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天下で切支丹御法度となった事

2018年06月27日 19:18

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 13:58:19.61 ID:Py8YpCep
天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、
五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。
これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。

伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。

三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。
宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。
以降、切支丹は厳重に禁止された。

(長澤聞書)



884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 15:07:23.54 ID:tCs7j6lY
キリシタンって普通に他宗を攻撃する排他的なカルト教団だし
弾圧されるのも残当

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 15:22:46.48 ID:H7tae2x0
キリスト教が長崎でどんだけ破壊と殺戮やったか知ると、そりゃ報復も苛烈になるわって思う
松倉勝家がどうであろうと、キリスト教を旗印にして嫌がる村まで道連れに軍事反乱まで起こしてるし

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 17:49:50.02 ID:Ys4oUs31
ほんまかいなというエピソードだけど・・・
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我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

故太閤の遠忌

2018年01月15日 11:25

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/15(月) 10:20:40.41 ID:vdZ764Ap
或る年、京都において故太閤秀吉の遠忌を、彼の側室であった松の丸殿(京極竜子)という人が
それまで存えていて、ある寺にて法会修行を行ったが、京都所司代である板倉重勝は、これを聞くと
直ぐに、武士を遣わして法席を破らせ、参詣の男女を追い散らした。

人々は、板倉がなぜそのような行為に出たのか聞くことも出来ず、例の京童たちは口さがなく、
彼の行為を批判した。

そんな中、ある人がこう評した
「幕府にとって秀頼公については敵対したため憚りが有るが、故太閤については仔細は無い。
だからこそ、その位牌は高台寺に置かれており、その菩提を法令するのを、伊賀守(勝重)は無法に
制することはしていないし、忍びて修行している分には、これを聞いてもそのまま差し置いている。

しかし今回は「松の丸殿が故太閤の遠忌を修行する」と宣伝し、参詣の人々が群衆したため、
所司代を軽んじたと憎んだのだろう。また宣伝しての作善は、関東の聞こえ悪しき事でも有る。
その上松の丸殿というのは、元若狭国。武田元明の妻であった。しかし秀吉がその容色を
聞き及び、元明を殺してこれを奪い取り、妾としたのである(古くからある誤伝)。
貞節なる女人ならば、秀吉を恨みこそすれ、これを慕うべきではないだろう。」

(武野燭談)


腰は抜けても、先ず今日は

2018年01月14日 21:14

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 23:13:32.92 ID:C3mIsWFd
大阪夏の陣の時、家康の軍勢が京より出陣する朝、各々行粧を調え、御先手より段々に
押し出す所、板倉伊賀守(勝重)は長袴の裾を繰り上げ、家康の乗馬の、轡の水付きを取って
「今日の御出陣は、是非に思し召し止まらせ給え」
と、引き止めた。

これに家康は甚だ機嫌を悪くし

「臆れ者、それを放せ!」

そう叱りつけたが、板倉は重ねて
「なるほど、臆れ申しました。腰は抜けていても、先ず今日は御滞留遊ばすべし!」
そうしきりに引き止め、遂に家康も出馬を思いとどまった。

その日、京都所司代は京市内で、火付けをしようとするなどした大阪与力の党類を、
多く召し捕った。

これを伝えられ、家康の機嫌は直ったという。

(武野燭談)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 23:43:52.36 ID:69AohDFt
ゲヒ殿の手のもの?それとも別口かな

巻絹裁断

2017年10月05日 17:42

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 21:22:35.19 ID:lpvoNYzS
江戸幕府のはじめ、板倉勝重が京都所司代であったころ、二人の男が一反の巻絹を争う訴訟があった。
両人ともにそれが自分のものだという確証がなく、遂に勝重の裁断を仰ぐことと成り、これに対し
勝重は

「双方とも証拠がない以上やむを得ない。これを分かつべし」

そういって彼らの目前でこれを中央より断ち、それぞれに分け与えて去らせた。

その後、勝重は人を遣わして密かに二人の様子を探らせたところ、甲は喜び、乙は怒れる色あり、との
報告が還った。勝重は速やかに甲を捕え獄に下した。

(今古雅談)



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 22:27:21.22 ID:OcJJ7uqw
>>284

巻絹だけに裁断ってか

容易ならぬ風聞

2017年06月17日 09:59

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 23:36:40.72 ID:YzgH35zF
大坂落城直後のことでした。市内警護にあたっていた徳川方の役人が板倉勝重のところへ駆け込んでまいりました。
「容易ならぬ風聞を聞き及んでまいりました。」
「容易ならぬとは何か。」
勝重は煩雑な政務を執っていましたが、平生と少しも違ったところなく落ち着いてたずねました。
「さればでござります。大野修理の命令をもちまして、よからぬ禰宜どもが権現様の人形を作り申し、呪詛調伏申したとのことにござりまする。
まことに不届きなる者共、早速召し捕らえて重い罪科にと存じましたなれど、一応お耳に達してからと考えまして参った次第にござります。」
「それはご苦労。」
勝重は、水のように静かにうなずきました。
「せっかくであるが、禰宜どもが召し捕らえるには及ばぬぞ。」
「何と、何と仰せられます。権現様を呪詛いたす大罪人を、そのままにいたせと仰せあるのでござりまするか。」
「いかにも。」
勝重はは莞爾と笑いました。
「禰宜、山伏などと申すものは、金銭をもって依頼されれば、人を呪詛もし、悪魔退散も祈るものじゃ。商売のようなものよ。
我らが大坂方より多額の金銭を与えれば、秀頼公をも呪詛し調伏するのを拒むものではない。
また、彼らごときに呪詛されて御運の傾く権現様ではないはず。
たかが金銭欲しさの呪詛調伏、相手にするでない、すておかれい。」
勝重の一言は、家康の大きさを更に大きくするものでありました。
大坂方からの命で家康を呪詛した禰宜たちは、一時はどうなることかと心配したのですが、
何の咎もなく赦されて、今更のように板倉勝重の徳を讃仰したのでありました。

『明良洪範』(良将言行録)


「なるほど」

2017年05月06日 17:21

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 14:43:08.15 ID:N8e2wtiA
 家康の元で京都所司代を務めた板倉勝重は若い頃に僧侶として葬儀の場で
多くの死体を見る機会があったので、自然と死体について詳しくなった。
 その彼が還俗して武士になった後のことである。宿で首吊り死体が見つかった
ので、板倉勝重はその検視をおこなったところ、彼はその死体を見て、
「これは生きているうちに自分で首を吊ったのではない」と看破し、ただちに
よく調べさせると、宿の主人が寝ている被害者を襲って命を奪った後で、
首吊り自殺したように偽装していたことが判明した。

 また、あるとき、男が被害者の死体に切り傷をつけて自分の犯行をごまかそう
と試み、勝重の前で言い訳していたが、勝重は一見して、「この切り傷は生きて
いる時についたものではない」と見抜き、偽りを言ってた犯人の男を捕らえた。

 これらの事件について、なぜ真相がわかったのかと人から問われた勝重は
「死んだ人間の首をくくった時には縄目に血が寄ることはなく、生きた人間が
くくった時には縄目に血が寄ってしまうものだ。また死亡した後、刀で傷を
つけた場合、皮膚は内側にまくれ、生きている時の傷であれば皮膚が外側に
開くものだ」と説明した。
 これを聞いた人々はみな「なるほど」と感心した。



879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 18:36:03.71 ID:nEjAVy/z
>>878
独学(経験?)でわかるようになったのかな、すげえ。

880 名前:人間七七四年[saga] 投稿日:2017/05/06(土) 18:47:47.02 ID:gVXBUFCM
>>878
これは名探偵所司代

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 18:51:02.73 ID:/cp58xOM
>>879
実は室町期にすでに、この手の犯罪捜査のノウハウは相当蓄積されてたらしい。
筆跡鑑定まであったそうな。

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 19:01:04.30 ID:E3ckCFJl
「生活反応」って言葉が一般に知れ渡ったのが、戦後すぐの下山事件(国鉄総裁が轢死体で見つかった事件)だもんな。この人すげーな

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 19:01:42.30 ID:RXiS3wbB
板倉勝重の逸話は中国の名裁判集、棠陰比事の焼き直しが多いというが、
(焼死した人の口の周りには灰を吸い込んだ跡があるから
殺した後に焼いたかどうかがわかる、という話とか)
これも板倉勝重以前の出典があるかも

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 19:11:47.58 ID:RXiS3wbB
宋に成立した洗冤集録の検死についての記事見たら
こと細かに死体現象や偽装の見分け方について書いてあった
法医学の勉強になる
ttps://zh.m.wikisource.org/wiki/洗冤集錄

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 19:27:05.68 ID:2xYhnNdp
灰がどうこうって千字文のあれだろ

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/06(土) 22:43:23.24 ID:rjlC3u6a
だから京都に科捜研の有名な女がいるのか

頂いた白瓜は

2017年04月26日 14:31

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 20:25:41.03 ID:Lm1RqhQh
 京都五条松原の東洞院にある角屋敷で境界をめぐる争いが起きた。
 京都所司代の板倉勝重はその境界争いをしていた者の一方と知り合いであり、
その者は4月初めに見事な白瓜を勝重のところへ贈った。それに対し、板倉勝重
「近日中に境界の様子を見に行く」と答え、しばらく日が経ってから争いの現場へ
おもむいてじっくりと調査した。
 町中の人たちは境界争いの判決がどうなるか固唾をのんで見守っていると、勝重は
白瓜を贈ってきた男に対して丁重にお礼を述べた後で、「さて、よく調べてみたところ、
この土地は隣家のものであるのは明らかなので、いただいた瓜は後でお返ししよう」と
言い渡して帰っていった。見物していた町の人々は「実に明快な裁きだ」と感嘆しあった。



856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 17:48:53.51 ID:66AtvZvX
一度は賄賂を受け取ったってことになるんじゃないの

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 02:45:46.63 ID:J5Q2jqxA
賄賂に左右されなかったいい話ってことじゃないの

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 04:48:59.25 ID:qNUzUGzh
グレーゾーンなら貰っていただろうな

891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 21:04:01.22 ID:kTD+hc0m
>>856-858
そんなもの受け取れるか‼って直ぐに返したら賄賂送ったから沙汰に影響と思われるからじゃない?

>「近日中に境界の様子を見に行く」と答え、しばらく日が経ってから争いの現場へ
>おもむいてじっくりと調査した。
この間に密かに信用できる者に下見させ、結果を知った上で見に行き
周りに人がいる前で賄賂渡したから怒った訳でもなく真に公平で裁きましたと

出家とは家を出ると書くので

2016年09月18日 19:55

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 15:45:37.41 ID:Z9kSc8Dz
板倉伊賀守(勝重)殿は、齢七十余りとなったので、功名がかない遂げたと身を退き、
嫡子周防守(重宗)殿がついで天下の所司代となった。

そのころ、上京のある家主が二十余りの子を残して亡くなった。
母は継母であった。
その母が
「子には家を渡してはならない。私が跡式を取れとの夫の遺言があった。」
と言う。
子は眼前の親子である私を除けて、他に誰が家を執れるだろうかと怒り、所司代へ双方が出頭した。
互いに自分の意向を口上していたが、その中で母が
「後家と書いて何と読みますか。」
と申した。周防守は
「後の家と読む」
と言うと
「そうならば、私が相続することが当然でしょう。」
と申す。そこで、
「まず帰って、重ねて詮索するとしよう。」
とのこととなった。
妻は宿に戻って、
「公事は勝った。ならば尼となろう。」
と親類と言い合せた。
再び裁許を下すとまた裁判の場に出て行くと、周防守は
「そちは髪を剃ったのか。」
母にたずねられた。
「そうでございます。二度夫を持ったり、憂世に望み持つことはありませんので
思いを決めて出家の姿になりました。」
そう言い終ったすぐに周防守殿は
「出家とは家を出ると書くので、この座敷からすぐに家を出よ」
と申し渡された。

(醒睡笑)



方広寺鐘銘事件について

2016年09月03日 10:48

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね

負けた者も腹が立たぬように

2016年06月13日 11:20

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 02:51:28.66 ID:gEWYMp6S
板倉伊賀守殿(勝重)は訴訟の決断の時に、負けた者も腹が立たぬように決断した。
「事にはよるだろうが、奇特なことである」と、分別ある人は語った。

――『備前老人物語』




群盗蜂起

2016年05月23日 17:20

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 22:41:55.91 ID:Bf+Mj0o/
大阪冬の陣があって諸人漂白を踏む思いをなしていた所、和睦となったため人々は思いの外に
静かな春を迎え、安堵の思いをした。

ところがその頃、五畿内およびその周辺の国々では群盗が多く蜂起した。
彼らは「大阪籠城の浪人」と称し、民の財宝を奪い取り、旅人の衣装を剥ぎ取り、往還の人々まで
殺害した。

この時は四方より困窮した者たちも大阪浪人に与して集まってきたので、その数甚だしく、
諸国の庶民たちは大いに嘆き、大阪への恨みは日々大きくなっていった。
世間では『大阪城中の輩が申し合わせて、去年城郭を破却された報復として、このような非道をするのだ』
と言っていた。

板倉勝重松平定勝はこのような都鄙の騒動に大いに驚き、これを放置すれば終には乱の元になると
考え、両人申し合わせ諸国の大名に申し触れた。

『大阪籠城の浪人が諸国に分散し、押し取り、強盗を行い国々の煩いとなっている。
各々の領分の範囲で、手柄次第に捕縛し、なお手に余るようであれば討ち捨てにもされよ。
その委細は関東に報告する。』

しかし、或いは百、ニ百、或いは三百五百と徒党していたため、以ての外に手に余り、一揆が起こったのと
異ならない状況であった。

板倉はこの状況を急飛脚を以って関東へ知らせ、畿内の世上物騒であることを両将軍(家康・秀忠)に
伝えた。また大阪に対してもこの事を申し送り
『秀頼公の御為にも然るべからざる事なので、大阪からもこれを鎮めるようにしてほしい』
と伝えた。

これに対し織田有楽大野治長らの返答は
『去年集まった雑兵共は和睦のあと離散したため、何処に国に向かったかなど詮索も出来ない。
察する所、浪人によせて諸国の盗賊が集まったのだと見える。よくよくご詮議されるべきです。
秀頼公には毛頭和議を疎略にする考えはなく、この上何らかの雑説が流れても信用すべきでは
ありません、』

そう申し遣わしたが。上方ではこの年2月に神踊という事もはやり、貴賎老若動揺をなした。

(慶元記)

大阪冬の陣の和睦のあとも、安定しない上方情勢についてのお話



伯父のもとにいたいか、継母のところにいたいか

2016年05月22日 11:01

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 23:23:54.00 ID:w5+VKuAW
 下京にちと裕福な者がおり、男子が一人いた。その子は二歳の春に母と死に別れた。
継母をもらったときの男子の境遇には同情するも、さすがに男やもめで日々を送るわけにもいかず、
男は再び妻を求めて後妻を置いた。しかしその子が六歳の春に、父も病の床に伏した。
快復がかなわない事を分かると、兄に向かって、

「私の子はまだ幼いので、あなたのもとで養育してください。
成人したら家をその子に渡してください。」

と言い置きを残し、ついに亡くなった。
 遺言のように、その子を伯父の方へ呼ぼうとすると、継母が

「我が腹から出なかったばかりに、どれほど辛苦して年月を育てたことか。
この後にまた夫をとろうとは思ってません。髪を剃り、あの子を育て家を盛り立てます。
けっしてそっちへは渡せません。」

と怒り、双方が伊賀守(板倉勝重)の前へ出た。

「いずれにも言う所の理がある。それなら子供をここによこせ」

と呼び、子供を膝元でなつかせられた。
炬燵にあたらせたり、菓子などをやって食わせたりして、子が安心した顔つきになったところで、

「そちは伯父のもとにいたいか、継母のところにいたいか」

と問われると

「伯父のところにいたい。」

と言う。

「そうならば、もとの所にいけ。」

と戻してやった。
 伯父と後家は子の手を取って奪い寄せる。子は泣く泣く伯父の膝に座った。
伊賀守は、

「まずしばらくは伯父の方に預けよ。とかく子は伯父になついているようだ。
その後のことは、そのときに考えるとしよう。」

と物柔らかに言って双方を帰された。
(醒睡笑)



756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 06:55:47.91 ID:sMOQ9/Iz
>>755
伯父と継母でひっぱりあいこして離した方に行かせるんかと思ったら違った

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:45:21.22 ID:00wt5hra
大岡裁きの元ネタの人

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 12:50:48.12 ID:+eqi60iP
>>755
>「まずしばらくは伯父の方に預けよ。とかく子は伯父になついているようだ。
>その後のことは、そのときに考えるとしよう。」
すげー柔軟でいいな

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 18:01:03.45 ID:3BcdrjFR
>>758
こう言う柔軟さがないと長年京都所司代は務まらなかったんだろうな。



時は盂蘭盆、咎は瓜一つ

2016年05月20日 10:42

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 00:34:45.48 ID:S7g6JhYO
 慶長七年七月七日に、背中に笈摺(巡礼者が物を背負う時衣服の背が擦れるのを防ぐための単の袖なし羽織)
などをかけた人足が、痩せ黒んで竹杖にすがって京の町を通っていた。
 見る人々は
「ああ、なんと怖ろしいでしょうか。このごろは地獄の蓋の窯も開き、罪人が聖霊となって出てくると聞くが、そのような者であろうか。」
と言い合っていると、この者はある店に立ち寄った。

 彼は瓜は一ついかほどかと尋ね、店の者は二文であると答えた。
「腰にただ一文ある。盆の結縁と思ってまけてくれんか。」
と言うと、主人は「そうしよう」と提案にのった。
その返事を聞くと彼はすぐに瓜をとって頭からかぶり喰らう。

 食べ終わった後、挟んでおいたはずの銭を見ると、銭はすでに落ちておりただ縄だけがあった。
「瓜の主人よ、慈悲と思って許してくれ」
と嘆くが、この主人は慳貪な性分で
「沙汰の限りだ、おそらくすりの類であろう。皆の衆、出てきてください。」
と町の人を集めて痩せた男を追い立てて、板倉(勝重)殿の垣の内へ引き据え、起こった事を具に訴えた。人足も起こった事をありのまま言上した。
伊賀守はお聞きになられて、
「いずれ事の実否を糾明しよう。先ずこの者を瓜売りに預けようぞ。
一日二回の飯をその者に与え、昼は町でよきように番せよ。なおざりにして我を恨むな。」
と言って帰らせました。
主人はたった一文の事でいらぬ訴えを起こしたら、面倒なことになった物だと思いながら、
一間の所に押し込めて、番を据えて、毎日の飯を与えた。

それから六日七日に及んだが、糾明がないのでこらえかね、
一同が参って「御糾明下さい」と板倉殿にかけあった。
伊賀守は
「やるべき事が多くて忘れておった。
今思案してみると、時は盂蘭盆、咎は瓜一つ、これほどの裁許は初めにすべきであったが、
瓜売りの慳貪な心根の憎さで延びてしまった。
飢えにのぞむ者を見たら、招いてでも与えるべきなのに、
無力な者を捕らえてきて、銭一文の事で首を刎ねよとはなんだ。
 慈悲をさせるために、この日ごろは養わせたのだ。急ぎその者を許して帰せ。」

との下知をされ、その席にいた人は皆頭を下げ、感涙を流さなかった者はいなかった。
(醒睡笑)



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 21:25:33.40 ID:SGk61fVQ
いい話過ぎるだろ(´;ω;`)ブワッ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 22:38:14.71 ID:0j3juup3
>>746
瓜売り「ウリリリリリィィィィィーッ!!!」

織部事件

2016年05月16日 15:30

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/15(日) 23:38:21.49 ID:g0H9Yewj
大阪夏の陣が始まろうっとしていた慶長20年(1615)4月28日の昼、京都一条岩神に住む町人の
岡村喜左衛門という具足師が二条の京都所司代へと参り、

「神泉苑の傍に、怪しき者十余人が隠れています。」

との情報を板倉勝重に伝えた。これにより板倉は雑色を先に立て、与力10騎、同心20人を派遣し、
16人ほどを捕縛した。

板倉が彼らを糾明すると、その賊の中の一人で、年寄りの者が白状した。

「我々は、将軍が28日に御出陣と承りました。その時洛中に火を放つべきことを大野と約を定め、
私は十余人ほどを引き連れ京に潜伏しましたが、未だに御出陣の沙汰無く、このため仲間たちは皆々
落ち失せ、今はこの16人だけとなってしまいました。
ここ一両日は食に飢労し、体力も無くなっていたため、動くことも出来ずこのようにやみやみと
縄に懸かってしまったのです。
哀れと思し召され、御慈悲を以って、どうか生命をお助けください。」

これを聞いて板倉は
「下臈の事であるかあら、有体を申すにおいては上に伺い命を助けよう。
しかし、ここ一両日飢えていたというのはよく解らない。なにか買い求めて食おうとしなかったのか?」

「いかにも、代物があれば買い調えたでしょう。しかし一銭の貯えもなかったのです。」

「それは不審な事だ。このような大事を思い立つ者が、どうして用意をしていないのか?」

賊、重ねて言った
「我々も最初は、二十日あまりの計画を立て金銀を用意していましたが、
古田織部正の茶道である宗喜と友人でありますので、彼と合図を定め、城中に狼煙を上げるのを見れば
所々に火をかけると約束し、一両日分だけの糧を貯え置いたのです。
残りの者達は皆、古田織部正に従いました。」

この言葉に板倉は驚愕した
「お前は宗喜と何の由縁があるのか!?」

「博奕の友です。」

「博奕で、初めて出会ったのか?」

「いいえ、十年来の友人です。」

板倉は彼から篤と証言を聞いたうえで宗喜を捕え、双方を監禁し、この旨を言上した。
これによって古田織部正も、その後切腹を仰せ付けられたという。

(新東鑑)



武夫の名を汚すまじ

2016年04月16日 17:41

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 17:32:27.72 ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)



松平太郎作はよく諌めた

2013年11月20日 19:03

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 19:21:38.98 ID:cohbReQ4
松平太郎作は京都所司代の板倉勝重に近侍して、よく諌めた。
勝重は太郎作が律義である事を知って信用した。

ある年、賄い方の人が扶持方升を小さくした。太郎作は諌めようと思って
勝重の前に出た。すると、勝重は「何か目新しいことはないか?」と問うた。

「この頃、狂歌を読んでいる者がおります」
「それはお前の作意か?」
「私は文盲です。どうして歌を詠めましょうや。
『ほそき物 恋の心に 琴の糸 三郎が脚 扶持方の升』という世上の者が詠んでいる狂歌です」

『三郎が脚』とは、その頃、三郎という脚の痩せて細い男がいたからである。
勝重はこれを悟ってその升を改めさせた。太郎作の諌めは、皆この類であった。

――『武将感状記』




657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 22:33:40.24 ID:Gk+GIWkd
京都所司代に近く仕える人が文盲とかありえるのか?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 22:58:01.31 ID:O7LbM148
律儀だから文盲って答えたんだろ。自分を文盲って思わないからこんな質問ができるんだよな。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 04:46:40.59 ID:GLbc1BSI
この時代の「文盲」というのは、「教養がない」くらいの意味でとったほうがいいよ

「笠を着て上を見るな」

2013年07月21日 18:54

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 07:50:34.49 ID:NujmEwqj
板倉重宗が今だ御小姓だった頃、明年御上洛の御供支度について京に
いる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。

再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。

十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。

家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。

その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。

三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。

(古老雑話)

「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション




741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 09:05:02.77 ID:eAqvRqgq
どういうこと? 権力を笠に着て命令するなって意味? それとも質素にやれってこと?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 12:32:52.09 ID:kQ2J5fDN
上を見れば見栄を張りたくなってキリがないってことでしょ

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 09:40:53.08 ID:C6lOJI8L
上の者が美々しい装束を次々買い換えて下げ渡せばいいんだよ

都の地は国々の寄り合いなのだから

2013年06月29日 20:00

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 18:31:29.62 ID:QxqiNmx1
板倉勝重が京都所司代の時、麩屋町に寺の材木が積んであったが、いずれも印をつけず
縄も張られていなかった。

勝重はこれを見て、その場所の町役人と材木を置いた屋主をともに厳しく咎めた。

勝重は「暗夜にはどんな怪我人があるかもわからない。盲人が通らないとも限らないのだ。
僅かな事が、どれだけの人の難儀の基になることだろう。

都の地は特に国々の寄り合いなのだから、総じてこのような筋目を正して町役を勤めるように」
と言ったということである。

――『責而者草』





580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:16:14.71 ID:qqzxEcEo
>>579
現代でも考えれないやつがいるのに、この時代に障害者のことまで考えて政治やってたのか

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:26:36.96 ID:fW3y00Y7
>>580
徳川幕府は何故か障害者、特に視覚障害者に対して非常に篤く保護していた(盲目の人間から借りた金を返さなかった場合は重罪になったり)
秀忠の実母が駿府で盲目の女性を保護したりしてたから、そう言う影響があるのかも

「ごぜんのう」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4398.html

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:47:26.30 ID:CdywC1KT
シグルイの賎機検校が頭に浮んだが、あれは架空人物だったかな?検校自体は確かに超高位。

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 23:30:34.80 ID:XRomesF3
>>581
家康の先輩の信長からしてそうだからな

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 23:50:07.28 ID:a/5/lKhC
先輩というか同盟相手。
歳上を先輩と呼ぶならその通りだけど

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 09:12:55.75 ID:svqe9QSc
天下人としての先輩って意味では?

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 20:59:38.28 ID:crWtZLaO
>>583
信長は知障の人を保護したんだよな
慈悲の心ありすぎるのに仏敵っていう

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 21:05:50.15 ID:HPu0gylf
>>586
信長の場合は、たまたま目にした障害者を個人的に哀れんだだけで、仕組みや制度のある恒久的な施策として
行ったわけではないから、それを慈悲と呼ぶのは正直抵抗がある。

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 00:09:29.40 ID:gV91UkMh
>>587
政治家以外に慈悲のあるやついないのかよ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 00:20:02.04 ID:4xg1CQW2
>>588
信長は最高権力者なんだからそういうことが出来る立場じゃん

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 19:40:20.23 ID:8f1b5CkQ
法は定められても行き渡るかは別問題なんだよな
現代でもそうじゃん

振舞いに呼ばれた本多正信は

2013年05月06日 19:51

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 20:07:11.46 ID:BkSiWucm
ある時、榊原式部大輔(康政)が本多佐渡守(正信)を振舞いに呼んだことがあった。
この時、板倉伊賀守(勝重)も同行した。
ここで康政が正信に言った

「私は頂いた敷地が狭いため思ったように家を建てることが出来ない。ところが
そこで菜を作る者達には、広い敷地を与えられている。
なので敷地に家を立て、菜を作らない私のような者にも、広い敷地を頂きたいものだ。」

正信はこれを聞いて

「殿が菜を作る者達に好感を持ち、広い敷地を与えるのは当然のことです。
それは、今後何事が起こったとしても、自分の敷地で菜を作っている者達は、それが必ず御用に立つからです。

敷地に大きな家を作り菜を作らないあなた方は、いざという時に殿の足に縋ってたかる者というべきです。」

そう、返答したそうである。
(紀伊國物語)


(名将言行録)
552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 20:36:13.51 ID:uqsrtS/X
振舞いに呼ばれながらそこまで言うか

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:07:10.72 ID:wsoNoVcB
紀伊國物語って、他に見ない逸話がたくさんあるね
でもオチがない話が多いので、創作っぽさも感じない
もしかしたら、作者の好き嫌いが存分に入ってるのかも知れないけど

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:44:01.37 ID:BBTeRyGk
>>552
下心が良く見える振舞いだから返事もあからさまにしたのかも

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 19:22:54.80 ID:aKQS9Ed0
>>551
して菜を作るものの名はなんと?

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:36:05.43 ID:a3wunDU1
>>560
鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官…

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:38:49.75 ID:XAN9v53R
義経にしておけ