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ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

2016年10月10日 10:09

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 16:57:25.24 ID:t9v3aFpB
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:35:49.12 ID:f8T0paXC
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:54:13.67 ID:Oau9qfpR
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた
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朽網宗暦の報われぬ奮戦

2012年08月26日 20:45

181 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 14:27:50.60 ID:ZuSXXKgS
天正14年の豊薩合戦で大友方は入田義実・志賀親守・同親度・南志賀鑑隆・同鎮隆ら南郡衆の多くが
島津氏に通じた。
いずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。

・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦

山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。

支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り
新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う
意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。

・朽網鎮則たちの後日談

秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに
切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか
逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し
島津義弘や豊久と一緒に戦っている。