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松田左馬介忠義の説

2020年04月20日 22:13

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 03:29:16.96 ID:9QHsESdp
松田左馬介忠義の説

 秀吉公が北条氏政・氏直を攻められた時のことである。秀吉公は北条の家臣松田尾張守(憲秀)の方へ書を遣わして説得を試みられた。
尾張守はこれに同心し、嫡子新六郎(笠原政晴)・次男左馬介(直秀)・三男弾三郎を呼んでこのことを語った。
しかし、左馬介はこれに与せず氏政・氏直に告げたので尾張守を殺されたという。
その後氏政・氏照・氏直が降参すると、氏政・氏照は切腹させられたが氏直は命を助けられ高野山に入り、松田左馬介も彼の供となった。
 世ではこの事を挙げて左馬介の忠義を称美している。


 今このことを考えてみるために、『通鑑綱目』の話を引用する。
 昔朱泚という者が唐の徳宗を囲んだ時、徳宗の臣であった李懐光に朱泚を防がせた。しかし、懐光は反逆の心があり軍を進ませなかった。李懐光の子の李?はこれを徳宗に告げた。懐光は死ぬこととなり?もまた自殺した。
また楚の康王が臣の子南を殺そうと思っていた。当時子南の子の棄疾という者は王の御士であった。
 康王は棄疾を見るごとに涙を流した。棄疾が「どうして泣かれるのか?」と尋ねると、王は「お前の父、子南は無道なので討とうと思っている。討った後でもお前は留まって居てくるだろうか?」と返した。
棄疾は「死刑にされた父を持つ子を君はどうして用いなさるでしょうか。ただし、王の命令を洩らして自分の刑を重くするようなことは臣であります私は行いません。」と答えた。
王はついに子南を殺した。棄疾は父の屍を請うて葬り、
「父を棄てて、仇に仕えることに私は忍ばない」と言って首をくくって死んだ。

 これらの話を受けて思うと、左馬介は父の逆意を君に告げる事は李?に同じといえども、李?は父が死んだ時に自殺し、左馬介は父が殺された時に死ななかった。
棄疾は父を棄てて仇に仕えるのを忌みて死んだが、左馬介は父を棄てて仇に仕えても恥じるところなかった。
 古語に”忠臣を求むるは必ず孝子の門においてす”、
とあるように左馬介を忠臣とするのは義にかなわない。この事を考え知るべきだ。

(広益俗説弁)

なんか“忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず”のような話だ



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大義、親を滅ぼす

2019年12月02日 18:38

635 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:12:43.45 ID:HJq7LjB6
小田原北条氏の重臣である松田尾張入道(憲秀)、およびその次男である左馬助(直秀)は、
秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。

天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」

これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した

「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」

尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた

左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。

それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した

これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。

そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。

636 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:13:21.71 ID:HJq7LjB6
氏政父子は大いに驚き、二ノ丸の片廓は定例の奉行頭人の集会の為の内評定の場所であったので、
翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって

「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」

と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし

「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。

松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。

左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。

(関八州古戦録)



この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う