74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 12:55:44.38 ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。
横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。
只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。
関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。
御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて
「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。
但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)
(杉原彦左衛門覚書条々)
原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。
75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm
こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか
あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。
横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。
只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。
関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。
御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて
「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。
但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)
(杉原彦左衛門覚書条々)
原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。
75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm
こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか
あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居
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