fc2ブログ

松平信綱による上戸・下戸の優劣判定

2022年07月29日 17:00

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/28(木) 19:29:03.99 ID:gc6Jj94U
朝野雑載」から松平信綱による上戸・下戸の優劣判定

江戸城御番の衆が上戸下戸の優劣を論じたが決さなかった。
松平伊豆守が出座したため御番衆が断じてほしいと頼むと
松平信綱「各々方、子息に教える時は大酒を飲むように教えますか?酒を飲まないように教えますか?」
各々「酒を飲まないようにと教えます」
信綱「下戸の勝ちです。我が子への教訓こそが真実です」
と断じたため、一同感服したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6940.html
松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった

松平信綱の下戸についてはこんな話もあった



スポンサーサイト



朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

2022年07月24日 13:53

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 22:04:08.06 ID:46b6DecW
朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

江戸大火事(明暦の大火)の節、御天守に火が移り焼き上がってしまった。
御城の女中が外に出ようとしたが、道がわからずあわてふためいた。
それを見た伊豆守は御玄関から奥まで畳二枚分の道を空けさせ
「畳のないところをたよりに出られよ」と申されたという。

また伊豆守九歳の時、秀忠公の御機嫌に触れたため、秀忠公に宿直(とのい)袋に入れられてしまい、封をされてしまった。
秀忠公は御台様(江)のもとに袋を預け、そのまま御放鷹に出御された。
伊豆守殿は袋に入っておとなしくしていたが、そのうち小便がしたくなったため「袋を開けてくだされ」と女中衆を呼んだ。
御台様も女中衆も困惑して「将軍様が手づから封をなされたので、開けることはならぬのです。どうしましょう」と言った。
伊豆守は「縫い目をほどきなされよ。それがしを出しなさって、小用が終わればその後にそれがしを入れて元のように縫合なさればいい。」
おのおの名案だと大いによろこんで伊豆守を出した。
伊豆守は小便を終え、また袋の中に入ろうとしたところ
御台様は「将軍様がお帰りになられるまではこのまま遊ぶとよいでしょう。」
とお菓子やその他さまざまな物をくだされ、懇切に遇された。
秀忠公が帰城された時、伊豆守はまた袋の中に入り、女中衆は縫い目を元のように縫合した。
やがて「将軍様御預けのものを御返しください」と御使いが来たため、袋が秀忠公の元に戻った。
秀忠公は袋の中の伊豆守に
「その方、向後忠勤を励むか?」とお尋ねになられ
伊豆守もおそれいって「御奉公、油断なくつかまつります」と申し上げたところ、秀忠公は御手づから袋より伊豆守を出されたということだ。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/24(日) 08:29:14.50 ID:Hx8mz+Tr
玉袋だったんだな

これはおそらく稲荷の仕業だろう

2022年03月23日 16:57

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/23(水) 11:11:40.99 ID:7PYVe/vM
今まで何度か出ている館林城の狐の話を朝野雑載から(時代的には微妙)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-144.html
赤井照光と狐と館林築城・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2278.html
狐の城再び
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12250.html
館林城と決定命婦荒御前
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12371.html
館林城の築城由来

大坂の陣で活躍し、老中にまで昇った松平和泉守乗寿(大給松平家第七代)が館林城を拝領し、城中八幡宮を参詣したところ、
案内に召し連れていた商家の老翁たちが
「先例として、館林の城主となる方は、まず八幡宮に参詣し、次に曲輪の稲荷に参詣した後、ほかのところを御覧あることとなっております」と申した。
和泉守は笑って「城主たるものが稲荷に参詣すべきことがあろうか。
稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、参る必要などあるまい」と言うと
老翁たちは「稲荷は畜生ではなく本地は弁財天貴狐天王と号し、垂迹は宇賀神と称す福神です、参詣なさってください」
と諌めたが和泉守は聞き入れず城中の他の部分を巡見して帰った。
そこへ江戸から飛脚がきて、松平伊豆守(信綱)、阿部豊後守(忠秋)、阿部対馬守(重次)の三老中連署で、
大納言様(家綱公)が痘瘡(天然痘)のようなのですぐ江戸に参府するように、とのだったので、和泉守は急いでその夜の亥の刻に早駕籠で館林を立ち江戸に向かった。
翌日には板橋に到着し、使者三人を三老中につかわし
「連署で大納言様の痘瘡についての書状が来たのでただいま板橋に到着いたしました、先に使者を遣わします」と報告させた。
三人の老中は登城の支度をしていたところでこの口上を聞き、
「大納言様は御快勝であり、連署の書状を遣わした覚えもない。館林にお帰りあれ」
と異口同音に使者たちに伝えた。
驚いた使者たちは主人にしかじかと伝え、乗寿は三老中連署の書状を確認したところ、白紙であった。
乗寿は、これはおそらく稲荷の仕業だろうと憤ったが、しかたなく館林城に帰った。

付記:松平乗寿は翌年、この尾曳稲荷神社の社殿の修築をしているようだ。

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/31(木) 17:31:47.22 ID:Q9oMo27y
>>413のより詳しい話が
「徳川実紀」にも多く引用されている「寛明日記」の、正保二年閏五月廿九日から六月三日の条にあった。
(新日本古典籍総合データベースの678-686コマ)

前半は>>413とまったく同じ話で、
後半は乗寿が案内役の老人に稲荷のことを尋ねたところ
すでに既出の「赤井氏(「寛明日記」では但馬守法連)が子供にいじめられている狐を助けたところ親狐が人(小男)となって現れ、館林での築城をすすめた話」
「元亀二年、北条氏政の下知で伊勢備中守貞宗(貞運?)、山角上野介定方、山角紀伊守定勝、芳賀伯耆守綱可(垪和「はが」康忠?)が城に攻め寄せた時、
夜に風雨が激しくなり、軍勢四、五千の鬨の声が起こり、松明一、二千灯が連なり、北条勢が敗れた話」
「天正十八年に小田原の陣で石田三成、大谷吉隆、長束正家などが攻めてきた時に、石田が材木を切って沼に道を作り、夜明けに渡ろうとしたが、
夜中に松明が二、三千燈ともり、朝になると材木が悉く沼に沈んでしまった。
そこで案内をしていた北条左衛門大夫(氏勝)が「これはおそらく稲荷のなせる業です」と言って、力攻めではなく降伏をすすめた話」
を老人がした。
乗寿は奇特に思い委細を記録し、この前の無面目を晴らすために老中にこの話を送ったということだ。

とあった。残念ながら「徳川実紀」には採られていないようだ。


私は若き時より、敵に向かって臆したことは

2021年12月08日 17:38

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 12:12:17.53 ID:+KDTAwgV
黒田長政の家老である黒田美作一成は、幼名を玉松、後に三左衛門と呼ばれ、晩年に美作と改め、隠居して
睡鴎と号した。彼は肥前島原の役の時に六十八歳であったが、正月十七日、福岡を出陣し島原に至った。

この時、松平伊豆守(信綱)は軍議をしようと彼を召したが、美作は先に城下を打ち廻ってよくよく地勢を
見終わってから、伊豆守の陣所へ行き、
「今日ここに至り、もし愚意を問われても当城の形勢を知らなければ何を申し上げることが出来るでしょうか。
所々を行って廻り見分仕ったにより、すぐには参上しませんでした。」

このように申すと、伊豆守も「さすが老功の者」と賞美した。そして城へ乗り込む時期について問われると、
こう申し上げた

「只今、城へと乗り込むのは然るべからず。この城を力攻めにすれば、勿論即時に乗っ取ることは
出来るでしょうが、敵の弾薬も沢山あり、寄せ手に多くの死傷者が出るでしょう。今はただ取り巻き
兵糧攻めにして、弾薬を徒に尽きさせ、食も尽き、疲弊した時に乗っ取る事こそ然るべきです。

これについて、もし敵を恐れて申しているのだと思われるかも知れません。しかし私は若き時より、
敵に向かって臆したことはありません。現在、他に変は無く、孤立した一揆の孤城に対して
御人数の死傷者が多いというのは宜しからざる、そのためこのように申しているのです。」

これに伊豆守も諸大将も、一成の意見に同心したという。

志士清談



「薩琉軍記」群、について

2021年05月19日 16:05

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/19(水) 14:57:09.20 ID:JDqvmj6u
薩摩の琉球侵攻を描いた軍記物として「薩琉軍記」という一大ジャンル的がある
内容はというと、主人公で軍師の新納武蔵守一氏(新納忠元がモデル)や武蔵守と軍内で対立する佐野帯刀はじめ、
架空人物ばかりで史実とはかけ離れた話ばかりだが
(中には真田幸村が戦死した新納武蔵守に代わって琉球を征服する「薩州内乱記」というものまである)
薩琉軍記」群の一つ、「琉球静謐記」のラストは少し変わっているので紹介する。

琉球征伐後、龍伯公(※琉球征伐の時期なら忠恒のはずだが「琉球静謐記」では龍伯を顕彰しているため)が論功行賞を行ったところ
「朝鮮征伐の時は万死に一生の苦労をしても褒美を得なかったのに、今回の琉球征伐では国内巡視程度の労力で子孫への宝を得ることになった」
と薩摩勢は喜んだ。(軍記内ではけっこう苦戦していた)
これが江戸まで聞こえ、琉球は武を備えていないと評判となった。
琉球国王が江戸に参勤した時、松平伊豆守が国王に尋ねたことには
「なぜ琉球国は戦の方法を知らないのか?兵法の書はないのか?」
琉球国王「我が国ではむかしより戦争なし。
親が死ねば子供が、兄が死ねば弟が継いできたため、跡目争いなどなかった。ゆえに戦に詳しくないのだ」
これを聞いた伊豆守は顔を赤くし退出した。
このことが将軍の耳に入り、誠に優美であるとおぼしめしたため、
それ以来琉球国王を御老中列の次に座し、十万石以上の大名の格として尊重した。

武より文を尊重する時代に入ったためか、知恵伊豆を持ってきて武力発動を戒めるオチが付け加えられたようだ



人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために

2021年04月17日 17:29

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/17(土) 13:03:15.82 ID:3ZdxbqK5
ある人が、豆州(松平信綱)に疑問を述べた
「大名は国を拝領し、常に安楽のみを致しているのに、彼らの参勤の時も将軍家より上使など遣わされ、
御暇を申し付けられた時も、時服、金銀等に至るまで下されます。
一方で御旗本は常に御奉公により頻繁に労苦をも致しております。又何事かあったとしても、
御用に立つのは御旗本に過ぎるものは有りません。

然るに大名への御馳走強く、御旗本へはさほどでもないというのは、これは逆ではないかと思うのです。
どうしてこのような事になっているのでしょうか。」

そのように戯言を申すと、豆州は取り敢えずこのように答えた

「そうであるからこそ、大名に成ることを人は殊に願うのだろう。
さりながら、大名衆をあのように常に御懇に成されているのも、その代に大きな役が当てられ、
或いは御普請の労力など殊の外の御使となり、又御軍があれば、これも誰であっても一口に大きな
御用が仰せ付けられる。そういう事であるから、普段大名衆は御馳走されているのだ。
ただ、人の幸不幸というものであろう。人には生まれつき、こう言ったものが有ると思っている。

身の回りに例えると、人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために指しているのであるが、
十人の内九人は、その用無く過ぎていく。しかれどもそれらを秘蔵する事大方成らず。
また、小刀は日夜の用に立つが、あえてそれを馳走する事はない。それと同じものであろう。」

このように申された、兎角仮初の事にも理屈で人に負けられない人であると、諸人舌を震わせたという。

信綱記



さすが才知有る御老中

2021年04月15日 18:36

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 15:04:01.21 ID:0RxHiCDI
天草一揆の時、松平伊豆守(信綱)を上使として遣わされた。寛永十五年二月二十七日、
一揆勢が籠城した原城は落城した。
これにより江戸に早飛脚を下されたのだが、その文箱の中の書状の上書のすみに、石筆にて
『落城申し候』と伊豆守が書き、これを差し上げた。

江戸の将軍家光は文箱を開くとこれを御覧になり、そのまま御機嫌残る所無かったという。
さすが才知有る御老中であり、頼朝の時代の梶原平三景時であってもこれ程は有るまじき、と言われた。

信綱記



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 16:13:56.75 ID:7irQv36e
梶原景時にたとえる、て褒めてるんだよな

見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

2020年09月03日 16:22

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:27:24.57 ID:EkTrbIWX
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/04(金) 18:06:35.77 ID:UxjSEEFI
>>511
何かおおらかで素敵やん

見附石

2019年05月29日 18:24

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 11:33:05.51 ID:uqZFEhdO
『雲根志』に曰く、山城国伏見の城は、永禄年中(原文ママ。文禄の間違いか)に秀吉公が築かれた。
この大手の門前に見附石という大石があり、その形は山のごとく、廻り2丈あまり、甚だ佳景の石であった。

しかしながらある時、この城に行幸があったが、御車が石につかえて入り難い事がわかった。
俄のことでどうにも出来ず、時の奉行達も大いに困り、これによって近隣の町人、百姓、石匠などを
急ぎ召し集めて、様々に評議され、結論として料金を出してこの石を取り捨てるという事になった。
そこで入札となったが、札を開いた所、その費用として百金、二百金、あるいは五百金などとあり、
これらは皆、石を割って撤去するという工夫であり、石匠を集めて割り取るという事であったが、
中に一人、わずか二十金にてこれを請け負うという札があり、その者に申し付けられた。

どんな工夫があるのかと諸人不思議に思っていた所、行幸のある五七日前に(35日前?)人夫10人
ばかりが鋤鍬を持ってきて、かの大石の前に大きな穴を彫り、その石を穴の中に落として埋めた。
その頃、この者の才覚を褒めないものは居なかったという。
この石は今も土中にあるそうだ(『余録』)

松平信綱が御城(江戸城)内にて石を取り除くのにこれと同じことをしたという伝説が有るが、事実だとしても
人の故知を用いたというわけでは無く、。おそらく自然と符合したのだろう。

(甲子夜話)



四郎こそ我が子と言いながら

2018年12月26日 22:26

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/26(水) 20:53:09.94 ID:ye6XdlVb
四郎こそ我が子と言いながら


ます田の四郎(天草四郎)、この者は近年肥後のうとふ(宇土)と申すところにいたそうだが
この度天草へ参り、みなキリシタンに立ち帰ってしまったという。
しかし大将となった四郎の母、祖母、姉は肥後殿(細川忠利)に捕らえられていた。
捕まっている山に、四郎の姉婿の大矢野の小左衛門と申す者がいたが、四郎が
「母、姉が捕らえられては是非も無し」
と申したので、小左衛門は忍び込もうとしたが捕らえられたのだという。

小左衛門を伊豆(松平信綱)が召し出され四郎のことについて尋ねると
「『四郎は普通のせがれではない』と親が申し做しており、四郎は人間ではないと
 評判になっていたので、人はみな騙されてしまった。私も同様でございます」
と申したという。

(中略)

小左衛門に伊豆殿御公使衆が(四郎の)様子を尋ねると
・四郎は十六だが利発で、読み物をあれこれ読む
・未だかつて十方にいないようなせがれであると、四郎の親は思っている
・親は「四郎こそ我が子」と言いながら「人間ではない」と奇特不思議なことを
 言いふらしたため、天草・有馬の者がキリシタンに立ち帰った
・自分も騙されて「敵がどんなに詫びてきたとしても目を眩まされるな」と言われ
 本当だと思って、みなの為に物事が上手く運ぶようにしていた
と申し、他に申し分はないとのことだった。


ーー『池田家中某氏島原陣覚書』



550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/27(木) 10:34:37.91 ID:A2FsnyoP
畜生のように逆さに吊され生きたまま生皮剥がされるのを目の当たりにすれば転んで自白しちゃうよね

一番乗りは

2017年09月12日 12:06

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 10:21:27.13 ID:JUYJ/n2X
島原の乱の終結後、幕府の下知により九州有馬で戦った諸大名をねぎらうようにと、将軍家光より
大田備中守が豊前小倉まで派遣された。
九州の大名小名が集まった中、備中守が演説した。ここで松平信綱が備中守に向かって申した

「今回、鍋島が軍法を破り、事粗忽が起こった。これについては既に備中守にも伝えてある。
江戸において、如何様にも上意にまかせ申すべきである。」

鍋島(勝茂)はこれを聞いて反論した
「私は全く軍法を破ってはいません。榊原殿が一番に城へ乗り入ったゆえに、彼を討たせては
如何かと存じて押し入ったのです。これは併せて御忠節とも存じます。」

信綱「然らば榊原方へそれを確認すべきだ。」

こうして鍋島方より榊原飛騨守(職直)へ問い合わせた所、この頃榊原は長崎に居たが、これに返答し
「それがしの倅、佐左衛門佐が一番乗りを致したため、倅を見殺しには出来ず、続いて乗り入りました。
倅は若輩なため、御軍法を背きました。全く鍋島の一番乗りではありません。」

そう答えたため、榊原が一番乗りであることが明確と成った。

これにより榊原職直は長崎奉行を解任され、閉門とされた。

(士談)



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 19:14:38.33 ID:mUmd8lxQ
おい、金の斧と銀の斧持って行け!

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



知恵伊豆のユーモア

2016年02月10日 18:51

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 22:36:23.52 ID:eFlTnkWy
知恵伊豆のユーモア

承応から万治年間(1652-1659)にかけて長崎奉行を勤めた甲斐庄正述の妻は松平信綱の従姉妹(姪とも)であった。

そんな関係で、信綱と正述は親しかったので、二人はよく会っていたのだが、ある日の信綱邸での饗応で正述はふと思った。

「今出てきた芹焼き(芹を酢に煎じたもの)は焼いていないのに『焼き』というのはおかしくないか?『芹煎』とか言うべきだろう。」

それを聞いた信綱、
「焼いていないものを『焼き』というのが不審と言うが、あなた自身にもそんな不審なものがあるではないか。」

「??」

「あなたの頭の月代(さかやき)は誰が焼いているのですか?」

ここで正述、
「なるほど、自分にも焼かないのに焼くというところがあるのに、そこには思いが至りませんでした。」と納得。一同大笑い。

(御役人代々記)

いい話でも悪い話でもなさそうだけど、とりあえずこっちに。


ちなみに正述の孫の大森時長も長崎奉行として赴任し、享保の飢饉時に長崎の住民を飢餓から守ったということで非常に人気があるらしい。

(鈴木康子「長崎奉行 等身大の官僚群像」)



水野勝成「ちょっと待ってくれ戸田殿」

2015年11月01日 13:14

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 20:04:57.97 ID:4yIZAUwm
寛永16年、島原の乱で幕府軍が一揆を攻めあぐねる中、幕府より松平伊豆守信綱が派遣された。
将軍徳川家光は、信綱を派遣するに当たりこう仰せ下した

「(水野)日向守勝成は名にし負う古兵である。彼ら父子が参陣するまでは、ただ遠巻きにせよ。
合戦をして兵を討たせてはならない。」

信綱は現地に到着すると、軍を留めて勝成の到着を待った。勝成はわざと日数をかけ、2月22日に
到着した。

同24日、幕府軍の諸将は信綱の陣に集まり軍評定を開いた。ここで戸田氏鉄進み出て、
「我らは将軍家から、相構えて兵を討たすな、謀を巡らせて城を攻め落とせとの仰せを承った。
である以上、このまま遠攻めにして城中の兵糧の尽きるのを待つべきだと考えます。」
これを聞いて信綱は勝成の方に向き、尋ねた「日向守殿のお考えを承りたい」

勝成
「今は天下一統の世となって、一揆の奴原に力を合わせようという者は一人もいない。
何の恐れることがあるだろうか?ただ面をも出させず、干し殺してやるに若くべからず。
大御所も昔高天神の城を、そのように攻められたものだ。
殊にこの原城は古よりの名高き城であると、この勝成が若いころ、鎮西に流浪した時に承っている。
あたら武士の命を、土民百姓たちのために失うというのは謀ではない!」

戸田氏鉄我が意を得たりとばかりに
「尤もです!敵の兵糧が尽きるのを待つべきです!」

ところが勝成、これを聞くやいなや
「ちょっと待ってくれ戸田殿、私が言っているのは、今日まで遠攻めして味方を討たせないようにしたのが
良い謀だ、ということだ。」

「は?」

「城の奴原は一揆が勃興してから、100日も立て籠もっている。ならば今はもう兵糧も矢弾も尽き果てて
いるだろう。であれば、この後一体何を待つというのか?

我らはただ平攻めに攻め破って、奴らを捨ててしまえ!」

こうして幕府軍は総攻めを行うことに決定したのである。

(藩翰譜)



知恵伊豆の死に様

2015年07月03日 18:05

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 21:49:03.92 ID:+AGasWoa
松平伊豆守信綱が発病した時、このように言った
「私は病人に成ってしまったが、隠居など仰せ付けられるように、などとは微塵も願わない。
何時までも職務を努め、御城にて倒れて死ぬ事こそ本望である!」

そういって毎日登城して出仕し、自身の家老たちには
「今日御城において私が病死すればこのようにしろ」
そう委細を申し付けてあった。

しかし病気は日を追って重くなり、小便も出なくなった。この事を伊豆守は嘆いた。
「私の病気の事を、上様はお尋ねなさっているそうだが、小便のことまで上聞に達してしまったらどうするのだ。
このような事をお耳に入れるのはなんとも恐れ多いことである。」

その後も病気は重くなり、伊豆守の養母が彼の枕元に付き添った。
その時養母は言った
「病気がこのように重くなった以上申しておく。今までは後世のことなど一向に構わずにいたのであろうが、
この時であれば、万事を打ち捨て、後世のために念仏をするように。」

そう進めたが、これを聞いた伊豆守は
「御尤もの事です。ですが、私は幼年より召しだされ、格別の御恩を蒙った者ですから、せめてその
万分の一も御恩を報じたく、常に心がけてきましたが、行き届かず、このような大病であれば尚更
御恩を報じることが出来ません。ですから少しでも御奉公のことを心がけ、『御奉公、御奉公』と唱えたいと
思います。なかなか、念仏を唱える暇はありません。」

そしてその後には
「もはや死も近い。この上の願いは、何卒お上の御精進日に病死致さぬように、との事であり、出来れば
七日に死にたい」と語った。
これは七日が彼の妻の命日であり、息子たちの精進日が多くならないようにとの思いからであった。

十六日になると、
「明日は権現様御命日である。どうか、今日か明後日に死にたい。」と望んだ。
そのため、その日は薬を用いず死をのみ待っていたため、その本意のごとく、十六日に死去した。

(明良洪範)

知恵伊豆の死に様、である



18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 08:44:31.81 ID:bR4qvxSR
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

自分ひとりの潔さに走るべきではない

2015年07月02日 15:40

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:46:00.43 ID:JLPxzHuv
島原で切支丹の乱が起きたとき、板倉重昌石谷貞清を差し向けられたが、
なかなか落城の報せが来ないので、酒井忠朝が出陣を仰せつけられた。
するとその後すぐ、松平信綱が御前へとまかり出て、

「此度の件、酒井殿に島原への出陣を御命じになられましたが、結果は出ないと思われます。
何故かと言えば、酒井殿はいまだに屋敷で準備し、出発しておりません。
このことが、もはや、将軍さまのお心に叶わぬふるまいでございます。
もし、私に御命じくださるならば、ただちに出発し、即座に一揆ばらを踏み潰してみせましょう。」

と申し上げたので、これを伊豆守(松平信綱)に仰せつけられ、彼は即座に出発した。
同時に酒井忠朝には、島原には行かずともよし、というお達しが届いた。
備後守(酒井忠朝)はこれを聞くやいなや、

「知恵伊豆の仕業に決まっている。討ち手の先を越されては人前に出す顔もない。
こうなれば、追いついて伊豆守を討ち果たすより他にない。
すぐに馬を出せ」

と言いつけ屋敷を飛び出した。(1/2)

281 名前:278続き[] 投稿日:2015/07/02(木) 12:25:51.40 ID:l3ekoU/Z
すると、父の酒井忠勝が、

「待て」

と声を掛け、

「はやまるな。仕損じるぞ。まず落ち着いてよく聞け。
土井利勝が最期、私に向かい、
『伊豆守に気をつけろ』
と遺言された。
伊豆守が小細工をすることはかねてから私も知っている。
追いかけ伊豆守を討ち果たしたなら、お前は本望で、
世間の者たちもお前を剛の者よと称えるだろう。
しかしながら忠節のところは微塵もない。
あの程度の伊豆守だが、あれでひとかどの器量を持った男だ。
幕府のお役に立つことも多い。
その伊豆守を討ち果たせば、まずは幕府に御迷惑をおかけすることになり、
さらには、
『幕府の指図が雑だから、酒井殿が鬱憤を晴らしたのだ』
などと日本中で噂されるようになれば、主君に悪名を着せることになり、
重ね重ねの不忠である。
いま、お前が耐え忍び生きながらえるのはとても苦しく難しいことだろう。
しかし、我が身の難儀や恥までも耐え忍び、
主君を支えていくような者が、誠の忠臣なのだ。
自分ひとりの潔さに走るべきではない。」

と諭したので、忠朝もたちまち納得した。
そのうえで、忠勝は、

「理解したなら、隠居せよ。世の人々が嘲るだろう。」

と忠朝に奉公を退かせた。
家督は二男の忠直が継いだとのこと 【葉隠】(2/2)



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:16:07.22 ID:Q3aqugVa
DQN目竜「敵もろとも伊豆守も殺して手柄を奪うが良い」

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:27:09.63 ID:TWKN05ff
じんぼぅ失っても知らんぞ

酒井忠勝、丸め込む

2015年05月30日 14:15

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 19:59:52.97 ID:Ltjm8IJj
徳川家光の時代のこと。

ある年の正月、具足餅の祝の時、大久保彦左衛門忠教、今村九兵衛の両人は未明から出仕したが、
山吹の間に用があってそこに出ている間、本席に両人の姿が見えず、このため両人は遅参したと思われた。

既に御祝いの儀式が始まった中、目付け衆は席を見廻り両人を見つけ、「御祝いはもう始まっています。
早々に御着座して下さい。」と言った。

当然彦左衛門は激怒した
「我々は今朝未明よりこちらに詰めていたのに、何の御沙汰もなく御祝いが始まっているとは意味がわからぬ!
神君の御代より、こういう事に御失念は無かったのに、今日忘れられたということが、我々が年老い、
もはや御用に立たずとの思し召しであるなら、もはや退出すべし!」

この大騒ぎで御祝いの進行が止まり、老中始め役人たちは大いに当惑した。それでも
『大久保彦左衛門は神君よりの旧臣にて今日の御祝いでも第一の人だから。』と役人たちが様々に挨拶し
機嫌を直してもらおうとしたが聞き入れず、ついに老中松平伊豆守信綱が出てきて
「完全にこちらの失念であったからこそ、役人たちも言葉を尽くしているのです。早く席について下さい。」
と説得した

しかし彦左衛門
「我々は御旗本頭である!であれば軍礼に、御旗本失念ということが有るだろうか!?
もはや一番座も済んだようだ。我々は洗い膳にて食うようなことはしない!
まったく長生きすれば、珍しきことを聞くものかな。」
そう嘲った。

これには伊豆守もさすがに腹を立て「彦左衛門殿、舌の和らぐまま言いたい放題にも程がありますぞ!
将軍家の御祝いに洗い膳などと言うことはありえない!」

彦左衛門からからと笑い
「伊豆守はずっと畳の上で、戦場は見たことも無い故に軍の言葉を知らぬと見えた。
二番座に出るのを洗い膳と言って、まことの武士は嫌うことなのだ。よく聞いて置かれよ!」

伊豆守、心中さらに怒りが増したが、これ以上言い返す事もせず、周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。

この時、酒井忠勝がふらりと出てきて、彦左衛門の手を取ると
「老人のお言葉、尤もです。ですが今日は格別の御祝いの事ですから、あまり時間が過ぎてしまうのは
いかがでしょうか?さあ、席に付きましょう。この忠勝が相伴いたします。」

すると彦左衛門も
「さてさて、讃岐守殿は天下の老中であるのに相伴するとは忝い。ならばいただき申そう。」

コロリと機嫌も直り着座した。こうして御祝いは滞り無く相済んだ。

(明良洪範)

伊達政宗さえ丸め込める酒井忠勝にとっては、大久保彦左衛門もこのとおりなのである。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 22:33:36.74 ID:Bt6VT78J
>周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。
この件で笑った

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 00:53:26.19 ID:W2vUN1nO
これならいい話ではござりませぬか

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:20:58.49 ID:3+oxdFGQ
一体両者の対応のどこに差異があったのか

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:31:28.55 ID:hAvvsUPh
>>852
知恵伊豆は知恵伊豆ってだけで叩かれる

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 05:37:41.51 ID:2wUbbVLP
三河者相手に真っ向からぶつかるのはよくない

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:04:48.21 ID:Hn2rc8Nn
最後の、そして最も面倒くさい人物だな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:44:24.64 ID:JyBUmMSN
>>855
まあ、彦左衛門なんて大した武勲もない、ただ理不尽でうるさいだけのジジイだけどね。
でも、この時期になるとモノホンの武勲のある武功派はほぼいなくなっているからなぁ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 15:58:22.86 ID:RileblEf
二大DQNがいるじゃないか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 18:00:56.86 ID:1OZzOB6C
>>856
岡部元信を打ち取った武功があるだろ

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 19:53:34.38 ID:4LSw/tvs
酒井忠勝がかっこいい話

随分狙うように申し聞かせなさい

2014年06月24日 18:54

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:40:20.00 ID:+iFynjsM
伊達陸奥守忠宗が通行の途中、江戸城本丸の台所に詰めている新組の某
という者が伊達の先供の中を通り抜けようとした。供の士は某を取り押さえて
日比谷へ連れ帰り、成敗した。

新組頭はこれを聞いて大いに立腹し、老中の松平伊豆守(信綱)へ訴えると、
伊豆守が言うには「小家でも大名の通行は分かるものである。ましてや、
大家の伊達の通行は二、三町先からも分かるものなのに、先供の中を通り抜け
ようとするのは一つ目のたわけである。

また、連れて行かれるからといって、伊達の屋敷までのさのさと行ったのは
二つ目のたわけである。また、結局は逃げられないことと察知して切り死に
するべきなのに、むざむざと打ち首にされたのは三つ目のたわけである。

こんなたわけ者が御家人にいても御用に立つ者ではない。だから生きていても
益は無く、死んでも損は無い者である。申し立てるには及ばない」とのことで、
訴え書を差し戻し、併せて、

「その者に倅どもがいて伊達陸奥守を父の敵として討ったなら大至孝といえよう。
随分(できる限り。または大いに)狙うように申し聞かせなさい」と言ったそうだ。

――『明良洪範続編』





577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:44:51.14 ID:r/sLCjDk
この流れでも狙って良いんだ…

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 18:11:33.18 ID:RgdOU5YQ
「おう、やられたらやり返さんかい」て事だな

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 18:51:10.11 ID:EoDDTEDU
言外に、殺すなと
伊達家の顔を立てつつほのめかしてるのでは

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 19:18:48.52 ID:XUet17Db
>>576
この話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし

この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 21:41:46.87 ID:6ybX+yXy
伊達にビビッてるのかと思ったけど知恵伊豆かっけー

知恵伊豆の忍

2014年03月01日 18:45

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 17:20:59.48 ID:7GCf6foH
島原の陣の二月中に、松平信綱は連れてきた江州甲賀の者を呼んで、

「これまで諸将は敵城の様子を探らせようと忍びの者を遣わしたが、
敵城の守衛は堅固で忍びの者が城中へ忍び入ることができない。
御身らは忍び入って、様子を見届けて来てくれ」と言った。

甲賀の者たちはかねがね内々の願いの筋でもあれば功を立てようと思っており、
「畏まり候」と速やかに承知し、仲間の中から菅川七郎兵衛望月与左衛門
夏目角助吉田五兵衛鳥飼勘右衛門ら五人の者が暗夜に紛れて

塀下までは忍び寄ったものの守衛は堅く、城中へいまだ入らずに見合わせて
いたところ、城中より猿火を渡して塀下廻りを調べたので、その火を引き入れる時に、
引き続いて菅川と望月の両人が城中へ紛れ入った。あとの三人の者は入り遅れて
塀下で躊躇していた。

さて、忍び入った両人のうち望月は塀を越えて城内へ入ったところ、
塀裏の落とし穴へ落ちた。菅川は引き上げようとするが、穴が深いので上げられない。
とやかくする間に城兵たちは気付いたのか、「寄手が忍び入ったぞ、討ち取れ!」と
立ち騒いだけれども暗夜なので見分けがつかず、その間に菅川はどうにか望月を引き上げ、

闇夜に紛れて城内のあちらこちらを忍び廻り様子を見届け、やがて塀を越して
城外へ飛び出た。この両人は甲賀忍び組の中でも取り分けて忍びの名人であるとか
いうことだ。

――『明良洪範』




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 19:05:08.26 ID:Us+HUH3X
城兵は明かり持ってこいよw

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 19:05:10.23 ID:cxkJyzHN
落とし穴をもっと沢山掘ろう!

知恵伊豆のわかりやすい吉報の伝え方

2013年12月11日 20:12

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/11(水) 11:28:42.04 ID:JLb88KpB
島原の一揆は寛永十五年二月二十七日に落城した。

これにより早飛脚を江戸へ遣わしたが、その文箱の表書には「二月二十七日落城」
と記してあった為、到着後は開けるよりも前に落城だと解り上様は非常にご機嫌であった。

豆州の才知を人は皆賞賛したと言う。

(翁草)

知恵伊豆のわかりやすい吉報の伝え方




860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/12(木) 21:23:54.46 ID:kGo+PvsQ
その旨書いた旗持たせて走らせれば宣伝効果あったかもな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/12(木) 21:26:23.30 ID:0Dqn7Mo8
【朗報】落城

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/12(木) 23:07:01.39 ID:m2JjHdAW
【朗報】敵は本能寺にあり

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/13(金) 00:39:10.43 ID:10YkNS0b
【朗報】鬼武蔵が撤退

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/13(金) 00:47:10.26 ID:i/S2zPc2
【朗報】政宗

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/13(金) 01:37:28.99 ID:UJw9Q4/o
【朗報】妙林尼殿ご同行