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同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

2016年12月27日 17:37

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 00:19:18.76 ID:aNTRDRPX
同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

 予(松浦静山)と同姓の松浦酒之丞の家は同家伊勢守の分家であるが、
実の先祖は信辰といって、法印公(松浦鎮信)の御孫にして久信公の第三子である。

 今も酒之丞の家例には世でいう節分の夜には流俗のように鬼打豆を投擲し、
それからまた別の礼では、正月六日の夜に内称(内緒)豆といって家先から別に豆打ちをする。
されども世俗に憚り暗所で小投する。
人はその由縁を知らない。かの家もまたその由縁が伝わっていない。

 臣の某が考えるには、この事は久信公が朝鮮におわしたときの佳例を伝えたものであろうとのことだ。内称豆とは、もしかすると今では他を憚っての言い分であろうと。
曰く、平戸在住の者の中で中山氏や立石氏等は公の韓役に随った者の子孫である。
これらの家には、今も世で節分というのに拘らず年々正月六日の夜に節分と称して鬼打豆の事をする。
この始まりを聞くと
朝鮮在陣の年、年が暮れて春が来たが暦を知る者がいなかったので春冬の境を決めることができなかった。
上下は図って、しばらくその六日を節分とし各々が本国の佳儀を調えた。
よって酒之丞の家でも久信公在陣の佳例を用いた。
 わが臣の両氏のように、他の韓行きの子孫にはなおこのことがある。
佐賀公にも、正月六日には節分の儀式があるという。
これらもまたかの祖先勝茂の征韓在陣の故事によるのであろう。


(甲子夜話三篇)



466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 09:57:35.79 ID:YyfEjHIw
???「ダレニモ ナイショダヨ」

江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

2016年12月09日 09:19

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 22:25:27.26 ID:J91C5wri
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。

 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。

 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。

(甲子夜話続編)

松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます



398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 22:52:45.81 ID:8ZfVzv1H
>>392
昔から道灌すげーと思われていたんだな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 00:02:16.10 ID:mqM9v91Y
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説

401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 00:18:49.26 ID:6eJna+f9
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}


        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 10:55:42.83 ID:BHAJeKED
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 19:47:48.65 ID:J3N68zoo
北条家も風流なイメージ持ってる

南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事

2016年12月06日 17:45

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 11:07:39.63 ID:ouiN0FpI
南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事


 いつの頃か、未だ南蛮宗御制禁より前のことであるが、
御当地に画工山田恵茂作と称する者がいて、南蛮宗の本尊を画くのみを職としていたという。
よって御制禁のとき呼び出されて吟味があったが、
その答えに「これを画くのみで他に業は無い」という。
官裁には、「ならば今後他の画をすべし。この像を画くべからず。」
というまでで御構いなかったという。
昔の有様はおおまかなるものである。

傍に仕えている人が、この恵茂作は二代続いて、ともに画を業としていると言った。
どちらの御代のことであろうか。
(甲子夜話続編)


ゆるゆるジャッジ




侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

2016年12月03日 09:01

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 01:07:04.40 ID:YNCSQY1u
侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

 一笑のことを記す。
ある夜、予の書机の傍らで待妾等が居て話しているのを聞いた。
「私は何宗です。」、「私は何宗ですよ」...等と言っていた。
やがて予に向かって、

「公儀の御宗旨は何ですか?」

と質問してきた。

「御先祖の頃から浄土宗である。
上野の寛永寺は天台宗だが別に理由がある。」

と答えた。そして、こうも質問してきた。

「ならば太閤様の御宗旨は何ですか?」

予は返答に当惑した。
思ってみると、足利は尊氏以来禅宗だというのは世の知るところで、
信長も総見寺のことをみれば同宗である。しかし太閤に至ってはまだ知らない。
よって「全く知らない」とその場では笑って過ぎた。

 それから明日天祥寺に詣でたときに、和尚二人に出逢ったのでこのことに及ぶと、
両和尚の答えもあれやこれやで的を射たものでなかった。
また林氏(述斎)へも便りにこのことを問うと

「御宗旨は大仏殿などのものと同じかもしれない。
しかし私は元来儒家で、釈子のことには関わっていない。
なので審査しないので答辞に及ばない。」

そこで隣宅の荻野長に問うた。

「高野山行人方の木食高山上人のことについて、黒田如水の覚書に記した文に、
『御所様はまだ御小身の御時から、高野山行人の衆を御信仰と云々』というものがあります。
また高山上人の取り成しにより豊太閤の助勢を得て、高野山は再興しました。
ゆえに今も高野山奥院大師の廟は行人方で管理しています。
行人方は秀吉の取り立てで高山寺を頭頂としましたので、
学侶は青厳寺を本寺としたようです。
阿弥陀が峰も高山寺の持ちであります。
今は妙法院でお持ちになられていて、慶長十二・十三年の頃から天台座主のお持ちとされたそうです。」

ならば秀吉は真言宗である。

『秀吉譜』で云う
「十八日、前ノ関白秀吉伏見の城に薨ズ。洛東ノ南辺阿弥陀ガ峰ニ葬る。
木食興山上人経始之事ヲ監ス。墓を其巓ニ築キ、祠ヲ其麓ニ構フ。
廟社既築、後妙法院ニ於テ、秀吉之月忌毎ニ必ズ諸宗ノ僧徒ヲ聚メ、斎ヲ設ク。
聖護院門跡道澄ヲ以ッテ大仏殿ノ住持ト為ス。
〔院号ヲ改テ照高ト曰フ〕」

(甲子夜話続編)

確か、方広寺の大仏殿で秀吉の先祖の供養ために
不受不施派以外に宗派を呼んだたしいので、
秀吉は不受不施派以外全てであるでも正解かもしれません。



切団子

2016年11月07日 09:43

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 22:15:27.02 ID:fuOGN5H1
切団子〔水野家伝。伝通院殿遺事〕

 浜松侯〔水野左近将監忠邦〕の家に「きりだんす」という製菓子が伝わっている。
切団子と書くとのことだ。昔伝通院殿が常に好まれていたので伝わっているという。

 林子(述斎)と侯は師弟なので、ある日侯はこれを作って林子に差し出した。
林子はその古色と故事とを賞し、そのことを予に語った。

 実はこの調理はかの家でも久しく作っていなかったので、これを知る者もなかったが、
今の侯が台所の古書留から捜し獲て再び昔のことを知ることができたとか。

 また同じ年の大晦日に以下の書付を送られた。
「切団子製法

一、小豆 一升四合 一、糯之粉 一升二合
一、粳之粉 八合  一、砂糖 二斤半

この割合で湯で練り合わせます。棹取小判にして小口切六歩くらいに切り、
煮立てました湯に入れ、浮いてよろしい時分に器に入れ差し上げます。
小豆はかねてからこしあんにしておき、乾かし、よくほぐし、ふるいにかけおきます。
または青黄粉などを小豆代わりにすることもございます。
切りだんすはもともと温かいものを賞翫するものですので、
『お出しするのは只今だ』とございましたら、
ずいぶん手回しとく急に仕立てて差し上げますものにございます。
以上

四月」

これは林子が水野氏に所望し、かの料理方から書き出した書付である。
(甲子夜話)



303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 22:32:48.27 ID:6Z1DPi6F
そういえば昨日の世界ふしぎ発見がオランダ回で
第10代平戸藩主・松浦熈(松浦静山の息子)が後世に伝えるために描かせたと言う
「百菓之図」(和菓子、洋菓子など百種類の図と解説)について紹介していた。
再現されたお菓子が松浦史料博物館で提供されてるとか

親子そろって菓子のレシピに興味があったのかな

呼坂という名は

2016年10月12日 14:08

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 13:38:56.99 ID:/BWvja7B
寛政十二年、作者の松浦清が冬になってから、平戸から江戸に出発したときの紀行から。


 十月二十五日 周防国の呼坂を出発した。
宿の主に、呼坂という名はどうのような由縁があるのか聞いた。
主は、

「豊臣太閤が朝鮮を伐ちなさった時、ここで従軍の兵卒を呼びなされたことから
名づけられたと聞き伝わっています。呼坂とはここの前にある坂を申します。
またここらへんに勝間村という村があります。
そこには勝八幡という祠があります。これは式内の社で、かつの神社とか申すと聞いています。
太閤がこの地を通られた時、この社に詣で、名を問われたので、"かつの社"と答えたら、
喜んで

『発軍に勝をいうのは吉兆である。また八幡の御神は軍神でおわしますので、
かたがた勝利の瑞である。』

と、その地の竹十二本を取って旗竿として、神祠には厚く敬礼されたとか。
またこの道は初めは花岡の駅から高森までで、南のほうを海浜の沿っていました。
太閤が薩摩を征されたときはその道を通られたが、
朝鮮を伐たれるときは新たにこの道を開かれた。」

との話をした。

(甲子夜話続編)




太閤の耳塚は

2016年10月11日 16:51

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/11(火) 13:58:34.44 ID:cmvPSgmJ
 荘の近所にある御勘定所に、中村某なる者が住んでいる。
去冬から上加茂下加茂貴船御修営のことを役目として上京し、
この夏帰府した。兼ねて懇ろな人だったので、
ある日その宅を訪ねて京話を聞いた。
さてもさても、都といい、また旧山川といい、一感一喜珍しい面白いことどもが
湧くようであった。
そのうちのいくつかを留めた。

予は第一に問うた。

「大仏殿の石垣には、そのころの諸家から寄進された大石があり、
その献上された大名の家紋が彫られているという。
きっと予の祖先の紋もあるはずだと、京地の人や通行した人から聞くがはっきりとしない。
実際あるのか?」

「紋はもとから無い。かの石垣というのは、二間三間におよぶ自然石を、その石のまま重畳し、
石垣としたものである。紋所というのは見えない。」

大仏石垣の話のときに、予は問うた。

「文禄朝鮮攻めのときの耳塚は、先年の大地震に崩れたという。本当か?」

「そうではない。年が古いので誰も見るもの無く、草木が生い茂り、その上からそびえて見える。」

などと答えた。


 さて『閑田次筆』〔伴蒿蹊著〕というに挙げられているのは

「讃岐由佐邑の人、菊池武矩『つくしの記行』に、
筑前国、浜男という所の近くに耳塚が有る。神功皇后が三韓を打たれた時、
その国の人の切り、耳を埋められた所であるという。
これが本朝の耳塚のはじめで、この後源義家朝臣、奥州の戦に打ち勝ち、
河内国に耳塚を築き、耳納寺を建てられた。これが二度目である。
豊臣公、京大仏に耳塚を築かれたのは第三度目である。」

 このことによれば、太閤の耳塚は神功の古例に拠ったのか。
しかし神功は征伐である。豊臣氏は残忍である。
その応報は、ある人曰く、阿弥陀が峰の豊臣公の墓は、
後代に至って、頑民が悉く奪い去り、今はわずかに地底の骨棺のみ存すと。

(甲子夜話三篇)



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 04:41:40.18 ID:6gGIiIHG
豊臣氏は残忍である
???

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 07:57:24.56 ID:zRqAX6S/
秀吉は残忍じゃなきゃいけないんでしょ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 14:14:27.40 ID:Ml1Xcr10
>>204
『耳鼻削ぎの日本史 』で清水克行先生も、「やっぱ秀吉って残忍だわ」って書いてるな

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:42:48.08 ID:zRqAX6S/
特別なことでもないって記述をネットでは見かけるけどそうでもないってことなのかな?

千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

2016年10月07日 15:18

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:00:56.45 ID:qLWXhDd3
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。

 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。

『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』

との話であった。

 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。

 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。

 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。

 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:09:40.02 ID:6txp1WuR
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない

大坂御城中、深夜には殺気ある事

2016年09月13日 21:24

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/13(火) 16:32:21.63 ID:u8uFI+D3
大坂御城中、深夜には殺気ある事

新庄駿河守直規というのは〔常州麻生領主、一万石〕予の縁家で活達直情な人である。
寛政中、抜擢されて大番頭となった。

彼の話に、大坂在番に行って、御城中に居ると深夜などは騒々しい音がある。
松風かと戸を開いて聞くと、そうではなく正しく人馬喧乱争の声を遠く聞くようである。
しばらくすると止むが、時々このような事がある。
大坂の合戦で戦没の人の魂気が残っているためだと伝わっている。

予は奇聞と思い、その後在番した人に問うと、その事は知らないと言う。

駿州はでたらめを言う人ではない。
心無い輩は何事も気づかないのであろうか。

(甲子夜話)


どうやら、静山さんは洒落の通じない人は気に食わないようです



これも人煙のため

2016年05月21日 14:49

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:41:45.80 ID:S7g6JhYO
 一学(市川一学)の兵書講義のとき予(松浦静山)は
「かつて浪花茶臼山の行って所々を眺めたが、御城とは近いように思われた」

と話しをしたら、一学は受けて以下の話をなされた。

「それがしもかつて遠遊したとき見ましたが、それに同じく思われました。
古人が伝え聞くには、この御陣のとき、茶臼山から真田丸までの間は三十丁余のつもりで御陣を構えたが、
実は十八丁であったそうです。そのときは人煙が覆って暗かったので、このような近いところも遠く見えたといいます。

 また長宗我部が守った所から、藤堂の陣までは、二十丁ばかりというが、実は六丁であったといいます。
これも人煙のためであったといいます。

 また冬の御陣のときは、城内を外堀の向かいから望むと、立て連ねていた旗幟の紋が、うちかすんで鮮やかでなかったといいます。
これも人煙がたってそうなったとのことです。
 夏御陣のときは、旗幟の紋が行燈の傍らの物を見るようによく見分けることができたそうです。
これはそのとき人気が一つでなかったためだそうです。」
(甲子夜話)

距離の測り間違えってけっこう致命的なような



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 00:02:11.96 ID:PiBkDXt/
霧のせいで時間を計り間違えるとより悲惨
と相手方の又兵衛さんが

祇園守紋

2011年07月30日 23:04

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 18:08:16.03 ID:0Y9hlBW/
祇園守紋という家紋がある。いくつか種類があるが、いずれも巻物等が交差した図案となっている。
ttp://i.imgur.com/dU8Gq.gif
かもん

祇園社、つまり八坂神社の護符を図案化したというが、肝心の八坂神社は特にこの紋を使っていない。
ttp://i.imgur.com/6NM6N.jpg
6NM6N.jpg

この紋について疑問に思った松浦静山は、実際に家紋としている池田定常(松平冠山)に由来を聞いてみた。

「某も詳しく知りませんが、当家の言い伝えでは、この紋は天王(牛頭天王、八坂神社の祭神)より
授かったものと聞きます。
…が、それは表向きの話で、本当は『王』ではなく『主』から授かったのでしょうな、ふふ…」

(軽いネタ話のつもりが、とんでもない事を聞いてしまった……)

『天王』ではなく『天主』、すなわちキリシタンのデウスとやらに関係するものだと言うのだ。
すると因州池田家は、摂津池田家とのつながりか、それとも戦国のころ、信長傘下にいたキリシタン大名の
影響か何かでキリシタンと縁があるのか?キリシタンが『邪宗門』と呼ばれる、この時代にも?

(と、すると)
やはり祇園守紋を使っている柳川藩立花家は、旧主・大友家への義理でキリシタンをかばっているのか。
同じく岡藩中川家に至っては、家祖の中川清秀自身がキリシタンだったではないか。

ならば意外にもキリシタンご禁制のこの時代、信者をかくまっている大名は多いのか?こうなると島津家の
丸に十字紋も怪しく思えてくる。いや、あれは昔からの紋だ、関係ない。いや、分からんぞ……

(いかん、頭がおかしくなりそうだ。やめよう。)
「ハハ、ご冗談を。」何とか定常に笑みを向けた静山は、早々に話を打ち切った。(甲子夜話より)


宗茂とか瀬兵衛の子あたりがキリシタンをかくまったいい話…かもしれないが、真相は霧の中だし
松浦静山の胃に悪い話、ということで。




244 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2011/07/31(日) 00:45:58.56 ID:tsHHT7NT
>>243
さすが甲子夜話、江戸中期のネタの宝庫である。
たしか、13人の侍の元ネタの事件も甲子夜話にあったな。

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 03:40:59.38 ID:S2j9Mxkv
>>243
宗茂は、育ったのが博多近辺で祇園信仰が盛んだったから祇園守を家紋にしたみたいだけどな。
宗茂が考案した初期のは、扇に祇園守っていう十字とは全く別の形の物だったりするし。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 16:22:02.46 ID:oalwK8VI
>>243
中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
あれも祇園守紋の一種なのか
そういえば、宣教師が来日した当初、島津の家紋を見て
キリスト教徒に違いない、と喜んでいたらキリスト教に改宗した大友氏と
戦いまくってがっくりしたとか

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 16:55:26.63 ID:SFAnWIgp
丹羽さんの筋違い紋(×)を見た宣教師はどう思ったのかねぇ
やっぱキリシタンと間違えられたりしたんだろうか?

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 20:14:06.67 ID:vWgKz8ng
>>252
>「中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが

中川久留子を「なかがわくるこ」と読んで一瞬なんのこっちゃと思ってしまった。