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又者で名高き者は

2019年04月10日 17:14

堀直政   
787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 16:32:06.01 ID:I0Ur+nqS
太閤の時代に又者(陪臣)で名高き者は、刑部卿・堀監物(直政。原注:左衛門臣)・松井佐渡(康之。
原注:肥後守の臣)。

――『老人雑話』

天下三陪臣で名が挙がっているのは堀直政のみ。



791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 21:43:59.20 ID:nRArb4yf
>>787
この場合の刑部卿は誰なのかな
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松井康之が利休最後の手紙を

2017年06月05日 21:10

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 21:10:27.63 ID:1YzJkvJp
トーハクの茶の湯に最終日に行ってきたが
実物の伊賀焼き花入れの生爪見た。
松井康之が利休最後の手紙を受け取ったというのも初耳だった



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 02:50:22.57 ID:DEb+6auF
松井康之は利休←→忠興の身分差が大きいから形式上は間に居て取り次いでた
その一方で個人的にも利休と親しかった様子

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 16:24:11.36 ID:bu89Ei3i
天皇から号もらってもダメなもんはダメか

黒田如水「武士の心得たるべきこと」

2014年03月04日 18:58

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/03(月) 22:03:46.52 ID:I6toMUfw
慶長5年(1600)、その前日に石垣原の戦いに打ち勝ち、大友義統を降伏させた黒田如水は、
実相寺山の本陣に、共に戦った細川家の松井佐渡(康之)、有吉四郎右衛門(立行)の挨拶を受けた。
その座には、黒田家の重臣たちが列座していた。

松井が如水に申し上げた事に
「それにしても此の度の合戦では、井上九郎右衛門(之房)殿の手柄は、兼ねて聞いていたよりも増して
目を驚かされました。また九郎右衛門殿が敵と戦っている時、茜のしないの指物をさした武者が、
その手勢を引率し、真ん丸になって敵の横合いに懸かった働きは神妙の至であり、こうやって説明するのも
愚かに思えるほどです。また、その勢の中にあった大指物をさした武者が、特に良い働きをしており、
非常に目立っておりました。」

如水はこれを聞くと
「茜のしないの指物とは、そこの末座におる野村市右衛門の事です。」といって指差し、
「彼は母里太兵衛(友信)の甥であり、16歳より度々戦場に出て、所々の手柄の数もまた多く得ました。
一昨日の働きなどは、特に珍しいものではありません。

大指物をさした方は、その野村市右衛門の与力で大塩喜平次のことです。
また、今度討ち死にした久野次左衛門は母里太兵衛の婿でした。彼は常々、野村市右衛門と
武勇を争っていたのですが、その志を立て、終に討ち死にを遂げました。」

と語った。すると松井は母里太兵衛の方を向いて

「次左衛門殿の事、ご愁嘆されていること、お察しいたします。しかし市右衛門殿の高名は、
嘆の中の悦でありましょう、」と言った。

松井・有吉が帰ったあと、如水は家臣たちに向かってこう語った

「武士が戦場にのぞみ、自分の戦功を専一に心がけるものであれば、左右前後の味方の働きを
観察するような暇はないはずだ。たとえ見たとしても、人に向かって語るにはその心得を持って
行うべきだ、ところが、松井が一昨日の石垣原で見て来たという先ほどの話は、あまりにも詳しすぎる。
一心の働きを心がけなかったかのように聞こえて、非常に悪いものだった。

有吉の方は、その心得があったのか、周りの働きの噂はしなかった。これこそ、武士の心得たるべきことだ。」

そうのたまわれたのである。

(黒田家譜)

黒田如水が、戦場での働きの話をすることについて、武士の心得を語ったものである。




641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/03(月) 22:28:37.62 ID:g68+hiSG
>>640
松井さんがディスられてるw

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/03(月) 22:43:05.51 ID:JGNI1skW
康之がディスられてる逸話って結構珍しいな
ソースが黒田家譜とはいえwww

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/03(月) 23:20:05.31 ID:pEDUiE8V
>>しかし市右衛門殿の高名は、嘆の中の悦でありましょう、」と言った。

これにカチンと来たんじゃないかと

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/03(月) 23:49:32.35 ID:txmPMbZ8
細川の筆頭家老ともなれば敵と取っ組み合いするわけねえだろ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/04(火) 00:14:52.32 ID:34/zPMmv
幽斎「そやね」
荒三位「」

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/04(火) 01:04:00.52 ID:REOKjAkO
>>644
黒田家は若当主が…

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/04(火) 01:58:52.68 ID:tKgXKY+I
>>646
又兵衛乙

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/04(火) 02:27:59.85 ID:Bqg1Lqz/
指揮する立場にある人間が周りの状況何も分かってないってどうなの

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/04(火) 07:24:25.83 ID:4dIDLx/V
本当に分かってない必要はないのでしょ
後で人の働きをペラペラ批評する態度が軽薄に見えるというだけで

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/04(火) 07:40:43.42 ID:gl29t/X6
後で人の働きをペラペラ批評する態度が軽薄...黒田家譜全否定

松井佐渡守の遺言

2013年09月12日 19:58

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/12(木) 08:09:53.46 ID:UDoFx5XB
松井佐渡守の遺言

細川忠興の家臣松井佐渡守と有吉頼母助は両雄とも言える重臣である。

佐渡守は遺言に「士は武辺一辺倒が良い。私は歌道・茶の湯・弁舌・
公儀などが秀でていたので武辺の事は誰も言わない。

場数で言えば有吉より二度多い。しかし世間は公儀分別は松井、武辺は
有吉と言うばかりだ。

士たるものはただ有吉のように武辺ばかりでその他は不調法なのが良い」
と申した。

(翁草)

自分の武辺が軽く扱われるのが悔しい戦国武将らしい話でしょうか

ちなみに名前をそのまま解釈すると松井興長と有吉英貴になりますが、
内容的には松井康之と有吉立行のような気がします。




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 00:50:39.95 ID:lvVqJBvO
隣の芝は青いって話だね。
武辺一辺倒で読み書きもロクに出来ないっていうような武将に聞かせたら、
いったいなんて言うだろうかw

>場数で言えば有吉より二度多い。

お互い何十回も戦に出ていながら、こんな細かい数字を気にするんだなw

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 01:16:11.58 ID:yR5MQMvy
場数も大事だが、戦場での態度や戦果はどうだったんだろ

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 01:25:53.03 ID:tx4YDjxG
細川さんちは文化人的なイメージあるけど、
やっぱり基本は武将なんだな。
三斎も死ぬ直前に戦場が恋しいと言ってたりしてたな。

松井康之の諫言

2013年03月16日 19:51

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/16(土) 00:14:16.48 ID:jmwYLjKu
文禄4年、秀次事件が起きると、その重臣・前野長重に娘を嫁がせていた
細川忠興にも疑いの目が向けられた。
秀次から黄金百枚を借りていたことも問題視され、閉門を命じられたのだが、
竹田永翁(※注1)からは、石田三成らが忠興を切腹させようと企んでいるとの報まで入っていた。


そんな中、またもや三成がしきりに讒言をしていると永翁から松井康之に知らせがあった。

これを聞いた忠興大いに怒り、

「本来なら年来の戦功に対し恩賞があるべきなのに、日頃三成と仲が悪いために
妨げられ僅かな恩賞すらなく、功ある家臣を賞することもできない。
さらにこの上、讒言が信じられ死を賜ったなら、むざむざ腹を切るものか!
三成を襲い討ち、この伏見を黒土にした上で、自ら首を掻き落してくれる!」

康之はこれに対し、

「もし幽斎様御夫婦が安穏に許されるなら、ご孝行の為大人しく切腹なさるべきです。
そうなれば御介錯を務め、御供仕りましょう」

忠興は深くこれに感じ、それからは切腹を申しつけられた時の用心に、毎日行水して白い肌着を着ていたという。

また、米田助右衛門を聚楽第の細川屋敷へ遣わし、伏見よりの一報次第で忠興夫人と子息を生害させ、
屋形に火を掛けた上で切腹せよと定め、死期を待ったのである。

(綿考輯録)

※注 永翁は忠興のいとこ違いにあたり、松井康之の甥にもあたる。
   目付役を務めていたので、五奉行の相談している席にも出入りできたという。


三斎様、どうせ死ぬなら三成を殺して伏見も焦土にする!とブチ切れるお話。
この後は前田利家や徳川家康に頼んで金を借り、
秀次から借りた黄金百枚をなんとか返すことで許されるのであった。




923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/16(土) 11:44:11.06 ID:z6oHy/xE
竹田永翁って名前だけ大坂の陣で出てくるけど細川家の親戚だったんだ


松井康之、長岡(細川)家生き残り戦略

2012年09月02日 20:53

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 22:33:54.93 ID:eWA0Nf07
長岡兵部太夫殿(細川幽斎)はつねずね、「この家が今まで続いてこれたのは、偏に家臣である松井佐渡守(康之)の
分別のおかげである」と仰っていた。その理由はこの様なことである

信長公の時代、幽斎のもとに信長からの使いが来て、このように申し渡した

『摂津・河内の内から12万石、もしくは丹後の内より12万石、このどちらか望みの方をそなたに遣わす。
返事は明日申し上げるように。』

そう伝えると宿所へ戻っていった。

幽斎は、摂津河内に12万石を頂くのがいいと考えたが、ともかく家中の重臣である松井佐渡守、
有吉四郎右衛門、米田次郎兵衛の3人を呼んで相談した。

有吉と米田は「丹後は遠国です。摂津河内は京都に近く、この二ヶ国の内を以って御拝領なされるのが良いでしょう。」
と申し上げた。
ところが松井佐渡守は

「私の判断を申し上げますと、選ぶのはこちらしかありません、丹後です。
丹後は確かに遠国です。京に近い摂津河内とは違います。しかし、ここで考えますに、
今後、天下(畿内)と西との争いがあった時、摂津河内はそれに巻き込まれ、必ず弓田の巷となります。
天下と東との争いがあれば、美濃尾張近江、この2,3ヶ国が戦場となると、古き者どもは言い伝えております。

私が考えますに、摂津河内の間で12万石を領したとして、天下と西との合戦が起こった場合、天下に付いたとしても
西に付いたとしても、その日のうちには裸城となり、その上12万石の領地も2,3年のうちに荒廃してしまうでしょう。
ただただ、遠国の丹後を拝領なさるべきです。

何故ならば、天下に何事があったとしても、50日100日の間には世間は静まるものですが、丹後にあれば
その間をゆるゆると観察することができます。これでこそ、御家を存続させられるのです。
判断を間違われてはいけません。丹後を拝領なさるように、どうかここは私にお任せ下さい。」

そう、たって申し上げ、これに幽斎も「ならば佐渡守に任せる」と、丹後を拝領することに決めた。

その後明智光秀殿が信長公を討った時、摂津河内は大いに乱れ、中でも摂津は二年間に渡り
荒廃し尽くしたという。

『長岡の家がこの被害を避ける事が出来たのは、偏に佐渡守の分別厚きゆえである。かの家が
今まで続き、今ほどの大名に成れたたのも、臣下である松井佐渡守のおかげである。』

当時世間では、このように噂し合ったという。
(川角太閤記)

松井康之による、長岡(細川)家生き残り戦略である




314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 23:21:12.84 ID:mmhaNcaa
松井康之はかなり優秀なNo.2
創作物で藤孝忠興をメインで扱ったネタが少ないせいかパッとしないのが残念だ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 00:11:44.54 ID:rIaMy6lO
右近左近を手放した筒井……

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 00:20:17.75 ID:VLMvjT/b
やっぱりNo.2は重要だな。

千利休、松井佐渡宛書状

2012年02月25日 21:52

千利休   
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 21:51:56.44 ID:DqvOt9Ce
天正19年正月2日 利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家重臣松井佐渡へあてた手紙
当時忠興と松井康之は二本松にいた

一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
   上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
   (原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
   そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。

この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる




157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 22:22:39.12 ID:RBnHfnfy
利休が凄い真面目に仕事してるな
政宗もインパクトあるが、ここからの利休切腹の唐突さもだな

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 22:40:42.09 ID:Rb5F36R7
一枚の書状中で浅野の呼び方がコロコロ変わるのが面白いな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 23:27:00.54 ID:a+L0bCZ7
原文でも家康は家康なのかな?

160 名前:156補足[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:37:56.69 ID:aPkWpTbf
書き忘れたけどこの年は閏月があって、政宗はその間に秀吉と清州城で会って上洛命令を受ける
2月4日に鶺鴒の花押云々の申し開き。

原文でも政宗は呼び捨て、家康は「家康様」になってます

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:44:40.88 ID:zvE23jAL
政宗の呼び捨て安定っぷり
やはり本人がそう呼ばせた説を採用したくなる

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 02:32:25.55 ID:Dy7+zov0
政宗は諱呼び捨てされてないと落ち着かないぜwww

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 06:50:02.74 ID:xPON8ctP
名門もあって政宗はこの時点で官位は既に左京大夫だし
普通はこっちで呼ばれるものだよな

やっぱり本人も政宗と諱で呼び捨てられるのを気に入ってたのかもな

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 07:00:19.17 ID:iawcxI+t
諱で呼ばれる俺かっこいい!って本気で思ってそうだな

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 07:56:41.49 ID:9BQRiRce
正宗
「諱で呼ばれる こいつはすげえぜ」

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 08:45:29.07 ID:3lD6q11i
>>166
誤植のようで誤植じゃない!不思議!    いくらなんでもメタルダーは古いと思うんだ。

政宗「あ?なんだよ、オメーら、左京大夫とか呼ぶんじゃねえよ。ダチじゃねえか、政宗って呼べよ」
特攻の拓とかあの辺のイメージだなー

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 10:23:06.30 ID:4CDCr6mD
家康あたりには「気楽に本名で呼ばせてりゃ野望も隠せるだろ」で説明がつくな。しかし他の椰子にまで言わせるってことはよほど名前が気に入っていたのか?

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 10:26:42.32 ID:AUm7LWfq
政宗「俺の名を言ってみろぉぉぉ!」

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 11:03:43.55 ID:q0oKbO/f
まさかこのスレで説教ソングの大御所の名前を聞くとは・・・

細川家「古田織部は…」

2011年10月20日 22:00

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 11:05:38.81 ID:59//tCDO
いい話か微妙だが

天正7年(1579)9月、雲林院式部大輔を主将とする三千が篭る丹波鬼ヶ嶽城を攻めていた明智光秀のもとに、
細川忠興が重臣・松井康之等の手勢を率いて駆けつけた。光秀は、婿の加勢を喜んだ。

「では忠興殿、大手門(表口)を攻め候え!」
「手柄の機会を回していただけるか、かたじけない。」

だが、光秀の命に従わない者もいた。

「ふっ、馬鹿正直に大手から攻めていては、いつ落とせるか分からぬわ。」
細川家臣の古田左助は、城の裏山から搦手門(裏口)を打ち破って攻める事を企て、山の間道へ押し入った。

左助は途中、城方の物見と遭遇し、一騎討ちの末これを下したり、木の根、岩の角に取り付いたりしながら
やっとの思いで城の裏山によじ登る事に成功すると、一息に坂を駆け下り、搦手をこじ開けて大音声を発した。

「古田左助、一番乗りして敵を討ち取ったるぞ!!」

「ちッ!左助に出し抜かれたか!」
これを見た忠興が発奮し、相手をしていた騎馬武者を突き伏せ首を取ってみせると、それが合図としたように
全軍一同に城へ攻めかかった結果、城主の雲林院こそ逃がしたものの、城を落として二百余を討ち取り、
城方の救援に駆けつけた、名だたる赤井悪右衛門直正を撃退する大戦果を上げた。


褒美として五百石を与えられた左助は、その後も戦功を重ねて信長の直参に取り立てられて織部正を名乗り、
千利休に弟子入りして茶道の達人となった。すなわち、古田織部である。

“(当家の記録はこうなので)信長公記等で織部を最初から信長直参とするのは疑問が残る”(綿考輯録)


工エエェェ(´д`)ェェエエ工




179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 12:28:15.04 ID:SntYkKwA
その記録の方がよほど疑問に残るw

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 12:53:16.92 ID:RT4ksHeo
織部が細川家家臣だったなんて面白いw

181 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/20(木) 13:12:24.61 ID:wLqoC7B4
なんと言う猪武者…織部


だめだ、イメージがわかない

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 14:26:34.54 ID:vAdDsRZl
ありえない

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 14:31:55.87 ID:72Gec9Ki
これはあり得んだろうとは思うが
実際、古織さんはどれくらいの強さだったんだろう

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 16:20:05.64 ID:cyAcRuAk
まあ一応信長直参の侍だしそれ相応の強さだったんじゃないか?

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 17:05:50.41 ID:tLFlhn2W
確か、細川元首相がへうげ作者との対談で言ってたなあ、これ
ソースは綿考輯録だったのか

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 17:29:00.88 ID:xy+6/ktN
細川元首相って今は茶人、陶芸家をしてるらしいが
作品が結構な値で取引されてるみたいだな
ネームバリューでの評価が高いんだとは思うが現代にも数奇者が多いのかね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 18:49:17.72 ID:AOq2ILgY
永青文庫ってお宝あったっけ

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 19:42:47.05 ID:uWBq4EYU
永青文庫はお宝の山です。
仕事で関わる度にゲヒヒしたくてたまりませんよ!

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 19:47:43.84 ID:3GhbbP3C
へうげもので細川ガラシャの死がむちゃくちゃに書かれていた、ときいて
細川元首相の心象を害さなかったんだろうか、と思ったが、細川ガラシャ系の子孫ではなかったんだな

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 19:53:38.84 ID:Rj5aTVKA
>>187
金象嵌銘 光忠光徳っていう刀とか時雨螺鈿鞍、金銀錯狩猟文鏡は国宝だよ。
宮本武蔵が描いた掛け軸とかは重文だったかな。

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 21:49:00.31 ID:Q1KysmMC
特別展覧会 「細川家の至宝―珠玉の永青文庫コレクション―」
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/111008/index.html
 三斎様の偏屈そうな肖像画と忠利の人のよさそうな肖像画の対比が印象的でした。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 02:14:15.42 ID:nNPXazme
>>189
つか幽斎様だし>細川護煕(職業:陶芸家)

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 03:06:35.09 ID:r7txd6tf
>>189
無茶苦茶といえば無茶苦茶だけど、
大変格好いい死に様でしたよ

12連斉射銃を持ちだして石田勢をなぎ倒すとか、
さすが鬼の嫁は蛇と自称するだけのことはある

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 09:55:06.34 ID:Hb/COBz3
>>191
「美の世界では天下人」とかいうやつだなw

忠興借金事件の後日談

2010年10月28日 00:00

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 02:17:14 ID:QEwEFRZY
細川三代という本に出てたちょっといい話

秀次事件の時、細川忠興が秀次に借金をしていたことで窮地に陥ったとき、
徳川家康がその金を渡して事なきを得たという話は有名である。

で、実は忠興、その金を関ヶ原の後、秀次事件の時金策に回った家老、松井康之に持たせて
家康のもとに返しに行かせた。

松井康之から、忠興の礼の言葉と共に金を差し出された家康はにこやかにそれを受け取り
その律儀さを褒めると、改めて同額の金を、家康よりの下賜金として忠興に送ったそうである。

あの、忠興借金事件の後日談でした。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 19:50:22 ID:XV9N2/NH
>>957
どうせ返すなら関ケ原の前に
「かようなときは金子はいくらあっても足りぬもの。以前お借りした物を今お返しいたします。
また、それがし蔵にあった茶器など売って少ないながら金子に変えましたゆえ、これもお使いください。」
と言って渡せば家康の評価も違ったろうに。
関ケ原で負けてれば家康に返す必要なくなるし、家康が天下人になっちゃったからあわてて返しただけじゃん。
律儀さを誉めたって皮肉だったんじゃないの?
関が原で負けたら御家断絶のつもりであれば茶器なんていくら持っててもしょうがないだろうに。
如水あたりには所詮三流のお人よのうと馬鹿にされそうな話だ。

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/27(水) 20:09:28 ID:FH+m84gc
三斎はそういう腹芸はできない人だからこそいい!