家蔵、山科弓

2017年02月16日 17:15

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 00:32:44.51 ID:vKUbLtGx
家蔵、山科弓

 予(松浦静山)の家蔵に山科の弓と称するものがある。
祖先からの旧物である。
金泥七所藤にして弭(はず:弓の両端)の裏に平仮名で『やましな』と銘がある。
伝来の故は記文で知ることができる。

「山科弓   一張

村(弓を削って仕上げること)は吉田六左衛門入道雪荷がなしたという。
庚子の役では唐津城主寺沢志摩守(広高)は関東にいた。
敵徒が唐津を襲おうとしたので、城兵は松浦式部卿法印(鎮信)に援を乞うた。
法印は兵を率いて唐津に到った。敵徒はこれを聞いて退散した。
志摩守感謝の余りこの弓を贈った。」

「雪荷斎が村をした弓はしばしば人々は珍重されていますが、
このように銘を出したものは稀であります。
雪荷は得意ではなかったので銘は記さないと伝わっております。
官の御物である、迦陵賓と銘がある御弓も自銘だと聞き及んでいますが、
見ることができません。
ですので、この家蔵の雪荷村の弓は最上ともいうべきでしょうか。」
とその十一代の孫吉田元謙は評した。

 これについて思うと古人が大事に当たって、弓一張の謝礼では余りに粗末ではある。
しかしこのように贈ったということは、雪荷自銘の弓は世の宝物である故なのであろう。

「庚子の役とは慶長五年の関が原の御陣のことです。
『やましな』というのは、雪荷が前に故あって山科に退居したことがあるので、
その時の作なのであろうと思われます。
官物の迦陵賓とともに、天下二張の弓といえるでしょう。」
と元謙は言った。


(甲子夜話)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 01:13:59.10 ID:YMQ6U+gQ
吉田雪荷って親父さんたちのように誰かに仕えたりはしなかったのね
しかし達人が手ずから弓を仕上げていたのか
山科が居住地からなら迦陵賓は迦陵頻伽を射落とせるような一張りってことなのかな?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 12:45:21.81 ID:oAPTRVJD
>>653
立花宗茂が所持していたという金溜地塗籠弓には吉田左近作って名が書かれてたな
吉田太蔵から宗茂に贈られたらしいが
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子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

ただその時の運によって

2017年01月31日 15:48

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 03:03:28.01 ID:WEmD8M1O
武功のある人に軍法のことを問うたところ、「私にも分からない。ただその時の
運によって、勝ち負けは決まることであろう。

第一にその主君と将の心にある。主君と家臣が心をひとつにして、士卒の志が
一致したとすれば、勝つことは疑いない」と、言った。

また、「匹夫の志はどうだろうか?」と、問えば、「人並みと思えば、おくれること
であろう。念入りに身動きを決めて、ただ我が身ひとつの一大事と思い定めて、
進退するようにせよ」と、言った。

――『備前老人物語』



高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

2017年01月23日 15:49

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 22:24:29.98 ID:5wYdkQtS
高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

 三月二十三日の御沙汰書に、
焼火の間に若年寄の方々が出席され、
小普請高力丹波守組高麗宗五郎を表御台所に仰せ付けられたというのを見た。
予はこれから、この人はきっと隣域の号を名乗っているのは何か理由があるのだろうと思った。

 ある人に問うと、
この人はもとは朝鮮から帰化した家で、名字も「カウライ」と呼ぶ。
先祖が高麗の地から出たことによる。
本姓は朴氏であろうか。代々御台所人の家で御目見以上に至る者もいる。
今は上の勤めをしているとのことだ。
 またその元は帰化の人が日本流庖丁の伝授を受けたときの誓約文が、
御台所人の磯貝某の家が所持しているという。

 これについて、我が法印公(松浦鎮信)が朝鮮在陣の間に俘虜とされた者を、
帰陣の御時多く率いて帰られ、諸士勤番の賄いを調える奴隷とされたことを思い出した。
彼らは軽んじられたのであろう。
 この徒を一所に住ませた。人呼んで高麗町と言う。
予が在城していた頃までかの党は旧に依っていたが、
しだいにその恥辱を厭い、我が国の人の類に入ることを願うようになり、
今となっては、高麗の本種とは変わって調食は皆この国の賎夫が勤めることになった。
高麗と称する旨は同じだが、その内実は異なっている。


(甲子夜話続編)



道可公恩自書之写

2016年10月22日 17:17

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 20:16:13.55 ID:rAcw/9qK
道可公、朝鮮へ御潜行 并商估板屋某所伝道可公恩自書之写

 法印殿(松浦 鎮信)が朝鮮国の軍に従った、七年間の武功は人が皆知るところである。
その七年、道可殿(松浦隆信)は領地に静かに留まられて、
兵具糧食の事をうまく処理なされていたので欠けることが無かった
という話は世人で知る者はいない。
漢の蕭何は治平の後、第一の功で?(サ)侯に封ぜられたというが、
まことに我が家では道可殿を以って比べることできよう。

 この頃、平戸の者の話で、
平戸の商人の板屋某の所伝に道可殿の御自筆があり、
その旨は
『朝鮮国に永く御陣しているので、法印公の御具足が損じている。
よって威を換えるべきだと思われるが、それには金子が御入用であるので借用を申し上げたい。』
との御文であったという。
この文からも、道可殿の仕事の有様と、道可公が遠所で労苦されている様を察することができる。
当時の状を見るがようだ。

 また今先手の鉄砲を預け置いてる頭の山本某の家は、
宇喜多家がまだ貴くなかったときに辞めて浪人して後
道可殿に随い、朝鮮攻めの時でも仕えていた者が先祖である。
今も言い伝わっているものに、
そのころの文と思われる絖(ぬめ、絹の一種)のような絹を引き裂いたものに文を書いたものがある。
その文には

『大御所様にも、御滞りなく今日釜山浦へ御着き遊ばれ、恐悦申し候。
只今御船帰り候故、この旨申進候。』

という趣旨が書いてある。思うに従行した者が遺し置いた家人へ贈る文で、慌しいときにこのようなものを認めたのであろう。
〔軍に赴かれたのは、法印殿なのは論をまたない。
御子肥州殿(松浦久信)も従い行かれたので、大御所と申す者は道可殿でなくて誰であろうか。〕

 しかし道可殿の朝鮮の軍に赴かれたのは、よその人はもとよりわからないとして、
わが邦の人もかつて知る者がいない。ならばこの文を見るに、秘かに渡海があったことを知れる。
ならば戦功のためではなく、完全に軍糧と兵具等の点検のため、潜行して行かれたのであろう。
豊臣公といえども知らないのももっともである。

〔聞く。この絖書の文、今は無くしたと。
その理由は、一旦山本の家が嗣絶し、婦女子ばかりいたとき、
持仏堂の下に大切な旧物を置くべしと、祖先の訓戒があり
婦女のことゆえ戒めは固く守ったが、皆朽腐して今はその痕さえないという。
今の砲頭は義子であるという。〕

(甲子夜話三篇)

日本の蕭何、松浦隆信!



千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

2016年10月07日 15:18

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:00:56.45 ID:qLWXhDd3
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。

 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。

『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』

との話であった。

 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。

 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。

 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。

 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:09:40.02 ID:6txp1WuR
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない

肥前鴉、高麗雉

2016年09月27日 17:43

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 23:09:36.89 ID:G5W7smCo
肥前鴉、高麗雉

 予は年毎に肥筑の間を往来している。
さて佐賀から神埼までの間に不思議な鳥がある。他では稀で見られない。
その形はくちばしが尖り頭が小さく尾と首が長く共に黒い。
羽と背とに白色がある。
鳩よりはよほど大きく、カラスよりは小さく、全体はカラスに似ている。
俗に呼んで”肥前がらす”という。これは他国にいないことからの称である。
あるいは”かちからす”ともいう。これは群行と鳴き声によって称す。
昔佐賀の領主が朝鮮から取ってきて領地に放った後繁殖したという土俗の話がある。
ある人は、これは漢土のカラスであるという。
我が邦の”かささぎ”と名づけたものは、黒白斑があることから”からすさぎ”ということからと聞いた。
百人一首の家持卿の歌にからすのことのことをいうのは講説の秘訓であるとか。

予の領地にも多久島という二里に足らない島の城地に近いところに、これの異種の雉がいる。
土人は”高麗雉”と呼ぶ。
これも祖先の宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が朝鮮からの帰りにかの島に放たれたものという。
よってかの称がある。
この雉も領分の中の余所にはなく、ただかの島のみにある。
他でも稀に飼う者を見かける毎にその大本を聞くが、
皆かの島産のものから伝わったものだという。
(甲子夜話)




とりわけて心を決めろ

2016年06月09日 17:09

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 02:16:48.68 ID:r8hTccR9
勝ち戦で武具を落としたことは恥にならない。先を心掛けたと思われるのだという。
負け戦の時に落としたことは恥になるということである。その時によるのだろうが、
およそ負け色の時は取り乱すものだから、とりわけて心を決めろとの意味であろう。

――『備前老人物語』



松浦久信大軍を切り抜ける

2013年03月02日 19:52

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 22:18:14.00 ID:13Bk368R
松浦鎮信 (法印)の嫡男、肥前守久信は、文禄元年4月の松浦家の朝鮮への渡海の時には病に伏せっており、
病から回復して同年6月8日朝鮮に渡り、父・鎮信の陣営に向かう途中、にわかに多勢の敵軍が現れ、
久信の行く手を妨げた。

久信は少勢であったが敢えて屈せず、父への土産として持ってきていた酒肴を出させ、刀の石突で樽を破り
馬柄杓でこれを汲み、自ら呑んだ後、日高甲斐守、鮎川民部入道、南大和守兄弟を始めとした家臣たちに

「見よ、あの大軍を切り抜けるのは非常に困難なことである!
しかれば、この世の名残の酒である!各々、これを呑んで一戦致されよ!」

そう言って酒を与えると、皆も酒を汲み、そうして共に進んだ。

すると、敵が一面に備を展開している中、大将と見える者が、一騎でまっ先に進んで下知しているのが見えた。
ここに久信も備の前に出て身を伏せ、膝を台にして鉄砲を放つと、かの敵の将は馬から真っ逆さまに落ちた。

松浦勢はこれに乗じて一気に攻め立てる。これに敵は混乱し、引き退いた。
そこで松浦久信も人馬の息を継がせようと一旦休止しようとした所、南入道が深入りして、敵に捕らえられてしまっていた。
そこで弟の南蔵人も兄を取り返そうと的に突っ込む。これを見た松浦勢も、兄弟を救うべしと、久信を始めとして
一斉に切り込み、これによって敵陣は終に破れ、松浦勢は敵兵を追い散らかした。

しかし南兄弟は討死。その他負傷者61名が出た。討ち取った敵は130人余り。
翌日、この久信の勢は父鎮信の人に到着した。
(松浦法印征韓日記抄)

松浦久信、朝鮮に渡って早々少勢で大敵を破る、というお話である。