FC2ブログ

徳川家康「おおよそ殉死というものは」

2014年09月29日 18:50

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 19:36:40.17 ID:bayXO4W9
慶長12年(1607)3月、徳川家康の四男・、松平武蔵守忠吉が江戸において病卒した時、
近臣である稲垣将監、石川主馬、中川清九郎などが追腹したと徳川家康が聞いた時、殊の外
機嫌を悪くした

「江戸の老臣たちはどうしてこれを制しなかったのだ!?制しても聞かぬのなら、将軍へも申し
厳かに咎を申し付けるべきなのだ!」

そして重ねて、この様に言った

「おおよそ殉死というものは昔から有るものだが、これは意味のない行為だ。
それほど主人を大切に思うのならば、己が身を全うし後嗣に仕え忠義を尽くし、万一のことが有れば
それに臨んで一命を投げ打つ事こそ誠の忠誠である。何にもならぬ追腹を切るのは、犬死にというものであり、
事のつまりは主人がうつけで、重ねて禁じおかない故である!」

この家康の発言は江戸にも聞こえ、その年の閏4月、越前黄門結城秀康が北之庄で卒去した時、
将軍家よりかの家に御書が送られ、その中で第一に殉死を止めた。駿府の家康よりも同じ趣旨が
仰せ下された。その大略は

『黄門が卒去したことにより、殉死の者があると聞き及んでいる。
一旦の死は易く、後嗣を守り立てて節を尽くすのは難し。北之庄は北国枢要の地であり、国家鎮護の
第一であれば、死去した黄門に忠義を尽くそうと思う者は、一命を全うして後命を待つべし。
ゆめゆめ無益の死を遂げるべからず。もしこの旨に違背する者は、子孫までも絶えさせるべし。』

この書が到着する前に、永見右衛門、土屋左馬助といった秀康の近臣が殉死したが、その他に殉死したものは
無かった。

殉死に関してはこれ以後も重ね重ね厳禁したため、家康の死去の時も秀忠の時も、殉死する者はなかった。

(徳川実紀:東照宮御實紀)

徳川家康の、殉死に対する考えを表した記事である。




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 20:48:52.22 ID:DZVv7E0o
権現様は家臣が最大の宝って言い切る人だもんねえ
追い腹なんていう益にならないことで死なれるのは許せないか

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 21:00:50.34 ID:eNLoSSs/
現代でもアイドルとか自殺すると後追いする人が出るからな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 06:57:27.20 ID:6q8pVIeQ
忠吉が処刑や戦場での死以外で殉死者を出したはしりの人物と言われているね
この後から殉死が流行りだした

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:21:02.93 ID:esA5HWjc
江戸時代の殉死者はある意味で日本の同調圧力に殺されたとも言える

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:24:02.58 ID:1BBydUsO
>>401
家族や子孫のための、営利目的の「商腹」って物があってなあ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:55:54.92 ID:ZXz9rxM1
追腹斬るまでがお仕事です

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/29(月) 19:11:16.41 ID:sXyecKUG
同調圧力で殺すことはあっても、自分が死ぬ奴はいないだろw
なんのための同調圧力だよw

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:49:49.34 ID:PnoCTjTN
新規で重用されたら死ぬのが当たり前みたいな風が嫌やわあ
スポンサーサイト



家康はもともと物語が

2014年02月17日 19:23

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 01:25:38.94 ID:1j0eL6E4
松平忠吉が尾張にいた時に、徳川家康が通った際、

御前で領分の小刀や剃刀などを御供衆へ贈るほどの心安い挨拶であった。

さて、忠吉が「古き武功のお話を承りたいです」と言えば、家康は、

「特別に話はない。聞きたいとの心底ならば、聞かなくても良いぞ」
と言ったとのこと。家康はもともと物語が他よりも劣ると言い伝えている。

(扨古キ武功ノ御咄ヲ承奉リ度ト被仰上候ヘハ別ニ御咄ハ無之候聞度トノ
心底ナレハキカテモヨキソト御意ノ由権現様ハ元来御咄下手ト申伝候)

――『武功雑記』





521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 02:13:00.04 ID:99S5wOYM
どの辺りが悪い話?

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/17(月) 03:54:34.69 ID:RsGWGMKE
話下手、てのがなければ自分の武功にこだわらないかっこいい権現様だったのに
余計なつけたしのせいで単に苦手なことを避けただけに

吉郎において家康に訴える者がいた

2013年07月03日 19:50

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 18:01:19.29 ID:f5Btn4Yw
慶長十四年正月十三日、徳川家康は遠江中泉を出立し、その日浜松、
十四日に吉田、十五日には吉郎を通る。

この吉郎において家康に訴える者がいた。これは故下野主(松平忠吉)の被官である。
家康はこれを見て「一人近寄って子細を申し述べよ」と言った。

すると、かの士十人ばかりが刀を指しながら走り寄ってきたので、家康が驚いて
「彼等を成敗せよ」と言うと、すなわち退散したので歩行の士たちがこれを追った。

その中の一人は抜刀して戦って死に、残りの者の行方は分からなかった。

――『当代記』

この直後に起きた既出の「清洲城の不思議な男」とは関係あるのやらないのやら。






松平忠吉は、美男であり楽しい性格であった

2012年11月18日 19:06

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 20:41:54.80 ID:TrRLS7Sn
松平下野守忠吉朝臣は、後に薩摩守殿と申して、美男であり楽しい性格であったので、
天下の諸侯も、この君のためには一命をどうして惜しもうかと、争ってかしずいていた。
関ヶ原の合戦の際には一方の大将であり、福島正則以下の諸将、この君の下知に命をかけること
本望であると勇まれたとか。

この時、徳川家康井伊直政、本多忠勝に仰せ付けられ、「忠吉を良く引き回すように」と命じた。
これによって、島津義弘が丸備えを立てて撤退する所を、井伊直政は先駆けして食い止め、手痛い働きがあったが、
忠吉も手負い、井伊直政も鉄砲によって腕を撃たれたので、布で腕を縛り首にかけて、忠吉を誘導して
本陣へと帰った。

まず忠吉が家康の御前に出ると
「忠吉は手負いをしたか。初陣の働き、見事なり!」

と、ご褒美に所に井伊直政がまかり出た。家康これを見て

「兵部(直政)は手負いをしたか!薬箱!薬箱!」

と、自分の薬箱を取り寄せ、自身の手で膏薬を傷口に付けられた。

おおよそ人の親として、子供ほど可愛いものは無いこと、上下ともに同じである。
であるのに愛する子の初陣に、薄手ではあったが傷を被った事を驚く様子もなく、兵部が手負いをしたことには
慰め問わせられた所に、『名将の御こころざしは凡人の及ばざる所である』と、当時の人々は感じ入ったとの
事である。
(武野燭談)

関ヶ原の傷
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html

これの、当時の人たちの感想なども入ったバージョン。
しかし忠吉、イケメンで性格も良くて諸侯からモテモテだったとか。
長生きしたら秀忠の脅威になったかも知れませんねw




390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 21:53:07.42 ID:VHL946FJ
>>389
井伊話じゃん。

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 21:56:04.07 ID:gBKKcuS2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html
同じ話でも感想が違うな

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 22:07:05.78 ID:fmNyxEsJ
同じ話でもこっちは忠吉のイケメンっぷりと神君の行動に対しての人々の感想に目がいくな

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 22:14:54.01 ID:ji8WLaz8
義親子でイケメンか

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/17(土) 22:28:41.94 ID:ji8WLaz8
のぼうも後に忠吉に仕えたんだっけ?

武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために

2012年10月28日 19:21

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 00:31:27.45 ID:o3jiBe39
細川越中守忠興が徳川家康の上杉征伐に従軍するとき、大阪に留守として置いた侍の中に、
稲富喜太夫(祐直)という者があった。

忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。

この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った

「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。

彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」

この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)





104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 00:47:49.19 ID:6Fr+uPii
鉄砲と大筒じゃ全く別物だろ。。。

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:24:07.44 ID:RaGpenIm
大鉄砲みたいなのを撃つ砲術もあるだろうし
火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:48:36.72 ID:TRnvXtCj
稲富さんの臆病は天下に認められちゃっているんだな
そこだけ見ればカッコ悪い話

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 01:49:40.19 ID:Z8d0eTj6
世の中うまく出来てる部分もあるな
窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 04:20:56.30 ID:1TRjSzFU
武勇も臆病も大事にする名将のお話なのかな

関ヶ原の傷

2012年10月25日 20:01

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 12:41:34.88 ID:jCf4mcU/

関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で肘を包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。

また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功の様子を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。

続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。

――『徳川実紀』

息子の前でイチャイチャしやがって…






63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 17:47:00.93 ID:klvTHidc
>>61
家康の薬使ってもだめなら手術しかなかったんだな

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 19:15:41.16 ID:v8fctGZt
で宴会のときに脱がして傷を見せて・・・三河武士だと全員脱ぎだして某の傷は!某の傷は!ってなりそうだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 20:00:45.82 ID:h13LrtpK
傷だらけのムキムキ男がいっぱいか
中川しようこ大喜びだなw

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 20:23:13.50 ID:HCSnjYVE
平八郎「ムキムキでも傷がないのはだめですかそうですか」

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 21:17:38.87 ID:osVJJnaW
>>61
息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 21:53:07.07 ID:7AH9iltL
匿名「病気になってしまったので鼻を隠したら…ううっ涙」

家康の四男の松平忠吉は、関ヶ原東軍の大将格だった

2012年09月16日 20:58

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 15:19:06.54 ID:uHw9FAYx
昨日は関ヶ原合戦の日だったということで
家康の四男の松平忠吉は、関ヶ原東軍の大将格だったという話を。
実際に岳父である井伊直政の補佐を受けて初陣ながら敵の首級をあげる等の活躍もしている。

徳川殿御代官として薩摩守忠吉殿は、海道の大将を任じられ
井伊と本多を軍奉行として東軍の諸侯を引き連れて攻め上がった。
(『藩翰譜』)





487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 16:59:13.43 ID:9k5zyzCv
>>486

1時間半待ってるんだが
その中からどういうエピソードが語られるん?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 17:15:51.53 ID:laZ2rNPL
ちょっと忘れられがちにされる忠吉が東軍の大将だったということだろ
忠吉の活躍が光ると関ヶ原に遅れた兄の威光が…と
意図的に目立たないようにされたとも言われてるし

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 17:39:51.04 ID:r9IjtD7W
>>486は忠吉さんにゆかりのある人な気がするw
それならば気持ちはわかるが、逸話としては物足りないw

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:20:22.39 ID:uHw9FAYx
いや、逸話っつうか>>488の言うように
忠吉が結果的にボロ勝ちした東軍の大将に任命されていたとうのがミソだという話で
一方の秀忠は?というさ

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:28:27.63 ID:OVd5hny2
忠吉って、会津征伐と関ヶ原本戦に居たのは確かだけど
何時ごろたどり着いたかよく判らんのだよなぁ

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:35:17.42 ID:P66boEXV
忠吉さんって聞くとなんかおおきな犬を思い出してしまう・・

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:44:24.40 ID:wUfnLzC3
忠吉は活躍如何で秀忠に成り代わって跡継ぎになれるとか思ってたん?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:45:15.08 ID:aDytPG2O
賢いちよちゃん、と聞くとなんか山内一豊の妻を思い出してしまう…