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松平の御家御相続繁盛となる事

2023年01月17日 19:07

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 21:41:09.28 ID:Dz3TdecJ
武家閑談」の初めの話「松平の御家御相続繁盛となる事」

権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。

また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆



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大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某

2023年01月10日 19:30

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/09(月) 20:52:34.47 ID:OpVMlt84
続武家閑談」から大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某

天正三年(1575年)、権現様三十四歳の時、近藤某に加増をなされた。
この加増は大賀弥四郎の代官所の管轄内であった。
大賀弥四郎は中間であったが才覚があり、地方巧者諸事に詳しいため、奥郡の大部分の代官を仰つけられ、
岡崎城にも参って信康公の御用もなし、信康公も家来も「弥四郎は不可欠の人材だ」とみなした。
しかしいつのまにか身の程をわきまえず、驕り、武辺者でも気がいらなければ讒言したため、大勢に憎まれた。
そんな時、近藤某の加増がなされたため大賀弥四郎は近藤某を自邸に呼び
「今度の加増は我の取りなしによるものだ」と恩着せがましく言った。
近藤はそれを聞き大いに怒り、座を立ち、そのまま御家老衆のところへ直行し
「この度の加増は返上いたします」と告げた。
みなが驚きあきれ、近藤にわけを問うと
「旗本をなぶる大賀のような大悪人の取りなしで加増をされるようないわれはありませぬ」
と答えたため、御家老衆は仔細を尋ねた。
こうして弥四郎の悪事が次々と露見し、そのたしかな証拠も出てきた。
また弥四郎に仕える山田八蔵という者を詮議したところ、武田勝頼に内通して岡崎城を乗っ取ろうという計画が明らかになった。
そこですぐに大賀弥四郎夫妻と子供をからめとり、妻と子供は斬罪に、大賀弥四郎は浜松岡崎城下引き回しののち、岡崎の四辻に首より下は埋められ、竹鋸で引かれた。

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/09(月) 20:57:30.33 ID:OpVMlt84
さて右の近藤某であるが、権現様の御父上の松平広忠公の時、毎度軍忠に励んでいた。
あるとき広忠公が城下で御放鷹をなされた。
近藤は土民に混じって、自ら早苗を取って田植えの最中であったが、広忠公を見るや田の中に顔をつけて泥で顔を隠した。
しかし広忠公に「近藤ではないか」と言われたため
近藤はしかたなく顔をあげ、ところどころ破れた渋帷子という見すぼらしい有様で恥いっていると
広忠公は「主人が小身なために汝ら家中には功績に報いられず、人馬武具を備えるためにこうして苦労をさせてしまうこと、申し訳なく思う。
我も供の者も、人の前に苦労をして、人の後に楽しむべきであろう。
(「後楽園」の元になった「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からだろうか)
今日は我も供の者も早く帰るがよいぞ」
これを聞き、近藤はもちろん、お供のものも皆袖を濡らしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11040.html
かかるお情け深き主君のためには

後の話はだいたい同じ話が前にも出ていた(「三河物語」にも載っている)



幸若与太夫の事

2022年02月10日 15:34

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/09(水) 21:09:21.03 ID:PL0ndWH3
或る本に、舞を舞う者の伝によると、幸若与太夫という人物は清和源氏の末、岩松治郎経家の後裔であった。

与太夫の父・蜂屋という者、安祥殿(松平清康)・岡崎殿(松平広忠)の二代に仕え。度々高名を顕し
近習に召し仕われた。
しかし、心が狂したのか、岡崎殿を討ち参らせんとして、誅殺された。人、その故を知らず。

その子である与太夫はこの年に生まれて襁褓にあった。岡崎殿は不憫に思し召されたか
「蜂屋は我に仕えて終に二心無かった。それなのに今、何の故があって私を失おうと思うだろうか。
狂気の至りであること疑いない。であれば、彼の年来の奉公に鑑み、その子の命を扶けるべし。
ただ成人の後に法師になるべし。」
と仰せに成られ、針崎の正満寺に預けられた。しかしここは妻帯の寺(浄土真宗)であり、
住持の僧にするのも不憫であるとして、幸若の弟子として舞を習わせた。

家康公の御時に、針崎を始めとして寺院悉く背いた(三河一向一揆)。与太夫は針崎で成長し
人となったのであるからその恩は深かったが、それでも寺を去って家康公の味方に参り、度々の
戦忠を致した。

後に秀忠公・家光公はこの事を知り召され、与太夫の子である与三太夫を御咄の衆の末に
召し出され、舞い舞う事をも許され給おうとされたのであるが、程なく薨じられたために、
その事も止んだと言われる。

新東鑑



広忠公御死去之事

2021年07月24日 16:34

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 15:01:48.78 ID:dZYeMb47
広忠公御死去之事

天文己酉歳3月6日に広忠公(松平広忠)25歳で御死去なされた。そういうわけで
岡崎でも頼るべき方なく、そこで一門中家老の面々は差し集まって評談を行った。

石川伯耆守、本多肥後守(忠真)、天野甚右衛門(景隆)、この3人は申して「織田
備後守(信秀)方へ申し寄せ、尾張と一味して竹千代殿(徳川家康)を相違なく岡崎
へ帰城させ、守り立て申すべきだ」と言った。

石川安芸守(清兼)、酒井雅楽介(正親)が申すには「今川義元はすでに領内3ヶ国
で4万余騎の大将なので、この力をもって本意をさせ申すべきだ」と言った。

さて上村出羽守(植村氏明)、鳥居伊賀守(忠吉)、その他の残る面々が言うには、

「尾張と一味ならば早速本意となろう。さりながら、駿河と手切れとなれば3ヶ国の
軍勢をもって取り詰められることになって、たちまち難儀に及ぶであろう。

しかしながら、戦の勝ち負けは多少にはよらず。先年の小豆坂の合戦で駿河勢は3万
余騎の着到であったが織田備後守は3千余騎をもって馳せ向かい、五分の三つは味方
が利を失った。

尾張と一味ならば早速帰城たるべし。義元が3ヶ国の軍勢を催すならば御本意は違い
申すべし」と言って、ついに評議は落着致さず。

そんなところに、広忠公御死去の由を義元卿は聞こし召し、駿府より岡崎の城へ在番
を入れられたのである。朝比奈備中守(泰能)、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守(長持)
を頭とし、義元卿の近習衆3百余騎が籠め置かれたことで、それより是非なく岡崎は
駿府を守って居り申した。

――『伊束法師物語



「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候

2021年06月30日 18:11

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/30(水) 02:26:44.47 ID:5rhC7FXr
一、清康公(松平清康)は享禄2年、吉良へ御働きになり、小嶋の城主・高部屋ホコノスケを
  御攻めになって、城主は淵に飛び入り水をくぐり、落合より没落した。この時、八面荒川
  東城の持広(吉良持広)が降参あって、持広を妹婿になさり、吉良庄御平属す。

  後に持広は広忠(松平広忠)の加冠となり“広”の字を賜る。持広は子無くして義照(吉良
  義安)に譲り、八面の荒川甲斐守義篤(義広。吉良持清の次男)は家康公の妹婿に遊ばさ
  れる。

一、荒川殿の御屋敷は、山田市郎左衛門の居り申す所なり。本城に三の丸の堀跡が見えている。

  荒川と申すは「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候。

  また荒川大夫殿と申し、1千3百石を取り申され、屋敷あり。荒川の家来は中神藤左衛門、
  鳥居、岡田、加藤、これら13人が今川の桶狭間の合戦で戦死した。

  今の尾州の荒川小次郎がこの子孫である。

  ――『三河東泉記』



「さては主殿御越し候えば心安し」

2021年06月29日 18:24

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/28(月) 21:05:24.39 ID:9aIEiqMC
伝馬町南俑山伏初門十次クワンザワ五徳院まで五代(元和ノ頃上方より来住)
元禄7年5月覚

この屋敷はむかし聖眼寺という浄土宗寺があったが、寺絶えて広忠公(松平広
忠)の御時分は深興津(深溝)村の城主・松平主殿(好景)の下屋敷になる。

その頃、広忠公御生害につき岡崎は騒ぎになった。主殿殿は鷹野の場で聞いて
早々に駆け付け、吹屋の瀬を渡ってこの屋敷へ乗り込んだため、岡崎中の者が
「さては主殿御越し候えば心安し」と息をつき喜んだ。

鷹野場にて聞く。

――『三河東泉記』



於大の方について

2021年03月12日 17:50

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/12(金) 14:40:37.96 ID:UigjWT+2
東照宮(徳川家康)の御母上で、大方殿と申された方は、水野右衛門太夫忠政の御娘であった。
岡崎贈大納言家(松平広忠)に嫁がれて、天分十一年の十二月二十六日に若君をもうけられた。
これを竹千代殿と申し、即ち東照宮の御事である。
その後、また姫君が一人産まれられ、これは始め松平与一郎忠政に嫁いだ後に、保科越前守正光の
妻となられた。

大方殿は御父水野忠政が亡くなった後、御兄である下野守信元が尾州の織田に志を通じられ、
その時岡崎殿は無二の今川方であられたため、筋を通して北の方を下野守の元に送り帰された。
これによって、尾張国知多郡阿古居の領主、久松佐渡守俊勝に再婚され、そこで男子三人、女子三人を
もうけられた。

永禄三年三月、東照宮は初めて阿古居の館に渡られ、御母上に見参され、継いで三人の子息を御弟に
なされて松平の御家号を許された。
兄は三郎太郎康元、後に因幡守。次は源三郎康俊、末は三郎四郎定勝、後に隠岐守という。
父の佐渡守俊勝も岡崎に祗候したため、三河国西郡の城を給わった。

下野守信元も御外舅であるので、隔てなくおられたのであるが、ある年、織田殿(信長)の不興を得て、
東照宮も力及ばず、岡崎に招いて失い給う。然れども所領の地は、事故無く弟であった水野藤十郎忠重に
織田殿より給わった。これは当家(徳川家)と御由縁がある故であったという。(これは織田家に、
佐久間信盛が讒言したためであり、その所領の地も佐久間が申し賜って横領したのであるが、その後
佐久間は罪を得て改易された後、下野守の旧領をその弟である水野忠重に織田殿より与えられた。)

佐渡守俊勝は天正十五年の三月十三日に失せた。尾張国知多郡のうち、坂部村洞雲院に葬られたという。

大方殿に対して、当家においては非常に尊重され、慶長七年の六月、都に上られた。
これは名所古跡などを御遊覧されるためであると言われている。そして八月九日、伏見城にて
おかくれになった。御年七十五歳であったという。(或いは七十七歳ともいう。七十五歳であれば
東照宮の産まれ給いし時大方殿わずかに十五歳にて、あまりに若くおわします。七十七歳と言うに
従うべきであろうか。また水野家譜にも七十七歳と見える。)

以貴小伝

家康の母、於大の方(大方殿)について



岡崎領内渡利村の一揆が生害なし奉る

2020年06月14日 17:24

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/14(日) 16:11:55.68 ID:vlrl08jF
広忠公(松平広忠)は天分18年(1549)3月の鷹狩の折、岡崎領内渡利村の一揆が
生害なし奉る。尾州の織田弾正忠(信秀)の武略により、渡利村の一揆どもに過分に褒美
を与えるとの由。御印(首級)を持って一揆どもは矢作川堤を上り急いだ。

その節、岡崎大将衆3人が岩津の信光明寺にいたが、件の由を告げ来たりその内2人が岡
崎目指して急いだ。1人上将(ママ)出羽守は渡利村を目指し、岩津大川を堤を下り急ぐ。

件の一揆どもに行き合い、御印を見て1人も逃すまいと3人を切り伏せて残りは逃れ、御
印を持って光明寺に納めた。2度覚えがあり、右の内を抜き書いたものである。

――『三河東泉記



松平御一族御礼次第

2018年09月03日 18:51

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 14:34:26.79 ID:XvPMkh4u
御当家(徳川家)三河岡崎御居城の贈大納言広忠卿(松平広忠)の御時より、正月2日に御一族と国士衆の
御礼次第を定めて左右に着座を分けた。着座の一番は鵜殿八郎三郎康定、二番は西郷孫九郎家員、

三番は形原の紀伊守家忠、四番は大給の松平和泉守親乗、五番は桜井の松平内膳正信定と東条の松平右京亮
義春の両人が隔年で1人ずつ着座した。先年信定・義春は兄弟なので信定の次に

義春が着座したのだが、信定が度々御敵となった後は降参しても兄弟はとかく不快の仲だったので毎度座班
を争うため、それより日を変えて出仕することとなったのである。(原注:大久保物語)

義春の病死後、甚太郎家忠(忠茂)の時その家老・松平右近忠次は「桜井と東条は兄弟の家筋といえど桜井
は度々叛逆し、一方で東条は二代に渡り忠義を怠らず。この事情もあるので桜井の座席を東条に下さるべし」

と願い出た。広忠卿は「その願いは道理である」と聞こし召し御許容になったので、甚太郎家忠は五番の座
と定まった。一両年が過ぎて信定は降参しその翌年正月早朝より出仕して東条家にも断らず五番座に着した。

甚太郎が出仕してみれば信定は早くも五番の座に着していた。甚太郎は気量ある者なれば何も言わず信定の
上の座に着いた。信定はこれを見て「この座は我が座なり! 甚太郎は庶子の筋でしかも私の甥ではないか!
叔父を越えて上座に着くべきではなかろう! そこ退け!」と罵った。甚太郎はからからと打ち笑い、

「不義不忠の働きをして叛逆し、ようやく只今降参した桜井と、二代まで忠勤を尽くした東条がなぜ座席を
争えようか!」と言えば、信定はいよいよ憤り「これは我が本座なり! いいから罷り立て!」と罵った。

すると東条の家老・松井左近(忠次。のち松平康親)が進み出て、「信定の仰ることはまったく心得ませぬ。
この座席は東条二代の忠義によって広忠卿が下された甚太郎の座席であります。それほどこの席が欲しくば、

どうして度々叛逆不義の働きを振舞われたのか! 降参した不義者が忠義無二の東条家の席を奪うなど叶い
ませぬぞ!」と罵った。信定は言葉に詰まってますます怒り、刀に手をかけ松井左近を討ち果たそうとした。

甚太郎と左近も一緒になって信定を討とうとし双方闘争に及ばんとした。ここに至り一座の面々はようやく
双方を抑留し、信定を追い返して甚太郎が本座で御礼した。その後、御一族の面々も様々に甚太郎を

申し宥めて、広忠卿も御内意ありそれ以来、両人は隔年で出座すべしと定まった。六番は長沢の松平上野介
康高。この康高は初め竹谷の松平・御油の松平より下座だったが、広忠卿の妹君と夫婦だったのでその上に
座することと定められた。康高が亡くなった後にこの妹君は酒井忠次に嫁ぎなさった。

七番は竹谷の松平玄蕃頭親善、八番は御油の松平外記景忠、九番は深溝松平主殿助家忠、十番は二連木の
松平丹波守康長。これは元来戸田氏だが、忠勤によって松平を賜ったものである。

これより以下の群参の御礼衆は数多なれば漏らした。

――『改正三河後風土記』


かかるお情け深き主君のためには

2017年11月12日 16:37

400 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/12(日) 16:26:23.36 ID:ROgrEiQQ
松平広忠エピが少なかったので投稿してみます。

ある年の田植えの頃、近藤某という譜代の士が貧乏だったため、自ら田植えをしていた。
松平広忠は鷹狩りの道すがら見とがめ、近臣に命じた。
「あれは誰か。見覚えがあるが連れて参れ。」

近臣たちは近藤が朋輩のため赤面していたが、命令であるので仕方なくこのことを近藤に告げた。

近藤は泥まみれのまま、真っ黒な顔で広忠の前に出た。
近臣達は近藤は成敗されるに違いないと心配していた。

広忠は涙を浮かべてこう言った。
「譜代の士なればこそ、このような暮らしにも堪え忍び、いざ鎌倉という折に身命や妻子を投げ捨てて、代々の主君のために忠孝を励んでくれるのだ。なんじらもおそらく、この近藤と同じことをこの広忠に隠しておるに相違あるまい。早く家郷に帰り、田を植えよ。」

これを聴いていたものはみな涙を流し、
「かかるお情け深き主君のためには一命はもとより、妻子をも顧みず奉公の誠を尽くそう」
と誓い合ったとのことである。



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 16:31:11.88 ID:pu3bL6ey
できれば出典を…

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 19:34:15.73 ID:IZ4Go9pO
そして年貢を納めろか

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 20:43:18.40 ID:yuwsjLhx
松平家の家臣の忠義って個人的な美談じゃなくて、他国より中央集権的だったからなのかな

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/12(日) 20:43:39.39 ID:xEfHF25d
>>402
考え様によっちや休みも副業して働け
忠勤に努めよ


って事か… これはブラック三河武士

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 21:05:55.71 ID:VvYToCE8
側仕えはいいから野良仕事してこいやろ

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 21:39:06.14 ID:NInLM6wR
松平は野良仕事で済んでいる分まだマシ。宇喜多直家さんのところとか貧乏すぎて家臣一同定期的に「絶食の日」を作ったくらいだからな。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 04:02:56.43 ID:RuCFRyFm
>>406
横だけどソレ知らなかったわ、備前て貧乏イメージ無かったから。

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 05:09:25.65 ID:By1ObXnd
>>407
元々は家が滅んで放浪の末に戻って来て、一家臣になった時の話みたいだから
初心を忘れないように大名になっても続けてたみたいだけど

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 07:19:55.36 ID:GscqnKpT
それどころか盗賊働きもしてた話があったような

産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠

2017年02月19日 13:55

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/19(日) 05:13:29.02 ID:DIV2tWCx
産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠

あるとき田安殿の臣、山口某なる者が語った。

 神祖の御母の里で、松平太郎左衛門の祖が御男子が無いのを憂られ〔広忠公であろう〕、
三河峯の薬師へ祈願として籠られると、
その庭前で光明を発しその地を穿つこと五寸余り、そこに金像を獲た。
これから後、神祖が御生長されるとこの金像を産湯の八幡と称しその社を構えられたという。

また地を掘った穴かた清泉が湧出したので、すぐに御産湯に用いられた。
その処を指して産湯の井と呼び、いまなお在るとか。

 この井戸の辺りに楠の大木があった。
後に神祖がこれを伐られて、その材を用いて御船を造られた。
これが安宅丸(あたけまる)であると。
 
 この楠材の残片が有ったので、山口某が伝蔵していた。
それを黒羽侯〔きっと大関老侯(大関増業)であろう。老侯は殊に茶事を好んでいる。〕
が求めて茶器の棗とされた。
この器を制作されるときの切屑が存在して、
瘧を患った者に服させると瘧はたちどころに落ちたという。

以上、前後そろってない話だが、聞くままに記した。

(甲子夜話三篇)


山本勘助の見た松平清康

2013年10月19日 19:05

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 21:00:10.07 ID:zCVj+pE9
あるとき武田晴信(信玄)が、山本勘助を呼んで聞いた
「そなたの生まれた三河国では、近年優れた大将は出なかったのか?」

これに勘助は答えた
「最近では、松平清康という大将が、弓矢を取っては敗れること無く、生国の三河を征服し、
同国の侍大将たちを与力として従え、いまにも尾張国を手に入れようと、意欲的に活動していました。

彼は尾張と数度の合戦を重ね、尾州勢五千に対し、三河は千の軍勢でも、一度も負けること無く
尽く勝利を得ていました。

5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として
名を馳せ、遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。

そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、不慮のことで
亡くなられてしまいました(森山崩れ)。

今は清康の息子である広忠の代ですが、他国に広げた勢力圏は勿論のこと、本国三河すら
他人の物になろうとしています。

もし清康が健在であったら、三河侍は今時分、皆清康譜代として他国に威力を振るっていたでしょうに、
果報少なく不運だったため、思いがけぬ死によって、哀れにも今では本国の人々でさえ、
子息広忠の統制下にはいらない状況なのです。」

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、山本勘助の目から見た、松平清康、広忠の時代の三河についてである。




517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 21:08:51.70 ID:mf74572e
伊勢に取り残された三河衆「やべっ帰れねえよ」

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 22:40:56.35 ID:MyTHkvap
絵に描いたような後付

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 23:43:25.45 ID:0hdfZqT/
松平清康って美濃や伊勢に出兵したことあったっけ・・・

520 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/18(金) 23:50:28.15 ID:8Y5WAdai
知らん

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 21:49:30.57 ID:kwAootqa
清康のとき今川方面は攻めたりしなかったの?

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:08:30.95 ID:s4ABQkQe
>>516
俺もこの部分投稿しようと思ってたけど、

>5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
>尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として
>名を馳せ、遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。
>そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、不慮のことで ……

この部分、正しくは

5年も存命でしたら、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武辺の家として
名を馳せ、遠国の牢人衆まで馳せ参じて清康を主君と仰ぐので、 本国三河の事は言うに及ばず、
尾張の者まで清康の譜代となっていたことでしょうに、不慮の儀にて……

だと思うぞ?新編岡崎市史はこの解釈だったし

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:15:51.21 ID:2mLYCHGx
松平清康なんかよりも、織田信秀の方が全然勢力拡大してるのにスルーするし
所詮、甲陽軍鑑は江戸時代のインチキ資料

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:18:41.13 ID:89+jMl0r
松平清康なんかよりも、フェリペ2世の方が全然勢力拡大してるのにスルーするし
所詮、甲陽軍鑑は江戸時代のインチキ資料

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:24:44.11 ID:s4ABQkQe
というか信秀の勢力拡大って清康の夭折も一因なんじゃないの?
まあ清康の勢力拡大も今川氏親が死んで後継ぎの氏輝が幼少だったのに乗じてだけど

首餅

2013年10月16日 19:06

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 16:57:28.39 ID:z2g3fn3b
長坂信政は松平清康に仕えて数度の陣に従い、戦場にすすむごとに、
その槍はいつも血塗られた。

そのため清康の仰せにより、『血鑓九郎』と名を改め、皆朱の槍を許された。

後に松平広忠に仕えて、天文十七年、三河国碧海郡西野での織田家との
合戦では信政は一番に馳せて、槍をとって盾を破った。

松平勢はこの勢いに乗じて進んだので敵は敗走した。さらに後には徳川家康に
近侍し、信政は生涯に九十三の首級を得た。

これより後、長坂家代々は毎歳正月の鏡餅を九十三個用いるようになり、
これを『首餅』と称した。

――『寛政重修諸家譜』






松平忠倫暗殺と筧兄弟

2010年11月04日 00:03

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 14:51:55 ID:ULQ1rfC6

三河の地で徳川家康の父、松平広忠が、織田信長の父、織田信秀の侵略を受けてい
た頃の話。
後世「三河武士団の鉄の結束」みたいなコトを言われるが、実は度々三河武士団は
分裂し、他国に通じて内乱に明け暮れるコトも多かった。
この時も松平家一門の松平忠倫他、多くの武士が織田家に寝返り、今川家の救援を
仰いだ広忠と対立していた。

織田勢とそれに味方する三河勢に押され、岡崎城は既に孤立した状態。
しかし今川家の救援はまだ来ない。手も足も出ない広忠はなりふり構わない策を取る。

「……松平忠倫を斬れ」

広忠は筧重忠を呼び出し、百貫の知行と引き換えに、三河における織田方の中心人
物、松平忠倫の暗殺を命じた。

重忠は、弟の筧正重と共に忠倫の居城、上和田砦に忍び込み、就寝中の忠倫を見事、
暗殺してのける。

しかし、余程緊張していたのか、そして主命を果たしたコトで気が抜けてしまった
のか、重忠は腰が抜けたように崩れ落ち、一歩も歩けなくなってしまう。
正重は慌てて兄の元に駆け寄ると、兄の腕を取り、こう言った。

「百貫の内、いくら出す? ケチなコト言ったらココに置いてくぞ?」

脅迫である。
しかし重忠はその言葉を聞いて、

「おまえ、人をゆするの、上手いなぁ」

と笑いながら、その度胸を褒め称えた。
重忠は弟に背負われ、無事に上和田砦を抜け出し、百貫の知行を貰ったという。


いや、そこ、感心するトコですか、兄ちゃん!?
まぁ、本人が褒めてんだから、いい話なんでしょう。
やはり思考回路が一般人とは一味違う三河武士兄弟のお話でした。




123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 15:19:34 ID:nP9pUT1O
見捨てて自分の手柄にするような弟じゃなくてヨカッタね!お兄ちゃん!

124 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/03(水) 16:17:20 ID:YYLqJ/Q6
兄は家督と所領を継げるけど、弟は独立のための領地が欲しい
こんなところだな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:17:54 ID:qBIMlKWz
腰抜けてるわりに兄貴の方も結構余裕だな

126 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/03(水) 18:20:22 ID:SzSntFrg
筧は江戸時代は旗本になったんですか?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:22:19 ID:kI4Y1R10
弟を信頼してるというのもあるんだろうな
身内を信頼できるというのは戦国時代では珍しいね

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:40:19 ID:0p3M5rUG
>>125
むしろ生々しい話をされて正気に戻ったんじゃないかと思う

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 23:16:33 ID:wIpRkGQF
>>122
筧正重って三河一向一揆に加わって平岩親吉を討ち取りかけた人だっけ?

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 00:15:53 ID:JTgYhWaZ
>>130
その通り。筧正重は旗奉行に抜擢↓されたりもしている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2258.html

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 01:51:53 ID:xPjEUdgK
>>130
一向一揆の時は兄が徳川、弟が一揆に分かれて戦ったみたいね。

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 02:48:22 ID:0vjofXrR
両方に顔を立てたのかっ!

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 08:52:07 ID:ZRW2JChT
三河一向ってなんであんなにぐちゃぐちゃなのー?

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 09:14:59 ID:CRjOOLvA
グチャグチャじゃない一向一揆なんて存在しません。
越前一向一揆なんて何がなんだか分からんよ。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 10:29:52 ID:4RedspJJ
>>135
伊勢の一向一揆討伐に奮戦したのに恩賞がなかったから
地元越前の一揆衆を守護代と織田の代官にけしかけてやったぜェーヒャッハァアー!!!

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 13:56:18 ID:f06Fzv3T
>>132
本家対分家の構図が多いんじゃなかったっけ?

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 23:27:17 ID:KUjAs5+c
小林吉隆「>>136あいわかった!そこを動くなよ!」

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 13:07:55 ID:VVy/2V3J
>>141
いずれにせよ、いい話スレ向きではございませぬな。 >135-136

命名「竹千代」

2009年10月04日 00:11

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 19:56:39 ID:IlOIJGpJ
天文十一年(1542年)
三河の小名、松平広忠に嫡男が生まれた頃の話であります
現在の碧南市にあります、称名寺という寺で、
連歌の会が行われ広忠もこれに出席していました
広忠はここで前日に見た不思議な夢を題材に歌を詠みました

めくりはひろき園のちよ竹

美しい広い竹林を歩く夢を見たのです
その歌を聞いた称名寺の住職が
前日生まれた広忠の嫡男には、この縁起の良い歌から取った
「竹千代」という名前を付けるのがよいのではないかと提案し、
広忠もそれに同意して、彼の嫡男は「竹千代」という名前になったそうです