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海野平の対陣

2022年10月26日 19:10

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/25(火) 21:20:54.82 ID:M68BXVm8
天文十八年五月朔日に、武田晴信公と長尾景虎が、信州海野平にて五日間の対陣があり、
六日に景虎より使いを晴信公へ使わされた。その内容は

『私が信州に来たのは、自分の欲を以てではない。村上義清を本地へ返したい、との義である。
これについて御同心無いのであれば、私と有無の一戦をしよう。勝利は互いにその手柄次第である。』

そう申し越したが、晴信公はその御返事に

『その方が村上義清に頼まれ、本地へ村上を返したいがための信州へ出陣、ひとしお心馳せ優しいものだと
この晴信もそう思う、私も人も牢籠致す可能性はある。これは昔から今に至るまで有る習いである。
景虎の心ざしは尤もであるが、その村上の本意については、この晴信が生きている間は成るまじき事である。

であれば、有無の合戦とある事も最もに思えるが、晴信は村上を本地へ返さないことを、我らの働きとしている。
であるので、合戦と思われているのであれば、その方より一戦を始められよ。

もし又、日本国中において誰であっても、我が本国・甲州の内に手勢を入れられた場合は、そこにおいて
晴信は攻めかかって、有無の一戦をするであろう。』

この御返事を六日に景虎は聞き、七日、八日まで八千の人数にて出て、備を立てて一戦を待つ様子を仕り、
そして又、十日の朝に使いを出した。その内容は

『御一戦は成らないように見える。そのため、私は越中か能登の国を心がける。』

と、その日の午の刻に景虎は早々に退散した。

この様子を聞き、木曽衆、小笠原衆、或いは笛吹峠(小田井原の戦い)にて武田に負けたる人々は
「晴信は越後の景虎に会ってはへりまくれ(手出しできないということか)である」などと。面々の手では
叶わなかったことを、人を引きかけて、晴信公を罵った。
彼らは良き大将の奥意を知らず、己を以て人と比較し、餓鬼偏執は武辺不案内の故、この如くである。

甲陽軍鑑

天文十八年にあったとされる、海野平対陣についてのお話。



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晴信の戦術は例えば

2021年08月13日 17:02

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/13(金) 14:43:58.43 ID:upLtH4SS
長尾景虎は越後へと亡命した村上義清に対して尋ねた。

「私は多年に渡り、甲州に限らず諸方に間者を遣わし置き、国々の風俗、国政の善悪、
軍事の勝劣を聞いている。村上殿は武田晴信と多年、数度戦っておられる。
そこで彼の戦術の法の詳細を、私に聞かせていただきたい。詳しくこれを聞きたいのだ。」

義清が答えて曰く
「晴信の戦術は例えば、水の漏れる船に乗って、風雨を凌ぐ如きものです。
戒め慎んで、軽率に戦を欲しません。」

景虎はこれを聞くと
「晴信は正兵である。私がこれに向かうには、必ず奇兵を以て、倫強にして進み懸かって、
これを討つに如くはない、」
と言われた。

春日山日記



416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/13(金) 15:07:30.31 ID:L6mwb0mW
>>415
謙信、人をして北條氏を諜せしむ。
氏康戦ふ毎に奇を用ふと聞いて、曰く「彼は奇を用ふ。吾は正を用ふるなり」と。
(日本外史)

相手によって態度を変える軍神様。
臨機応変変幻自在と云やぁ聞こえは良いが、結局北條にも武田にも負けてんだから世話ァ無ぇ。

平瀬落城

2018年03月23日 16:48

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 00:27:11.74 ID:JOeEPDaN
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』


塩尻峠の戦い

2018年03月11日 13:23

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 01:25:25.61 ID:lRqFuNmu
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 13:51:07.78 ID:n9GW6pZV
人望ねえな。お高くとまって下々を蔑ろにしてるイメージだわ。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 18:31:06.29 ID:WNA5qEX9
>>592
小笠原さん戦は強いのに勿体ないよね
この頃の勢力差ならまだどうなるか分からなかったのに

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:06:57.16 ID:Que2OFwD
家臣団が強かっただけでしょ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:43:06.79 ID:OrM7ZJsf
御柱祭に乱入したら氏子に撃退されるおちゃめな長時公
お祭りVS戦国大名

村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末

2013年10月15日 19:43

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 05:13:56.96 ID:Ctov/Cob
天文15年(1546)、武田晴信の配下である真田弾正幸隆の元から、二人の武士が村上義清の元に逃げ込んできた。
彼らは須野原若狭・惣左衛門兄弟。元々海野家の家老筋の一族であり、武勇に優れ、智慧と才覚があり、
戦の技術をよく身につけていた。

義清もたちまちこの兄弟を信用したが、そこで兄弟は
「我々は真田の城の事を良く知っており、これを奪って差し上げたいと思います。そのために、優秀な武士を選んでお貸しください」
と提案した。

義清はこれに乗り、旗本の騎馬武者まで出して、有能な武士500人を選んだ。
そして充分に用心し、慌てぬようにと言い含めた上で、須野原兄弟に引きあわせた。
そして兄弟には、乗馬、鞍、太刀、脇差、朱印の付いた知行の目録を添えて出した。

兄弟は太刀と脇差だけを受け取り、他の物は返して
「近いうちに作戦を成功させた上で参上し、重ねて頂戴いたします。」
と申し上げ、義清の言うとおりに熊野の牛王の起請を書き、そして村上家選り抜きの武士たち500人を率いて
真田の城へと向かった。

侵入は成功し、彼らは二の郭まで入った。

その時、前後の門が突如閉ざされ、本城と三の郭より挟み撃ちにして、村上勢500人は、一人残らず討ち取られた。
味方の死傷者は皆無であった。

これは真田幸隆の謀略であり、これによって、翌年の上田原の戦いで、武田晴信は勝利を治めたのである。

(甲陽軍鑑)

村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末である





484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 06:12:59.15 ID:BvHguEef
>>483
横山光輝の絵が浮かんだ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 10:06:03.47 ID:/XH27CqB
ジャーンジャーン、げえっ

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 15:12:32.37 ID:oHFTAcwH
津軽為信!

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 15:38:25.47 ID:uP2U4DJm
上田原って武田の負けじゃないっけ?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 15:45:16.65 ID:hoyotCI2
戦国時代の話を読んでるとなんとなく麻痺してくるけど、ふと現代人としての感覚に立ち返って考えると凄い画だよな
500人を囲い込んで皆殺しって

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 18:19:39.28 ID:4q8jqKeB
板垣や諸角が討ち取られて晴信も手傷を負ったのは、
騙まし討ちされた将兵の怨みを晴らさんが為、
村上軍が獅子奮迅の働きをみせたから。

すごいいい話になる

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 18:24:51.94 ID:4q8jqKeB
諸角じゃなくて甘利だった

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/15(火) 21:10:06.36 ID:P1u3Of2P
俺も挟み撃ちにされて皆殺しにされたい

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 06:44:32.97 ID:SXhTaggh
尿道と肛門に俺のマドラーぶっ刺してかき回してやんよ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 12:37:05.81 ID:VLp4v6e/
ん?
こりゃ楊枝か?

武田信玄が佐久郡に村上義清を攻めた時のこと

2012年11月05日 19:53

286 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/05(月) 03:17:00.56 ID:AECE9NJg
武田信玄が佐久郡に村上義清を攻めた時のこと。
戦場は矢や鉄砲が雨のように飛び交い、皆竹で盾を作り、それを環に並べて垣を作っていた。
そのうち信玄は陣を二隊に分けたいと考え、別働隊の飯富、板垣両将へ伝令を送ることにした。
そこで伝令役に米田某、三井某という二人が選ばれた。
米田は「盾の外は危険だから、内側を通って行こう」と提案したが、
三井は「殿に選ばれておきながら、矢や鉄砲を恐れてどうする。俺は外から行くぞ」
と聞かず、一人盾の外へ飛び出していった。
すぐに弾丸が降りそそぎ、三井は何発かくらいながらも、命からがらたどり着いた。
だがすっかり顔面蒼白になり、口も震えてまともにしゃべることもできない。
そんな三井の横で堂々と二将に伝令を伝えた米田は、陣を出ると笑顔で言った。
「それじゃあ、盾の外を通って帰ろうか」
三井が驚いて
「俺は行きのことで後悔してるのに、何でまた外を通らなきゃならん」
と言うと、米田は
「さっきお前と一緒に外を通らなかったのは、主命を果たせなくなるのを恐れたからだ。
しかしもう命も果たせたことだし、今さら何を恐れることもないだろう」
それを聞いて三井も頷き、二人は盾の外に出て、砲弾をかいくぐって本陣へ帰った。
そして米田は全く顔色を変えず、意気従容として信玄に首尾を伝えた。
これを見た三井は己を大いに恥じたという。

                     『武将感状記』




292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/05(月) 10:57:29.30 ID:TMLjoXGt

>>286
戦が続いてるのに、伝令一回終えれば死んでもいいってことはないだろう。
だいたい首尾を伝えるまでが伝令の仕事なんじゃないのか? これは米田さんの勝手な論理って気がするな。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 16:08:19.63 ID:I1AfV08s
遠足はおうちに帰るまでが遠足です、みたいなものか。
ところでせんせー、焼き味噌はおやつにはいるんですかぁー?

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 17:16:19.93 ID:GdowkEZz
焼き味噌はおしりにはいります