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幸若与太夫の事

2022年02月10日 15:34

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/09(水) 21:09:21.03 ID:PL0ndWH3
或る本に、舞を舞う者の伝によると、幸若与太夫という人物は清和源氏の末、岩松治郎経家の後裔であった。

与太夫の父・蜂屋という者、安祥殿(松平清康)・岡崎殿(松平広忠)の二代に仕え。度々高名を顕し
近習に召し仕われた。
しかし、心が狂したのか、岡崎殿を討ち参らせんとして、誅殺された。人、その故を知らず。

その子である与太夫はこの年に生まれて襁褓にあった。岡崎殿は不憫に思し召されたか
「蜂屋は我に仕えて終に二心無かった。それなのに今、何の故があって私を失おうと思うだろうか。
狂気の至りであること疑いない。であれば、彼の年来の奉公に鑑み、その子の命を扶けるべし。
ただ成人の後に法師になるべし。」
と仰せに成られ、針崎の正満寺に預けられた。しかしここは妻帯の寺(浄土真宗)であり、
住持の僧にするのも不憫であるとして、幸若の弟子として舞を習わせた。

家康公の御時に、針崎を始めとして寺院悉く背いた(三河一向一揆)。与太夫は針崎で成長し
人となったのであるからその恩は深かったが、それでも寺を去って家康公の味方に参り、度々の
戦忠を致した。

後に秀忠公・家光公はこの事を知り召され、与太夫の子である与三太夫を御咄の衆の末に
召し出され、舞い舞う事をも許され給おうとされたのであるが、程なく薨じられたために、
その事も止んだと言われる。

新東鑑



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松平家紋は代々立葵で

2021年07月03日 17:33

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/03(土) 15:55:34.95 ID:tU+WSq5A
一、松平家紋は代々立葵で、清康公御代の天文4年まで立葵にて、随念寺の清康公
  の御影(肖像画)の御紋は立葵である。

  家康公御代、岩堀に名物の葵があって毎年上げられた。また岩堀に珍しい葵が
  あって丸い鉢に葵の葉を3葉敷き、菱を据えて差し上げ申したのを御覧遊ばさ
  れ、「これ以後は立葵をやめて丸の内に三葉蔓葵にせん」との御意にて変えた。

  80歳で相果てた本多茂兵衛と申す者が、たしかに伝えたと申す話である。

一、葵の御紋は有原成平(在原業平)の紋にて、太郎左衛門家有原信重(松平信重)
  という。この家督を御継ぎ遊ばされた故、松平家御紋は葵なのだと大樹寺(松
  平氏代々の菩提寺)にて承り候。

  ――『三河東泉記



「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候

2021年06月30日 18:11

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/30(水) 02:26:44.47 ID:5rhC7FXr
一、清康公(松平清康)は享禄2年、吉良へ御働きになり、小嶋の城主・高部屋ホコノスケを
  御攻めになって、城主は淵に飛び入り水をくぐり、落合より没落した。この時、八面荒川
  東城の持広(吉良持広)が降参あって、持広を妹婿になさり、吉良庄御平属す。

  後に持広は広忠(松平広忠)の加冠となり“広”の字を賜る。持広は子無くして義照(吉良
  義安)に譲り、八面の荒川甲斐守義篤(義広。吉良持清の次男)は家康公の妹婿に遊ばさ
  れる。

一、荒川殿の御屋敷は、山田市郎左衛門の居り申す所なり。本城に三の丸の堀跡が見えている。

  荒川と申すは「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候。

  また荒川大夫殿と申し、1千3百石を取り申され、屋敷あり。荒川の家来は中神藤左衛門、
  鳥居、岡田、加藤、これら13人が今川の桶狭間の合戦で戦死した。

  今の尾州の荒川小次郎がこの子孫である。

  ――『三河東泉記』



“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”

2017年03月02日 18:56

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:45:07.35 ID:Erhdus88
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、

武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。

それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。

心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、

三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、

氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。

義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。

ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、

筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。

――『織田軍記(総見記)』



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:59:26.81 ID:Q1IiyxCV
当時の織田家に8000も動員できたんか

井上正就、及びその父のこと

2017年02月17日 21:22

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 20:56:20.04 ID:ytr5iFmx
幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。

井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって
阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが
井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。
つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を
名乗らなかった。これには以下のような理由がある。

阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が
率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ)
しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。

だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、
他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。

後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を
教えたという。

そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に
『井上半右衛門子半九郎』
と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた

「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない
ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また
家の祈祷にもなると考えています。
かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。
我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」

そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。

(武野燭談)



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 21:25:00.04 ID:op0NtBCx
>>603
オチが・・・・・・

清康様の御後胤がいる。

2016年07月20日 10:24

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 02:01:05.37 ID:zmeUVn88
今の小普請衆か、もしくはわずかな知行の人の中に、清康様の御後胤がいる。
家紋には一つ引をつく。この家には常に何たることもないが、
不幸があって跡目を仰せつけられたときは、
必ず弔い料として金子百金かを賜ることという。
『林子(術斎)曰く、妄説であるとか』


(甲子夜話続編)


この頃になると、こういったゴシップも流れるようになるのか



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 08:16:14.81 ID:Gh41KMSN
水戸光圀公は、産まれるとき水子として処分されそうになった。
でも命は助けられて、成長して、名君?となった。

で、水戸光圀公はイケメンでモテまくっていたが、女に手をつけて妊娠させると
その子は水子にして処分した。
でも全員処分ではなくて、産まれた子もおり、大きな農家(武士ではない)に
あげちゃったりしている。

清康はいまだ出仕しない一門、または国侍どもに

2015年02月17日 18:45

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 14:39:35.05 ID:HM9VQ/vc
松平清康は、父信忠から家督を譲られ当主となったが、彼に出仕しない者たちがいた

清康はいまだ出仕しない一門、または国侍どもに
「信忠が隠居して、私に代をお譲りになった。
そしてわずか五百、三百の譜代だけで、あたりまわりを切りつけて、大方一門も出仕し、一門の他の者までも出仕するようになった。
なのに、その方らは一向に出仕する気も見せないのは理解に苦しむ。早々に出仕せよ。
それでも考えがあって出仕をしないなら、考え次第では許す。しかし返事によっては押しかける、また考え次第では踏み潰そう。」
と言いつかわした。
「信忠に背いてこの身を引き、今御出仕が遅れました。今までのことでお恨みにならず、お許し下さい。
清康様にどうして背きましょうか。今日、出かけて出仕いたします。」
と言って出仕する者もいる。
また、
「信忠に背いたのだから、今も清康に出仕するなど、思いもよらぬ。」
と言う者へは、押し寄せ踏みつぶなされ、手荒くされた。
すると残る人々は手を合わせて降参したので、御慈悲をもってお許しになった。
(三河物語)




松平清康が自信満々

2013年12月06日 18:45

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/05(木) 22:33:26.88 ID:HgVcWfzW
 天文四年(1535年)、松平清康は東奔西走の末に三河一国を勢力下に置いた。
これに対して甲斐の武田信虎が和睦を申しこみ、美濃三人衆や尾張国守山城主の
織田信光(織田信秀の弟)が尾張への手引を申し出たので、清康は一万余の軍勢を率いて守山に出陣した。

 この出陣の際、一門衆の松平信定は病と称して上野城に引き籠っていた。
信定は宇利城攻めで清康に遺恨を抱き、清康が信秀と戦っている間に
岡崎を奪い三河を自分の物にしてしまおうと考えていたという。このために信定が裏切るという風評が立ったが、
清康は「信定が裏切ったとして、どれ程の事ができようか」と言って、歯牙にもかけなかった。

 また、重臣たちが

織田信光は信定殿の婿であるので、信秀を迎え入れることでしょう。
退陣なさった方がよろしいのではないでしょうか」

と申し上げると、清康は

「信光が城を出るならば、迎え討ってそのまま城内に攻め入り、城を焼き払ってやる。
信秀が立ち向かってくるなら願ったりだ。一合戦してくれよう。
信秀と合戦するならば、信定は踏み潰す必要もない。勝手に自滅するだろう。
そもそも、信秀は私と戦おうとは考えてもいないだろう。奴は出陣できまい。

私が安祥にいた頃、手勢がわずか五百三百だった時、一度天下を治めたいと思ったが、
百々度(ももたび)の戦をしなければ、天下は治められない。野に向き山に向き、敵を見つけたら、
是非共に押し寄せ、百万騎いたとしても、百々度の戦をしようと思っている。
どんな時でも、私は戦でならば負けることはない。安心してくれ。」

と言った。

 重臣たちが続けて、

「大給の松平親乗殿は、信定殿の婿であります。これは如何なさいますか」

と申し上げると、清康は

「尤もな事だ。だが、私は信秀でさえ何とも思わないのに、親乗ごときが出陣して私を防げるのか。

もし出陣するなら、それは首に石を付けて、自分から川の深みに飛び込むようなものだ。いや、それ以下だ。
池鯉鮒へ出陣し、そのまま上野へ押し寄せて、二の丸、三の丸を焼き払ってくれる。」

と言うので、重臣たちが

「小河の水野信元は信定殿の婿であるので、きっと小河からも加勢が来るでしょう」

と申し上げると、清康はからからと笑って、

「尤もな事だが、お前たちは何を心配しているのか。私が通るというのに、
信元などが百万の兵を持っていたとしても、私と戦おうとするだろうか。
出陣してくるならば、それもまたよし」

と答えた。


三河物語より、松平清康が自信満々……というか慢心の域に達してそうな話。
この直後に清康は横死するため、彼がこの発言通りの実力を持っていたかどうかは
永遠に確かめられなくなってしまった。
ちなみに今日で清康が横死する守山崩れから478年目になる。





978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/05(木) 23:41:44.67 ID:rC44V7Ou
作品によっちゃ
「この慢心が清康の身を滅ぼしたのである、よってうんぬんかんぬん」
とか書かれるレベル

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 00:02:20.55 ID:kyltXBmG
清康の言う天下って何を指してんだろうな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 00:08:59.24 ID:KMPzJFag
三河物語だしホントに日本全土の事言ってるんじゃねえかな

山本勘助の見た松平清康

2013年10月19日 19:05

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 21:00:10.07 ID:zCVj+pE9
あるとき武田晴信(信玄)が、山本勘助を呼んで聞いた
「そなたの生まれた三河国では、近年優れた大将は出なかったのか?」

これに勘助は答えた
「最近では、松平清康という大将が、弓矢を取っては敗れること無く、生国の三河を征服し、
同国の侍大将たちを与力として従え、いまにも尾張国を手に入れようと、意欲的に活動していました。

彼は尾張と数度の合戦を重ね、尾州勢五千に対し、三河は千の軍勢でも、一度も負けること無く
尽く勝利を得ていました。

5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として
名を馳せ、遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。

そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、不慮のことで
亡くなられてしまいました(森山崩れ)。

今は清康の息子である広忠の代ですが、他国に広げた勢力圏は勿論のこと、本国三河すら
他人の物になろうとしています。

もし清康が健在であったら、三河侍は今時分、皆清康譜代として他国に威力を振るっていたでしょうに、
果報少なく不運だったため、思いがけぬ死によって、哀れにも今では本国の人々でさえ、
子息広忠の統制下にはいらない状況なのです。」

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、山本勘助の目から見た、松平清康、広忠の時代の三河についてである。




517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 21:08:51.70 ID:mf74572e
伊勢に取り残された三河衆「やべっ帰れねえよ」

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 22:40:56.35 ID:MyTHkvap
絵に描いたような後付

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 23:43:25.45 ID:0hdfZqT/
松平清康って美濃や伊勢に出兵したことあったっけ・・・

520 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/18(金) 23:50:28.15 ID:8Y5WAdai
知らん

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 21:49:30.57 ID:kwAootqa
清康のとき今川方面は攻めたりしなかったの?

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:08:30.95 ID:s4ABQkQe
>>516
俺もこの部分投稿しようと思ってたけど、

>5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
>尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として
>名を馳せ、遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。
>そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、不慮のことで ……

この部分、正しくは

5年も存命でしたら、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武辺の家として
名を馳せ、遠国の牢人衆まで馳せ参じて清康を主君と仰ぐので、 本国三河の事は言うに及ばず、
尾張の者まで清康の譜代となっていたことでしょうに、不慮の儀にて……

だと思うぞ?新編岡崎市史はこの解釈だったし

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:15:51.21 ID:2mLYCHGx
松平清康なんかよりも、織田信秀の方が全然勢力拡大してるのにスルーするし
所詮、甲陽軍鑑は江戸時代のインチキ資料

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:18:41.13 ID:89+jMl0r
松平清康なんかよりも、フェリペ2世の方が全然勢力拡大してるのにスルーするし
所詮、甲陽軍鑑は江戸時代のインチキ資料

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 23:24:44.11 ID:s4ABQkQe
というか信秀の勢力拡大って清康の夭折も一因なんじゃないの?
まあ清康の勢力拡大も今川氏親が死んで後継ぎの氏輝が幼少だったのに乗じてだけど

首餅

2013年10月16日 19:06

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 16:57:28.39 ID:z2g3fn3b
長坂信政は松平清康に仕えて数度の陣に従い、戦場にすすむごとに、
その槍はいつも血塗られた。

そのため清康の仰せにより、『血鑓九郎』と名を改め、皆朱の槍を許された。

後に松平広忠に仕えて、天文十七年、三河国碧海郡西野での織田家との
合戦では信政は一番に馳せて、槍をとって盾を破った。

松平勢はこの勢いに乗じて進んだので敵は敗走した。さらに後には徳川家康に
近侍し、信政は生涯に九十三の首級を得た。

これより後、長坂家代々は毎歳正月の鏡餅を九十三個用いるようになり、
これを『首餅』と称した。

――『寛政重修諸家譜』






松平清康、椀の中の汁を捨てさせ

2011年05月23日 00:02

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 01:39:32.00 ID:oAHOITPq
三河物語より、めんどくさい三河武士の中でも一段とめんどくさい主君の話


ある時、松平清康の食事が終わる頃に家臣らが出仕してきたことがあった。

すると清康は椀の中の汁を捨てさせて前に進み、「皆、これで酒を飲め」といった。
しかし、家臣らは恐縮して頭を下げてかしこまっていた。まあ当然である。

「何故飲まないのだ。さあさあ飲め」

それでも飲ませようとする清康。なんというめんどくささ。しかし、家臣たちにとって、
主君の椀で酒を飲むというのはとてももったいなくて、更に頭を下げるしかなかった。

これを見た清康は、
「皆、何故飲まないのだ。前世の行いが良ければ主人となり、前世の行いが悪ければ家臣となるだけで、
侍には上下の隔てはない。許すから飲め」とまで言って薦めた。

あまり辞退しては失礼になると思ったので、家臣らはかしこまって御前に進んだ。
その時、清康は微笑みながら、「老いたものも若いものも残らず、三杯ずつ飲め」といった。
あまりの嬉しさに下戸も上戸も皆、三杯ずつ飲んで退出した。

帰り道で一人の家臣が話した。
「今の椀も情ある言葉も、どれだけの金銀米銭を積み、宝物を山ほど与えられるよりも有難いことだ。
今の椀の酒は、主君と我々どもの首の血だ。この情けには妻子を顧みず、馬前で討ち死にして、恩に報いよう。
それがこの世の名誉であり、あの世へのいい思い出になろう」

一同は「その通りだ」と喜び合った。


というわけで、めんどくさい主君とそれに感動した家臣のちょっといいお話




750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 01:46:09.52 ID:otX9QR77
>>749
清康の来世は家臣だなw

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 02:09:19.38 ID:eMGA/T+z
なんで?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 03:03:23.88 ID:O9y3CtQ4
前世で善行を積んだとは思えない大名が何人か


753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 03:58:08.22 ID:0hJfQFVt
鬼武蔵は何に転生したんだろう

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 07:51:23.40 ID:DXNnveyX
>>751
よかれと思ってやった事が、他人にとって必ずしもいい事とは限らないと言いたいんじゃね
家臣が喜んでるからいい事だと思うけど

>>753
時間軸をLOOPして羅生門の鬼に…

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 08:07:47.43 ID:OslqlfV4
直家さんは薬師に、久秀さんは花火師、忠興さんは宣統帝溥儀に・・・

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 09:22:05.00 ID:plUt9M8d
やたらと金のかかる花火師だな

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 10:16:08.75 ID:aQ6eXG1l
小田さんは鳩に
政宗さんは・・・小泉さん?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 11:34:53.16 ID:uaq2z6sG
天庵さまを鳩なんかといっしょにすんなよ

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 12:44:06.87 ID:fs/uw1ZV
そうだそうだ
天庵さまは天下どころか
自分のうちにも帰れないんだぞ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 18:01:36.53 ID:WyJXsj8a
俺が未だに童貞なのは、謙信公の生まれ変わりだからなのだろうか

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 20:40:10.48 ID:hOvIpklR
>>760
細川政元公の生まれ変わりなのかもしれんぞ


770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 09:57:08.38 ID:5m1R4vZ9
>>760
空を飛ぶがいい、お前なら出来る筈だ


771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 10:21:24.08 ID:3I7LvGEx
最後は入浴中に逝くのか

「是」と言う文字を

2011年02月22日 00:00

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 22:05:09.72 ID:hcoJILWV
ある時松平清康が、「是」と言う文字を握りしめる、と言う夢をみた。

不思議に思いこれを占ってもらったところ、「大変な吉夢だ!」と言う。
その理由はこうだ

「『是』と言う文字を分解すると『日の下の人』となります。これを握るというのは
日の下の人をすべ掌握するということ、すなわち天下を握るということです。
松平の家より必ず、天下を握る人が出てくることでしょう!」

清康はこれに大いに喜んだ。後、彼の孫である徳川家康が天下人となること、
誰もが知るところである。

清康の見た「是」の夢、と言うお話。




929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/21(月) 00:14:25.42 ID:8geZNmXQ
>>925
松平の家よりってw
普通夢見た本人がどうこうするだろw