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いわんや、人間も日用の養により

2021年03月01日 19:06

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/01(月) 16:55:48.22 ID:pSmDjqkp
松永弾正(久秀)が鈴虫を飼うのに、様々に工夫して養うと、三年まで生きた。
これを見て「いわんや、人間も日用の養により、長命すること疑いない。」
と言われた。

備前老人物語



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さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話



フロイス達の信長への訪問について

2020年10月31日 18:06

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/31(土) 00:23:39.93 ID:CqjrL7Qy
最も愛するパードレよ、前の続きに立ち戻り、我等の最も大なる敵である霜台(松永久秀)は、和田殿(惟政)が
信長を訪問するため、私を招くことを命じ、私が都に到着したことを聞くと、霜台は私に先んじて
信長を訪問し、私が到る所は悉く擾乱し、破壊されるが故に、再び放逐することを懇願した。

信長はこれを笑い、「一人が都のように大きな都市に在って、一国を擾す原因と成るなどと考えるが故に、
汝の心は甚だ狭いのだ。」と云った。しかして、彼の顔色が悪しき時は、これに抗弁し、またこれを
見上げる者は無い。

私はロレンソ、ベルショール、アントニオ、及びコスモ、並びに主立ちたるキリシタン達と共に城に到ったが、
彼は内に在って休息し、音楽を聞いていた。このため佐久間(信盛)及び和田殿が、私が携えてきたもの、
即ち尊師が三年前、豊後より私に贈った天鵞絨(ビロウド)び帽子、及び鏡、ベンガラの杖、及び孔雀の尾、
等、富に関する諸人の考えによれば、私からの贈りものとして価値少き物を、彼に運んだ。彼は他の品を
不必要であるとして、帽子のみの受納し、私が来たのを喜び、「他日、閉暇ある時に面会すべし。」と告げた。

佐久間殿は内より多くのサカナ、即ち食物を容れたゼキンロ(食籠:金を塗った小筥)を持ってきて、
和田殿と共に挨拶し、私に何を与えるべきかと語った。
両人は私を送って外に出、美しき辞を述べ、好意を表して別れた。而して、この光景を見て大いに驚きたる
群衆を意に介さなかった事はここに説かない。

その後信長は、和田殿及び佐久間殿に対し、私を引見しなかったのは、数千レグワの地よりこの教えを説くため
日本に来た外国人に対し、いかなる礼儀を用いるべきか解らず、また密に面会する時は、私が彼に洗礼を
授けるために赴いたと、懸念する者が出てくるのを恐れたためだと云った。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

フロイス達の信長への訪問について



日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは

2020年10月30日 16:39

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/30(金) 00:12:55.21 ID:S2VucTA+
私は、我等が主デウスが現世に於いても、その裁判によって悪人に悪事の報いを與え給う大いなる摂理を
賛美すべき他の一事を尊師に告ぐべし。

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは、釈迦を尊信する法華宗と称するもので、その坊主は
福音の教え(キリスト教)の最大の敵にして、排斥者である。
その寺院の中に、ロチオ(六条本圀寺)と称し、甚だ富み、恐るべき罪を犯す者達が有る。

この寺院は尊師も既にご存知のように、弾正殿(松永久秀)が公方様(足利義輝)を殺した時、これに
千五百クルサドを贈り、ガスパル・ビレラ、及び私を殺すよう命ずることを請うたという多くの証拠がある。
しかし我等の所持していた免許状により、この事は不可能だったので、せめて我等を都より追放し、会堂を
奪うことを求め、これを実行した。我等が都を出る時、同寺の坊主は悉く来て、我等の追放を喜び、おおいに嘲笑した。
その後、寺院の側に、ギナイ(寺内)を造った。即ち美麗なる別荘にして、自由にその悪事を行い、
またこの世の富を増加する為である。

我等の主デウスがキリシタンの敵であることにより、ソータイ(霜台:弾正の唐名、松永久秀)に與え給いし
第一の罰は、約二年半、彼を敵の攻囲中に置いたことであり、第二は公方様(足利義昭)の赦免を得、
尾張の王(信長)の寵を受ける為に、一万クルザド余の最も良き品物を贈ったことである。
第三は、その世俗の権力を、十の内八を失い、今彼を重んずる者は居なくなるに至った事である。

ロチオの寺院の坊主たちは、尾張の王がこの公方様(義昭)を、その兄弟の位に復せん事を知り、遥か以前より
越前及び尾張の国に至り、公方様、及び上総殿より特許状(禁制)を得、軍隊が都に入る時、その寺院は何ら
害を被らず、またこれを宿舎としないよう計った。このために一万クルザドを消費した。
彼等は大いに安堵して喜び、その寺院に帰ったが、公方様(義輝)と共に、その母を殺した時、彼女の家が
甚だ佳い為、坊主たちは弾正殿の寵により、これを破壊して持ち出した事を聞いたと見え、
公方様(義昭)は都に入った時、その報いとして、部下を同寺に宿泊せしめた。
彼等はこのような大いなる圧迫を加えられないよう願ったが、彼(義昭)はこれを嘲笑した。

カンニシュ(三人衆)等が、公方様の滞在した寺院を囲もうとした時、第一に行ったのは、彼等の造った
新しいギナイを焼き、一軒も残さなかった事である。然れども、未だ坊主には、このような不幸によって
気づくものが無かった故に、彼等の艱難と不安はこれによって終わると考えていたが、その後、信長は
(二条城の)石材工事は既に終わったが、もし公方様の宮殿を新たに建設する時は、非常に遅延し、
公方様がまた、速やかに城に入ることが出来ないと思い、何ら躊躇すること無く、同寺の美麗なる座敷、
その他の部屋を破壊し、悉く屏風(画いた布の折り畳むもの)及び、甚だ良き絵画を出させ、直ぐにこれを
公方様の城を飾る為に用いた。

坊主等一同は弾正殿の元に赴いて、彼等のために信長に取りなすことを請うたが、王の一度定めたことを
変更する事は出来ない故に、これを為すことは能わざると答えた。
市の法華宗徒約千五百人が会合し、「殿下の望みに任せ、金銀如何程にても出し、日本全国に有名たる
かの寺院に対し、このような屈辱を加えることを中止するよう信長に請願してほしい」として、
内裏、及び公方様の元に赴いたが、何等の功無くして、悉く破壊され、坊主たちは涕泣した。

先に伝えたキリシタンは、公方様の家臣である故に、上記の座敷の甚だ良い道具を、我等も滞在する
当家に持ち来た。
傲慢なる悪魔の堂は、このような不幸に遭遇したが、我等の主がその霊魂に幸福を与え給わん事を。
(一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)



革島ジョアン不敬事件の顛末

2020年10月25日 17:30

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/24(土) 23:49:21.44 ID:fcrr8HEw
前に述べたように、三箇に於いてキリシタンと成った者の中に、17、8歳の青年の武士が在った(革島ジョアン)。
三人の執政(三好三人衆)の一人(三好宗渭)の親戚であり、彼はその父の残した収入、毎年四、五千クルザドに
上がりしものを、己に交付するよう懇願していたが、デウスのことを良く解しており、至る所で異教徒と、その宗旨の
欺瞞について議論していた。

彼はシノワラドノ(篠原長房)、及び三人の執政の居るコイミズ(越水城)と称する城に在り、他の青年武士らと
遊山のため、異教徒より大いに尊崇されている寺院に至った時、同行者は彼を侮辱し、「キリシタンと成った事で
神々の罰を恐れないのか」と言った所、彼は
「どうして死せる人、及び木石の像を恐れることが有るだろうか」
と答えた。しかしこの事についてしきりに攻められたため、この青年のキリシタンは、受洗後一ヶ月に及ばない
こともあり、大いに怒り、これによって「木石の恐るべからざるを見るべし!」と言い、偶像に近づき
大いなる不敬を行った。

この事は国内各地に伝わり、前代未聞の甚だしき不敬であるとされ、執政の耳にも達したため、我々を好まず、
これよりもずっと小さな機会であっても我々への攻撃のため利用しようとしていた(反キリシタンの)者達は、
青年を呼び出し、「パードレがあのようなことを成すことを勧誘し、又は指示したのか。或いは。キリシタンは
あのような事を常に行うのか。」と尋ねたが、青年は答えて「パードレは自分の成したことを知らず、また
之を進めたこともない。」と述べ、「同伴者の甚だしき糾問によって、自分の発意を以て之を行った。
もしこの事が罰に当たるのなら、自分はすぐにそれを受けるだろう」と答えた。

キリシタンの甚だしき敵である、三人の執政の中の一人(岩成友通か)はこれに対し、「もし己の従兄弟にして
外二人の執政の親戚でなければ、直ぐに十字架にかけることを命ずるべきだが、自身の好意、および親戚関係
により除外し、希望していた収入を与えないことまでとする。」と云った。
これによって青年は三箇に向かい、サンチョ(三箇頼照)は食を与えてこれを支持した。

執政たちはこの機会に於いて、デウスの教え、及びキリシタンに対する多くの悪言を述べた、
シノワラドノもまた、偶像に対する罪を憤ったが、温和なる言葉を以て彼等に説き、また私がこの事に
関係ないことを知らしめ、その後、約十五日を経て、都の公家に書簡を送り、私が都への復帰の許可を
内裏に求めることを懇請し、また三人の執政をして、彼の書簡により庇護の書簡を認めることを請うた所、
彼等は甚だ之を好まなかったが、その希望に応じた。

二人のキリシタンがこれらの書簡を携えて都に到ったが、悪魔は又、他の妨害を加えた。即ち書簡の宛名に
誤りがあったのだ。そのためキリシタンの一人は之を訂正するため十二、又は十五レグワの道を引き返す
必要が生じた。しかしデウスの御慈悲により、この事は困難な事態にならなかった。シノワラドノの宮廷の
武士が大いにこの事に尽力し、即日訂正、押印したため、キリシタンは直ぐに之を携えて都に着いた。

悪魔がこの上妨害を加えることは無いと思われたが、公家が我等に返答を与える前に、三好殿(義継)および
弾正殿(松永久秀)が堺を出て、四、五千人を率いて都の国を占領しようとした。彼等はシノワラドノ、及び
三人の執政の敵であり、戦闘のため公然大軍を集めた故に、公家は戦の結果を見るまで、回答を中止した。

『一五六七年七月八日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

革島ジョアン不敬事件の顛末



この人はシノワラドノと称し

2020年10月24日 17:26

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/24(土) 15:11:34.23 ID:fcrr8HEw
私は神の御意により、一、二コント(万)の兵を有する強勢なる大王の力により、新公方(足利義栄)が
都を領することを期待している。
この人はシノワラドノ(篠原長房)と称し、貧欲、その他悪徳無く、デウスの事を数回聞いたことが有る。
彼は我等を庇護することを希望している。

その国(阿波)に一人のキリシタンがあり、パードレが都に於いて洗礼を授けた者で、高貴にして勢力があり、
王の寵愛する者である。我等はこの人の尽力によって阿波の国王(三好長治)の免許状を得て都に帰ることを、
我等が主デウスに於いて期待している。何故ならば、北方の諸侯は、今悉く彼に服している故である。

但し都は(前に述べた如く)目下擾乱し、戦争のため不安にして、同地には頭が無く、これを治めるべき君
無きが故に、同所に滞在する事は著しい危険がある。公方様を得、戦争が止んだ時に、更に請願すべきである。
我等の主の愛により、これら一切の必要に付き、兄弟の捧物、および祈祷において祈れ。

暴君弾正殿(松永久秀)は前に述べた如く。都に於いて我等を殺すことを命じ、叛逆によって公方様を
殺した後、彼の勧告によって我等は同所より追放されたが、その後、我等の主デウスは正しき判官なるが故に、
戦争及びその兄弟、并びに家臣の死去(弟・松永長頼らの討ち死にの事であろう)、財産の大いなる損失により、
大いに彼を苦しめ迫害し給わった。

『一五六六年六月三十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

京都追放後、阿波三好家などの足利義栄派に期待をかけるフロイスの書状



松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護

2020年10月18日 16:26

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/18(日) 06:27:51.42 ID:n34p4+fZ
我等の主にして救主なるキリストの恩寵と永久の愛、我等の心中に常住せんことを。アーメン。

公方様(足利義輝)死後の事件の顛末と、悪魔がその僕により、我等の主にして救主なる耶蘇基督の教えを
都より全然駆逐せんと努めし事に付き、私はすでに多く通信した。弾正殿(松永久秀)およびその子(久通)の
悪心はこの目的を達せん為益々増長し、両人の残忍暴虐は停止する所無く、彼らの部下すら不思議とし驚嘆する
所であった。

これに加えるに、他の諸宗派よりも欲深く、罪悪甚だしい法華宗の坊主は、最も我等並びにデウスの教えを
憎み、弾正殿及びその子はその宗派に属し、同派は今繁昌しているのを以て、彼らは数日前、その僧院に於いて
規則を定め、同派の坊主、保の他何人も天竺人、即ち我等と語るべからず、又議論すべからず、もしこれを為す
時は破門すべきことを発表した。この原因は、多数の俗人が同派の坊主たちに随伴して、我が住院に来たり、
パードレと議論したのを見たが、坊主たちは四語を以て論破され、答弁することが出来なかった為に、
多くの俗人たちは我等の主デウスの教えを聴きキリシタンと成り、坊主を捨てた事にあった。

これによって我等に対する彼らの憎悪は極度に達したが、弾正殿は我等が、彼が殺した公方様、三好殿(長慶)、
及び自己の、当国居住の免許状を有するを以て我等を追放すべき理由を発見することが出来ず、また多数の
法華宗の武士が我等を滅ぼそうと請うていたが、これを公に行うことも出来ず、そこで、日本全国の君にして
偶像のごとく家に在り、外に出ること少なくして少しも兵力を有せず、弾正殿より扶持を受ける王(天皇)を
扇動して我等を追放せしめんとした。

我等はまた、法華宗の坊主たちが公方様の妻を殺した兵士に賄賂を与え、我等の住院に侵入させ、我等を
刺殺させようとしていると聞いた。我等の許には人無きが故に、いかなる兵士も、昼夜何時にてもこれを行う
事容易である。この事はキリシタンの在る多数の城に伝わったことで、各所よりパードレの許に使いを遣わし、
「キリシタンとしては世の中にこのような不公正が行われるとは信じられない。しかし、もしこのような事が
あるのなら、我等は生命を賭してデウスの名誉のため事に当たる覚悟を成す」と伝えた。

(中略)

月曜日の朝、都の主だった執政三人中の一人、名をフイウンガドノ(日向殿:三好日向守長逸)と云い、
異教徒であるが生来善良で、我等の親友なる人である。彼はキリシタンである家臣を遣わして私に告げ、
都より我等を追い出すことが無いように極力尽くしたが、弾正殿が張本人であるので何らの効果が無い故に、
私に堺、又はパードレ・ガスパル・ビレラの滞在する地に赴くように。彼はこの時に途中危害を加えられる
事が無いように、兵士を派遣して私と同行させる、と云い、私に二通の書付を送付した。
一つは、私が所持する品物は、いかなる家においてもこれを没収し、またはこれに触ってはならない、と命じ、
また一つは、途中において税を徴収することを禁じた物であった。これらの税は甚だ高いものなのである。

又、私を堺、或いはパードレの滞在する地に運ぶため、船二艘を無償で提供し、翌朝には弾正殿、三好殿及び
彼はその城に還る事になっているので、もしこのまま滞在しては危険があることを以て急ぐべし、と伝えた。
また三好殿の後見の如き職に在る人、途中無事に通過すべき書付を私に送った。また都のキリシタンたちに
書簡を送り、キリシタンたるが故に、何ら危害を加えるようなことは無い故に、恐るるべからずと伝えた。

右両人の伝言に従い、私は翌火曜日、即ち7月末日まで留まって出発することに決した。

『一五六五年八月三日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護の記事



弾正殿と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)

2020年10月15日 18:22

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 18:14:31.78 ID:aTZAbvYw
弾正殿(松永久秀)と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)は、不法にも日本全国の君なる公方様(足利義輝)を
その母、妻子、兄弟、親戚その他と共に殺した後、その残酷なる心はこれに満足せず、都に於いて多数の家屋を
破壊し、殺される者、追放される者を出した。

彼は上に立つ者無く、又悪魔に従っているが故に、このように残忍の行為を為し、また悪行を完備するために
都に在って我等が主デウスの教えを説くパードレ等を重刑に処すべき者と認め、或いは殺し、又は他の刑罰に
処し、都より公に追放し、デウスの教えが日本全国に於いて憎悪され、知らない者であってもこれを嫌忌するに
至らしめると云い、実行したことは、尊師もこの事を詳報したパードレ・ルイス・フロイスの書簡によって
見られているでしょう。

翌日、彼が都を出た後、都中に公布して、『テンジクジン(天竺人)』即ち我々が都に於いてデウスの教えを
説いた事によって追放し、会堂は没収した。また我等は永久に追放すべき者であり、何人も決し庇護すべからず
と告げ、また堺に於いても我等を追放することを命じた。これに関連して様々なことが起こったが、
長くなり書簡に認めることが出来ない、
尊師が当地方からの通信によって、喜ぶこと無く、不満と悲哀を感じて一層の功徳を積まれんため、
我等の主デウスがこのような事態を許し給わっているのだと思われる。神の御慈悲は賛美すべきかな。

私はヨブが「神より福祉を受けるならば、災禍をも又受けざるを得んや」(旧約聖書ヨブ記第二章十節)
と云えるのを思い起こした。何事も主が命じ給い、又は許し給う事なのだから、一切御手に任せ、
探知すべきではない主の秘密を批判すべきに非ず。

『 一五六五年八月二日附、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰』

都よりのキリシタン追放について。基本的には久秀と息子久通を混同して認識している感じですかね



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 18:58:39.37 ID:bhxO4EPI
親子で方針食い違いしてるとか中々外からじゃ気づきにくそうだよね
久秀研究は進んでるけど久秀とちょくちょく意見を異にしてるっぽい久通も今後どんどん研究進むんかねー

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 19:11:44.77 ID:AfKFZNgh
松永のキリシタン政策は内裏の意向だったはずだし、所領が奈良で寺社勢力との関係からキリシタンにいい顔しなくなったのは仕方のないこと
全ては弟が討死した事が大きい

弾正殿は我等が有する最良の友にして

2020年10月12日 17:25

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/12(月) 15:19:10.79 ID:pymLXmiy
(正月の将軍・足利義輝への)訪問を終えて、翌日パードレ・ガスパル・ピレラは、公方様に次ぐ
第二の人である三好殿(長慶)を訪問するため、都から八レグワの距離にある、飯盛と称する城に向けて
出発した。同所には三好殿の家来にして、キリシタンである武士、及び兵士約二百人が在る。
パードレはまた、彼らの懺悔を聴く必要があった。
彼らは、当地に在るキリシタンの中で最も立派な者達で、皆熱心にデウスの事を聴きこれを悟ることを
希望していた。

イルマン・ルイス・ダルメイダは堺から同所に来てパードレに会し、両人共に三好殿を訪問した。
同所に於いて起こったこと、并びに彼の地のキリシタンの大身達の善行は、イルマンがこれを詳報する
だろう。

パードレは彼らの懺悔を聴いた後、奈良と称する弾正殿(松永久秀)の居城に赴き、これを訪問するため
出発した。弾正殿は我等が有する最良の友にして、また当諸国中最も勢力の在る領主である。
彼の家臣である武士の中にもキリシタンがあり、その中に昨年通知した二人があり、その僕、および
家族とともにパードレに懺悔をなすのだ。

パードレは同所より更に他の地を見舞う予定で、四旬節の中頃には、当地に来て都のキリシタンたちの
懺悔を聴き、聖餐を授けるだろう。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

宣教師の三好長慶訪問について。後にキリシタンの敵として強く非難する松永久秀も、この頃は
「最良の友」だったのですね。



松永久秀の信貴山城について

2020年09月29日 18:30

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 17:32:16.41 ID:nz7SxZNj
少し長きに失するが、弾正殿(松永久秀)の領せるこの町(信貴山城)に於いて私が見た所について語る。
貴兄ら最も愛する兄弟が日本の教化のためデウスに祈るべき材料を得るためである。

前に述べたように、この領主は財力及び所領多く、多数の人が服従しているのを見て、国風により
この町に築城するに決し、一つの山を選定し、石が甚だ柔らかいためこれを切って数個の塔を作り、
その中央にゴア市の範囲の三分の一に等しい野を残した。

ここに多数の井戸を掘ったが、三ブラザにして水が多く出た。彼は最も信任している家臣と、
最も富んでいる大身たちを招き、囲いの中に敷地を分与し、家を造らしめた。着手以来五ヶ年となるが、
皆競って他よりも良く、高価な家を造った。

家は数階にして、我が国風の良き窓格子があった。またこれらの家は堀、及び塔と共に、今日まで
キリスト教国においても見たことがない、甚だ白く光沢の有る壁を塗っていた。壁がこのように白いのは
石灰に砂を混ぜず、甚だ白い特製の紙を混ぜる故である。

家及び塔は、私が見た中で最も良い瓦で、様々な形があった。また指二本分の厚さで、真っ黒なものを以て
覆っていた。このような瓦は、一度葺けば四、五百年も更新する必要はない。私は六、七百年を経た寺院の
多数に於いてこれを見た。

この地に入りて街路を歩行すれば、その清潔にして白きこと、あたかも今日完成したばかりの物のようであり、
天国に入ったような感がある。外からこの城を見れば、甚だ心地よく、世界の大部分にこのような美麗なる
物があるとは思われない。

入ってその宮殿を見るに、人の造ったものとは思えず、これについて記述するには紙二帖が必要である。
宮殿は尽く杉で造り。その匂いは中に入る人を喜ばせ、また幅一ブラサの縁はみな一枚板である。
壁は尽く昔の歴史について描かれ、絵を除いた地は尽く金である。

柱は上下一パルモを真鍮にて巻き、また尽く金を塗り、彫刻を施して金のように見える。
柱の中央には甚だ美麗なる大薔薇があり、部屋の内面は一枚板のごとく見え、甚だ接近しても、継ぎ目を
認めることは出来なかった。また他に多くの技巧を用いていたが、私にはそれらを説明することが
出来ない。

この宮殿の多くの建物の中に、他に比べても更に精巧なる室が有った。
奥行きおよび幅四ブラサ半にして、黄色の木材を用いていた。甚だ美麗にして心地よき波紋(木目)が有った。
この木材は加工甚だ良く、鏡のようであった。然れどもこれは木材の光沢ではなく、一種の漆であると思われる。
庭園及び宮庭の樹木は、甚だ美麗であると言うより他ない。

私は都において美麗なるものを多く見たが、その殆どはこれと比べるべくもない。世界中でも、この城のように
善、かつ美なるものは非ざるなりと考える。故に日本全国よりただこれを見るために来る者が多い。

『一五六五年十月二十五日附、イルマン・ルイス・ダルメイダ書翰』

松永久秀の信貴山城についての記録



597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 17:54:51.25 ID:90ZDbwIW
>>596
多聞山城の方だね

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 19:53:59.12 ID:nz7SxZNj
>>597
原文を確認しましたが、やはり信貴山城のこととして書かれていますね。

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 01:00:43.05 ID:yM8mzulb
>>600
横からだが、
耶蘇会士日本通信』の註だと信貴山城のこととしてるけど、
時期的には久秀の本拠は多聞山城っぽいんだよなぁ
また、信貴山城は山城で結構な山の中
「町」とか「中央にゴア市の範囲の三分の一に等しい野」ってのは想定しづらいってのもある
一方、多聞山城は東大寺から北に1キロほどの現奈良市街の平山城だったりする

松永久秀に詳しい人に解説お願いしたい

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 05:16:42.93 ID:1Ol7i0vl
>>603
多聞がハレの城
信貴がケの城

観光誘致するなら多聞だよね
奈良を望む政治の城

『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



松永星

2020年07月06日 16:21

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 21:53:20.38 ID:IfAny+F9
天正五年、松永久秀が亡んだ後、彼の居城であった多聞山城の家屋を毀ち、信長はその建物を
京都二条に造作し、親王(誠仁親王)に奉った。

この秋、客星(彗星)が未申(西南)に表れた。時の人々はこれを「松永星」と呼んだ。

当代記



万事、汝が計るべし

2020年06月22日 17:00

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/21(日) 19:24:35.03 ID:+C2Ng3sl
その時分より三好一家衆は身構えして、三好殿居城の河内飯盛城は殊の外騒ぐ。その由を伺って
河内国の故主・畠山高政はその頃浪人していたのだが、譜代の士の紀伊国湯川(直光)という者、
根来衆の土橋などという者が兵を催し、飯盛城へ押し寄せ向かう城を攻め取った。

三好物外軒実休はこれを聞き、飯盛の後詰として阿波国の軍勢、斎藤、福良などを引き連れ、馳
せ向かって合戦を始めたところ、根来衆の中に屈強の鉄砲の名人がおり、三好実休を狙って撃ち
落とした。これにより阿波衆は皆敗北する。

松永弾正は修理太輔(三好長慶)に申し「物外軒豊前守殿が御討死なされた上は、謀を巡らせて
士卒に力を付け申すべきです」との由を申す。三好は聞いて「万事、汝が計るべし」となかなか
出張する様子が無いため、松永は「この分では三好殿は出られまい」と、松永が城を出て方々の
一揆などを招き寄せ後詰の合戦を始めた。

松永は武勇第一の剛者で高政を攻め破り、追い討ちして良き者を討ち取った。高政は堺へ引き揚
げ、湯川は河内の誉田を落とした。これを松永衆は追い詰めて討ち取り、根来衆の大将・岩本坊
は大和信貴城のもとで討たれた。畠山は6千余騎を討たれ、三好は運を開きける。

――『松平記



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 02:49:50.34 ID:c5KoNoYa
筒井には散々な目に遭ってるのに、ここでは強いな
長慶生存中だから?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 12:25:43.36 ID:ZI+dnZf4
松永弾正の弟が生きてる間は強かった

安宅冬康謀殺

2020年06月13日 17:25

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/13(土) 16:52:47.32 ID:7qGqU/gu
永禄3年(1560)より同4年の間、苅屋衆(水野氏)と岡崎衆は競り合うこと度々であった。
そこに信長より水野下野守(信元)をもって、元康へ色々と和談の扱いあり。互いに起請文を書
き取り交わして和談が済み、岡崎衆と尾州の戦いは無くなったのである。

またその頃は京都の諸司代・三好修理大夫長慶の領分は五畿内、播磨、但馬、淡路、阿波、以上
10ヶ国。その侍は下知に従い、公方様や管領と申せば名のみばかりで権勢も無し。

永禄5年の春、かの三好殿の家老・松永弾正は、三好殿の弟・安宅摂津守冬康と不和なので冬康
に逆心ある由を申し遣わしたが、三好殿はまったく臆し給わず。

その時、松永は謀を巡らして安宅殿の右筆の侍が浪人していたのを頼み、叛逆の廻状を作って謀
判を致し、数十通を取り出して三好殿に密かに見せ奉った。これに三好は驚き給い、淡路から冬
康を呼び越して、道で松永衆が生害した。誠に無残の次第なり。

――『松平記



天正五年十月、和州信貴山城攻め顛末

2020年04月16日 17:15

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 00:12:26.93 ID:FJJW3kJb
天正五年十月、和州信貴山城攻めがあった。
この城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。

家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った

「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」

久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。

しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。

十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。

佐久間軍記



980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 11:49:48.22 ID:O4ZY5yYd
義継を攻め滅ぼしたのは誰だったからしらw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 21:34:47.03 ID:SRx78Wxe
ノブさんの脳内ではそうなってるのかもしれん…

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 22:01:43.47 ID:nEUH2pgM
ダンジョー多過ぎ問題

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/18(土) 17:35:20.90 ID:25IT3XhX
佐久間軍記だから当然かも知れんけど、信盛さんの活躍が記されてるね

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 23:30:44.65 ID:tlLr7j1U
石田軍記には三成の活躍が?

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 15:49:05.80 ID:/eXYOJJ0
ある意味「活躍」は描いているな

【ニュース】 発見!松永弾正の肖像画

2020年03月05日 17:59

887 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/05(木) 16:43:30.49 ID:vZLgY6tp
発見!松永弾正の肖像画

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200304-00000627-san-cul


画像
20200304-00000627-san-000-2-view.jpg



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 17:16:21.04 ID:Ws5BJgAn
>>887
すごいな、これ。平蜘蛛かつくもなすまで描いてあるとは…。本当に好きだったんだね。中身、爆薬じゃないよね。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 23:48:40.85 ID:zFSGFA/Q
>>887
頭が良さそうな雰囲気あるね

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 00:00:05.23 ID:gUAe5Rwe
なんで茶器の中身を描かないのか

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 00:18:40.15 ID:fRaitGr9
さすがに今から切腹しますって恰好でもそんな縁起でもない状況を描くわけもなく

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 10:48:00.99 ID:0RBe7trE
袋の形状からなんとなく平蜘蛛ではなく九十九茄子の雰囲気

松永久秀が楠正虎に送った書状

2020年02月09日 21:30

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:00:46.21 ID:BWjBwiP7
松永久秀の取りなしで書家で有名な楠正虎が河内守に任じられた際、松永久秀が楠正虎に送った書状
「楠氏は正成以来十代に渡り朝敵となり無礼を働いていましたが、勅許により河内守に任じられたこと、喜ばしいですね、云々」

自称、楠正成の子孫だったのが正親町天皇の綸旨により正式に楠氏と認められたようだけど
戦前の人が見たら激怒しそうな内容

ところで三好氏関連の研究を読んでたら三好長慶の部下で摂津渡辺党の渡辺稙という人物が出てきたけど、
「稙」が偏諱だとしたら、一字名の嵯峨源氏の場合は偏諱がそのまま名前になるということだろうか



847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:43:43.20 ID:cqjS9g5V
>>844
偏諱をもらえるような身分じゃなくね?世代も違うし
仮に偏諱なら肥前松浦党の弘定、興信、隆信、鎮信のように2文字にしてるんじゃないかな

850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/12(水) 17:01:33.36 ID:ilfBcm73
>>844
>>847
波多親は元服したとき大友義鎮の偏諱を受け鎮と名乗っている
その後龍造寺に降り隆信の偏諱を受け信時と名乗った

1文字の名はある

尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

義親は不運にして病気が差し出て

2019年05月27日 17:21

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/27(月) 15:25:22.10 ID:70HqE8/o
松永弾正(久秀)の従弟に松永喜内という若者がいた。以前は大和の宇多にいたのだが、その頃は牢人
していたのを、弾正の計らいで義親(足利義栄)に付け置いた。

しかしながら、殊の外に不行儀者で義親の命にも従わないため、義親は喜内を手討ちになさった。

松永はこれを聞いて憤りを含むといえども、義親の道理至極であるためにどうしようもなく、上目には
変わることはなかったが、心中に遺恨を差し挟んで義親と松永は不快のようになった。

そんなところで義親は不運にして病気が差し出て、普門寺から阿波へ帰るとして撫養という所で永禄9
年(1566)10月8日に相果てられた。

義親の逝去は弾正が鴆毒を与えたためという沙汰がある。しかしながら事実ではあるまじきことである。

――『阿州将裔記』