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大阪城開かずの間

2019年06月07日 16:28

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 20:49:45.58 ID:ePlAaJVM
大坂の御城内、御城代の居所の中に、明かずの間というものがあるそうだ。それは大きな廊下の側にあるという。
ここは(大阪夏の陣による)5月落城の時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。

ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。

観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席に侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。

翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。

またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。

また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。

この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。

林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。

(甲子夜話)



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 21:51:35.32 ID:48Km5ZhF
>>121
面白いwいつの時代も人間は変わらんなぁ。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 22:49:04.93 ID:5yCAa8rV
林氏「なんだこれ、創作乙ww」
松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」

戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:33:00.37 ID:hBrP2F1J
火薬で鉄砲撃つ時代に何言ってんだと思うが当時の人的にはそうなんだな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:45:07.39 ID:fzkd+7XF
>>123
そういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ

>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 08:12:05.47 ID:AktD/lec
>>125
肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし

今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 12:45:53.27 ID:6P9hJ6Th
現代の学校や廃墟ですらみんなキャッキャ言ってるのに、大坂城という実績ありの場所じゃしょうがない

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 14:29:58.48 ID:8rE4HOLf
国会議事堂でもあるのかな
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見附石

2019年05月29日 18:24

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 11:33:05.51 ID:uqZFEhdO
『雲根志』に曰く、山城国伏見の城は、永禄年中(原文ママ。文禄の間違いか)に秀吉公が築かれた。
この大手の門前に見附石という大石があり、その形は山のごとく、廻り2丈あまり、甚だ佳景の石であった。

しかしながらある時、この城に行幸があったが、御車が石につかえて入り難い事がわかった。
俄のことでどうにも出来ず、時の奉行達も大いに困り、これによって近隣の町人、百姓、石匠などを
急ぎ召し集めて、様々に評議され、結論として料金を出してこの石を取り捨てるという事になった。
そこで入札となったが、札を開いた所、その費用として百金、二百金、あるいは五百金などとあり、
これらは皆、石を割って撤去するという工夫であり、石匠を集めて割り取るという事であったが、
中に一人、わずか二十金にてこれを請け負うという札があり、その者に申し付けられた。

どんな工夫があるのかと諸人不思議に思っていた所、行幸のある五七日前に(35日前?)人夫10人
ばかりが鋤鍬を持ってきて、かの大石の前に大きな穴を彫り、その石を穴の中に落として埋めた。
その頃、この者の才覚を褒めないものは居なかったという。
この石は今も土中にあるそうだ(『余録』)

松平信綱が御城(江戸城)内にて石を取り除くのにこれと同じことをしたという伝説が有るが、事実だとしても
人の故知を用いたというわけでは無く、。おそらく自然と符合したのだろう。

(甲子夜話)



先祖の武功他人より聞く

2019年05月28日 17:37

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 12:00:27.89 ID:yrMa/Tlc
高崎公(高崎藩大河内松平輝延か)の家臣である一人の学者が語った所によると、
「昔我が藩(高崎藩)の家臣に字五平といって長寿の人があり、90あまりで天草陣の事を覚えており、
これを語った」との事だが、その話の中に我が内の者(肥前国平戸藩)の事があったという。

その当時、我が藩に物頭を勤める某という者があり、彼が「今宵、城中より夜討ちを仕掛けてくるだろう。
その時は必ず立ち騒がず、何れも我が陣所の垣ぎわに後ろを向き、敵方を背にして座すべし。
たとえ敵が来たとしてもこれに向かってはならない。また人々の刀の峰3,4寸を残し、その余りを
木綿などにてよくつつみ置くべし。敵来たらば云々」と教え待ち居たるに、果たして敵は夜襲を成したが、
我が兵はその体故に、敵は後ろから近づいて切りかかったが、具足を着ていたためカチカチと云うばかりで
刀は通らず、兵卒たちは構え持っていた刀を肩に担いで、峰に敵を引っ掛け、負い投げに前へ跳ね飛ばした。
夜の事ゆえ敵はそのようなことが起こっているとは解らず、幾人も来て斬り掛かってくるのを、その度に
跳ね飛ばした。敵は来る、我は座して動かざる故、この調子で数十人を討ち取った。

味方の他の軍勢も夜の事であるからその手際見えなかったため、「松浦の手の者は、人礫を投げ打っている」と
沙汰したという。

これは伝聞の実説であるが、私は初めて聞いた。治五平が云っているのは誰の祖先であろうか。
先祖の武功他人より聞く、という俳句が有るが、それはこの事である。

(甲子夜話)



949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 14:54:49.50 ID:O4XdqIp8
夜襲で後ろから攻撃されて物理的精神的に耐えられるものなのか

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 15:41:41.80 ID:26P+nF0r
>>948
剣豪小説に出てくる奥義みたいで面白いw

「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話

2019年05月25日 19:26

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 09:39:09.14 ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 10:53:54.78 ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:07:47.02 ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:19:44.25 ID:8K1a1MKB
こきつね

アンコールワットに渡ったという森本一房について

2019年05月24日 14:41

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 11:45:39.91 ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 13:34:27.02 ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 15:24:00.04 ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」

豊国大明神石灯籠

2019年05月02日 17:58

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 10:11:07.14 ID:iLBBhkOz
前の(方広寺)大仏殿縁起の中に、堂前に建てられている石灯籠には、列国大小名の姓名を刻し、鋪石
ならびに正面石塔の大石には、諸侯の紋所、又はその石が産出された場所の名を記されたと書かれているが、
これについてはどういうわけか、先ごろ私(松浦静山)も、これについて、私の祖先が献納した燈も
きっと有るだろうと思い、京都に家来が居たため、これに命じてこの事を書記してくるように申し遣わした所、
その返答によると、この事については何とも分明ならぬというものであった。

その中、大野氏の名はその中にあり、かつ豊国大明神へ寄付された石灯籠について、その当時これを
請け負ったと言い伝えの残る旧家の者などあり、その中で当時の帳面に記録が残っている者もあった。
非常に珍しい珍しいものなので写して贈らせた。こう言ったものも現在では分かり難いものであるが、
以下に綴る。

また現在石灯籠に諸氏称号等が無いのは、御当家(徳川)の時代に成ってから、それが忌み憚るためか、
これを削り去ったのだと疑う者も居るという。

豊国大明神石灯籠の覚写し

二つ 寺澤志摩守殿 二つ 羽柴肥前守殿 一つ あいは殿 一つ 木民部殿 一つ 伊藤石見守殿
二つ 京極修理殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ 青木右京殿 二つ 堀監物殿 二つ 片桐主膳殿
一つ 二位殿 一つ 伊藤丹後守殿 一つ 三位殿 一つ 堀田図書殿 一つ 速水甲斐殿
一つ 右京太夫殿 一つ 吉田豊後殿 一つ 大角与左衛門殿 二つ 木下法印 一つ 杉原喜左衛門
一つ 木下右衛門太夫殿 一つ 桑山法印 一つ 祐泉 一つ 太田和泉殿 二つ 若狭宰相殿
一つ 大野修理殿 一つ 大蔵卿殿 一つ 佐竹殿 一つ 羽柴美作殿 一つ 加賀国およめ
二つ 田中筑後殿 二つ 堀尾帯刀殿
奥院一つ 片桐市正殿 奥院一つ ?大炊殿 一つ 真野大蔵殿 一つ 羽柴蔵人殿 一つ 大進殿
一つ 安藤宰相殿 内殿一つ 片桐市正殿 内殿一つ 同主膳殿 二つ浅野紀伊守殿 以上五十六

石灯籠別紙に
政所様 一つ 康蔵主(孝蔵主) 一つ 浅野弾正殿 二つ 瑞龍寺殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ
安芸中納言殿 一つ 毛利伊勢守殿 二つ 金森兵部卿法印 一つ 石川千菊殿 一つ

(甲子夜話続編)



〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

2017年05月28日 15:59

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 21:31:23.71 ID:zH6PkXyL
〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

 天祥寺の僧によると、今の酒井修理大夫の若狭小浜城は以前は別の所にあり山城であったが、猷廟(徳川家光)の御時になにか訳があって今の地に移された。
今は平城であるという。
ところでその山城の中腹に古墳があり今は神を祀っている。泣珠(ナキタマ)明神と号している。
祠も大きいとおもわれその額は後水尾帝の宸翰であるという。
(小浜の山城は昔は名を白雲城といったそうだ。今の城地はなんというのだろうか。
また古城は白雲というのだからその山はさぞ高いのであろう。
山腹の古墳という言葉と合点がゆく。その地を見たいものだ。)

この神は、昔神功皇后の御時三韓退治の御軍に従った臣であったが、
何か策謀を漏らした罪により韓土からそのまま今の地へ配流され、小浜が墓所となったとか。
〔この神功皇后の韓征の従臣というのはこの神に限らない。
予(松浦静山)の城下(平戸城)で崇拝されている神社に『せ郎権現』と号すものがある。
小さい神社であるが、同じく韓軍従行から帰った臣の葬地であるとか。
きっと、諸所にこの類の遺跡があるのであろう。〕

神を泣珠と号すことは土俗に伝わっている。
往古の干珠満珠と称す軍略があり、これを言い漏らしたため流された事が碑文に見えるそうだ。
〔この碑は、祠の前に在るとか。僧が語ったまま記した。〕

泣珠神は俗体となった後の子孫が十家あり、今も連綿として能入(ヲニフ)村という所に居住している。
しかし言い伝えのみで、系譜等は有らずとか。

 この能入村にもまた泣珠の祠が在って、毎年六月十五日に祭礼がある。神功皇后も祭っている。
神官がかの神前につき、泣珠の神の御許しを申し湯立を行う。
そうして、湯が沸き昇ってほとばしり飛ぶときは神功皇后が御怒であるといい、
神官が御許しがないと唱えるとか。

こういことがあったが、近頃京都所司代となった若狭守〔小浜侯〕(酒井忠進?)が幸い領分のことなので、
この神のことを禁裏へ告げて御赦免を乞い願った。
罪を赦す勅定が下ったので、今は神の怒りのことは止んだとか。
あやしいことどもである。

(甲子夜話三篇)


林家の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること

2017年05月20日 16:22

林羅山   
916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 22:29:10.06 ID:gjHSfxW0
林家〔大学頭〕の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること〔嘗て近衛公より賜る所〕

林子(述斎)に会った日に、彼が着ていた継肩衣の紋に見馴れない牡丹をつけていた。
その故を問うと話してくれた。

「我が家の祖先の道春は初めは浪人儒者で、京に住んでいました。
その頃に近衛公に召されて特別に目をかけられ、遂にかの家の牡丹紋を賜ったといいます。」

予は悪口に

「これまで長年に渡り交友してきた中でその紋を見かけたことがなかったので、
あなたの新作ではないかと思いましたよ。
そもそも今の御台所(広大院)に媚びてことではないのですか?」

などと言って戯れ笑った。

実にその賜紋は古き伝えがあり、
今も林家の古器には杏葉牡丹を蒔絵を施したものが往々あるとか。

(甲子夜話続編)


産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠

2017年02月19日 13:55

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/19(日) 05:13:29.02 ID:DIV2tWCx
産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠

あるとき田安殿の臣、山口某なる者が語った。

 神祖の御母の里で、松平太郎左衛門の祖が御男子が無いのを憂られ〔広忠公であろう〕、
三河峯の薬師へ祈願として籠られると、
その庭前で光明を発しその地を穿つこと五寸余り、そこに金像を獲た。
これから後、神祖が御生長されるとこの金像を産湯の八幡と称しその社を構えられたという。

また地を掘った穴かた清泉が湧出したので、すぐに御産湯に用いられた。
その処を指して産湯の井と呼び、いまなお在るとか。

 この井戸の辺りに楠の大木があった。
後に神祖がこれを伐られて、その材を用いて御船を造られた。
これが安宅丸(あたけまる)であると。
 
 この楠材の残片が有ったので、山口某が伝蔵していた。
それを黒羽侯〔きっと大関老侯(大関増業)であろう。老侯は殊に茶事を好んでいる。〕
が求めて茶器の棗とされた。
この器を制作されるときの切屑が存在して、
瘧を患った者に服させると瘧はたちどころに落ちたという。

以上、前後そろってない話だが、聞くままに記した。

(甲子夜話三篇)


家蔵、山科弓

2017年02月16日 17:15

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 00:32:44.51 ID:vKUbLtGx
家蔵、山科弓

 予(松浦静山)の家蔵に山科の弓と称するものがある。
祖先からの旧物である。
金泥七所藤にして弭(はず:弓の両端)の裏に平仮名で『やましな』と銘がある。
伝来の故は記文で知ることができる。

「山科弓   一張

村(弓を削って仕上げること)は吉田六左衛門入道雪荷がなしたという。
庚子の役では唐津城主寺沢志摩守(広高)は関東にいた。
敵徒が唐津を襲おうとしたので、城兵は松浦式部卿法印(鎮信)に援を乞うた。
法印は兵を率いて唐津に到った。敵徒はこれを聞いて退散した。
志摩守感謝の余りこの弓を贈った。」

「雪荷斎が村をした弓はしばしば人々は珍重されていますが、
このように銘を出したものは稀であります。
雪荷は得意ではなかったので銘は記さないと伝わっております。
官の御物である、迦陵賓と銘がある御弓も自銘だと聞き及んでいますが、
見ることができません。
ですので、この家蔵の雪荷村の弓は最上ともいうべきでしょうか。」
とその十一代の孫吉田元謙は評した。

 これについて思うと古人が大事に当たって、弓一張の謝礼では余りに粗末ではある。
しかしこのように贈ったということは、雪荷自銘の弓は世の宝物である故なのであろう。

「庚子の役とは慶長五年の関が原の御陣のことです。
『やましな』というのは、雪荷が前に故あって山科に退居したことがあるので、
その時の作なのであろうと思われます。
官物の迦陵賓とともに、天下二張の弓といえるでしょう。」
と元謙は言った。


(甲子夜話)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 01:13:59.10 ID:YMQ6U+gQ
吉田雪荷って親父さんたちのように誰かに仕えたりはしなかったのね
しかし達人が手ずから弓を仕上げていたのか
山科が居住地からなら迦陵賓は迦陵頻伽を射落とせるような一張りってことなのかな?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 12:45:21.81 ID:oAPTRVJD
>>653
立花宗茂が所持していたという金溜地塗籠弓には吉田左近作って名が書かれてたな
吉田太蔵から宗茂に贈られたらしいが

尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

2017年02月14日 10:09

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 01:09:14.70 ID:BgQ72oq0
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。

 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に

「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」

と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕

 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)
参照:桜井松平家『桜井桜』
桜井桜



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 02:16:00.22 ID:clIcZdKw
塩賊がわからん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:37:43.53 ID:+WvvCSyd
塩の密売人

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:42:04.94 ID:clIcZdKw
それとこれがどう関係するん?

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 08:06:11.49 ID:RoaBpj1c
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 16:59:51.38 ID:8P63j5pE
超時空関羽のことだよ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 20:20:51.66 ID:mYu93Acq
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 22:56:32.10 ID:4eHEPjx1
俺塩派

金剛大夫の祖、朝鮮攻のとき彼地に渡りし話

2017年02月13日 08:39

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:39:09.24 ID:6Xc1QC+J
金剛大夫の祖、朝鮮攻のとき彼地に渡りし話

 おかしいことだが、その情合いを記す。
二月の半ば、金剛大夫の方から能初めをすると言って来たので観に行った。
大夫は暇になると、桟敷に来ていっしょに物語をした。
そのとき金剛大夫に尋ねてみた。

「その方の祖先は、朝鮮攻めのとき彼の地へ渡ったと聞いた。真であろうか。」

「確かにそのお言葉通りです。」

「ならば、誰の手に付いて行ったのか」

「どちらさまに付いて行ったがわかりません。
ただ慰めを越えるようなことはしていないでしょう。
従卒なども少しはいたと聞き伝わっています。
ところで、君公の御祖も御渡りになられたと聞いております。
御慰めはいかがされていたのでしょうか。」

「なかなか慰みどころではなく、太閤の先手を申し付けられたので、
七年の間は大合戦よ。」

「それは大事でございましょう。」

等と言って笑い話となった。

 今の大夫は愚かな男ではなく質直な者で、年若だが家業をよく修伝している。
されども家業とはいいながら、彼の国に渡ったことを、
慰めなど心得ているのは優長ではないのでなかろうか。

 まあこれはしばらく置いておいて、大夫の祖先が朝鮮に赴いたのは、
どこの氏が連れて行ったためであろうか。
そもそも遊覧の為に渡ったのか、もしくは戦功の加勢として越えたのか。
いかにも古談の逸事として、ここに記す。


(甲子夜話三篇)



631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:42:58.06 ID:gR2U8JK8
朝鮮の戦争遊覧たーのしー

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:54:05.25 ID:BcttONyy
略奪、強姦、人拐い。
やってることってそう変わらんな。
日本人やめたくなるわw

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 06:58:44.76 ID:XQJJvkye
やめればいいじゃん
七大夫は大坂に籠ったりしたけど、養父も戦地に出向いていたのかもしれんのか
誰が連れていったんだ?

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:41:49.62 ID:F0PFvuYr
>>630
>慰め
どういう意味か解らん…売春?

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 18:53:12.67 ID:XQJJvkye
>>634
芸人さんが戦地を慰問してたりするでしょ?

子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

〔壱岐〕朝鮮鴉之事

2017年02月05日 13:57

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 23:59:21.99 ID:AaFg6Mnf
〔壱岐〕朝鮮鴉之事

 予の小臣に壱岐の人がいる。
話に、かの国には「朝鮮鴉」と呼ぶ、
大きさは鳩のようで黒色鴉に似て白毛の混じった鳥が、夥しく群飛して来て野菜に害をなし、
四、五日を経てまた群飛して去るという。
これは前に記した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10250.html
カササギである。

 ならば鍋島勝茂が韓征から持ち帰ってその里に繁盛しているという事とは別に、
この鳥が韓土からわが地に渡来する事は今に始まらぬのであろう。
しかし『本草綱目』にも『本草綱目啓蒙』にもこのような無数群行ことは書いてない。
ただ『本草綱目啓蒙』に、筑前筑後では朝鮮がらす、高麗がらすというと載っているので、
かの国などにも飛び渡ることは壱岐と同じであろうか。
ならばいずれにしても勝茂が持ち帰ったというのは珍しくはないことである。

(甲子夜話三篇)



正しく沢庵の書であった。

2017年02月04日 17:41

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 22:10:26.57 ID:yarFx/aF
脇、高安彦太郎が遠祖。彦太郎、少年のとき武術を以て高名の事。付沢庵和尚目撃の賞状

 予は時々能見物に行き、金剛座の脇師の高安彦太郎と会っている。
ある日のこと、彼は語った。

「私の家祖は大和に居住していました。〔高安とはすなわち和州の地名である。〕
その後、私の先祖の太左衛門という者の子の彦太郎が十、四五の頃、
大和の山越えを行ったときに賊が出て取り囲まれてしまいました。
しかし彦太郎はこれをことともせず、刀を抜いて四方に切り払えば多くの賊は死に、
賊は敵わないと逃げ去りましたとか。
折節沢庵和尚が現場に行きかかっていまして、父の太左衛門へその書状を書き記して褒賞しました。
その書は今も家に伝わっています。」

 予は請うてその書を見ると正しく沢庵の書であった。
その文を読むと、沢庵は傍観されてはいなかった。
傍観していた者が沢庵に報告して沢庵が褒賞されたのであった。
なんにせよ彦太郎の手技は乱世近い人の骨柄で、猿楽少年といえどもこうである。
また沢庵の賞辞も今時の出家の言に比すると真に活言というべし。

その書がこれである。

「〆 高安太左衛門殿 御宿所  芳林庵

この一両日にお客様が来られましたので面会できませんでした。
なのでただ今承りました彦太殿が、路次で不思議の子細に驚き入りました。
彼の手柄は申すべき様もありません。さてさて奇特千万で、承りまして感涙を催しています。
御心中御満足のほど推量されます。
誠に比類無い次第だと存じます。
無事珍重でこれに過ぎたるものはありません。
ただ今承りましたので、即刻書状で申しました。
出家の事(空白)別でかようの事承り、奇特千万と存じます。
後日に会いましょう。恐々謹言。
孟夏十八日    宗彭 」


(甲子夜話続編)



朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

2017年02月01日 09:18

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:28:57.14 ID:BhaUGTgD
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

 細川氏の家で作られているものに、朝鮮飴と呼ぶものがある。
予は時々彼の家の知り合いの者からもらっている。
 ある日思った。
これはきっと彼の祖が朝鮮討のときに、渡海してかの国から伝えてきたものである、と。
 そこで肥州(松浦熈※松浦静山の息子)に細川氏の者に尋ねさせた。
支家の細川能州(利用)が答えられるに、
「本家の二代越中守忠興が、文禄元年〔壬辰〕に、秀吉の命により朝鮮へ渡り、翌年冬に帰国しました。
そのときから製法が家伝したと思われます。」
とのことであった。
ならばやっぱりかの俘囚から得たものか。
 予の家の陶器(平戸焼)と同類である。

(甲子夜話三篇)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:35:06.58 ID:FoQj+jav
ウィキみると清正由来だな

脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

2017年01月21日 10:28

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 00:58:12.25 ID:WWUVYInV
脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

 予は若年の頃は脇坂氏〔竜野侯〕の先祖が関ヶ原で裏切ったことは反逆ではないかと思っていた。
しかし中年の時にかの侯の画工外内(トノウチ)某と懇意になったおりに、
彼の口から
「侯の家には、関ヶ原の陣のときに予め神祖から裏切りを仰せられた御自筆の御書がありまして、
かの家では至重の物として、年々虫干しには出して主人から諸役人までもそれお拝見しておられます。」
との話がでた。
若年の頃に心得たことは違っていたのだとと、老後になって思い出した。
そこで諸書を引いてなお証拠とする。

 『藩翰譜』によると、
「安元〔淡路守〕の父〔中務少輔安治〕が代わりに軍勢を引率し奥州へ向かった。
上方に軍がまた起こり道路を塞いでいたので近江路から引き返し、
東国〔神祖の御坐所の小山〕に使いを送らせ、山岡道阿弥入道に取り次いでもらった。
父子共に西におり、そこで裏切りましょうと申したので、
神祖は御消息を与えてその志を感じられた。
関ヶ原の合戦の時父子共に敵を破って御陣に参り、また佐和山の城を攻め落とした。」

 『武家事紀〔山鹿素行著〕』によると
「安治は、朝鮮征伐のときも船手運送の自由を司り、後には加羅嶋の番船を乗っ取り、
秀吉から感書を貰った。
関ヶ原役に逆徒に与したが、後に藤堂高虎に取り次いでもらって裏切りのことを告げた。
これから本領を安堵した。」
この書の『戦略』の項には
藤堂高虎は脇坂や朽木等の裏切る気持ちがあるとかねて知っていたので、北国勢の方へ出向かった。〔中略〕
秀秋は〔これも裏切りである〕が大軍なのでこれを相手にはせず、
北国勢の軍と入れ替えながら戦い、京極高政以下の彼らと手向かっている味方を妨げていたところに、
脇坂小川赤座朽木が一同に裏切ったので北国勢は立足もできず敗北した。」

 『国史〔渋井孝徳著〕』には
「安治は会津の役では子の安元に軍を従わせたが、三成の謀反に出会い道が通れなかった。
大津侯に従って敦賀に行った。山岡景仲、藤堂高虎に書を遣わし、全く背叛するつもりはないと言った。
大谷吉継は秀秋が変を起こさないか疑い、
安治、朽木元綱、小川祐忠を松尾の東に移して秀秋に備えた。
しかし安治等の謀は知らなかったので秀秋は吉継に打って出た。
二戦二敗し安治等のためにすきをつかれ吉継は死んだ。
その勢いのまま大勢の軍を攻めた。それはまるで河口を絶つ板のようであった。
十年後に大洲に封を移した。明年、家を江戸に移した。」

これらの文によれば、今の鴻臚中書(寺社奉行・中務大輔/脇坂安董のこと)の
国家に媚びる体の寺政も、祖先の志を継ぐものであろう。

(甲子夜話三篇)



鎌倉光明寺勅額裏年号之事

2017年01月16日 10:21

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/16(月) 02:28:29.13 ID:Mdk5HAw2
鎌倉光明寺勅額裏年号之事

 水戸御撰『鎌倉誌』の光明寺の条には、
寺宝の勅額二枚あり、一枚は後土御門帝の宸筆、”祈祷"であるという。
裏に福徳二年辛亥九月吉日とある。
祈祷堂の額である。福徳の年号は不審である。恐らくは誤って彫ったためであろうか。

 善筑が言うには
この頃〔後土御門の御時をいう〕は、どのような訳か東国では別に年の偽号があってこれを用いていた。
福徳はつまり東国の偽号で、その元年は正に延徳二年庚戌に当る。
なので福徳二年辛亥は、正しくは延徳三年辛亥で、後土御門天皇即位二十七年の年である。

 さて、善筑の言ったことは偽りではない。善筑は何に拠ったのであろうか。
また水戸御撰はその頃にはまだ及ばない所があったのであろうか。

 また偽号に弥勒というものがある。元年は丙寅で、永正三年丙寅とする。後柏原朝のときである。
また食禄というのもある。元年は庚子で、天文九年庚子とする。後平城朝のときである。
なので皆足利の権柄の間に、東方で偽号がつかわれた。

 予はこれから思った。
世に「万歳!」と呼んで、三河の農夫が烏帽子素襖を着て舞うということがある。
歌詞に弥勒十年辰の歳とある。これはまさしく弥勒十年の偽号のことである。
しかし弥勒元年は永正三年丙寅で、十年は永正十二年乙亥である。
辰歳ではない。もしくは予が万歳の歌詞を誤聴したのであろうか。

(甲子夜話三篇)



高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

2017年01月15日 16:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:18:30.66 ID:NkP02+Hg
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)

 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」

 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。

 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。


(甲子夜話続編)

これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:41:07.06 ID:NkP02+Hg
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 03:23:47.53 ID:k/jsDdax
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。