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最上騒動

2014年09月04日 18:50

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 01:11:00.45 ID:u2I46lAI
最上騒動

父・家親の急死により山形は12歳の最上家信(後の義俊)が継ぐ事となったが若年であったために、
重要な決定は義光・家親の慣例に従う他に、幕府に許可を得る事が求められた

国元を離れ江戸で育った家信は重臣らと水が合わず、また重臣らも若年な上に文楽に興じる家信の政道と
指揮力に不安と不満を感じた

氏家光氏「家宰の私が言うのもなんだが、…若殿は国を束ねるには…ちょっと、な…」

楯岡光直「義康君、家親君、義親君は已にあらず
…若の代わりに光茂(後の山野辺義忠)君ではどうであろう?」

鮭延秀綱「あぁ、光茂殿なら亡き大殿(義光)譲りの才覚もあるし、誠に主として申し分無いな!」
松根光広「あいや待たれよ!家信は幼いとは言え最上の大守、吾等が支えずしてなんとする」

東根景佐「あまり大きな声で騒ぐな。若の耳に聞こえるぞ」

家中は山野辺派と家信派に別れ、険悪な雰囲気となった

やがて元和8(1622)年、反家信の山野辺派の横暴に憤りを感じた松根光広は鬱憤を抑え切れず
老中の酒井忠世に「家親の頓死は楯岡光直の毒殺に違いない」と訴えた

忠世は訴えに基づいて光直を取り調べたが証拠はなく、光広は筑後の立花氏にお預けとなった

騒ぎを重く見た幕府は旗本の島田利正(後の二代目南町奉行)と米津田政(後の初代北町奉行)を
代官として山形に派遣

幕府の調停に従わず、家内騒動が続く様なら問題を起こした責で一旦国替と減封を命じ、家信には新たに
他国で6万石を与え、
成長の後様子を見ていずれは山形と出羽の本領を段階的に還す、という決定を下した

しかし光茂と秀綱は「松根のような家臣を重用する家信を仰ぐ事は出来ぬ」と反論し、
最上家で最大の光茂擁立派である秀綱は「もし願い叶わぬなら、吾等山野辺派は知行を返上し、
頭を丸め高野山へ参る」と続けた

島田と米津は江戸に急ぎ戻り、この様子を忠世に報告した

幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易された

山野辺光茂は備前岡山の池田忠雄の下に追放され
楯岡光直は肥後熊本の細川家に預けられた




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