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津村正恭の譚海より、戦国時代の連歌

2023年03月20日 19:49

723 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:40:00.58 ID:3oOcadZo
津村正恭譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:42:16.04 ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 19:36:12.35 ID:Ur/zFVEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13262.html
「古池の浅き方より野となりて」

こっちだと安宅冬康の短歌

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6643.html
「鳴け聞こうわが領分のほととぎす」

こっちだと藤堂高虎となっているが、普通は加藤清正として知られる



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三好が是程のうつけでは

2022年03月22日 16:52

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 12:13:02.25 ID:uwizcW1I
三好左京大夫(義継)が将軍(足利)義輝公を討ち、その祝言の連歌をしようと連衆を集め、
里村紹巴、里村心前、灰屋紹由などが参った。座を定めて、三好殿が「発句をしたぞ」と申され、
そして句を出すと

『しやくとして しかもろとある木の上に くうくうとおなきやるハ八幡殿の御使か、
やら目出度やな』

とされた。満座興を覚ましていたが、三好殿が申すには
「”しゃく”はろの木、”くうくう”は鳩なり。」と申した。
その後色々有って百韻は終わった。

その後、織田信長公上洛の時、御咄のついでに、この発句の事を里村紹巴が御咄申した。
信長公はこれを笑われると思っていたのだが、御返事もなされず、無興にして座を立たれた。
紹巴も、どうして御意に入らなかったのだろうかと思いながら退出した。

信長公はすぐに森三左衛門(可成)を召して「先程の発句の物語を聞いたか」と仰せになった。
森が「承り候」と申すと、信長公は仰せになった

「三好が是程のうつけでは、天下を取るような事はできない。これを案ずるに、松永弾正(久秀)は
天下への望みが有って、先ず三好に将軍を討たせ、しかし三好はうつけであり、天下の支配は成らない、
その時天下を取るべしと考えている佞人なのだろう。
幸いに松永は出仕して在京しているのだから、これを早々に討つべし!」

森三左衛門は承ると
「仰せ、尤もであります。さりながら御上洛早々に、最初に出仕つかまつった松永を誅殺すれば、
今後味方に参る大名は無くなってしまうでしょう。ですので、重ねての事に遊ばされるべきです。
松永弾正は佞人なのですから、次第に悪逆を顕すでしょう。その節に成敗遊ばすべきです。」

と申したため、その時は松永安穏となった。

これは先の三好殿連歌の時の連衆の中に在った、灰屋紹由の咄だという。


川上久国雑話



411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 14:02:32.05 ID:OkHuMmoM
里村紹巴、「時は今」の歌会にもいるし小説の主人公行けそうだよな

信長公、松永久秀を励まされし事

2022年03月22日 16:51

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 12:38:23.11 ID:713ehzU1
翁草」巻二十九から「信長公、松永久秀を励まされし事」

松永弾正久秀は三好長慶に仕えて右筆たり、経上りて長臣となる。
信長、久秀と善し。ある時信長久秀に対して
信長「御辺は智勇の士なり。恨まらくば一つの疵あり」と。
久秀そのところを問う。信長いわず。
久秀しきりに問う。さらば無人所にていわんとて、潜なるところに呼びよせて
信長「御辺、大身になる道にくらし」となり。
ここより久秀異心を生じてついに三好家を滅せしという。



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 13:10:30.51 ID:szCojPnS
この頃にはもう奸臣松永久秀像が出来上がっていたと

運命の不足は何を貪って取りなさる

2021年10月04日 16:57

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/04(月) 01:23:04.87 ID:LjREf0ve
(前略。東大寺大仏殿の戦いで松永久秀が東大寺に火を放つ)

三好家の兵威ここにおいて挫け、松永もまた孤軍となって天下の人望に違えた。

君臣の道を失って己が利をほしいままにする時は、天命に逆らって久しからず
して滅びる。道によって身を滅ぼす者は佳名を後世に伝える。利によって身を
滅ぼす者は汚名を後世に流す。

人生50年といえども明日の滅びを知らず。名は永久にして天地とともに存在
する。どうして人がこれを思わないだろうか、時の人は後世に言い伝えて曰く、
「永禄の十の十月十日の夜奈良の大仏焼ける。亥の時」という。

松永弾正(久秀)は西京の城(多聞山城)を築き四壁を惣楼にして狭間を明け、
門戸もその楼の下を通したので人力をもって攻め入るのは難しい様子になした。
溝は深く塁は高く、険要の構え城である。

兵糧は3年分あり、長き謀には稲穂を積み干飯を庫に入れ、芋莖、干菜、焼塩、
塩噌、干魚、荒布、和布、海藻、薬種など、薪は土居に築いて炭は地中に埋め、
秣、糠、藁、馬食を足らせ、木実を集めて油を調え、鉄、銅、鉛は踏石として、
掻楯、輪木、車菱、車松明、雨松明、石火砲石、飛礫石、水用の積まで細密に
詮議して欠けることのないようにした。

そして一行の札を立て曰く「この城において不足の物あらば添札をもって申し
出すように」。

ある時、添札が立ててありこれを見ると「財物で足りないものは民を貪りこれ
を取る故に不足なし。しかし、運命の不足は何を貪って取りなさるのだろうか。
これが1つの不足であろう。惣百姓中」と立てていたという。

――『南海通記



松永久秀滅亡の時

2021年10月02日 16:00

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/02(土) 11:49:32.35 ID:0dQIK6u5
松永久秀滅亡の時)

松永は偽兵を知らずに門を開きこれを城に入れ、後より信忠大いに進みこれを攻める。
偽兵は内より応じて鬨をあげこれに応じ、城中の兵は大いに騒動して死亡する者多し。

松永も殿守に入って相待つ。信忠より人遣わし曰く「松永降参すべし。罪を許さん」。
松永曰く、「骨になっても信長には従わぬ」として降らず。ここに平蜘蛛という釜は
天下の名物である。ことごとく打ち砕いて箱に入れ、糠詰めにして封をなし、信忠の
陣に送った。

松永曰く「これは我の所持する平蜘蛛という釜だ。日頃信長の望みあるままに送ろう
と思っていたが、先延ばししていた。これは天下の名物である。今ここで失われるの
は惜しい。よってこれを贈る」と言った。

その箱の封を切る時にあたって城中より声をそろえて一斉に鬨をあげ、城外より鉄砲
を撃って攻め寄せた。

松永久秀の女子はその年20歳。打掛して久秀の前に来て曰く「事の急ならざる内に
我が身の暇を賜りください。先立って父を待ちます」と言った。久秀の曰く「まこと
に事の忙しさに汝のことを忘れていた。20歳も70歳も同じことだ。人は必ず一度
は死ぬ。汝は先立つべし。跡の仕舞いをして今我も行くなり」と言って、それそれ某
太刀取りせよと居所に入らせた。

この女子は太刀取りに言って曰く「女の死骸は醜くからんと思い、その支度をした」
と紅の下袴を着て上に打掛をし「首はこの内に落とすべし」と言って打掛を前に敷き
太刀を受けた。

その打ち落とした後に自ら打掛の端を被ったという。(其打落シタル跡ニ自ラ打チカ
ケノ端ヲ被リヌト云リ)哀れなる世の中なり。

久秀はこれより事終わって猿楽の囃子を始めた。諷は野宮である。「きりに成り火宅
の門をや出ぬらん。火宅の門」と言い終わると等しく、天守に火を放って屍も見えず
焼失した。

まことに討つ者も討たれる者も一時である。天正5年には松永滅亡す。天正10年に
は信長害に遇い給う。ただ5年の先後なり。

――『南海通記



しかし松永の運が強かったのか

2021年08月31日 16:33

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/31(火) 01:23:01.55 ID:ik3gw1m9
細川記に曰く、永禄元年六月九日、松永弾正久秀は五千の軍勢にて将軍地蔵山に陣取り、
近江の六角義賢の勢に向かって合戦を始めた。互いに新手を入れ替え、終日戦し暮にかかった頃、
近江勢は討ち負け、五十三人が討ち死にした。

松永は勝ちに乗じて撤退する六角勢を追いかけ、「松永弾正久秀なり!」と名乗った所、
近江衆に竹林坊という、名を得た弓の上手が有り、松永を狙って丁と射た。

しかし松永の運が強かったのか、竹林坊が射た時、胸板に弦が擦れたために狙いが外れ、
その矢は松永が乗っている馬に当たった。馬はそのまま倒れたが、松永はとっさに弓手に
飛び降りて危うき命を助かったという。

武芸小伝

久秀の強運なのか、弓の名手も失敗したというお話



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/31(火) 16:43:33.83 ID:zZ4WraQL
松竹ウマでめでたい

輝虎は斯くの如くの

2021年08月21日 17:56

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

太祖一代軍記

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公



支配に弾正が威を振るったので

2021年06月13日 16:27

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 12:58:26.15 ID:eUZaO4BL
天文19年、万松院(足利義晴)御逝去の時、光厳院公(足利義輝)御年5才ま
で守り立て、公方14代相続奉るように三好殿へ仰せあり。

三好細川修理大夫の家人で和泉境の牢人・松永弾正は平跡良くして、阿波の三好
家へ奉公に出て、後に和州南都東大寺の北の山城、多門造城を持つ。

三好修理殿は以後左京殿(三好義継か)の御乳母を松永の嫁とし、内縁故に都の
支配に弾正が威を振るったので、長臣衆と不和になる。

――『三河東泉記



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 13:06:16.29 ID:Sgq1CfgC
15歳じゃないのか
14代については義稙を2回数えるとして

松永弾正は、世智に悪しき、賢き者

2021年04月28日 18:52

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/28(水) 16:44:31.88 ID:zJjq0Haf
松永弾正(久秀)は、世智に悪しき、賢き者であった。
彼は鍛冶屋、紺屋を見て、「三年の間、この両職を勤めるという気持ちで奉公すれば、
立身致すだろう。」と言ったという。
夏に鍛冶屋を仕って暑さを堪忍し、冬は又、紺屋での水使いを堪忍する、という事である。

また串柿の竹を三尺に極める法を定め、「一間の半分の所の塀の小舞(屋根や壁の下地で、
竹や貫を縦・横に組んだもの)に使うのに良い」、と申したのだという。

烈公間話



その名を惜しむ勇士は

2021年03月03日 18:50

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 20:16:03.65 ID:+rSW6QQp
ある老人が、「年老いて身の養もいらぬもの也」と言っているのを、ある人が諌めて

「一夜の宿であっても、雨露が漏るのは良からぬものである。
昔、松永久秀が信長公に戦負けて自害に及ばんとした時に、百会(ひゃくえ・頭頂部にあるツボ)に
灸をして言った

「これを見る人は、何のための養生だろうかと、たいへんおかしく思うだろうが、私は常に
中風を憂いている。死に臨む時、もし突然中風が発して、五体心に任せなくなれば、
人から『臆したのだ』と笑われてしまうだろう。そうなれば私の今までの武勇も、尽く徒のものと
なってしまう。
百会は中風の神灸であるから、当分その病を防いで、快く自害すべきためである。」

と、灸をすませて切腹したという。
その名を惜しむ勇士は、このようにあるべきなのだ。」

と言った

備前老人物語



養生というのは毎日の食事と性交によって決まります

2021年03月02日 16:04

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/01(月) 23:26:03.62 ID:0InPvIGA
曲直瀬道三松永久秀にあげた「黄素妙論」冒頭
黄帝「昔の聖人の寿命は千歳を超えているのに、現在は数十年。
それに現在は不健康なものが多い。これはどういうことか?」
素女「父親、母親の体質もありますが、一番は養生の問題です。
養生というのは毎日の食事と性交によって決まります。
少年や血気盛んな壮年の時に飲食を慎み、性行為もほどほどにしておけば病気になりません」
(このあと正しい性行為がどのようなものかについての詳述)

これを読んで鈴虫の餌を減らしたのだろうか
カロリー制限でショウジョウバエ含めいろいろな生物の寿命が延びるのは判明しているけど



952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 11:57:03.84 ID:vrOhN7/u
このおじさん多趣味すぎるだろ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 15:37:00.50 ID:qnjftz2d
道教によると幼女の淫水を飲めば不老長寿が望めるそうだ

いわんや、人間も日用の養により

2021年03月01日 19:06

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/01(月) 16:55:48.22 ID:pSmDjqkp
松永弾正(久秀)が鈴虫を飼うのに、様々に工夫して養うと、三年まで生きた。
これを見て「いわんや、人間も日用の養により、長命すること疑いない。」
と言われた。

備前老人物語



さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話



フロイス達の信長への訪問について

2020年10月31日 18:06

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/31(土) 00:23:39.93 ID:CqjrL7Qy
最も愛するパードレよ、前の続きに立ち戻り、我等の最も大なる敵である霜台(松永久秀)は、和田殿(惟政)が
信長を訪問するため、私を招くことを命じ、私が都に到着したことを聞くと、霜台は私に先んじて
信長を訪問し、私が到る所は悉く擾乱し、破壊されるが故に、再び放逐することを懇願した。

信長はこれを笑い、「一人が都のように大きな都市に在って、一国を擾す原因と成るなどと考えるが故に、
汝の心は甚だ狭いのだ。」と云った。しかして、彼の顔色が悪しき時は、これに抗弁し、またこれを
見上げる者は無い。

私はロレンソ、ベルショール、アントニオ、及びコスモ、並びに主立ちたるキリシタン達と共に城に到ったが、
彼は内に在って休息し、音楽を聞いていた。このため佐久間(信盛)及び和田殿が、私が携えてきたもの、
即ち尊師が三年前、豊後より私に贈った天鵞絨(ビロウド)び帽子、及び鏡、ベンガラの杖、及び孔雀の尾、
等、富に関する諸人の考えによれば、私からの贈りものとして価値少き物を、彼に運んだ。彼は他の品を
不必要であるとして、帽子のみの受納し、私が来たのを喜び、「他日、閉暇ある時に面会すべし。」と告げた。

佐久間殿は内より多くのサカナ、即ち食物を容れたゼキンロ(食籠:金を塗った小筥)を持ってきて、
和田殿と共に挨拶し、私に何を与えるべきかと語った。
両人は私を送って外に出、美しき辞を述べ、好意を表して別れた。而して、この光景を見て大いに驚きたる
群衆を意に介さなかった事はここに説かない。

その後信長は、和田殿及び佐久間殿に対し、私を引見しなかったのは、数千レグワの地よりこの教えを説くため
日本に来た外国人に対し、いかなる礼儀を用いるべきか解らず、また密に面会する時は、私が彼に洗礼を
授けるために赴いたと、懸念する者が出てくるのを恐れたためだと云った。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

フロイス達の信長への訪問について



日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは

2020年10月30日 16:39

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/30(金) 00:12:55.21 ID:S2VucTA+
私は、我等が主デウスが現世に於いても、その裁判によって悪人に悪事の報いを與え給う大いなる摂理を
賛美すべき他の一事を尊師に告ぐべし。

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは、釈迦を尊信する法華宗と称するもので、その坊主は
福音の教え(キリスト教)の最大の敵にして、排斥者である。
その寺院の中に、ロチオ(六条本圀寺)と称し、甚だ富み、恐るべき罪を犯す者達が有る。

この寺院は尊師も既にご存知のように、弾正殿(松永久秀)が公方様(足利義輝)を殺した時、これに
千五百クルサドを贈り、ガスパル・ビレラ、及び私を殺すよう命ずることを請うたという多くの証拠がある。
しかし我等の所持していた免許状により、この事は不可能だったので、せめて我等を都より追放し、会堂を
奪うことを求め、これを実行した。我等が都を出る時、同寺の坊主は悉く来て、我等の追放を喜び、おおいに嘲笑した。
その後、寺院の側に、ギナイ(寺内)を造った。即ち美麗なる別荘にして、自由にその悪事を行い、
またこの世の富を増加する為である。

我等の主デウスがキリシタンの敵であることにより、ソータイ(霜台:弾正の唐名、松永久秀)に與え給いし
第一の罰は、約二年半、彼を敵の攻囲中に置いたことであり、第二は公方様(足利義昭)の赦免を得、
尾張の王(信長)の寵を受ける為に、一万クルザド余の最も良き品物を贈ったことである。
第三は、その世俗の権力を、十の内八を失い、今彼を重んずる者は居なくなるに至った事である。

ロチオの寺院の坊主たちは、尾張の王がこの公方様(義昭)を、その兄弟の位に復せん事を知り、遥か以前より
越前及び尾張の国に至り、公方様、及び上総殿より特許状(禁制)を得、軍隊が都に入る時、その寺院は何ら
害を被らず、またこれを宿舎としないよう計った。このために一万クルザドを消費した。
彼等は大いに安堵して喜び、その寺院に帰ったが、公方様(義輝)と共に、その母を殺した時、彼女の家が
甚だ佳い為、坊主たちは弾正殿の寵により、これを破壊して持ち出した事を聞いたと見え、
公方様(義昭)は都に入った時、その報いとして、部下を同寺に宿泊せしめた。
彼等はこのような大いなる圧迫を加えられないよう願ったが、彼(義昭)はこれを嘲笑した。

カンニシュ(三人衆)等が、公方様の滞在した寺院を囲もうとした時、第一に行ったのは、彼等の造った
新しいギナイを焼き、一軒も残さなかった事である。然れども、未だ坊主には、このような不幸によって
気づくものが無かった故に、彼等の艱難と不安はこれによって終わると考えていたが、その後、信長は
(二条城の)石材工事は既に終わったが、もし公方様の宮殿を新たに建設する時は、非常に遅延し、
公方様がまた、速やかに城に入ることが出来ないと思い、何ら躊躇すること無く、同寺の美麗なる座敷、
その他の部屋を破壊し、悉く屏風(画いた布の折り畳むもの)及び、甚だ良き絵画を出させ、直ぐにこれを
公方様の城を飾る為に用いた。

坊主等一同は弾正殿の元に赴いて、彼等のために信長に取りなすことを請うたが、王の一度定めたことを
変更する事は出来ない故に、これを為すことは能わざると答えた。
市の法華宗徒約千五百人が会合し、「殿下の望みに任せ、金銀如何程にても出し、日本全国に有名たる
かの寺院に対し、このような屈辱を加えることを中止するよう信長に請願してほしい」として、
内裏、及び公方様の元に赴いたが、何等の功無くして、悉く破壊され、坊主たちは涕泣した。

先に伝えたキリシタンは、公方様の家臣である故に、上記の座敷の甚だ良い道具を、我等も滞在する
当家に持ち来た。
傲慢なる悪魔の堂は、このような不幸に遭遇したが、我等の主がその霊魂に幸福を与え給わん事を。
(一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)



革島ジョアン不敬事件の顛末

2020年10月25日 17:30

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/24(土) 23:49:21.44 ID:fcrr8HEw
前に述べたように、三箇に於いてキリシタンと成った者の中に、17、8歳の青年の武士が在った(革島ジョアン)。
三人の執政(三好三人衆)の一人(三好宗渭)の親戚であり、彼はその父の残した収入、毎年四、五千クルザドに
上がりしものを、己に交付するよう懇願していたが、デウスのことを良く解しており、至る所で異教徒と、その宗旨の
欺瞞について議論していた。

彼はシノワラドノ(篠原長房)、及び三人の執政の居るコイミズ(越水城)と称する城に在り、他の青年武士らと
遊山のため、異教徒より大いに尊崇されている寺院に至った時、同行者は彼を侮辱し、「キリシタンと成った事で
神々の罰を恐れないのか」と言った所、彼は
「どうして死せる人、及び木石の像を恐れることが有るだろうか」
と答えた。しかしこの事についてしきりに攻められたため、この青年のキリシタンは、受洗後一ヶ月に及ばない
こともあり、大いに怒り、これによって「木石の恐るべからざるを見るべし!」と言い、偶像に近づき
大いなる不敬を行った。

この事は国内各地に伝わり、前代未聞の甚だしき不敬であるとされ、執政の耳にも達したため、我々を好まず、
これよりもずっと小さな機会であっても我々への攻撃のため利用しようとしていた(反キリシタンの)者達は、
青年を呼び出し、「パードレがあのようなことを成すことを勧誘し、又は指示したのか。或いは。キリシタンは
あのような事を常に行うのか。」と尋ねたが、青年は答えて「パードレは自分の成したことを知らず、また
之を進めたこともない。」と述べ、「同伴者の甚だしき糾問によって、自分の発意を以て之を行った。
もしこの事が罰に当たるのなら、自分はすぐにそれを受けるだろう」と答えた。

キリシタンの甚だしき敵である、三人の執政の中の一人(岩成友通か)はこれに対し、「もし己の従兄弟にして
外二人の執政の親戚でなければ、直ぐに十字架にかけることを命ずるべきだが、自身の好意、および親戚関係
により除外し、希望していた収入を与えないことまでとする。」と云った。
これによって青年は三箇に向かい、サンチョ(三箇頼照)は食を与えてこれを支持した。

執政たちはこの機会に於いて、デウスの教え、及びキリシタンに対する多くの悪言を述べた、
シノワラドノもまた、偶像に対する罪を憤ったが、温和なる言葉を以て彼等に説き、また私がこの事に
関係ないことを知らしめ、その後、約十五日を経て、都の公家に書簡を送り、私が都への復帰の許可を
内裏に求めることを懇請し、また三人の執政をして、彼の書簡により庇護の書簡を認めることを請うた所、
彼等は甚だ之を好まなかったが、その希望に応じた。

二人のキリシタンがこれらの書簡を携えて都に到ったが、悪魔は又、他の妨害を加えた。即ち書簡の宛名に
誤りがあったのだ。そのためキリシタンの一人は之を訂正するため十二、又は十五レグワの道を引き返す
必要が生じた。しかしデウスの御慈悲により、この事は困難な事態にならなかった。シノワラドノの宮廷の
武士が大いにこの事に尽力し、即日訂正、押印したため、キリシタンは直ぐに之を携えて都に着いた。

悪魔がこの上妨害を加えることは無いと思われたが、公家が我等に返答を与える前に、三好殿(義継)および
弾正殿(松永久秀)が堺を出て、四、五千人を率いて都の国を占領しようとした。彼等はシノワラドノ、及び
三人の執政の敵であり、戦闘のため公然大軍を集めた故に、公家は戦の結果を見るまで、回答を中止した。

『一五六七年七月八日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

革島ジョアン不敬事件の顛末



この人はシノワラドノと称し

2020年10月24日 17:26

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/24(土) 15:11:34.23 ID:fcrr8HEw
私は神の御意により、一、二コント(万)の兵を有する強勢なる大王の力により、新公方(足利義栄)が
都を領することを期待している。
この人はシノワラドノ(篠原長房)と称し、貧欲、その他悪徳無く、デウスの事を数回聞いたことが有る。
彼は我等を庇護することを希望している。

その国(阿波)に一人のキリシタンがあり、パードレが都に於いて洗礼を授けた者で、高貴にして勢力があり、
王の寵愛する者である。我等はこの人の尽力によって阿波の国王(三好長治)の免許状を得て都に帰ることを、
我等が主デウスに於いて期待している。何故ならば、北方の諸侯は、今悉く彼に服している故である。

但し都は(前に述べた如く)目下擾乱し、戦争のため不安にして、同地には頭が無く、これを治めるべき君
無きが故に、同所に滞在する事は著しい危険がある。公方様を得、戦争が止んだ時に、更に請願すべきである。
我等の主の愛により、これら一切の必要に付き、兄弟の捧物、および祈祷において祈れ。

暴君弾正殿(松永久秀)は前に述べた如く。都に於いて我等を殺すことを命じ、叛逆によって公方様を
殺した後、彼の勧告によって我等は同所より追放されたが、その後、我等の主デウスは正しき判官なるが故に、
戦争及びその兄弟、并びに家臣の死去(弟・松永長頼らの討ち死にの事であろう)、財産の大いなる損失により、
大いに彼を苦しめ迫害し給わった。

『一五六六年六月三十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

京都追放後、阿波三好家などの足利義栄派に期待をかけるフロイスの書状



松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護

2020年10月18日 16:26

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/18(日) 06:27:51.42 ID:n34p4+fZ
我等の主にして救主なるキリストの恩寵と永久の愛、我等の心中に常住せんことを。アーメン。

公方様(足利義輝)死後の事件の顛末と、悪魔がその僕により、我等の主にして救主なる耶蘇基督の教えを
都より全然駆逐せんと努めし事に付き、私はすでに多く通信した。弾正殿(松永久秀)およびその子(久通)の
悪心はこの目的を達せん為益々増長し、両人の残忍暴虐は停止する所無く、彼らの部下すら不思議とし驚嘆する
所であった。

これに加えるに、他の諸宗派よりも欲深く、罪悪甚だしい法華宗の坊主は、最も我等並びにデウスの教えを
憎み、弾正殿及びその子はその宗派に属し、同派は今繁昌しているのを以て、彼らは数日前、その僧院に於いて
規則を定め、同派の坊主、保の他何人も天竺人、即ち我等と語るべからず、又議論すべからず、もしこれを為す
時は破門すべきことを発表した。この原因は、多数の俗人が同派の坊主たちに随伴して、我が住院に来たり、
パードレと議論したのを見たが、坊主たちは四語を以て論破され、答弁することが出来なかった為に、
多くの俗人たちは我等の主デウスの教えを聴きキリシタンと成り、坊主を捨てた事にあった。

これによって我等に対する彼らの憎悪は極度に達したが、弾正殿は我等が、彼が殺した公方様、三好殿(長慶)、
及び自己の、当国居住の免許状を有するを以て我等を追放すべき理由を発見することが出来ず、また多数の
法華宗の武士が我等を滅ぼそうと請うていたが、これを公に行うことも出来ず、そこで、日本全国の君にして
偶像のごとく家に在り、外に出ること少なくして少しも兵力を有せず、弾正殿より扶持を受ける王(天皇)を
扇動して我等を追放せしめんとした。

我等はまた、法華宗の坊主たちが公方様の妻を殺した兵士に賄賂を与え、我等の住院に侵入させ、我等を
刺殺させようとしていると聞いた。我等の許には人無きが故に、いかなる兵士も、昼夜何時にてもこれを行う
事容易である。この事はキリシタンの在る多数の城に伝わったことで、各所よりパードレの許に使いを遣わし、
「キリシタンとしては世の中にこのような不公正が行われるとは信じられない。しかし、もしこのような事が
あるのなら、我等は生命を賭してデウスの名誉のため事に当たる覚悟を成す」と伝えた。

(中略)

月曜日の朝、都の主だった執政三人中の一人、名をフイウンガドノ(日向殿:三好日向守長逸)と云い、
異教徒であるが生来善良で、我等の親友なる人である。彼はキリシタンである家臣を遣わして私に告げ、
都より我等を追い出すことが無いように極力尽くしたが、弾正殿が張本人であるので何らの効果が無い故に、
私に堺、又はパードレ・ガスパル・ビレラの滞在する地に赴くように。彼はこの時に途中危害を加えられる
事が無いように、兵士を派遣して私と同行させる、と云い、私に二通の書付を送付した。
一つは、私が所持する品物は、いかなる家においてもこれを没収し、またはこれに触ってはならない、と命じ、
また一つは、途中において税を徴収することを禁じた物であった。これらの税は甚だ高いものなのである。

又、私を堺、或いはパードレの滞在する地に運ぶため、船二艘を無償で提供し、翌朝には弾正殿、三好殿及び
彼はその城に還る事になっているので、もしこのまま滞在しては危険があることを以て急ぐべし、と伝えた。
また三好殿の後見の如き職に在る人、途中無事に通過すべき書付を私に送った。また都のキリシタンたちに
書簡を送り、キリシタンたるが故に、何ら危害を加えるようなことは無い故に、恐るるべからずと伝えた。

右両人の伝言に従い、私は翌火曜日、即ち7月末日まで留まって出発することに決した。

『一五六五年八月三日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護の記事



弾正殿と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)

2020年10月15日 18:22

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 18:14:31.78 ID:aTZAbvYw
弾正殿(松永久秀)と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)は、不法にも日本全国の君なる公方様(足利義輝)を
その母、妻子、兄弟、親戚その他と共に殺した後、その残酷なる心はこれに満足せず、都に於いて多数の家屋を
破壊し、殺される者、追放される者を出した。

彼は上に立つ者無く、又悪魔に従っているが故に、このように残忍の行為を為し、また悪行を完備するために
都に在って我等が主デウスの教えを説くパードレ等を重刑に処すべき者と認め、或いは殺し、又は他の刑罰に
処し、都より公に追放し、デウスの教えが日本全国に於いて憎悪され、知らない者であってもこれを嫌忌するに
至らしめると云い、実行したことは、尊師もこの事を詳報したパードレ・ルイス・フロイスの書簡によって
見られているでしょう。

翌日、彼が都を出た後、都中に公布して、『テンジクジン(天竺人)』即ち我々が都に於いてデウスの教えを
説いた事によって追放し、会堂は没収した。また我等は永久に追放すべき者であり、何人も決し庇護すべからず
と告げ、また堺に於いても我等を追放することを命じた。これに関連して様々なことが起こったが、
長くなり書簡に認めることが出来ない、
尊師が当地方からの通信によって、喜ぶこと無く、不満と悲哀を感じて一層の功徳を積まれんため、
我等の主デウスがこのような事態を許し給わっているのだと思われる。神の御慈悲は賛美すべきかな。

私はヨブが「神より福祉を受けるならば、災禍をも又受けざるを得んや」(旧約聖書ヨブ記第二章十節)
と云えるのを思い起こした。何事も主が命じ給い、又は許し給う事なのだから、一切御手に任せ、
探知すべきではない主の秘密を批判すべきに非ず。

『 一五六五年八月二日附、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰』

都よりのキリシタン追放について。基本的には久秀と息子久通を混同して認識している感じですかね



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 18:58:39.37 ID:bhxO4EPI
親子で方針食い違いしてるとか中々外からじゃ気づきにくそうだよね
久秀研究は進んでるけど久秀とちょくちょく意見を異にしてるっぽい久通も今後どんどん研究進むんかねー

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 19:11:44.77 ID:AfKFZNgh
松永のキリシタン政策は内裏の意向だったはずだし、所領が奈良で寺社勢力との関係からキリシタンにいい顔しなくなったのは仕方のないこと
全ては弟が討死した事が大きい