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主人の勝頼は図らずも信長のために自害して

2022年01月04日 16:13

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/04(火) 03:12:50.87 ID:AEphEda+
(天正9年、笠原政晴の謀反の時)

小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。

その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。

この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。

そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。

(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)

同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、

「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」

これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。

左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」

すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。

しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。

――『異本小田原記』

笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな




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松田左馬介忠義の説

2020年04月20日 22:13

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 03:29:16.96 ID:9QHsESdp
松田左馬介忠義の説

 秀吉公が北条氏政・氏直を攻められた時のことである。秀吉公は北条の家臣松田尾張守(憲秀)の方へ書を遣わして説得を試みられた。
尾張守はこれに同心し、嫡子新六郎(笠原政晴)・次男左馬介(直秀)・三男弾三郎を呼んでこのことを語った。
しかし、左馬介はこれに与せず氏政・氏直に告げたので尾張守を殺されたという。
その後氏政・氏照・氏直が降参すると、氏政・氏照は切腹させられたが氏直は命を助けられ高野山に入り、松田左馬介も彼の供となった。
 世ではこの事を挙げて左馬介の忠義を称美している。


 今このことを考えてみるために、『通鑑綱目』の話を引用する。
 昔朱泚という者が唐の徳宗を囲んだ時、徳宗の臣であった李懐光に朱泚を防がせた。しかし、懐光は反逆の心があり軍を進ませなかった。李懐光の子の李?はこれを徳宗に告げた。懐光は死ぬこととなり?もまた自殺した。
また楚の康王が臣の子南を殺そうと思っていた。当時子南の子の棄疾という者は王の御士であった。
 康王は棄疾を見るごとに涙を流した。棄疾が「どうして泣かれるのか?」と尋ねると、王は「お前の父、子南は無道なので討とうと思っている。討った後でもお前は留まって居てくるだろうか?」と返した。
棄疾は「死刑にされた父を持つ子を君はどうして用いなさるでしょうか。ただし、王の命令を洩らして自分の刑を重くするようなことは臣であります私は行いません。」と答えた。
王はついに子南を殺した。棄疾は父の屍を請うて葬り、
「父を棄てて、仇に仕えることに私は忍ばない」と言って首をくくって死んだ。

 これらの話を受けて思うと、左馬介は父の逆意を君に告げる事は李?に同じといえども、李?は父が死んだ時に自殺し、左馬介は父が殺された時に死ななかった。
棄疾は父を棄てて仇に仕えるのを忌みて死んだが、左馬介は父を棄てて仇に仕えても恥じるところなかった。
 古語に”忠臣を求むるは必ず孝子の門においてす”、
とあるように左馬介を忠臣とするのは義にかなわない。この事を考え知るべきだ。

(広益俗説弁)

なんか“忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず”のような話だ



大義、親を滅ぼす

2019年12月02日 18:38

635 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:12:43.45 ID:HJq7LjB6
小田原北条氏の重臣である松田尾張入道(憲秀)、およびその次男である左馬助(直秀)は、
秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。

天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」

これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した

「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」

尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた

左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。

それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した

これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。

そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。

636 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:13:21.71 ID:HJq7LjB6
氏政父子は大いに驚き、二ノ丸の片廓は定例の奉行頭人の集会の為の内評定の場所であったので、
翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって

「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」

と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし

「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。

松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。

左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。

(関八州古戦録)



石垣山一夜城

2019年11月08日 17:27

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 06:28:46.53 ID:kr+sccjl
小田原北条家の宿老である松田尾張守入道(憲秀)は、かねて嫡子である笠原新六郎政尭(政晴)の勧めで
豊臣秀吉に内通していた。先に入道は、秀吉より依頼されていた、小田原城を見下ろせる土地として
笠懸山を選び、この事を堀左衛門督秀政を通じて真覚寺の秀吉本陣へ伝えた。そこは小田原の西南に有る
天然の要害で、風祭村の左に当たる松山であった。

秀吉は箱根より、木樵の通るような険阻な道を通って山上へと上がった。そこは正しく城内を真下に見下ろす
位置であり、ここから攻められれば防ぐこと能わずという高台であった。
秀吉は普請の衆にも物見をさせて、早速ここを切り開き本陣を据えた。すなわち塀を架け、櫓を上げ、
壁には杉原紙の白紙を張って白土の壁に見せかけ、一夜にして城を築いたのである。これが石垣山の
一夜城と呼ばれるものであった。

小田原城内よりこれを見た北条勢は驚き呆れ、一夜のうちに石垣を築き、白壁を塗り、櫓を上げるとは
秀吉はただ人ではない、天満の化身であろうと、舌を巻き身震いをしたという。以後、この山を
石垣山とも、白壁山とも呼ぶようになった。

 啼きたつよ 北条山の 郭公

これはこの時、秀吉の作った発句である、

秀吉は徳川家康を呼んで共に高台へと上がり、小田原城を見下ろしながらこんな話をした。

「見られよ徳川殿、北条家が滅びるのももう間もあるまい。何と小気味の良いことか。」
「左様にございますな。」
「この上は、関八州は貴殿に進ずる事としよう。」

そう約束をすると、秀吉は着物の前をまくり、小田原城の方向に向かって小便をはじめ、家康に対し
「貴殿も共に。」
「然らば」
と、二人並んで小便をした。これより以後、並んで立ち小便をすることを、「関東の連れ小便」と
呼ぶように成ったのだという。

(関八州古戦録)



小田原評定

2019年11月05日 16:14

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/05(火) 07:08:55.43 ID:nFt8FQ3f
小田原の役の事

小田原の頼りにしていた山中城が一日で落ちたことを知ると、小田原城中の者たちはあっけにとられ、
城の各口を守っていた将兵もただごとではないと動揺した。関東武者ともあろうものがと深く不安に
かられている所に、上方勢の総大将である秀吉が、四月一日未明に三島を出馬し、足柄、箱根を越えて
小田原の城まで後半里という湯元真覚寺に着いたとの報が届いた。

上方勢の先鋒は。すぐに分かれて湯元口、竹ヶ鼻、畑、湯坂、塔ノ峰、松尾岳といった各所より攻めてきた
ため、そこを持ち口とする諸隊は臆病風に吹かれ、未だ敵の姿を見るか見ないかのうちに、片端から
道を開けて小田原本城へ逃げ込んでしまった。

北条氏政父子は改めて急ぎ評定を開き、畑、湯坂、米神辺りまでは出向いて戦うべきかを尋ねた。
これに対し松田尾張守入道憲秀が進み出てこう答えた

「勢いに乗って一気に進んでくる大敵に、気後れのした味方を防戦に出しても所詮負け戦と成るでしょう。
それでは大事な最期の一戦にも負けてしまいます。それより一刻も早く籠城の策をとって守りを固める
ことこそ肝要に思います。後は敵の疲れを待つことです。」

この尾張守の主張に、諸将も奉行頭も誰も異を唱えず、ただ手をこまねいてその意見を聞いている
だけであった。後で人々は「何と情けないことであるか。これでは北条家が滅びるはずである。」と
思いあわせた。

かつて早雲から氏康の時代は、明け暮れに軍事に励み、肝胆を砕き、寝食を忘れ謀を帷幄の中に巡らせた
ものであった。あるいは出て戦って勝利を得、あるいは籠城して兵を休めつつ戦い、この戦国の世に大敵を
四方に受けて、これを凌ぎつつ領民を安寧に置いて養ってきたのである。

それに比べれば氏政父子は器が小さく、ただ先祖の余光の中に生きて、いざという時の虚実の策とて無く、
衆を頼んで己を失い、ただ呆然と事態を見守っているだけであり、これでは国を失っても仕方のないことだ。
「鵜の真似する烏の、水を飲んで死ぬ」という言葉があるが、それに似ている。
だから今に至っても、はかばかしくない評議が「小田原評定」と呼ばれ、笑い話と成っているのである。

(関八州古戦録)

これを見るに関八州古銭録が成立した頃は、「長引いて結論の出ない会議」ではなく、「消極的で内容に乏しい
会議」を小田原評定と呼んだようですね。



今ここに二つの不思議が有る

2019年02月23日 17:25

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 12:52:27.36 ID:e/hNmUGt
小田原の役の時、太田三楽斎(資正)は豊臣方として小田原の攻口にあったが、北条方の松田尾張守(憲秀)の
陣を見て、「彼に異心あり」と言った。実はこの時、松田はすでに秀吉に欺かれて内通していたのだが、
三楽斎はこの事を知らないはずであったのに、これを指摘したのだ。

この言葉を聞いた秀吉は怪しみ、「何を見てそのように言うのか」と尋ねた所、三楽斎は

「松田の勇謀は人の恐れる所です。所が今、軍備を正さず、諸卒を戒めず、役所を巡りません。
彼はもとより臆するような人物ではない。であれば、これは心をこちらに通じているが故なのでしょう。」

この答えに秀吉は感嘆し、源君(徳川家康)に対してこれを語って
「今ここに二つの不思議が有る。それが解るだろうか。」

「一つは三楽の事でしょう。もう一つは解りません。」

秀吉は言った
「私は匹夫より起こり天下の主となった。一方で三楽にはあれほどの知がありながら、一国すら持ち得て
いない。これが二つ目の不思議でなくてなんだというのだ。」

(武将感状記)



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 17:20:42.46 ID:HuShFIb5
>>688
反北条を貫いたからだろうな、あとは本貫地に拘ったから

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 10:39:08.62 ID:Y+43REht
太田資正は上杉謙信が関東勢を従えて小田原城を包囲したときも
白倉丹波という武将の離反を見抜いて事前に防いだらしい

この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

「あれを麦飯にして、早々にここに出すように

2015年05月06日 15:32

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 21:54:29.55 ID:m744MYgG
永禄6年(1563)、上杉謙信方の太田資正(三楽)が守る松山城を、北条氏康と武田信玄の連合軍が
陥落させた時のこと。

その陣はとかくあって4月末になり、陣夫たちが馬の餌として麦を刈っているところを北条氏政が見て、
家老の松田憲秀に「あれを麦飯にして、早々にここに出すように」と命じた。
武田信玄はこの言葉を聞くと

「さすが氏政殿は大身であられるので、ご存じないのも道理です。あれは、先ず扱いて、こなして干して、
搗いてまた干して、その後まづきというものをして、食せるようになり、これに水を入れよく煮て、
ようやく麦飯と成るのですよ。」と言った。

北条家の松田、大道寺を始めとした家臣の者達は、『信玄が氏政を下げずんでいる』と、
恥ずかしく思ったという。

(甲陽軍鑑)




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 23:16:39.40 ID:efiNJHlg
太郎晴信と言われていたとき領内の米の収穫を見物した際に
老臣の板垣にあれで餅をつくって持ってこいと命じたらしいねw

748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/05(火) 23:36:12.27 ID:bk8L788Z
甲陽軍艦て何でこんなに氏政を虚仮にしようとする逸話多いんだろう
第一次駿河侵攻で氏政に信玄が敗走させられた腹いせ?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 00:24:06.76 ID:K/zNr46c
氏政は北条遺臣の書いた北条五代記でもディスられてるし
馬鹿殿氏政はこの時代の共通認識だろ

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 02:28:26.98 ID:88LFcJYm
秀吉と敵対した大身の大名の中で滅亡させられたのは北条のみだしね

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 03:46:49.18 ID:vxBWnKFh
実父からは「北条は俺の代で終わり」と嘆かれ
義父からは「婿殿は物を知らぬ」と蔑まれるバカ殿氏政

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:10:30.37 ID:NpPIqbQ/
>>737
謙信の影武者は戦国最強

信玄影武者との一騎打ち

北条の大軍が包囲する唐沢山城を僅かな手勢で突破

小田原包囲戦の際、鉄砲の射程圏内で平然と弁当を食う

本物は超用心深い

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:23:35.96 ID:4Ht9e4Kr
>>751
実際に終わったのは俺の孫の代でしたw残念!

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 11:56:05.84 ID:P49wh2UI
河内狭山藩ェ…

黒田如水、聞き間違えて殺す

2014年05月07日 18:46

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 19:40:14.89 ID:EPE4j2wn
北条の老臣である松田尾張守(憲秀)とその嫡子である笠原新六郎(政尭)には北条家に対し異心があり、
小田原征伐の折、豊臣秀吉に内応し、豊臣の軍勢を小田原城内に引き入れる謀をした。
しかし、次男の松田左馬助(直秀)はこの計画を聞かされたものの、同心せず去ろうとしたので、
彼は座敷牢に監禁された。ところが左馬助は家臣の者と言い合わせ、具足箱の中に入って
脱出し、北条氏にこの事を伝えた。北条氏は左馬助に褒美として、即座に知行を与えた。

松田尾張守は大身であり、籠城の持ち口(担当箇所)は非常に広かったが、この事件により
混乱し、そこを豊臣軍は攻め立てたそうである。

北条氏の降伏後、豊臣秀吉黒田如水に命じて、松田左馬助を誅殺するように命じた。
ところが如水は「松田を殺すのですね」と、秀吉に内応した松田尾張守と笠原新六郎を
誅殺した。

秀吉はこれを知ると激しく如水を叱責したが、如水は「聞き間違えてしまいました。」とのみ
答えた。その後、如水に特別の処罰もなかった。
この事は黒田如水、一生の勝事であるとされている。

生き残った松田左馬助は後に加賀大納言(前田利家)に仕え、五千石を所領した。
そして最近亡くなったそうである。

(老人雜話)

黒田如水、聞き間違えて殺す、というお話。




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 20:03:11.85 ID:/FPUqS+C
親不孝なりとも君に忠ならば生かすべき、ってやつだったか
そんな如水さんのいい話?を聞いて後藤又兵衛が「君主はかくあるべき」とか言ってました
息子は川に落ちてた

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 22:08:09.65 ID:ZwFfFYie
でもさすがに大道寺さんに対する仕打ちはあんまりだと思う




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 23:37:31.30 ID:ewXniT8Z
北条氏政の家老の松田尾張は一老として大身ではあるが返り忠し、それを松田の次男が
北条氏直へ訴えたので、叛逆が露見して父子ともに閉じ込められた。

その後、和談によって開城の時、豊臣秀吉黒田如水に、「松田の次男左馬介は、
父を訴えた者であるから誅し申すべし」と命令した。すると如水は間違えた振りをして
惣領の新六郎を殺し、左馬介を助けた。

これを聞いた秀吉は「どうして新六郎を殺したのだ。左馬介は我に忠のある尾張父子を
氏直へ訴えた憎き奴だから殺せと申し付けたのに」と言った。

これに如水は「それがしが承り違えたのは不調法でした。しかしながら、新六郎は譜代の
主人に背いた者なので武道に欠け、先祖の面まで穢したのですから、忠孝ともに無き
無道者です。左馬介は父には背きましたが、主人には忠のある者です。ですから左馬介と
取り違えて新六郎を殺してしまったからといって損とは申されますまい」と申し上げた。

秀吉はこれを聞いて「またちんばめが空とぼけをした」と言い、左馬介はそのままにした。
この如水の取り計らいを皆が褒め称えたということである。

――『明良洪範続編』





その末子である十三歳の童も

2013年07月01日 19:54

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 17:13:57.61 ID:tvn1trM5
小田原征伐の時、豊臣秀吉は松田憲秀を斬罪に処したが、
その末子である十三歳の童も同じく生害させた。

彼は多能にして殊に美麗であった。これを惜しまない人はおらず、
見聞の衆は悲しみの涙を拭った。

――『当代記』




997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 18:33:42.26 ID:wu0N9C1I
>>996
果たしてブサイクで有能でもこう惜しまれたのであろうか・・・

戦国時代でも但し※なのかな

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 18:46:24.94 ID:AfpEMuhk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2635.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7249.html
こっちでは
松田憲秀と長男が豊臣方に内通
憲秀の次男が内通を北条にばらす

小田原城開城後
(坂口安吾「二流の人」では松田憲秀は開城直前に斬られたことにされてたが実際は監禁)
ラスボス「忌々しい松田の息子を斬れ!」
如水「長男とついでに憲秀を斬ってきました」
ラスボス「こちらに内通した者を斬ってどうする!」
如水「忠義者を生かし、不忠者を斬るのは当たり前でしょ」

と末子の話はなく、いい話になってたが、来年の大河ではどうなるか。

豆を詰めて背負った農夫がやって来た

2010年10月12日 00:00

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 21:59:09 ID:tXJLgH2L
天正13年(1585)9月、北条氏直は家老・松田憲秀らを率い、混乱続く上野国へ攻め入った。
松田の部隊が途中、白井に陣を構えた時、蓑笠をつけ、藁包みに豆を詰めて背負った農夫がやって来た。

「え~、豆~、豆~。馬のエサに豆はいらんかね~。」
「なんじゃ、おまえ。この土地の者か?」
「へ・・・へぇ。この辺で馬飼いをやってやすが、良い馬が手持ちに無いもんで、余った豆を売りに来やした。
一升あたり十文で、いかがでしょう?」

(いい事思いついた。“あの”馬を連れて来い。)(わかった、“アレ”じゃな?お主もワルよのぅ、ウヒヒ・・・)
「のぅ、農夫よ。おまえ、馬飼いなら当然、馬には乗れような?」「へぇ、もちろん。」
「それは良かった。見よ!あの馬を。」北条兵は、見事な黒馬に金覆輪の鞍を乗せ、引いて来た。

「こんな田舎で、あのような良い馬や鞍は見たこともあるまい。」
「へ、へぇっ!確かに見たことも聞いたこともねぇだ!」
「どうじゃ、少し乗ってみるか?」「い、いいんかい?それじゃあ、ちょっとだけ・・・」
農夫が馬にまたがった瞬間、
「それ、行けっ!!」北条兵は、馬に思い切りムチをくれ、馬は思い切り暴れ出した。

「ひ、ひいいぃぃぃいいい~~~~~!!!」
「あっはっはっはっ!そいつは並の者には乗りこなせぬ悍馬じゃ、しっかりやれよ~www」

農夫は必死で馬にしがみついているように見えた。が、陣の入口まで来ると、意外に達者な乗りこなしで、
馬を鎮めてみせた。すると農夫は、背負っていた藁包みからなんと太刀を取り出し、蓑笠を脱ぎ捨てた。
蓑の下に着るは鎖かたびら、笠を脱いだ頭には懐から鎖頭巾を取り出し、改めて被った。

どう見ても、影の世界の人である。

「真田昌幸家臣・割田重勝、推参!良き馬と鞍を頂戴したこと、誠に有難し。この礼は明日からの戦で、
矢弾を進呈いたすゆえ、松田殿によーくお伝えくだされや。では、さらば!」

あまりの事に固まっていた北条兵が、あわてて追いかけた時には既に遅く、割田は陣を遠く離れ、
片品川を渡っていた。のちに割田は、馬は昌幸に、鞍は矢沢頼綱に献上し、
『古今稀なる大胆なヤツ、あるいは痴れ者』と、敵味方双方から恐れられたという。


>>587で忍者の評判が地に落ちてるので、忍者の最盛期の、仕事してる人の話を。




635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 22:14:46 ID:AN9VeYtb
てっきり豆に毒ってオチかと思ったら

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 22:27:29 ID:8TKbdwlz
これ豆知識な

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 22:50:05 ID:sTbWEKz6
馬と鞍を別々に献上するとは、マメなヤツだな

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 23:01:46 ID:KfRjcz5a
ちょっと格好いい

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 23:19:25 ID:0JygZ3hb
ウマい事をする

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 23:26:45 ID:LPeVKaRw
馬を乗りこなしたことで忍びの者とばれてばっさりやられるのかと思った

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 23:29:23 ID:KXCRjTFH
仕事してる…?
どういう仕事なんだこれ

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/10(日) 23:43:28 ID:1ExIhoML
本来は偵察任務だったらしい。

ちなみにこの割田さんはどうも手癖の悪い人だったらしく
1618年に盗みを理由に討たれている。幸隆の代からの人なんだけどね…

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 00:05:03 ID:K+rI7dj3
幸隆の代から仕えてこの逸話、更に33年後に・・・するってぇと!?
もう手癖悪いってLvじゃねぇぞwww

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 00:11:11 ID:0g27W5jL
盗癖っていうのはアル中とかギャンブル中毒とか覚醒剤中毒と一緒で一種の行為依存症。
基本的に死ぬまで治らん。
脳に「盗む=快楽」っていう回路ができちまうんだな。

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 00:43:41 ID:W1e26Rzu

>>645
幸隆の岩櫃城攻め(1561)からの人というから半世紀以上仕えていた事になる。
そんな古参中の古参の最期が…何か裏があったんじゃと思えてくる。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 00:55:10 ID:QfFqngBE
ついつい馬を盗んじゃう
→キレた北条が攻めてくる
→お兄ちゃんが出陣してまた寿命が縮む
(以上のようなことが何回もあって)
→これ以上寿命を縮めないように、と家臣が気をきかせて殺す

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 02:10:46 ID:hMnC59TB
>>634
「古今稀なる大胆なヤツ、あるいは痴れ物」

なんかツボにはまったwww

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 03:59:26 ID:WfZCbWaa
>>647
>そんな古参中の古参の最期が…何か裏があったんじゃと思えてくる。

本格的にボケたんじゃね?

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/11(月) 07:07:08 ID:K8Ku1fqH
幽閉された姫の心を…
…いや、なんでもない

落語「真田小僧」より、天目山へ援軍に向かう途中

2010年09月05日 00:01

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 13:55:13 ID:t+RHUsz7
天正10年、甲斐の武田勝頼が天目山に立てこもったときのこと
勝頼は信州上田の真田昌幸にも加勢を頼んだ
早速援軍をつれ甲斐に向かった昌幸だったがその途中、
大道寺政繁松田憲秀の軍に挟み撃ちにされてしまう
進退極まった真田軍、明日はここで討ち死にかと昌幸が覚悟を決めたそのとき
昌幸の倅で歳が17になる与三郎、父の前に跪き
「父上、これしきでご心配ご無用。願わくは私に永楽通報の旗印をお許しくだされば、
囲みをといて一同が逃げのびることができましょう」
敵の松田方の旗印を自分の倅が欲しがるのはきっと何か考えがあるに違いないと許してやると
与三郎、その旗を持って大道寺軍に夜討ちをかけた
さあ驚いたのは大道寺軍。夜討ちに驚いてガバッと起き出すと
そこには味方の松田の旗印が翻る。さては松田が裏切ったと大道寺と松田で
同士討ちが始まった、その隙をついて真田軍は信州上田に無事落ちのびることができた。
このとき永楽通報の旗で助かったので、真田家の旗印を六連銭に改めたという。
この与三郎、後に成長して真田幸村と名を変え、大坂方の軍師となり,
大坂の陣で立派に討ち死したことになってるが
これだけの人だから薩摩に落ちたというのが本当のところかもしれない

という落語「真田小僧」に出てくる幸村英雄伝説の講釈。




856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 14:40:31 ID:29kT2+/y
昌幸は絶対にこんな可愛げのあるいい人じゃないw

857 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/04(土) 22:07:51 ID:6CYxvQme
真田の家紋って元々違ってるよね!

何だったか覚えてないんだけどw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 22:09:12 ID:O4pEkxSd
>>855
昌幸は本当に武田家に対しては義理堅いよな。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 22:17:07 ID:5MpECdsV
上杉はだいぶ食い物にしちゃってるのに!

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 22:22:29 ID:zp6SvZcq
北条へ勝頼引き渡すつもりだったんじゃないの

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/04(土) 22:56:52 ID:yqVJQXbe
織田の甲州征伐真っ最中
北条への書状

『勝頼の奴がうちの方にやってきたらすぐさま捕縛して、北条さんに引き渡しますネ!』
by真田昌幸
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