岡崎殿御生害之こと併異聞

2017年02月06日 17:55

580 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」

581 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる
スポンサーサイト

「子はかわいいものだ」

2016年07月15日 15:42

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 04:01:18.61 ID:d7hDg5lw
酒井忠次は子息を連れて、徳川家康の御前で、「倅のことを頼み奉ります」と、
申し上げた。すると家康は、「子はかわいいものだ」と、言った。

これは、松平信康を生害の時、忠次は何とかして庇うべきであったのにという
嘆き恨む心から出た言葉ではないかと、その時分に申したとのことである。

(酒井左衛門尉子息ヲツレ権現様御前ニテセカレ事ヲ頼奉リ候ト申上ル権現様
子ハカハユキモノナリト御意ナサレ候コレハ岡崎様ヲ御生害ノ時左衛門尉何トソ
カカヘ奉ルヘキ事ヲト御歎恨ノ御心ヨリノ御諚カト其比申候由)

――『武功雑記』

周囲が噂したという話で、家康の真意は不明なのね。



お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない

2015年12月26日 17:20

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/25(金) 19:39:27.88 ID:k6+k8muw
徳川家康の嫡男・三郎殿(松平信康)成人の後、岡崎城へと入ったが、彼には
傅役として平岩親吉がつけられた。常には彼が家のことを執り行い、合戦においては
その介添えをした。三郎殿が若年にもかかわらず、弓矢の御名が海道に顕れたのは、
平岩の功が莫大であったと言われている。

天正3年の秋、三郎殿の舅である織田信長が、酒井忠次を召して、三郎殿に謀叛の聞こえあり、
事未だ成らざる内に、速やかに誅せよ、そう伝えた。

平岩はこれを聞いて大いに驚き、急ぎ家康のもとに参った
「岡崎殿(信康)御謀反の噂があるため、これを失わせると承りました!
父子の御仲、何の遺恨があって今、このような結論に至るのでしょうか!?
これは偏に、讒者の訴えたことが原因でしょう。殿がもしその真実を糺されないのなら、
後悔遠きには出ないでしょう。

こうしてください。この親吉が年来傅役として岡崎殿に付けられていた以上、罪は親吉一人の
身の上に帰せられ、速やかに首を召して信長のもとに参らせるのです。そうすれば信長も、
暫くはこのことを言い出さないでしょう。
岡崎殿の御身においては、本当に咎は無いのですから、とのかく時間を稼いでいるうちには、
申し開きをするまでもなく、信長の疑いは解けるでしょう。
どうかどうか!親吉の首を召して下さい!!」

家康は答えた
「信康の謀叛の噂が、本当とは思わない。だが、私は今乱れた世の中にあって、大国の間に挟まれ、
頼む所はただ、信長殿の援助だけなのだ。いま、彼の助けを失えば、我家が滅びること、明日を待たないだろう。

であれば、私が父子の恩愛が捨てがたいために、累代の家を滅ぼすというのは、これは子の憐れみを知って、
父祖の事を思い参らせないと言う事ではないか。この事を考えていなければ、どうして罪なき子を失って、
つれなく身を立てようと思うだろうか。

また、お前の命を奪って信康の首を継がせることが可能ならば、お前のいう所も一理あるだろう。
だが、信康はもう、逃れられないのだ!その上にお前まで失っては、この家康は恥を再び重ねる
事になる!

お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない。」

そう、涙にむせびながら語った。

これに平岩は、重ねて申し出す言葉もなく、声を惜しまず、大声で泣いた。

こうして三郎殿は岡崎の城を出て、大濱に移され、堀江の城に入って、また二俣城に移され、
ここにて切腹するよう天方山城守、服部半蔵が使いに参り、同年9月15日、御年22歳にて
失われた。

この事に当家も他家も、おしなべて惜しまぬものはいなかった。

(藩翰譜)



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/25(金) 21:48:37.33 ID:MRJlB4n7
服部が証拠集めしたが不利な内容ばっかで切腹に至ったらしいね

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/26(土) 17:45:06.99 ID:obnu7pmC
信長が家康の好きにすれば?って手紙残してんだよなー
信虎追放した信玄の失敗版だっただけな気がする

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/26(土) 20:36:52.92 ID:DxzzGBmF
もし信長のせいでないとするなら
平岩みたいな岡崎スタッフの管理不行き届きを問われなかったのも
よくわからない

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/26(土) 23:20:15.53 ID:8YsbLO4d
家康の子供って秀忠以外、狂犬みたいな奴ばかりだよなw
水野の血が覚醒してるのかも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 02:16:22.73 ID:ODpq2u4J
>>813
岡崎と浜松の対立説を推す
親子での対立、派閥での対立は珍しくもないし
てか家康が信長に信康のこと相談してるし親吉は家康派と考えれば何の不思議もない
蟄居からの復帰とか出来レースっぽいし

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 09:14:11.75 ID:NzIQ5Cec
>>812
当代記に書かれた内容で、信長の書状そのものは残って無かった筈。

>>813
親吉は蟄居してますよ。
他にも信康近臣は処罰を受けたり牢人したりしてますし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 22:10:10.78 ID:ZwKL14rU
まー普通に粛清だろな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 22:42:19.08 ID:6NJTBT2q
北条家とか戦国時代なのに家族仲良すぎ

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/28(月) 07:40:42.76 ID:GGXIh0B8
>>818
歴代当主が早死にしなかった事と相続がしっかりしてたのが大きいかな。

当主の兄弟を他家の乗っ取りに使ったり、支城主に据えたり結構な権力を
与えてる状況で、謙信や信玄の来襲のようなピンチに陥っても離反されないのは凄い。

親たちがそのように仰られるのでしたら

2015年09月16日 13:24

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 21:48:20.45 ID:N7D7UwBE
天正元年、奥平貞勝の嫡子貞能が、武田勝頼を裏切り徳川家康へ仕えたいと申し出てきた。
そこで家康は長篠城を与え、「貞能の嫡男九八郎(信昌)をやがて私の婿にしよう」と言った。

これに対して徳川信康が「とんでもないことです!私の妹婿をどうして九八郎にしなければならないのですか!」
                (存知もよらず。我らが妹むこに何とて九八郎を仕らん哉)
と言って反対した。
それで流石に無理に進めるわけにもいかないので、家康は信長に伺いをたてた。

すると信長は、
「信康のいっていることは聞いた。しかし、貞能・信昌は忠節な人であり、また大事な国境を預けられているのだから、
信康殿は不承知を我慢して、このことは家康に任せた方がいいと思う」と言った。

信康はこれを聞いて
「親たちがそのように仰られるのでしたら、どのようにされてもご存分次第に」
と言い、そうして亀姫は奥平信昌と結婚した。


『三河物語』より、徳川信康が同母妹・亀姫の輿入れに反対した話である
若い信康にしてみれば、自分と同腹の妹はやはり徳川家と同格の大名に嫁がせたかったのだろう、
と小楠和正著『浜松城時代の徳川家康の研究』では考察している
後年の信康切腹につながる家康と信康の対立の要因の一つであるかもしれないちょっと悪い話




319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 22:11:09.81 ID:dLdCnlPM
奥平は、家康に下った(勝頼を裏切った)ために
人質の親戚の娘を勝頼に殺させてるな。
彼女は奥平の息子の妻って説もあるし、それが本当だったら
そんな不実な奴に妹を嫁がせるのが不本意ってのもわかるんだが

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 23:47:58.54 ID:eS4JXMur
新田勝頼だと人質は信昌の許嫁だそうだ
これを勝頼が側女にしようとしたから離反となった
ちなみに離反後に女は自害
正室を殺されてるところに家康から婿にならないか?と誘われれば例え養女だったとしても忠節を尽くすだろうな

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 00:16:45.44 ID:p7XFt/ZS
>>320
新田勝頼ってそれ小説じゃねーか!

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 01:09:00.51 ID:HBSZDQrh
うろおぼえだが軍艦ネタか何かで、
娘は磔にかけられるってオチじゃなかったかな
どっちにしても「勝頼はダメすぎる」エピソードって事なんだろな

家康の長女をもらって、重要な外戚にしてもらえる恩恵を目当てに
嫁を見殺しにしたとしたら
ちょっと悪いどころじゃない、嫌な話だな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 22:47:15.58 ID:0H+AW7NV
鎌倉時代ですら武士が人質見捨てるなんて別に珍しくも無い話だと思うが

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:02:33.64 ID:gDSzPnL4
一般的に、長篠あたりの奥平親子は
多大な犠牲を払って家康に忠義を尽くしたんだ! 
みたいな美談として語られるが、結局神君史観だし。
彼らに対して悪意のある見解を時たま見る事はある

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:15:21.73 ID:wSbhZ+HO
忠義というより、一度武田を裏切ってるから背水の陣が正解だよな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:35:01.91 ID:M2E8ScPg
まあ徳川も一度裏切ってるんですけどね奥平家(小声

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:39:02.36 ID:/k3dPX73
う~ん、いわゆる山家三方衆は、それぞれ生き残るのに必死だっただけだからなぁ
もともとどこかの譜代だの被官だのってわけでもなく、かといって周囲の大物を敵にまわして単独で家を守りきれる
わけでもなく…忠義だの裏切りだのっていう簡単な話じゃないよね
武田vs徳川の20年くらい前には、織田vs今川の板挟みになって同族間で血を流した時代もあったわけだし

地理的な話をすると、武田勢って山越えで南下してくるから、一旦兵を引いてしまうと併合した奥三河衆に後詰めできない

武田の大軍が来る→戦力差あり過ぎて徳川に付いても生き残れないから武田傘下に入るしかない→武田勢の一員として徳川勢
を攻撃させられる→時間切れで武田勢が山のむこうのおうちに帰る→武田方の奥三河衆が残される→じっと耐えてた徳川勢
反撃開始→独力では徳川に対抗できない…

このループですよ
越後の軍神が越山してきたときの北関東の諸将の立場と似てるかも

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:44:12.79 ID:9Xb9X2zn
武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 06:21:30.82 ID:sjJNYcVD
>>324
神君どうこうより、奥平氏が江戸期に都合の悪い話を粉飾しただけじゃないかな。
武田方から離反した理由もそうだし、信昌の偏諱とかもね。

信康元服の能組

2014年09月02日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 18:57:09.67 ID:hi1ah9LO
元亀元年の八月吉日に松平竹千代が三河岡崎城で元服した。
徳川殿の嫡男であり信長公の婿であったので、
信長の信の字が遣わされ徳川次郎三郎信康と名乗り、岡崎殿と呼ばれた。
信長公はこの祝い事に大変お喜びだった。

しかしこの時あやしげなことがあった。
信康の元服の祝いとして浜松城にて十五番の猿楽の興行が行われたのだが、
この時猿楽師の観世十郎がうっかり次のような不吉なことを言ってしまった。
「今日の能組は、以前今川義元が信長公に討たれる前、駿府において氏真が所望して行った
能組と全く同じですね」
(今日ノ御能組ハ、十年以前今川義元ヲ信長公ヨリ御討捕ノ前カタ、
駿府ノ城ニテ同ク氏真の御所望ニテ仕リタル能組ニ一番モ替ラザル番組ナリ)

家康・信康はこの発言を殊の外気にかけ、ついには観世十郎を勘当した。
後で思い返してみれば、これは信康の行末が不幸なものになる前兆だったのだろう。



織田軍記・松平記などより、信康元服時の異変についての悪い話
元服は確か8月28日だったはずなので、その時に投稿しとけばよかった……



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 19:51:11.09 ID:1noRbxLo
出征前ならともかく…気にしすぎだろ

榊原康政、松平信康に

2011年07月24日 23:04

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/23(土) 23:41:01.64 ID:szxML2ca
榊原康政は家康の長男である松平信康に、素行の悪さを正すようにたびたび忠告していたが、
逆に信康に恨みを持たれていた。ある日、康政の諫言に激怒した信康は、近くにあった弓を手に取り
矢を放とうとした。しかし康政はこれに全く動じる事もなく、

「信康様の事を思って申し上げている者を殺すような事があれば、お父上の怒りは計り知れず、
 結果として貴方の為になりませんぞ。」

と懇々と諭し、信康に冷静さを取り戻させると共に、反省を促したのだった。
「武功夜話」より。




井籠の退き口

2011年04月06日 00:01

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 00:03:14.81 ID:iPyu7KiM
天正3年(1575)、長篠の戦勝の余勢をかった徳川家康は武田に侵食された遠江の回復に着手。
8月24日に東遠江の拠点の一つ、諏訪原城を攻め落とすと、さらにその南方にある小山上へと軍勢を向けた。

だがこれを知った武田勝頼は、町人すら徴兵するという強引なやり方で二万の大軍を揃え救援に出動、
勝頼が大井川を超え接近しているとの報に家康は驚き、小山城攻略を諦め撤退を開始した。

しかしこれを追う勝頼の軍の足は早い。徳川軍は井籠砦を過ぎたあたりで、後ろに武田軍の姿を
確認した。このまま追いつかれては危ない!ここで家康に、嫡男信康が申し上げる

「父上!ここは私が殿を務めます!」

自分が防ぐ間に父を逃がそうというのである!ところが家康これに

「何を言うお前のような若造に任せられるか!ここはわし自身が殿をする!そなたこそ先に行くのだ!」

どこかで見たことのあるパターンですね。ええ、家臣団のおかげで目立ちませんが、この人達もまた、三河者なのです

家康「わしが殿をする!」
信康「いいえ私が殿をします!!」

この緊急事態に親子喧嘩、勃発。よりにもよって主君と嫡子の喧嘩である、家臣たちも止めるに止められない。
この混乱で撤退の足も遅れ、徳川軍、絶体絶命の危機である!


と、そのころ武田軍

勝頼「はっはっは!ここで徳川を殲滅させてやろうぞ!」
長篠でのカタキを討つ気満々の武田勝頼、軍の速度を早め徳川軍を補足しようとした。
が、ここで武田家重臣、春日虎綱(高坂昌信)が勝頼を諌める

「お待ちください勝頼様、連勝の勢いがあった敵に城の包囲を解かせただけでも、武田の武威は充分に
見せつけました。今はそれを保持するべきで、うかつに決戦などすべきではない、と考えます。」

「むむ…!」

長篠後求心力の弱まった勝頼に、この信玄以来の重臣の言葉は無視できない。
たしかに、急ごしらえで集めた軍勢が、決戦で機能するか心もとない。
そう言えばさっきから徳川軍の撤退速度が遅くなったのもなんだか不気味だ。
罠でも仕掛けているのではないだろうか。

「…わかった。弾正(虎綱)の言うこと、尤もである。」


再び徳川軍

まだ盛大な親子喧嘩をやっているところに、物見の兵が大慌てで報告に来た

「も、申し上げます!武田軍兵を返し、小山城に戻り始めました!」

家康・信康「えっ!?何で!?」


神君井籠の退き口、の一席。




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 20:21:38.99 ID:vFxl3U5T
>>521
また高坂か!w

荘内神社と徳川信康

2010年12月16日 00:00

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 11:49:40 ID:63XqE5/V
酒井忠次の子孫、旧出羽庄内藩の山形県鶴岡市では、忠次以下の藩主4人を祀った荘内神社がある。
毎年の例大祭では、まず最初に徳川信康公慰霊祭を行ってから、藩主たちの番となるのであった。

いい話ですねー。でも400年も気にし続けなくちゃならないのは大変だ。



854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 12:05:02 ID:PDEQAXpe
酒井忠次は信康・石川数正の岡崎派とは対立してたからね。
俗説の12ヶ条の逸話などを別にしても後暗い所はあったんだろう。

『徳川実記』より信康切腹を巡る諸々

2010年12月15日 00:02

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:01:00 ID:SqtyEf0o

長篠合戦の大敗後、武田勝頼の打った起死回生の一手は徳川家の取り込みであった。
その成否は判らないが、武田への内通を疑われて家康の正室と嫡子が殺された事だ
けは確かである。

家康に正室の築山殿を斬るよう命令を受け、それを遂行した野中重政は、浜松に帰
還し、主君に報告を挙げた。
しかし家康から帰ってきた言葉は、
「……謀反とは言え、女の事だぞ。どうにでもやりようはあったろうに。馬鹿正直
に命令通り殺してしまったのか?」
その言葉を聞いた野中は、家康の本心を知り、その心を汲めなかった自分を恥じ、
自ら蟄居したと言う。


また、嫡子・信康の身柄が大久保忠世に預けられた時、守役の平岩親吉が家康の元
に出頭し、
「若君の悪評は全て中傷に過ぎません。例え本当の事であったとしても、それは守
役の自分に全ての責任があるのです。私の首を刎ねて織田様に差し出せばそれで良
いではないですか!」
と抗議した。
家康はそれに答えて
「信康の謀反など、私だって本気で信じてはいないさ。でも、徳川家は織田の援助
無しにはやって行けない。お前の首で信長殿が納得するなら、お前の言葉に従うの
も良いだろう。だが、信長殿が納得するには信康の首が必要なのだ。それが判って
いるのに、信康に加えてお前と言う忠臣の首を斬ってしまうのは私に取って何より
の恥なのだよ」
と、涙を流して平岩を説得した。
平岩も言葉もなく、号泣しながら退出せざるを得なかったと言う。

信康の死後、家康主従が幸若舞を見る機会があった。
源満仲が我が子を討つよう家臣に命じた際、その家臣は自らの子を殺し、主君の子
の身代わりとした、という演目であった。
幸若舞を見ながら、家康は大久保忠世に一言だけ声を掛けた。
「……忠世、お前はこの舞を良く見ておくが良い」


『徳川実記』より信康切腹を巡る諸々。
「お前も子供は可愛いか」が有名だけど、忠世も言われてたんだねぇ。




35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:30:19 ID:OdMzCbUJ
>>33
忠輝「なるほど、子を嫌う親はいないということですね」
秀康「生まれた時から手元に置いて大切に養育するよね、普通」

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:39:29 ID:S1SBfOqb
>>35
ちゃちゃ入れるのもあれだがあんたら相当大事にされてるぞ。
特に秀康は家康が本当に父親かどうか相当怪しいというのに。

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:46:41 ID:o3i2IefM
ラスボス「茶々に入れただと!鋸挽きの刑に処すべきか、磔刑に処すべきか」

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:53:58 ID:R/MXzwvL
下ネタ自重w