御陣所の体、味方の様子、見及んだ所

2017年06月06日 11:48

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 06:17:02.79 ID:+AAANm8Z
関ヶ原の時、西軍の船手・村上彦右衛門(通清)、菅右衛門(達長)は、9月12日の晩に桑名浦に乗り付け、
13日の早天に両人関ヶ原に出て毛利陣に入った。この時安国寺恵瓊と対面したが、村上は言った

「御陣所の体、味方の様子、見及んだ所、私としては大変心もとないものと言わざるを得ません。」

これに安国寺
「私もそう思っているが、東軍一人に上方勢十人のつもりであり、4,5日も持ちこたえれば
必ず味方の勝ちと成るだろう。」

村上重ねて
「味方の山取りの体、山高く取り上がり、しかもまばらで密度が薄く、これでは戦の仕様がありません。
あのように高く取り上がって居ては、敵に即座に応戦することは不可能です。東軍は少勢でも、
戦に熟練している故、軍勢も厚く見えます。その上東軍は、一両日のうちには戦いを仕掛けてくる様子と
見及びました。どうか油断ありませんように。」

そう言って帰った。
果たして、西軍は間もなく敗北した。村上は津まで直に出て関ヶ原の様子を聴き。九鬼大隅守(嘉隆)の
所に行って詳細に次第を語り、上方へと撤退した。

(士談)



834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 06:58:09.40 ID:hEgxlXVG
水軍なのに陸の戦争をよく知ってるな

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 07:00:36.03 ID:gFGqNdAf
水軍も陸戦はするからな
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船手のあしらい神妙なり

2017年06月04日 19:38

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 17:36:56.32 ID:8oGghPA5
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。


長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。

村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」

そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。

そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。

(士談)


福島家の3人

2013年03月02日 19:52

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 21:13:58.27 ID:duQ2PWEx
福島家が亡んだ後、徳川秀忠の命によって、大崎長行及び、村上彦右衛門通清、
真鍋五郎右衛門貞成が徳川頼宣へ召し出された。

安藤直次は三人の若年よりの働きを問うた。

貞成は十四歳よりの働きを残らず述べて一代を語った。次に通清も同じく若年よりの
働きを語る。いずれも比類少なき働きだったので、一座の人々は耳を驚かせた。

そして長行は「我は与一郎といって槍一本の者でしたが、段々と仕上げまして、
木村家では鬼玄蕃と呼ばれ、福島家では一手の大将を致し、備後鞆の城主となりました。
ですので、若い頃より鈍くはなかったとお思いください」と言った。

直次を始め、一座の人々は皆なるほどと感心した。

――『名将言行録』