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松原内記刺殺事件顛末

2014年02月02日 19:06

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 20:35:03.48 ID:hYoT6XAn
慶長14年(1609)5月18日、紀伊国主である浅野幸長の用人(近習)であった松原内記が、
左内と言う者(年齢17歳)に刺し殺されるという事件があった。その内容はこのようなものである。

この左内という若者は京都の人間であったが、浅野家に奉公したいと思い、そのために紀伊に下ることを、
つてを以って松原内記に言い送った。松原はこれを承知し、紀州に下ってきた左内を招き、小袖などを
与えた。

ところが、この時松原は左内を一目見て恋慕し、幸長に紹介せず、彼をわたくしに抱え置き、
懇ろに遇した。

そのような中、6月になって丹波国に普請があるということで、松原内記浅野幸長の命令により
丹波へと行くこととなった。

この頃までに、松原が密かに抱えた左内の事は内々に幸長の耳にまで入り、幸長は内記を一目見たいと
度々松原の屋敷を訪問したのだが、松原は深く彼を隠したので、終に見ることが出来なかった。
しかし松原は、自分が丹波国に行っている間に幸長に彼の事が露見してしまうと恐れ、左内を
自分が出発する20日前に、人を付けて京都へと密かに行かせた。

ところが、この後書状が左内に送られ、そこには『今後松原内記はお前を相抱えない』とあった。

左内はこれを見ると大変に怒り、父母親類にも隠して紀州へとただ一人下り、松原内記の屋敷に忍び込み、
彼が居間で寝ているところを、大脇差を以って三刀で殺害した。そして自身も、その場で自害した。
左内という若者は、大変美麗であったそうだ。

しかしこの事件は、近習を殺された浅野幸長を激怒させた。彼は左内の紀州への奉公を助けた
京にいる彼の叔父の坊主が、この件に関して内々に知っていると考え、大御所徳川家康の居る
駿府の奉行達、並びに女房衆に、この叔父を抑留するよう申し送った。

これを家康は承知せず、また京都所司代の板倉伊賀守も、この件に関しては「浅野幸長の存念は
然るべからず」と発言した。京畿の庶民たちも、「これは紀州殿(幸長)が筋の通らない事を言っている」
と批判した。

それでも浅野家では、「この事をこのまま放置してしまえば、我らの京都での外聞然るべからず」と
しきりに駿府に訴え出たため、駿府でもこのまま黙視することは出来ず、かの叔父の僧侶を
11月に浅野家に引き渡し、彼は牢に入れられた。

(当代記)

浅野家における、衆道がらみの事件の顛末である





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