FC2ブログ

里村紹巴と秀次事件+α

2019年02月17日 16:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 16:25:23.15 ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)


スポンサーサイト



林羅山と円模の地図

2018年12月04日 22:12

林羅山   
496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 16:59:32.80 ID:Mz61qWb/
林羅山と円模の地図


慶長11年6月15日、道春(林羅山)及び信澄(羅山の弟)は頌遊(松永貞徳)の仲介で
思いがけず耶蘇会者不干氏(ハビアン・日本人イエズス会士)の元に至った。
不干は従者の守長に三人を招かせ部屋に入れて、座らせた。

寒温(時候の挨拶)が終わると、春は徒斯画像(キリスト図)について質問したが
(不干は)はっきり解答しなかった。浅はかな解答になるのを恐れたのだろう。
またかの円模の地図(地球図)を見て、春が
「上下ということがあるのか」
と言うと、干は
「地中をもって下とする、地の上は天であり、地の下もまた天である。
 吾邦(ここでは西洋人のこと)は舟で大洋に漕ぎ出したが、東極は西、西極は東。
 これにより地の円であることを知る」
と答えた。

春は
「この理は成立しない。地下にどうして天があるだろうか。万物を観れば
 みな上下がある。彼が上下がないように言うのは、この理を知らないからだ。
 大洋の中は風も波もあるのだから、西に行こうとしてあるいは北や南に向かい
 その後東に行ったのを舟中の人が分からず、西に行ったと勘違いしただけだろう。
 西極が東になる訳がない。東極の西も同様である。物にはみな上下がある理を
 知らないので、彼は地中を下とし、地形を丸いとした。その惑いがどうして
 悲しくないだろうか。朱子の言う"天半地下を繞る"ことを彼は知らないのだから」
と言った。


――『排耶蘇』

他にも長々と反論があるがカット。羅山は中国の渾天説に拠って発言しているので
地が浮いていることには異論を述べていないが、朱子学では自然法則と倫理規範との
合致を説くので、天地の上下が相対的な地球図を忌避したらしい。
参考論文:金沢英之(2004)『《地球》概念のもたらしたもの』



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/04(火) 23:00:13.70 ID:5wNcBLpD
ハビアンがそのあと棄教したもんだから林羅山が論破したような風潮があるけど
ハビアン単に「ヨーロッパから東も西もわからない技術で日本までこれると思ってるのか」と呆れていた可能性

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し

日本国に歌道が流行れば

2017年07月28日 16:10

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。


松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人

2016年12月25日 17:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 10:58:33.36 ID:8tbksLrh
松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人


関白秀次の時代聚楽第で能があったとき《朝長》の懺法太鼓を
其の頃の"上手"である金春又右衛門という者が勤めた。

[金春又右衛門は織豊期の太鼓の名手で、細川幽斎とは兄弟弟子であった。]

日が暮れてから(又右衛門は)幽法公(細川幽斎)のところへ参り
「今日は(幽法公の)ご見物ゆえ胸が躍り手は震え、前後を忘れてしまう程でした。
どうだったでしょうか」
とおそれかしこまって申した。
幽法公は休まれていたが、対面すると今日の所作を褒められて一献下された。

宴もたけなわの頃に(幽法公は)
「くたびれているだろうが、一番太鼓を打ってくれないか」
と仰せられて、自分で小鼓をお打ちになられた。
大鼓は平野忠五郎、笛は小笛亦三郎、諷は勘七など
みな普段からの(幽法公の)御近習で《杜若》を囃した。
(又右衛門の)太鼓は能を聞きなれぬ者の耳にも変幻自在で
(聚楽第より)こちらで打った太鼓の方がひときわすぐれて聞こえた。

又右衛門は忠五郎に向かい両の手をついて
「もう一番。今生の思い出に(幽法公の)太鼓をお聞きしたい」
と申したので、(幽法公は)久しく打っておらず忘れてしまっているとしながらも
「夜更けに聞き手もいないだろうし、興に乗ってきたところなので」
と言ったので、《遊行柳》をクセから謡わせたが、太鼓に差し向かう様子や
御掛け声、御撥音なども並の者のしわざとは到底思われなかった。

屋敷中が神妙になり、皆息も継げない様子で(聞いていたので)
我らが易々と感嘆してしまったので不思議に思われたのだろうかと
又右衛門の顔をじっと見ていると、いつにない様子で
額を畳に擦り付けるようにして、声も漏らすことが出来ないようであった。
喉が塞がったような気持ちがして、(幽法公が)打ち終わりになられた。
(又右衛門は)ついていた手を膝に上げ、うつむいていた頭を振り仰いだので
その顔を見ると、両目から感涙が雨のようにこぼれていました。

物の上手と名人の変わり目はあるものだと、心に思い知ったものです。


――『戴恩記』



松永貞徳、友人の木下長嘯子を訪ねて

2016年08月28日 13:30

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 11:05:37.50 ID:LyHxlujO
松永貞徳、友人の木下長嘯子を訪ねて

松永貞徳と木下長嘯子は、細川幽斎の高弟同士であり親交があった。

ある日、貞徳は長嘯子を訪ね、ちまき五把に歌を添えて渡した。
「近き山 紛はぬ住まひ 聞きながら こととひもせず 春ぞ過ごせる」
(近き山の紛れぬ住まいを聞きながら訪ねないまま春が過ぎようとしています)

「千代経とも またなほ飽かで 聞きたきは これや初音や 初ほととぎす」
(千代経てもまたなお飽きずに聞きたいのはこのほととぎすの初音です)
と、長嘯子も返歌し喜んだ。

――『挙白集』

この二句は沓冠折句になっており、五七五七七各句の頭の文字を読んだあと末尾の文字を読むと
貞徳「ちまき五把 まいらする」長嘯子「ちまき五把 もてはやす」という語句が浮かび上がる。
歌人らしい技巧を凝らしたやり取りであった。



松永貞徳が言った。

2012年12月28日 19:50

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 23:44:48.15 ID:BFGZEA3B
松永貞徳が言った。

「相国寺の仁如和尚の御門弟に俗男の儒学を志して詩作を自慢する者がいた。
彼は入道して和尚に道号を求めたのだが、和尚は彼の心中をご存知だったのだろう、

『ただその方の思うように付けよ』と言ったところ宋の詩人、蘇東坡と黄山谷から
一字ずつ取って坡谷庵(はこくあん)と付けた。

しかし『はこ』は糞のことだから、人々に『汚い庵号だなあ』と笑われたのだ。
笑われていると知った彼はそれならばと庵を取って斎の字を付けてしまったもの
だから、ますます酷い呼び名になって人に笑われたそうだ。

とまあ、そんな話を由己法橋が語られていたのだ。大笑い、大笑い」

――『仮名世説』





915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/28(金) 00:00:24.15 ID:n9mqw1bW
リアルで雲黒斎がいたとは

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/28(金) 05:50:36.57 ID:yhLVZSVl
このスレの年齢は数えでいいのかな?
そうすると17歳は満年齢だと15歳ぐらいだよね
歴史小説家は当時は成長早くていまの15歳と比べられないといってるけどどんなもんだろ