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「飢饉の兆しである」

2016年11月21日 17:32

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 02:57:40.45 ID:BF3y+tQK
この夏(慶長13年)、麦は豊年だった。ただし、関東の麦は凶年だった。

奥州南部に金があるということで、金掘りたちが、その山に佐渡国から下って来た。
初めは際限無く金が出たのだが、そのうちに出なくなった。

再び金堀りたちは松前に下った。松前の主(松前慶広)は、かの地は兵糧が乏しい
ため、それ以来「飢饉の兆しである」として、「(金掘りは)許容できない」としたという。

――『当代記』



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藩祖伝来の兜

2014年04月03日 18:59

868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/03(木) 12:23:59.46 ID:ayhuo9bP
戊辰戦争の時、新政府軍に城を占拠された松前藩主・松前徳広は再起を図るため、わずかな家臣や家族と船で津軽に脱出した。
しかし海は大荒れで、いまにも船は転覆しそうだった。
このままでは危うしと、藩祖・松前慶広が太閤秀吉より拝領したと伝わる松前家伝来の兜を海神に捧げ、嵐を鎮めたまえと一心に念じた。
すると海はみるみる穏やかになり、徳広一行は津軽へと渡ることができたという。

余談ですがこの兜、かの有名な「諏訪法性の兜」だって話もあるんですが・・・
ちょっと盛りすぎだろー、と思ってしまったのでこちらに。




869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 14:02:02.24 ID:ZZlSpcmg
>>868
戊辰戦争で戦ったのは旧幕府軍
あと完全にスレチ

870 名前:868[] 投稿日:2014/04/03(木) 14:42:55.45 ID:ayhuo9bP
>>869
>戊辰戦争で戦ったのは旧幕府軍
ああ、そうなのか。素で間違ってたわ。ご指摘感謝。

俺もスレ違いかと思ったけど、慶広所用の兜だし
まとめにも某所用の品が~的な話もあるし、その範囲かなと思って書いてみた。
松前の話ってあんまりないしな。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 16:19:38.41 ID:kipJlKAu
松前藩はアイヌ施策の酷さとか
戊辰戦争時の不甲斐なさ(数時間で松前城落城)で
いいところがないからなぁ。
今ある北海道に松前藩の関与はほとんどないし
道民からしてみると一緒にされたくないというか何というか。
まぁ、宙に浮いた存在で
逸話が掘り起こされないのはそういう面もあると思う。

松前・津軽和解

2011年05月23日 00:00

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 19:49:25.37 ID:8Oy76fio
文禄元年(1592年)、津軽為信は海路で上京しようとしたところ暴風雨にあい、
蝦夷の松前に漂着した。松前の領主・慶広は為信が漂着したというこで自ら出向いてきた。

「殿、慶広殿がいらっしゃったようですが」
「放っておけ」
「は?しかし・・・」
「わしは安東の領土の土を踏むつもりはないわ」

為信は安東氏の領地であることを理由に上陸を拒んだ。
もともと両家は敵対していたこともあって、為信の態度は慶広に疑念を抱かせた。
その後、名護屋、大坂においても両者に不快なことがあり、両家の関係は冷え切った。

が、慶長十五年(1610年)に転機が訪れた。慶広は駿府でたまたま老中の安藤直次と会った。
「松前と津軽の不和というのはよろしくないことです」
直次は慶広と為信の子・信牧を戒め、両者を仲裁した。為信はすでに没している。

このために元和三年(1617年)、慶広は参勤の途上、弘前の信牧を訪ねた。
信牧は慶広を厚くもてなし、慶広は則重の刀を贈り、信牧は宝剣と駿馬を贈った。
これより二藩の関係は良好となり、松前は参勤で津軽を通らければならないので、
津軽はその際には諸々の便宜をはかり、慶広の娘は信牧に嫁いだ。
また蝦夷地に何か有事のあるときは、幕府はまず津軽藩に命じて松前藩を
助けさせるのが慣わしとなった。


768 名前:762[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 21:01:21.87 ID:8Oy76fio
>>762
投下しておいてなんですが、1617年だったら慶広死んでますね・・・
元和元年か二年と間違ったかも
新北海道史にあった話なのでつくり話ではないと思うんですが手元にないので確認できません
申し訳ないです・・・




763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:15:46.48 ID:1Es3p1pE
なんでわざわざ仲裁したんだろう?
不和で有り続けた大名同士なんて大藩でもいっぱいあるのに

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:24:55.25 ID:8chlkP+c
幕府がわざと仲悪い大名家を隣に配置して相互監視させたって
どれくらい信憑性あるんだろうか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:35:16.86 ID:wp6nrZ9o
何もしなくても隣国とは勝手に仲悪くなることも多いしな。
ただ松前だとアイヌの問題も含め国境線ってこともあるからいざという時に
真っ先に援護する必要のある津軽と露骨に嫌い合ってるのはまずいと
いう判断はあったのかも?

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:54:23.87 ID:1J67Q7wl
>>764
そういう意図は殆ど無かったと思われる。
というか、そりゃあ仲良くなられすぎても困るが、仲が悪くっちゃお互い警戒して交流がなくなり
むしろ情報が入ってこなくなるもの。
あと、ライバル大名同士を隣合わせに配置する、というやり方は室町幕府がやって大失敗した。

監視という意味では、室町幕府と違ってそれぞれに地域に譜代大名も入っているわけで、
大名同士が勝手に仲が悪くなったのを後から江戸幕府に責任転嫁した、といった例がほとんどだろうね。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 21:14:24.15 ID:WyJXsj8a
>>768
県史でも軍記物から引用してたりするからね

作り話とまではいかなくても、年代や人物のズレはあるよ

蠣崎氏のアイヌ民族対処法

2009年10月03日 00:08

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 21:40:32 ID:p/bFVAWk

あと、新スレ記念と言うことで良い話スレに蠣崎ネタを投稿したので、悪い話スレにも

蠣崎氏のアイヌ民族対処法

コシャマインの戦い以後、戦国時代に突入してからもアイヌ民族の武装蜂起は何度か起きた。
記録でわかるのは、1471(文明三)年・1512(永正九)~1513(永正十)年・1515(永正十二)年・
1525(大永五)年・1528(享禄元)年・1529(永享二)年・1531(永享四)年・1536(天文五)年の8回である。
本当はこれより多いかもしれないし少ないかもしれないが、少なくともこれらの蜂起により、
道南の守護・領主たちは滅び、また蠣崎氏も本拠地を攻撃されたりしている。
そんな状況で蠣崎氏はなぜ生き残ってこれたのか?それは鎮圧の方法にある。
蠣崎氏は「和 睦 の 席 で 首 長 を 殺 害」する手段をとったのである。
例に挙げると、
・1515年のショヤコウジ兄弟→和睦するような儀式を行いつつ、酒に酔ったところを光広が斬殺
・1529年のタナサカシ→タナサカシが「償い物」を受け取ろうとした際に義広が射殺
・1536年のタナサカシの婿のタリコナ→酒宴の場で義広自らタリコナ夫婦を斬殺

何故、アイヌの人たちは和睦の席で暗殺されたのか?これにはアイヌの習俗が関わってくる。
アイヌでは他集団との紛争解決手段として「非があったとされる集団が相手に宝物(イコロ)を
差し出す」のが常とされた。
そこで、当時まだ劣勢にあった蠣崎氏は、これを利用して難を切り抜けていったのである。
もっとも、こんな手段をとっていたのでは根本的な解決になるはずもなく、その後も対立は続いていく。

時代は下るが、1669(寛文九)年にシャクシャインの戦いが起きた。
シャクシャインは反松前の機運を利用して敵対していたアイヌをまとめ、
東はシラヌカ(現白糠町)から西はマシケ(現増毛町)に至るまでの大規模蜂起を統率したほどの
男である。
だが、そんな彼も「和睦の席」で酔ったところを殺害されてしまう。
ちなみに、彼は松前藩からの「償いを出せば命は助ける」という降伏勧告を一度蹴っている。
これはもしかしたら暗殺を恐れてのことだったのかもしれないが、今となってはそれは
本人たちしか分からないことである。




51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 21:43:39 ID:iMVWAA8b
悪すぎる…

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:02:34 ID:dXEyIwRu
すごいでかい規模だなおい<シャクシャイン
白糠-増毛間って200~300キロぐらいあるぞ


蠣崎慶広の下積み時代のお話

2009年09月17日 00:19

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 03:56:23 ID:jCwKIiZ1
天才丸の幼名で有名?な蠣崎慶広の下積み時代のお話でも


お人形遊び実季ちゃんのパパ愛季さんが健在の頃のお話。
この頃は蠣崎さんは安東家の一家臣に過ぎない。戦があれば従い、無くても近従すること甚だ多し。

天正十一年、比内地方を治める浅利勝頼と愛季さんが和睦することになった。
……のは勝頼だけで、愛季さんはこの機会に勝頼を暗殺しちまおうと考えた。

そんなこともつゆ知らず勝頼がのこのこ檜山にやってきた。
愛季の配下である深持季総が勝頼に酒を盛り、飲めや飲めやと進めるわけであるが
この男、何度も手柄を立てた大剛の者。

どうみても刺客です本当にありがとうございました

刹那! 季総は太刀を抜いて勝頼に襲いかかった!

が!
勝頼、咄嗟に自分の太刀を持ち、柄で受けとめた。ナニソレカッコイイ
さらに太刀を抜き、季総の剣戟を払いながら座敷を立って飛び去る勝頼。
伊達にその武勇を北奥羽に鳴らした男ではなかったのである。

慶広は勝頼が飛び移った次の間に控えていたからこれは大変である。
それでも慶広、臆することなく咄嗟に太刀を抜き、勝頼の股を切り落とした。
さらに倒れる勝頼を冷静に討ち取り、暗殺を成功させたのである。


これには愛季さんも大喜びですぐさま褒美に檜山郡領地を切り分ける程。
手紙には「もう二、三日も顔を見てないので寂しい」とか「もう兄弟のうち誰か
一人ここに住んじゃってもいいんじゃない?」
とか書き出すぐらいなお気に入りとなったのでした。


そんな蠣崎慶広の(度胸の)いい話






だがしかし、その慶広が湊合戦の時は自分をスルーして大名として独立したときの
実季の気持ちを考えると……





491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 13:20:40 ID:uSgI47jb
>>483
勝頼って名前は縁起が悪そうだな・・・

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 23:07:05 ID:3zqzTm3y
>>491
黒田秀忠
武田信長

既視感を覚えるような名前の武将っているよね


蠣崎慶廣とアイヌ兵・悪い話

2008年10月16日 12:59

681 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/15(水) 04:08:20 ID:WS1HZZju ?2BP(500)
大阪の陣に於いて、
蝦夷の蛎崎氏にも、もれなく軍役が課せられる事になったのだが
蝦夷から長駆大阪へ出陣するのを、家臣達が嫌がり思うように兵が集まらない。
そこで蛎崎の殿様はアイヌの民を騙し、大阪へ連れて行くことになった。
アイヌの兵達を見た東軍諸大名は
未開の地の兵達はきっと勇猛に違いないと、羨望の目でアイヌの兵を見る。
それには殿様もご満悦。

しかし、実際に合戦が始まると見たこともない凄まじい銃撃戦にアイヌ兵は戦意喪失。
各自敵前逃亡をし始め、それを物頭が必死に追い掛け回すという状態になり大混乱
結局、特に功無く、蛎崎勢はスゴスゴと国許に帰っていったとさ。

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/15(水) 04:09:38 ID:WS1HZZju ?2BP(500)

ごめん つけたし
(格好)悪い話。