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末まで磨く玉鉾の道

2022年02月12日 15:36

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/12(土) 09:33:18.17 ID:nZ1BKNY5
戦国時代のころ、来島城主久留島氏丹後守康吉(村上康吉)の家臣に、田坂槍之助(鑓之助)貞掾という
武芸に秀でた来島水軍切っての豪勇無双の武士がいた。

槍之助という名は主君より命名されたもので、槍之助の槍の妙技はすばらしいものであったということだ。

ある時、来島瀬戸を十反帆ばかりの船に乗った芸州・佐伯氏の家臣二十数名が、海の通行税である帆別銭を払わずに
来島海峡を強引に通過しようとしたことがもとで、槍之助と決闘になった。

小舟に乗って佐伯の船を追いかける槍之助
(# ゚Д゚)「帆別銭払えやゴルァ!天下の法を蔑ろにするんじゃねぇ!」

一人と見て舐め腐った態度の佐伯家臣
( ´∀` )「この広い海に関所を設けようとは笑止。帆別銭が欲しければどこまでもついてこい」

(# ゚Д゚)「んんんんんー、許るさーん!!」

怒った槍之助は相手の船に乗り込み遂に佐伯の家臣と決闘に及んだ。刀を抜いて応戦する佐伯の家臣達であったが舟の戦に慣れた槍之助の敵ではなく
ただちに2名が突き伏せられ、船が潮に流され潮に流されて船が桜井(今治市)の志々満が原のあたりから江口の浜辺に着いた時には、
八人が突き倒され、六人が深手を負わされるという有様、佐伯の家臣らは船上での戦いは勝ち目がないと考え、陸上で勝負をしてくれるように槍之助に頼んだという。

(# ゚Д゚)「よかろう」

義理人情に厚い槍之助は船上から砂浜に場所を変え、残った7、8人ほどの佐伯の家臣と渡り合い、
ここでも5,6人を突き伏せ手傷を負わせたがいかに槍之助が強いとはいえ多勢に無勢、最後は力尽きて
討たれ、首を取られてしまった。

とはいえ生き残った佐伯の家臣は5人、無傷の者は1人だけと言う有様だったという。

佐伯の家臣らは槍之助の首を塩漬けにして安芸の国へ持ち帰り、主人の佐伯公に槍之助の首を見せ事の次第を説明したところ・・・


(#^ω^)「天下の法を破った上にたった1人に後れを取るとか情け無さ過ぎんだろJK」

この家臣らは佐伯公に全員追放されたという。

338 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/12(土) 09:47:35.56 ID:nZ1BKNY5
今治の里の人たちは法を守るため、身命を顧みなかった槍之助を称えてその亡骸を桜井の入り江の浜にねんごろに葬った。

その後、槍之助の墓の前を馬に乗って通り過ぎる者があれば不思議と悶え苦しむということが相次いだため、
里人はこれを槍之助の迷える魂の祟りではないかと考え、小さな社を立てて江口八幡宮(入江の八幡宮)と呼んで
その霊を丁重に祭った。

現在、この小さな社は沖浦(旧桜井町沖浦)の江口山(俗に明神山ともいう。)の頂のながめのよい所にあり、
現在桜井の網敷天満宮の境内にも小祠が設けられていまる。またこの小さい社を設けた時に、次の一首を献納して神体としたということだ。

‟槍水の流れ涼しき田坂氏”
 末まで磨く玉鉾の道

今治地方の伝説集 43.槍の名人 田坂槍之助
https://www.imabaricci.or.jp/%e4%bb%8a%e6%b2%bb%e5%9c%b0%e6%96%b9%e3%81%ae%e4%bc%9d%e8%aa%ac%e9%9b%86/#yarinomeizin



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