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右馬允の意見

2017年07月26日 23:00

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 23:39:11.79 ID:4l9ckoea
小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は

「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」

周防守はこの意見に従った。

ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。

しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。

(士談)


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その方が申したのに違わず、この度勝利を得たり

2015年09月28日 19:30

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/28(月) 04:40:57.37 ID:z9YNXP1H
天正12年、尾州長久手において、徳川家康が上方勢と対陣の時、
三枚橋の城代・松平周防守(康重)より御見舞として家来の岡田竹右衛門が派遣された。
これに家康は喜び「その方を呼び寄せたく思っていた折に、よくやってきた。早速申し付けることが有る。
敵味方の人数を見積もってくるのだ。」

そう言って、阿部菅右衛門、西尾藤兵衛をさし添えた。岡田は即座に乗り出て、見積をしてくると
家康に報告した。そこで、敵勢は数十万に余るほどだというのに

「敵は五万七千、見方は五万ほどで、されば七、八千ほど不足ですが、関東勢は心猛く、
上方勢3人を味方1人宛に積もれば危ういことは決してこれなく、合戦はご勝利疑いありません。」

家康は大いに喜び、その後合戦で勝利し帰陣する際、岡田は途中御迎えとして出ており、
阿部川において御目見得した。この時家康は馬上から声をかけ

「その方が申したのに違わず、この度勝利を得たり」

そう大変喜んでいたという。

(明良洪範)


関ヶ原の時の、渥美源吾の逸話の原型みたいなお話ですな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1345.html



753 名前:人間七七四年[a] 投稿日:2015/09/28(月) 09:19:50.98 ID:tyNSTUvi
お前、それ鬼武蔵の前でも同じこといえんの?

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/28(月) 15:30:18.44 ID:9lf3ClAH
関東勢?

755 名前:人間七七四年[aaa] 投稿日:2015/09/28(月) 19:53:04.08 ID:tyNSTUvi
美濃以東は関東、つまり鬼武蔵は関東勢

上田表からの撤退

2013年02月07日 19:52

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 02:09:33.53 ID:66hdrzrX
第一次上田合戦に徳川方は討ち負けていたので遠州へ軍使を送って加勢を願った。
これを聞いた家康公は「早く軍を引き取らせよ」と命令を下した。
けれど上田の城兵が食いついて戦を仕掛けるので、軍を引き揚げることが出来ないでいた。
そこで家康公は、井伊直政松平康重の両名を遣わした。
2人は五千人の軍勢を率いて、天正13年9月13日に上田表に着陣した。
先手の恥辱を晴らそうと思ったのか、二十日余り対陣して度々軍を仕掛けたが
城中からは一人も出てこず取り合わなかった。
そこへ真田昌幸の越後へ加勢を依頼したことと、武田勝頼の舎弟である龍峯という住職を取り立てて
一揆を起こそうと謀っていることを忍びの者から聞いた井伊直政は言った。

「越後から加勢を出すほどなら大軍であろう。
そして一揆が所々で起こるとなると、昌幸は思慮深い大将なので、いかなる謀をしておくかも測り難い。
味方の軍勢は遠く路を隔てているし、その上負け軍にて気疲れもしているし戦ったところで利もないだろう。
家康公からの命令は我々二人に人数を引き揚げて帰るようにとの仰せだ。
このまま戦を企て人数を討たせるなど詮もないことだ」

諸大将に談じ、これを受けた大久保忠世が言った。

「それならば押さえの兵として、我が弟の忠教をこの国に残しておくのが良いであろう」

兄から命じられた忠教は言った。

「某は所領に望みがあって残るのではない。主君の為とあれば兄の命令に従ってここに残りましょうぞ」

忠世は大いに喜んで井伊と松平に告げた。
小諸の城に大久保忠教を入れ置き、申し渡した。

「信州の先鋒衆の諏訪・保科・知久・遠山・下条・大草の面々は居城・居館に籠り大久保平助の催促に従うように」

そして11月、徳川勢はことごとく陣払いし上田表から引き取った。
それに際して段々に備えを立て、井伊直政松平康重の両人が殿としてはるか後ろから引き退いた。
城中から追ってくる相手と一戦する為であった。
これを見て、真田昌幸の家臣が言った。

「徳川勢力は既に人数を引き揚げているが、井伊と松平は僅か四、五百騎の軍勢で先手に離れて引き退いています。
これを食い止めるならば討ちとどめることが出来ましょう」

昌幸はこれを制して言った。

「以前に寄せ手の大久保が軍兵を引き揚げようとしたことが何度かあったが、
我が軍に食い止められて軍を帰すことが出来なかった。
今回はいまだ若年の井伊と松平周防守が来て軍を仕掛けている。
その軍立てを見ると以前の寄せ手などとは大いに違う。
その上、井伊が近藤登之助をはじめ遠州で名のある者や武田より降った者が多くきており
また、井伊も松平周防守も若年でありながら名高い剛の侍である。
今日の退き口の立て方を見ても尋常の者ではない。
彼らを少勢だからと軽はずみに打ち出たらこちらが不覚の負けを取るに違いないわ。
決してこれを追ってはならぬ」

はたして、井伊と松平の両人はやすやすと軍勢を引き揚げ遠州へと帰って行った。

『信州上田軍記』




324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/02/07(木) 04:55:30.77 ID:OiFpSEIs
上田表

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 09:48:01.53 ID:fyvbU8hm
ものは言い様、というか書き様だな

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 07:36:28.76 ID:7F6/yvtr
>>323
真田パパは松平周防守を父親の方と勘違いしてないか?