10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/09(水) 21:09:21.03 ID:PL0ndWH3
或る本に、舞を舞う者の伝によると、幸若与太夫という人物は清和源氏の末、岩松治郎経家の後裔であった。
与太夫の父・蜂屋という者、安祥殿(松平清康)・岡崎殿(松平広忠)の二代に仕え。度々高名を顕し
近習に召し仕われた。
しかし、心が狂したのか、岡崎殿を討ち参らせんとして、誅殺された。人、その故を知らず。
その子である与太夫はこの年に生まれて襁褓にあった。岡崎殿は不憫に思し召されたか
「蜂屋は我に仕えて終に二心無かった。それなのに今、何の故があって私を失おうと思うだろうか。
狂気の至りであること疑いない。であれば、彼の年来の奉公に鑑み、その子の命を扶けるべし。
ただ成人の後に法師になるべし。」
と仰せに成られ、針崎の正満寺に預けられた。しかしここは妻帯の寺(浄土真宗)であり、
住持の僧にするのも不憫であるとして、幸若の弟子として舞を習わせた。
家康公の御時に、針崎を始めとして寺院悉く背いた(三河一向一揆)。与太夫は針崎で成長し
人となったのであるからその恩は深かったが、それでも寺を去って家康公の味方に参り、度々の
戦忠を致した。
後に秀忠公・家光公はこの事を知り召され、与太夫の子である与三太夫を御咄の衆の末に
召し出され、舞い舞う事をも許され給おうとされたのであるが、程なく薨じられたために、
その事も止んだと言われる。
(新東鑑)
或る本に、舞を舞う者の伝によると、幸若与太夫という人物は清和源氏の末、岩松治郎経家の後裔であった。
与太夫の父・蜂屋という者、安祥殿(松平清康)・岡崎殿(松平広忠)の二代に仕え。度々高名を顕し
近習に召し仕われた。
しかし、心が狂したのか、岡崎殿を討ち参らせんとして、誅殺された。人、その故を知らず。
その子である与太夫はこの年に生まれて襁褓にあった。岡崎殿は不憫に思し召されたか
「蜂屋は我に仕えて終に二心無かった。それなのに今、何の故があって私を失おうと思うだろうか。
狂気の至りであること疑いない。であれば、彼の年来の奉公に鑑み、その子の命を扶けるべし。
ただ成人の後に法師になるべし。」
と仰せに成られ、針崎の正満寺に預けられた。しかしここは妻帯の寺(浄土真宗)であり、
住持の僧にするのも不憫であるとして、幸若の弟子として舞を習わせた。
家康公の御時に、針崎を始めとして寺院悉く背いた(三河一向一揆)。与太夫は針崎で成長し
人となったのであるからその恩は深かったが、それでも寺を去って家康公の味方に参り、度々の
戦忠を致した。
後に秀忠公・家光公はこの事を知り召され、与太夫の子である与三太夫を御咄の衆の末に
召し出され、舞い舞う事をも許され給おうとされたのであるが、程なく薨じられたために、
その事も止んだと言われる。
(新東鑑)
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