北の本庄繁長が突如として侵攻を開始した
旧庄内の領主大宝寺派の国人等も越後勢に呼応し、庄内の地は一挙に騒然となった
大崎合戦の始末で虚を突かれた最上義光は近臣草苅虎之助を大将に数百騎を庄内に派遣し、自身も後詰めとして近習馬廻を召し連れ山形城を発し、各地の諸将士軍勢には「急ぎいくさ仕度をし、庄内境で合流すべし」と早馬を飛ばした

中山境の里見民部は対伊達への牽制で動けず
延沢満延軍は大崎家支援のために陸奥名生にあり、
氏家、志村、鮭延、日野、安食等の郎党たちが次第に庄内境に詰めてきたが、そこには庄内からの敗報が櫛の歯を欠く様に入って来ていた

庄内からの早馬「尾浦の城落城!」

芳しくない報せに義光は血眼になり「無念この上ない!今いる兵だけで構わないから急ぎ押し寄せ味方に合流し、越後勢を留めよかし」とおっしゃったが
氏家守棟志村光安等は「この度はにわかな出陣で号を掛けた領内の兵もまだ馳せ集まっておりません!数百の兵では数千に及ぶ越後勢に敵わぬのも自明の理、地理もまた不利にて難所越えをして戦うのも兵をあたら失う事必定です!」と諌言をした

そこに別な早馬が二三駆けてきて報告した

早馬「地安(千安)黒瀬で東禅寺軍敗北!東禅寺勝正(東禅寺義長の弟)様討ち死に!草苅虎之助様も討ち死に!」

義光は守棟をきっと睨んだが、次の伝令が言葉を続けた

「…氏家様御子息、氏家光棟様、討ち死に!」

守棟「…殿、寡兵では越後勢に敵いませぬ
時期を待ち軍を調え、その上で本懐を遂げさせ玉(給)え」

どちらかが折れなければ収まりがつかなかったが、守棟のこの言葉に義光が折れた

最上義光物語」

その後庄内は上杉領となり、庄内の地が最上家のものとなったのは慶長6(1601)年の関ヶ原始末以降の事である

間に合わなかった援軍の話



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 15:59:15.71 ID:kMIIe4Qf
貴重な鮭の補給地が

本庄正宗

2015年02月08日 17:22

378 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/08(日) 11:34:17.29 ID:h0J+mNG9
本庄越前守繁長は、越後の勇将であった。
後に上杉景勝より、上杉十郎憲景の所領を与えられmなた、出羽の庄内で大寶寺義興と戦い、二男千勝丸に庄内を与えた。

この本庄が出羽の千安表にて最上義光と合戦した時、最上軍は敗北したが、最上義光の侍大将であった東漸寺右馬頭が、
これを口惜しく思い取って返し、首一つを引っさげて越後の兵に紛れ、この繁長をめがけて

「只今、敵の大将を討ち取って候!実検に入れ奉らん!」

そう言って馬に鐙を合わせて駆け寄り、手に持つ正宗の刀でその兜を打った!
しかしそれは明珍の兜であったので、筋が四つ切り削られたところで刃が止まった。

そこで繁長は右馬頭を斬って落とし、その首に彼の持っていた正宗の刀を添えて景勝に提出した。
後で刀は繁長に返し与えられたが、後に故あって徳川家康に献上された。

現在、『本庄正宗』と呼ばれる刀がこれである。
(常山紀談)

本庄正宗についての逸話である。



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/08(日) 11:54:50.59 ID:KZvxoRSN
ほこ×たて
どんなものでも斬る最強の刀、正宗VSどんな斬撃も防ぐ最強の兜、明珍

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 02:19:55.55 ID:eQmXkAeB
正宗ってブランドだったんだね

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 06:30:08.72 ID:sG1NLBPr
相州正宗はあんまり銘を入れないから実在を疑われていたけどね

五郎八姫って、まさか正宗の五郎入道が由来だったりして

「ねぎり」

2014年04月19日 18:00

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 20:30:52.70 ID:JnQduTPV
「ねぎり」

天正16(1588)年、最上義光の影響下にあった庄内に、本庄繁長と実子で大宝寺の家名を継いでいた義勝は
小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ突如として侵攻を開始した。
上杉軍は庄内の東禅寺寄りの城館を次々と落とし尾浦へ進軍。
最上方の東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭(勝正)と十五里ヶ原で上杉軍を迎え撃った。
しかし数で劣る東禅寺軍は疲弊し、さらには東禅寺兄弟の政をけして良くは感じていなかった庄内の国人らが
上杉軍に旗色を変えて尾浦や大宝寺の街に付け火をし、放牧で逃走や裏切りが相次いだ。
これにより東禅寺義長は討死し、その報を聞いた勝正は偽首の計事により本庄繁長に一太刀浴びせたが
目的を達せず討取られた。

山形から月山を越えた辺りまで最上の援軍が来ていたが合戦には間に合わず
東禅寺勢と庄内在番中の最上方の軍監の草苅虎之助と氏家光棟らをはじめに兵2,500余人が討取られた。

敗残兵軍は朝日山城などで池田盛周・邦周親子らが抵抗を続けたが敗れ、庄内地方は上杉の支配下となった。

その後本庄に味方をした者は取り立てられ、最上や東禅寺に通じていた者らは悉く追われた。
続いて上杉の兵らにより執拗な残党討伐や親最上派狩が行われた。
翌年になっても「ねぎり(根切り・根絶やし)」は整然と続けられ、庄内から最上派は一掃されたと言う。

「庄内の昔話」




15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 21:46:52.00 ID:Rjxo+iff
この時、本庄繁長に斬りかかった刀が東禅寺(本庄)正宗か

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:33:11.29 ID:MNIlPhKx
話の片割れの繁長の明珍の兜は村上市の資料館にあるな。

私闘禁止令破りでも北条は罰として滅ぼされ、上杉はヒャッハー過ぎてラスボスもほっといたのか。

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 06:06:14.88 ID:Qw9SnuT/
惣無事令なるものが存在したり、そいつが私闘禁止令だったというのは古い解釈じゃなかろうか
結局は豊臣政権に従ったらセーフで逆らったらNGなだけだし。

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 06:37:26.02 ID:t/WfMyGm
北条はどっちにしろ滅ぼす気満々だったんじゃないかね?

上杉謙信、武田義信への不覚

2013年04月04日 19:51

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 16:02:25.95 ID:G+nl4ji6
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を
攻撃したが迎撃され、逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。

この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、
記載していない。

謙信は

「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。これは我が油断のためである。」

と、後々まで無念に思い悔しがった。

ところが、本庄繁長長尾藤景がこれを可笑しく思い、若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を
批判した。

このため本城も長尾も謙信の気に背き、謙信は本庄に、長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に
反旗を翻し籠城を行うのである。
(北越太平記)





さりげなく自慢を忘れない鮭延であった

2012年10月29日 19:57

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:22:53.80 ID:hbstFqpK
上杉と最上が庄内支配をめぐり争っていたころ、鮭延秀綱は三十歳ほどであった。
このとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。

のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)