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茶の湯の歴史について

2018年09月24日 17:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。

信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。

武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。

千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。

居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。

その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。

本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。

(士談)

茶の湯の歴史について


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