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福永丹波守の降伏

2022年12月08日 19:32

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 14:18:58.13 ID:nCF+it7y
薩摩藩「本藩人物誌」から福永丹波守(福永祐友)の降伏

福永祐友は日向の伊藤義祐の寵臣で、島津との境目の野尻城代であった。
そのため薩摩方は内通の手紙をつくり、わざと佐土原に落とし、伊藤義祐の目に触れさせた。
義祐は手紙を信じ怒ったが、祐友は「逆心の考えはまったくありません」と弁明し、
祐友嫡子を「ちょうど十三になるので元服のお許しをいただきたい」と佐土原に送り、二心のないことを示した。
しかし五、六十日経っても元服の許しが得られず、戻ってきた。
さらに五、六十日佐土原に送ったが、今度も元服の許しは得られなかった。
祐友は恥辱に思い、このような主君では当家の行く末も暗いだろうとついに薩摩方への内応を決意した。
祐友は、天正五年十二月七日(1578年1月14日)までに祐友嫡子を差し出すとひそかに薩摩方に約した。
十二月六日、祐友は伊東からの監視番に
「御酒や肴を差し上げたいが今城内には珍物もございません。明日子供達を城から出して山で狩猟をさせようと思います」
と言って、翌七日に子供達を外に出し、嫡子を薩摩方の小姓と取り替えた。
そして夜になると、薩摩方の巧者三十人ばかりが本丸に忍び入り、侵入経路に城外から見えるように白紙をつけた。
それを目印に続々と都合三百人が忍び入った。
祐友の妻は「極寒のみぎり、ありがたく思います」と一人一人にみずから温かい粥を差し出した。
準備が整ったため祐友は本丸の矢倉に登り、大音声で
「伊東からの監視番の方々、昨日までは伊東方であったが、遺恨により只今より島津殿を奉戴する。
すでに薩摩勢三百人が城に入り、まもなく数千騎が城に押し寄せることになっている。
かくなる上は早々に開城なされよ」
それとともに薩摩勢が天地が振動するほど鬨の声を上げたため、監視番衆は周章狼狽し、何人も討ち死にしながら道具も捨てて逃げていった。
翌八日、忠平公(島津義弘)が御馬廻り二、三十騎を連れて城の近くまでいらっしゃった。
祐友は十文字の旗を見るや郎党どもを後ろに残し、一人で忠平公のそばにより、路傍で平伏した。
こうして忠平公からありがたいお言葉を頂戴した祐友は日向攻略においてその後も大いに働いた。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7638.html
こちらによれば手紙の計略は上原長門守(上原尚近)によるものだったとか



656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 15:02:44.59 ID:uPiFJWJ5
後の福永祐一である

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 16:54:00.58 ID:lD7ByqrZ
似たような名前の調教師がいるんだね

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 19:23:37.95 ID:n3yFMfag
祐一本人のこと?
ちょうど免許取得して来年から調教師に転身するし

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 21:57:52.59 ID:pfjhqYpK
子孫かしら

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/08(木) 22:47:20.42 ID:cyuyX5mr
福永家は高知の地主だったらしいよ
その縁で祐一は何度か高知競馬にいって乗ってた
ついでに武のほうの先祖は薩摩の武士やね
親族は明治期には国会議員も務めてるし日本の近代競馬草創期の重要人物
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薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

2021年10月07日 16:23

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 19:22:36.43 ID:yBNGTRH+
薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

もともと畠山氏であったが幼少より出家し根来山に8年、高野山の木食上人に学ぶこと3年で薩摩に帰国。龍伯公(義久)より家老を命じられた。
上京した龍伯公が泰平寺に御家人七人をお供にして向かったところ、京勢が道を遮り島津勢を嘲笑した。
このとき盛淳は刀を抜き、眼を怒らせて叱責したところ、京勢は恐れをなして島津勢に対して道を開けた。
上方騒乱の際、大垣に着陣したところ惟新公(義弘)は手を取って大いに喜んだ。石田三成も着陣祝いとして金の軍配を贈ってきた。
関ヶ原合戦では「万一の殿の御大事に備えて羽織をいただきたい」と惟新公の羽織を拝領し出陣。
負け戦となったため「殿様は何処にいらっしゃる?」と家来どもに聞いたところ
「すでに遠くへ御退去されました」と家来が答えたため満足し、刀を抜き、拝領の羽織と金の軍配を敵方に見せつけ、
「島津兵庫頭(義弘)、死狂いなり!」と名乗りを上げ、大勢の敵に斬りかかっていき、敵方の槍数本に貫かれて死んだ。

これこそ男子の本懐というものよ

2021年10月05日 16:49

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/04(月) 17:51:02.06 ID:6U4FoXck
「世録記」によれば
龍造寺との戦いに於いて有馬から救援要請があったため、新納刑部大輔忠尭(忠元の長男)と川上左京亮忠堅が派遣され、敵方の深江城を攻めることとなった。
忠堅は(一番槍で負った)いくさ傷を意気揚々と忠尭に見せ
「戦で傷を負う、これこそ男子の本懐というものよ」と得意になったところ
忠尭は「新納刑部大輔忠尭の名を敵軍に知らしめてやる!」
と言ってつっこみ、乱戦の中で死んでしまった。
(享年三十)

「本藩人物誌」によれば
川上忠堅の方はその後の島原合戦(沖田畷の戦い)の首途の宴会の席で家久の息子の又七郎忠豊(豊久)から盃を受けた時に
「今日は龍造寺隆信の首を取ってご覧に入れてみせます」と言ったところ
新納忠元から「今の言葉は軽率すぎる」とたしなめられたが
「妄言ではありませぬ、きっと取ってみせます」と反論したため、周りもあまりに放言がすぎるとあきれてしまった。
その日、足軽大将の簗瀬兵右衛門たちとともに敵兵に紛れて本陣に突入し、隆信に槍を入れ、簗瀬に首を掻かせて義久公のもとに送り、御実験に入れた。
その後、筑紫広門の鷹取城攻めの際、広門の弟(もしくは息子)の春門と戦って際、忠堅は春門を斬ったが春門も忠堅の右手を切り、相討ちとなった。
(享年二十九)



薩摩藩「本藩人物誌・女子伝」より「大寺氏女」

2021年09月25日 15:53

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 11:15:25.25 ID:QDidupls
薩摩藩「本藩人物誌・女子伝」より「大寺氏女」

伊地知勘解由左衛門重元の妻で、重元が高麗にて戦死したという訃報を聞かされ、
重元の形見として従臣が高麗より持参した脇差を自分に刺した。
おつきのものが刀を奪うと、喉をついていたがまだ死には至ってなかった。
竜伯公(義久)がこれをお聞きになり、村田雅楽介を遣わしてこう伝えた。
「了簡もなく自害しようとしたものよ。
武士は敵に向かって戦死するのは常のことである。
医師を遣わすので養生し、遺された一子を育て上げて、お役に立てるようにせよ」
村田が声高に述べたところ、重元の妻は合掌して拝聴した。
その後、舌を切れ切れに噛み切って死んだということだ。



69 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 12:25:33.63 ID:yrJbFXGK
>>68
結局死ぬんかーい
( ゚д゚c)ナンデヤ( ゚∀゚)っ))ネンッ!!

後醍院宗重の「本藩人物伝」における記述

2021年09月24日 17:00

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 20:36:13.75 ID:Sox3FW2z
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
上の「1600年、伊賀山中にて」の逸話で
関ヶ原での退き口の後、薩摩武士として死など厭わないところを見せた後醍院宗重の「本藩人物誌」における記述

後醍院淡路守源宗重入道淡斎
後醍醐天皇第六皇子良懐親王(ママ)八代の後胤である。
親王と妾(菊池武光の妹)との間に生まれた後醍院越後守良宗の子孫で代々肥後に居住していた。
天正の初めは相良義陽に随身し、たびたび戦功(特に佐敷量石での勝利に貢献)があった。
そのため相良氏と同姓の高橋姓をもらい受けたが再び後醍院に戻し、島津忠平(義弘)公の八代城滞在のおり島津の配下になった。
龍造寺隆信との戦の際、島原で弟が戦死。
その後、岩屋城攻めでも活躍。義珍(義弘)公が豊後を引き上げるときには殿軍となった。
太閤秀吉の西征時、長束正家から薩摩の案内をするように言われたが主従関係を縦に断ったところ、
佐々成政預かりとなり母子を人質として差し出した。
成政の悪政のため肥後で国人一揆が発生し、宗重も鎮圧にたびたび手柄を挙げたが成政が切腹したため
清正とともに肥後入りした小西行長の配下となり、文禄の役では平壌城から二里ばかり離れた牡丹台を守備した。
李如松の大軍に行長が敗れた際には森勝介とともに殿軍として戦い(森勝介は戦死)、
忠恒公が唐島に着陣した際、行長に暇を乞い忠恒公に従い、帰国後、正式に島津家に戻った。
惟新(義弘)公にたびたび加増され五百石取りとなり、庄内の陣にもお供した。
上方騒乱の際には惟新公に付き従い、美濃国須俣に着陣。
関ヶ原合戦の際には木脇刑部左衛門祐秀とともに殿をつとめ、
義弘公が戦死しようと決心した時には諫言申し上げ、首尾よく御帰国までお供した。
この功により五十石が加増され、寛永元年甲子四月六日七十四歳で卒した。
常盤村大坪久田村に葬る。

こちらだと上の逸話と逆っぽい話に。
それにしても「懐良親王」を「良懐親王」にしてるのは明史の影響とかだろうか



伊地知周防守重興について

2021年09月24日 16:59

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 21:41:32.17 ID:Sox3FW2z
薩摩藩の「本藩人物誌」より伊地知周防守重興について

永禄年間では肝付兼続に与党し貴久公に敵対していたが天正二年に先非を悔い大隅五箇所を進上し剃髪して降参。
その後還俗して義久公が諏方社後参詣の時には騎馬にて跡に付き従い、大友との戦の際にも従軍した。
天正八年二月十三日卒。

付記
重興は豊後より召し出した女を妾としていたが、家中の者と蜜通したため、その女を櫃(ひつ)に入れ、蛇(くちなわ)を多く入れ、垂水の池につけて殺した。
家臣の柳田某が池の岸から櫃を竹の棒で押し出したそうだ。
その恨みにより強く祟ったため、御前と敬称をつけ、赤明神という名前で氏神として祀ることとなった。
右の柳田某も禿げてしまったそうだ。