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文禄4年のスキャンダル

2010年12月23日 00:00

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 00:44:16 ID:t113YYki
某事件で降板した歌舞伎役者さんが本来やるはずだった人物のスキャンダル

文禄4年(1595年)頃にあるスキャンダルが大坂中の民に知れ渡った。

ある一行が道中、秀吉側室が疲れたので茶屋にて休憩するに至ったが、無論中にはお付の侍女らしか
居らず、周りには太閤から信頼のおける者が数名警護にあたっており出入り口を通れた者は
門番の厳しいチェックを受けた者で、実際に通る事が許されたのも身分ある女性だけだったが
名古屋山三郎が女装してあっさり入って暫くのち出てきたが為に不義密通疑惑の大騒ぎになる。

この出来事に関わったと言われている者たちは誰も死罪等を言い渡されておらず
大抵の者が処分がない事から、山三郎が行き付けの茶屋で先客として既に居た所を偶然居合わせ
太閤殿下の側室だからと云って"すぐ出て行けとは横暴である"と断り、のんびりして出てきた場を
たまたま野次馬に目撃され民草たちが大げさに話を広げたと云う話であるが山三郎はこの直後、
帝の直轄地として太閤と云えども手出しのし辛い四条に隠れた事や、この時の門番を任されて
いたいう太閤秀吉から信頼の厚い馬廻衆、小沢彦八郎と云う若衆が職を奪われている。

この事件の翌年、慶長元年(1596年)から約三年もの間、舞太夫として太閤に招かれたのは
村山又八ら狂言師が伏見に招かれ太閤の前に狂言尽を為す”と"事始"などに記録されてる通り
山三郎本人ではなく、山三郎の直弟子達が代わりに太閤に贔屓されるに至っている事も
噂話に変に尾ひれがついてしまったと云われる。(村山又八は京芝居の祖と云われる人物)

更に翌年、慶長元年(1597年)には浪人の身で各地放浪をしていた小沢彦八郎が三十人程いた
森忠政側近衆の一員として仕官するに至り、後に山三郎が森家中に加わった際に
山三郎の末妹を娶る事を森忠政から許され、森家中でそれなりの地位となった事や
山三郎が出家した事がこの噂話に変な真実味を加えたのではないかと言われている。

実際には、このスキャンダルが流れた時期に太閤秀吉は山三郎の妹が森家へ輿入れする際
自身の結婚を山三郎と新婦の父に祝ってもらった事を諸将によく自慢しており亡き弟
秀長に代わり豊臣、名古屋の両家を代表して嫁ぎ先の森家へ名刀"鎌倉一文字"と
祝いの書状を送っている事から両者の仲はむしろ親密で山三郎が一時的に大阪から
遠ざかったという事実だけで噂が独り歩きしていって収拾がつかなくなっていった次第である。

この大坂スキャンダルは民草に目撃された雑説として知れ渡っていた事から江戸期に
なっても調べ上げる者が多く、この謎の側室が誰であったかを淀君と主張する
"近世奇跡考""嬉遊笑覧""塩尻"を始め、松の丸殿と主張する"泰平漫録""梅屋日記"など
側室が誰であったのか以外はどの書物からも時期、時間、場所等が一致しており
"異本大阪物語"に至っては、御丁寧にこと細やかに逢引方法が書かれている。

が、こんな下地のあるネタが淀殿バッシングの激しい徳川天下の時代で利用されないはずが無く
戦国期にはこの側室が誰か判らない事が民草の想像を駆り立て噂が広がったが、
江戸期にはこの女性を完全に淀殿と断定し、山三郎は弟子の村山又八の息子らが江戸に
歌舞伎座を起した為に現代でも歌舞伎直系の祖とされているが、恰も"歌舞伎役者"名古屋山三郎
戦国の時代に存在したかのように脚色され、歌舞伎発祥以前に淀殿が若い歌舞伎役者連れ込んで
浮気をしていたと云うあべこべ話が成立してしまい、この偶然が重なっただけかも知れない
大阪での出来事は真偽はともかく、最終的に淀殿の不義密通説の土台として定着し、
時期を変え、相手を変え、秀頼の出生まで疑われることに大いに貢献する事になった・・・。

ただの噂が原型を留めずに変わっていく悪い話




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:07:56 ID:w0lRq0It
ab蔵もこの時代のかぶき者と比べれば可愛い方だなw

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:14:21 ID:kxcv72cu
山三郎はハッタリじゃなくて喧嘩がマジ強いAB蔵ってイメージ

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 23:39:35 ID:7IbjQlmt
歌舞伎役者と~~~ってな話しは、江島生島事件とかそんなネタがあったような気がしたけど板違いかw
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