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瀬戸内水軍の遠征

2010年10月29日 00:06

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 18:07:13 ID:jMdOby3K
永正9年(1512)の事だそうだ。

讃岐の寒川氏は大内義興の命により兵卒を揃え引田の浦にて五艘の軍船を整えた。
そこに同じく讃岐の香西氏、安富氏の軍船が集合し、計二〇艘となって引田の浦を出航、
備後の鞆に到着すると伊予の能島に報告、能島、因島の村上氏と合流すると、瀬戸内を拔け
南洋、中国南部方面へと進んだ。

さて、このような船団が組まれたことには、こんな理由がある。

この少し前、能島村上氏(村上隆勝か?)より大内義興に提言があった。

「南洋にある離島があります。これを得れば和漢の交易路を保持するのに、長く日本の利益と
なるでしょう。」

寒川家の記録には、その島の名は書かれていないものの、どのような島かは記載がある。
島の主は元々明国は浦東(今の上海か)の領主であり、明から大船を招き、日本と中国との中間交易の地として
大いに栄え、住民達は互いに親しむこと親友以上であり、その島はまるで一国の首都のような賑わいだというのだ。

島に行った日本人の中には、自らの国が乱世であり、一夜の安眠すら困難なのに比べ、この島には争いもなく
皆安楽に暮らしていることに、帰国を嫌がるものも多かったという。


さてこの島、日本の武装した兵船が押し寄せるとすぐに通詞を出して和を請い日本に服すことを約束した。
このため何事も起こらずこの遠征は終わったのだが、これには理由がある。

この当時の日本船というもの、外国船に行き当たればそれに押し寄せ攻め立て、資財を出させてそれを取り、
嫌だというものには攻め懸けて船を乗っ取った。
このようであったため、異邦人でも日本の兵船の言うことを聞かない、という者はなく、海上において
日本船に行き会うことを恐れない船はなかった。
ためにこの島も、あえて日本船と戦おうとはしなかったのである。

ところでこのころの日本船、皆八幡宮の文字を書いて旗印としていた。
このため異邦人より、日本船をさして八幡船と言うようになったそうである。


大内義興の命による、瀬戸内水軍の連合軍によってなされた、とある島への遠征についてのお話。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:15:42 ID:NVTqAnCd
>>101
この頃は村上水軍は大内に心中していたんですね
どういう縁でこの後離れて義隆の代に攻められることになったのかな?
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