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周防守は、身を踏み込んで勤る者である

2022年08月31日 18:56

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/30(火) 07:51:04.79 ID:rNXzoC2O
板倉周防守(重宗)が江戸に下向された時、松平伊豆守信綱がこのように言った

「上様(徳川家光)にも、段々と政務に御心を尽くされています。上方のことも仔細に
聞いてみたく思っておられるようで、今後は仲間に遣わされる書状にも、今少し
御念を入れられ、上方の事を上聞されるようになさるべしでしょう。」
(重宗は何れも上の御機嫌を伺い、さらに堂上方に別儀なき儀ばかりを書いたという)

これを聞いて周防守は
「上方から百二十里隔てている以上、上様がどれほど御発明であっても、その情報は及び腰になり、
御存これ無き儀となります。そのために拙者が差し置かれているのです。ですので、
申し上げるには及ばざる事と存じ奉ります。」
と言った

この事を家光公は聞き召され、「周防守は、身を踏み込んで勤る者である。」と。
御感悦斜めならずであったという。

新東鑑



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近衛信尋、後光明院、後水尾院と重宗

2022年05月31日 20:54

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 20:54:27.36 ID:u4RuVBEe
槐記より板倉重宗三話

享保十四年四月十六日の記事より 近衛信尋と重宗

板倉周防守(重宗)は形の如き茶人で、応山公とも心易い間柄でしばしば公を訪問したが、所司代であった時にはたびたび茶の湯に公を招いた。周防守は自ら茶臼を持って茶を挽くことを好んだ。
ある時応山公がお訪ねされると、周防守は待合でいつもの小臼で茶を挽いていたが、「この茶は御前に差し上げる濃茶で、今挽いていたところですが、早くもおいでになった面目なさよ。私めは勝手などを見繕って参りますので、おなぐさみに御前もこの臼で茶を挽かれてみてはいかが」と臼を差し上げて勝手に入ろうとするところを呼び返されて、「これを私に挽かせて、防州の茶は時の関白が挽かれたのだと、人々に話そうたくらみであろう」と仰れば、周防守後ろ頭を叩いて、「是非もありません。実を申せば、左様に思い付いた茶の湯でありましたが、見事にお見抜きなされた口惜しさよ」と二人とも大笑いなされたとか。

享保十七年九月十二日の記事より 後光明院と重宗

後光明院は格別の大器のお方であらせられたことを(家煕様は)常々仰せになられていた。板倉周防守が所司代を勤めていた時のことであった。後水尾院が廱にお悩みになられ、日々の御容態をご報告申し上げていたが、それだけでは心もとなく思し召されたか、周防守を召されて近日行啓なさるべきよしを仰せ下された。
周防守が申し上げて、「朝覲行幸のことは並大抵のことではございません。まず関東に申しつかわし、事の次第を調えなければ、にわかにできることではございません」と申し上げると、「それでは行啓は取りやめよう。その代わりに、禁中の辰巳の角の築地より院の御所の戌亥の角まで、梯子で高廊下をすぐに架けよ。禁裏の内を行幸するのは常のことである。廊下から廊下へ移るのを誰が行啓と申そうか。早々に高廊下を仕立てるべし」と仰って、ついに院のもとへ行啓されたという。

享保十九年二月二十四日の記事より 後水尾院と重宗

(修岳寺離宮の庭を誰が造営したのか道安が問うと家煕が答えて)「あれこそ御亭をはじめ一木一草に至るまでことごとく後水尾院の御製になったものだ」
(何故にあのような離れたところにお庭をあそばされたのか尋ねると)「不意にあの山をお手に入れられてより、地勢から山水をお考えなされて、お庭の雛形をお作りなされてから、草木をはじめ踏石、捨石にいたるまでみな土で模型をこしらえ、雛形の処々に置いてみて形良くなるようにあそばされ、七、八分できたころに、お側仕えの女中に庭造りの巧みな者がいたので、こもづつみの輿に乗せて、平松可心と非蔵人の何某などを供につけてたびたび見分に遣わされた。
あそこが法皇の御所になるという噂が周防守の耳にまで届き、御所まで参り、『かくかくの噂を聞きましたが、もし密かに行幸なされるお志のございましたら、何ゆえにそれがしに仰せ下されないのですか。早々に関東へ申しつかわし、どちらへなりとも行幸なされますよう取り計らいますのに、何の仔細がございましょう』と申し上げた。叡聞に達し、『内膳には少しも心配はいらぬ。左様な噂は全く根も葉もないことだ。身がそう言っていると内膳に申し聞かせよ。身がそう言うのだ。誰が何と言おうと、みな虚説であると思え』と仰せ下されたので、周防守は一言もなく退出した」



220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 21:09:49.36 ID:u4RuVBEe
普通天皇の外出は行幸、皇太子などの外出は行啓ですが、ここで後光明天皇が自身の外出を
行啓と言っているのは、父親である後水尾院のもとを訪れるため、一種の謙譲表現なのでしょうか

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/31(火) 00:45:01.48 ID:cpU+9pie
後水尾院が偉大な天皇だったことの表現かと

木下勝俊と春日局

2022年05月23日 17:21

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/22(日) 23:42:55.82 ID:N8u6mvGT
槐記享保十三年七月十二日の記事より 木下勝俊春日局

長嘯子は歴々の者と見える。中井常覚の話に。
昔、春日局が上洛したおりに、板倉周防守がお誘いして祇園の清水へ参ったが、当時私(常覚)は十三歳でお供仕ったが、瀧の下の腰掛けに一同腰掛けて瀧を賞翫していたところ、その瀧で足を洗っていた熊野比丘尼が春日局を見て、「実に久しいことお目にかかっておりませんでしたが、お上がりなさるよしを承りまして、つい今しがた熊野から参ったところで、未だ御挨拶申し上げませんでした」と申せば、
「この尼の申す通りです。故あって懇意にしているのですが、京の建仁寺のあたりに住居しているとのよし、周防守様も常々お目にかけて下さいませ。この者と会ってふと思い出しましたが、長嘯様のいらっしゃる霊山はこの近くにございますので、参りてお会いしたく存じます」と、私を連れてそちらに向かわれた。周防守は、今日は東本願寺の門主が主人になって祇園林で宴席を張って待っているとのことなので、一足先ににそちらに向かわれた。
さて、長嘯子のところへ参ると、長嘯は紙子の軽装で気軽に縁側に出て、「よくこそいらっしゃった。二階の方が景色が良いから上がり給え。茶の一杯も振る舞うべきだが、あなたのお持ちの茶の方が上等でしょう」と言った。茶弁当なども二階へ上げて主客ともに楽しまれたが、周防守から「東本願寺の門主がお待ちかねです。早くお出で下さい」と幾度も使いが参ったので、立ち帰られた。彼の春日局に対する態度はまるで主人であるかのようだった。
さて、祇園へ参ると、林一面に畳を敷いて杉折の提重おびただしく、饗応の限りを尽くされたこと言語に絶していた。こう常覚が申し上げると、家煕様も、そのような話を聞いたことがあると仰られた。



ただ慎重を期すために

2021年11月13日 16:36

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/13(土) 15:51:20.18 ID:Yu5pwVdZ
名将言行録に、京都所司代の勝重が重昌と兄の重宗とに対しある訴訟の是非について答えよと問う場面がある。
重昌はその場で返答したが重宗は1日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。
周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという。

難題は1日寝かせるのがいいらしい。
教訓、結論急ぐと死ぬ。



成る程、気をつけねば

2018年01月16日 20:55

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/16(火) 20:16:16.91 ID:MbHaaBOA
父勝重の後を継いで京都所司代となった、板倉周防守(重宗)の元に、茶屋の長吉
(初代茶屋四郎次郎清延三男)が伺候した時、こんな事を聞いた

「私の事を悪し様に言う批判が有れば聞かせてほしい。心得に成ることなのだから。」

すると長吉
「そういう事でしたら、公事判断の時、非分と考えられる方を、周防守様は
お叱りに成ります。そのため非分は益々立場が無くなり、自分の側の理屈すら
申し上げることができなくなる。世間でそう沙汰しているとのことです。」

「そうだったのか。よくぞ申してくれた。聴所に出て公事を裁配する時、非分を申してくる
者の面差しが、益々以って憎くなり、叱り怒ってしまうのが私の癖だ。
成る程、私の威に恐れて、自分の弁護を言えなくなる者もあるだろう。よく気をつけねばいけない。」

それ以降は、聴所に茶臼を置いて、訴訟人の顔を見ず、茶を引きながら気を静めて
公事を進めるようになったという。

(武野燭談)



584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 10:18:28.01 ID:9wVfMS0p
まさかの茶臼登場

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 13:21:21.15 ID:x+gMFrdA
きっとおヒマだったのだろう

出家とは家を出ると書くので

2016年09月18日 19:55

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 15:45:37.41 ID:Z9kSc8Dz
板倉伊賀守(勝重)殿は、齢七十余りとなったので、功名がかない遂げたと身を退き、
嫡子周防守(重宗)殿がついで天下の所司代となった。

そのころ、上京のある家主が二十余りの子を残して亡くなった。
母は継母であった。
その母が
「子には家を渡してはならない。私が跡式を取れとの夫の遺言があった。」
と言う。
子は眼前の親子である私を除けて、他に誰が家を執れるだろうかと怒り、所司代へ双方が出頭した。
互いに自分の意向を口上していたが、その中で母が
「後家と書いて何と読みますか。」
と申した。周防守は
「後の家と読む」
と言うと
「そうならば、私が相続することが当然でしょう。」
と申す。そこで、
「まず帰って、重ねて詮索するとしよう。」
とのこととなった。
妻は宿に戻って、
「公事は勝った。ならば尼となろう。」
と親類と言い合せた。
再び裁許を下すとまた裁判の場に出て行くと、周防守は
「そちは髪を剃ったのか。」
母にたずねられた。
「そうでございます。二度夫を持ったり、憂世に望み持つことはありませんので
思いを決めて出家の姿になりました。」
そう言い終ったすぐに周防守殿は
「出家とは家を出ると書くので、この座敷からすぐに家を出よ」
と申し渡された。

(醒睡笑)



神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

2016年06月20日 17:56

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:44:56.15 ID:u3Lu+wCX
神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

神祖が駿城におられました時、
若い御旗本の面々が、とかく二丁町という花柳ある所に夜毎に参っているということを
板倉防州(重宗)の耳に入り神祖へ報告すると、上意として

「二丁町に参る者どもは、きっと夜は寝ていないのであろう。
ならば何れかの時には直にかけつけて味方できるではないか。
それしきのことは捨て置くものだ。」

との仰せがあった。
(甲子夜話)



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 23:40:06.68 ID:CErL0txa
>>868
寝ずに女遊びしてる奴は役立たないだろ

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/20(月) 09:49:00.52 ID:k8W5BvM9
薄田兼相「いやいや、立派に役に立ってみせますぞ!」

いわんや平相国の公達であれば

2016年05月12日 14:40

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 23:31:39.23 ID:RZRieaSv
知恩院と墨谷源空寺とに、平重衡が所持していたという松陰の硯という什物が、それぞれに相伝されていた。
その硯は自然と潤いのある希代の名物であると、それぞれ自寺のものを誇り、終に両寺は真偽を争い、
京都所司代へと訴え出た。

ここで板倉周防守(重宗)はこのように審判した
「両寺の僧衆はつくづく世事に疎いと見える。例えば私如き者ですら、硯をいくつも所持しているのだ。
いわんや平相国の公達であれば、松陰の硯を二面も持っているだろう。どちらもそれぞれの寺の重宝である。」

(新東鑑)



715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 01:59:32.61 ID:kan8FPUc
良い裁きだと思うけど、それ以前に寺院の見栄に煩わされる所司代の仕事は面倒だなー

諏訪守殿はお聞きになって

2015年11月13日 18:09

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/13(金) 01:30:31.39 ID:0/ZV6rMe
 光悦は八十歳で死んだ。病中板倉殿御父子(重宗、重郷)が度々お見舞いなされたときに、彼も木綿の夜着布団で寝ていたのをご覧になさりご感心成された。
重宗はもはや暇乞いなので光悦へお子の阿波守に何でも遺言してくれと仰られた。光悦はいやとも申さずにすぐに申した。

「板倉殿は伊賀守(勝重)から二代、都の御執権をなさり名人であると聞こえています。この次もまた阿波守でございましょうと人々は申しております。誠にめでたき事です。
さりながら、難しいことでございます。武家の御本意ですので、唯々一筋に武勇の心掛けに専念なされ、明日どういう事が出てきても、板倉殿こそ天下の御用人で有るだろうと諸人が申すほど、
指を指す程に御心掛けなさらなければなりません。
 それについて申し上げます。家来の人々に深く情をお掛けなされ、ああ一命を捧げるほどの事もできたらなあと、朝夕ありがたく思われますようにお恵みをなさってください。
『藁苞(わらづと)に傾く』と言われることもございます。どれほど正しき主人でも、少しけちでございましたら、家来の思いは付いてこないものでございます。
心に取り入るのが難しい恐ろしい主人でも、分を過ぎて物を贈りなさる主人であったら良く思われて、法度もよく働くでしょう。
欲に惹かれるというわけではございませんが、家来は主人からの御志をありがたく思うものです。
 文武の道に覚えが有る、へつらいの無い浪人にお目をかけて、御伽衆にでもなされて、古き物語をお聞きなさってください。人の良い噂悪い噂も聞かなくてはお知恵は上がらないことでございましょう。」

 諏訪守殿はお聞きになって、常々の願いはこれだと仰せになり、殊の外お喜びなされた。また私にも一言意見してくれと仰られるので、


「常々見させていただくに、訴訟人が憎い面で、筋の無いことを言い募ったり、御前と口論する者がございましたら、諏訪守殿はその者の愚かなことをひとしお憐れみなされるので、ついに公事場でお怒りの声を聞きませんでした。
またはじめにお聞きに成された事よりも、後に申し上げた事情をよく聞き分けられております。このようにあなたはお知恵をもってらしているので、けっして凡夫ではござらないだろうと思われます。
 ただ心に懸かりますことは、お食事を養生の第一と思い、程よくなさってください。上様への御奉公で最も大事な事と思われます。このほかに大事な事はございません。」

と申し上げれば、諏訪守殿はまことによく合点なされて、我々の事はけっして心配しないようにと仰せられた。
(本阿弥行状記)

まあ、次に京都所司代になるのは牧野親成で、重郷はなることはなかったのだけどね




稲葉紀通の乱心

2015年01月27日 18:42

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 02:18:35.68 ID:yuEBVXYo
慶長元年(慶安元年の誤り)、丹波福知山の城主・稲葉淡路守紀通は乱心し、
籠城すると下知した。

しかし、家老中は承諾せず、紀通を押し込めようと評議した。そんな折に紀通は、
鉄砲で樹上の鳩を一羽撃ち落とし、膝の上に置くと「私めの供をせよ」と言って、
その鉄砲で自ら胸を撃ち抜いて死んだ。

(家老中承引せずして押込んと評議する所に記通鉄砲にて樹上の鳩を一羽打落し
膝の上へ置き我等が供せよと云て其鉄砲にて自ら胸を打ぬきて死しける)

同国篠山の城主・松平山城守忠国は、福知山籠城の風説を聞き、淡路守乱心とは
知らず、大いに驚き、早速、京都所司代・板倉周防守(重宗)方へ書状を送り、

「早々に御下知するべきです。遅らせては一大事です」と申し送って、家士たち
に到るまで、皆出陣の支度をさせて下知をお待ちになった。

また、同国亀山の城主・松平伊賀守忠明(忠晴か)は山城守の弟だが、兄と違い
板倉へ問い合わせもしなかった。

後に淡路守の乱心が分かって騒動が鎮まり、兄・山城守は普段の心がけが
よろしいとの旨の御賞詞があった。

一方で、弟・伊賀守は、武備が疎かであるとの旨の御沙汰により、慎み(謹慎)
を仰せ付けられたということである。

――『明良洪範続編』




松倉長門守の遺臣

2014年03月14日 19:10

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 18:39:47.90 ID:00PVhXC7
島原一乱の後、松倉長門守(勝家)は罰せられて家は断絶した。

その家士に野村治右衛門という新参者がいたのだが、
長門守の死骸が品川に捨ててあるのを乞い請けて浅草金性院に葬った。

譜代旧恩の士も多くいるのにそれらはどこへか退散し、
新参者がかえって忠を尽くしたのだ。

また、同家の士に内藤瀬兵衛という者がいた。長門守は罰せられる前に
金三百両を持たせ上京させていた。その後、長門守ならびに
弟の右近、三弥たちはそれぞれ御仕置となり家は断絶に至ったために

金子を返すべき人がいないので所司代のもとに持参し、その由を申して
「闕所金なので差し上げます」と言った。所司代の板倉周防守(重宗)は
その義心を感じて「お前の金子にせよ」と言って与えた。

瀬兵衛はやむを得ず受納して旅宿へも帰らず、ただちに大徳寺へ持参し、
「主人が御仕置になり家は断絶したので、この金を納めますから、
永く主人の追善を頼み入ります」と言って三百両を寄付した。

島原で武功の家士は多いけれども、この二人の至忠のようなものは
ふたつと無い。『国亡びて忠臣顕る』という古語に違わないことである。

――『明良洪範』




632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 00:16:09.89 ID:JPexOhDu
主家、主人ってのはたとえ滅んでも忠臣の中に残るもんだね

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 00:38:50.06 ID:ADSPrJrm
こんな呪われた金いらんわ
捨て捨て


御主君はいかなる御装束であられたのか

2013年11月03日 18:50

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 07:20:37.67 ID:WcF/FEFN
板倉周防守が京都所司代の時、歴々の公家衆へ路次において町人が慮外を働いたので
急ぎ処罰していただきたいと使者をもって周防守方へと申し入れがあった。

板倉周防守は畏まり奉りますとお受けして使者を帰し、それから慮外を働いた町人を
呼び出して「御歴々の公家衆へ慮外を働いたのは不届き至極である。今後、御歴々に
対し慮外あれば死罪を申し付けるぞ」と叱った。

次に公家衆の家人を一人呼んで対面し「町人が慮外した時、御主君はいかなる御装束
であられたのか」と問う。

家人は答えて「白衣にて羽織を着け、頭巾を深く被り草履取り一人を連れられており
ました」と言う。

周防守は「けしからぬことです。御歴々の身でありながら、そのような軽々しい下人
同様の出で立ちはあってはならぬ事です。以後は御身分に相応しい御装束と御供にて
外出なさるように仰せられるべし

今後もしこのような怪しい出で立ちならば、途中で町人どもがいかなる慮外を致そう
とも、こちらから沙汰は仕りませぬ。この事を急ぎ仰せあげられるべし」と申された。

家人は閉口して帰り、その事を申し述べたので主も大いに赤面し、周防守へと内々に
詫びを申し入れたと言う。

(明良洪範)

TPOは大事だねというお話




「笠を着て上を見るな」

2013年07月21日 18:54

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 07:50:34.49 ID:NujmEwqj
板倉重宗が今だ御小姓だった頃、明年御上洛の御供支度について京に
いる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。

再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。

十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。

家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。

その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。

三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。

(古老雑話)

「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション




741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 09:05:02.77 ID:eAqvRqgq
どういうこと? 権力を笠に着て命令するなって意味? それとも質素にやれってこと?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 12:32:52.09 ID:kQ2J5fDN
上を見れば見栄を張りたくなってキリがないってことでしょ

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 09:40:53.08 ID:C6lOJI8L
上の者が美々しい装束を次々買い換えて下げ渡せばいいんだよ

細川忠興の仁政

2013年03月10日 19:10

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 21:12:29.35 ID:4OYzBoeR
細川忠興には父幽斎にも勝れた行状が多かった。後年、豊前小倉の城主だった時、
領分に旱魃があって一向に作毛なく、百姓たちは餓死に及ばんとした。

その旨が役人たちより訴えられ、その時の飢渇のみならず、来年の手当も心許なし
と聞いた忠興は大いに心痛して「普通のやり方ではいけない」と思い、
父幽斎より相伝の名物の茶器を残らず近臣に持たせて、

「この品を質物に入れて金子を借用し、急変を凌ぎたいところだが、そのくらいでは
不十分だろうから、よき相手に残らず売り払え」と命じ、京都へ遣わした。

これらの品を多くの人が欲しがったが、名高い品々で天下の名器ゆえに後難を恐れた。
そこで表向に買い求めようと所司代の板倉へ伺ったところ、周防守は、

「その茶器の由緒がいずれにせよ、只今格式のある細川家が持ち主として売り払われるのであれば
別条のないことだ。所望の者は勝手次第に買い取るべし。代金の事が済んだ上は一覧するつもりだ。
名前を聞き及ぶばかりで、今まで見ることもなかったものだから、幸の事だ」との見解を示した。

金持ちたちは、それならば何も気遣うこともない、と争って品々を求めた。そうして得た金子を
早々に大坂に持参し、米や麦を始めとして食料になる品々を金子の限り買い揃えて船で小倉に運び、
残らず領中に分け与えたので、大勢の者たちが飢えから救われたという。

この事が諸国で取り沙汰され、誠に国郡の主たる人の手本なり、と忠興は賞美された。
それゆえ、その仁政の余慶によって、加藤肥後守の断絶した跡をこの人が給わった。

――『良将言行録』




698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 21:52:22.26 ID:8+NklLJ6
>>697
この話しのバージョン違いか

細川忠興の領民救済と板倉勝重・いい話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-659.html

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 01:31:48.65 ID:T/3iRVbA
三斎様は教養高いし、武将としても一流
為政者としても文句のつけようもない完璧超人だよなー

 嫁 が 絡 ま な け れ ば

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 02:06:44.67 ID:u9uTm1cb
あと親父と弟と長男次男もな

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 02:23:07.40 ID:Ytv8+Bf0
>700
身内ばっかじゃねーか

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 02:38:15.68 ID:NMDWlHhb
三斎さまは妹もパンチ効いてるから困る
憎い兄さんざっくり事件


重宗はこの旨を伝えて、有無を言わさず

2013年02月16日 19:50

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:22:58.71 ID:sqKWkQoJ
ある時、後水尾法皇は高楼に上り、公卿以下の邸宅がひどく傷んでいるのを見た。
そこで、所司代の板倉重宗にこれを修繕させることにした。

ある日、重宗は烏丸光広の邸宅に来て事情を説明し「しばし他に移ってください」
と、頼んだ。しかし、光広は「東廂に雨が漏れたなら西室に避け、そこも傷んだなら
すぐに北舎に移る。我はそれを少しも厭わない。このまま放っておいてくれ」と断った。

重宗はすぐにこれを法皇に奏上した。法皇は「主人に管することなかれ(主人を気に掛けるな)」
と、言った。そこで重宗はこの旨を伝えて、有無を言わさず邸宅を修繕した。

――『近古禅林叢談』




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:33:38.92 ID:TdPGBP3V
…え?

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:54:51.08 ID:XezMpZLU
法皇「そこの邸宅傷んでるから直した方がよくない?」

重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」

光広「いや大丈夫だから。構わんといて」

重宗「は?」

法皇「家主が迷惑がってるならやめた方がいいよ」

重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」


・・・こういう事?

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 17:57:08.52 ID:RrkEA/2p
修繕しましょうかなんて聞いたら公家のプライド?とかが邪魔していらないって言うに決まってるんだから
勝手にやっちゃった方がいいよってことなんじゃない?

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 18:08:26.52 ID:XezMpZLU
なるほど、そういう事か

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 19:00:19.10 ID:sqKWkQoJ
>>592
すいません誤訳です。本当に申し訳ありません…。
○「主人に管することなかれ(主人を気に掛けるな)」
道元の言葉にかけてるんですかね…。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 19:06:17.32 ID:0Paxqfy/
>>592
強制排除ならぬ強制修繕かよ

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 20:04:24.94 ID:oe4uA0wP
烏丸さんって、ボロボロの着物でもそのまま着てた人だっけ
確かに壊れようが気にしなさそうだ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 21:53:56.62 ID:Xp4iIm19
>>598
ということは>>595さんので正解か。
何にしても公家周辺のはなしは少ないので面白いな


板倉重宗の奇計

2012年11月11日 18:59

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/10(土) 19:43:10.97 ID:FB0+FVlN
今は昔、武州豊島郡田畑村(現在の東京都北区田端のあたり)の興楽寺に盗賊が多く押し入り、
僧侶らを多数惨殺して、霊宝・金銀などを盗んでいくという事件があった。
これは江戸御城下から遠くない、王子村(現東京都北区王子町)の御鷹場往還の前でもあり、
特に厳重な捜査が行われたが、犯人に関する証言もなく、犯人逮捕に繋がる情報に対し
懸賞金を懸けて尋ねさせたが、やはり情報は上がって来なかった。

そのころ京都より、所司代の板倉周防守重宗が江戸へと上がってきていたので、幕閣たちから、
この悪党どもを探し出す手立てはないかと相談を受けた。
そこで重宗は以前からの捜査状況を一つ一つ聞いて、「なるほど、では私がひとつ、手立てを
致してみようと思います。」と、板を一枚取り寄せそこに

『懸賞金の額が少なく、申し出ることが難しいのです。この倍を掛けられるのなら、
仲間共の在家を指し申します。』
と、いかにも読みやすいように、平仮名で筆太に書き記し、あの懸賞金の制札の側に立て掛けた。

これをあの盗賊の一人が見て驚いた
「さては仲間の中の誰かがこの札を立てたのか!そうであるなら人に先を越されてはならない!」
その日の内に奉行所に出て仲間をすべて告発したため、一人残らず召し取られ、忽ち法によって
処罰された。


それから暫く後、酒井讃岐守忠勝の屋敷で物の紛失したことがあった。
色々調べた上でも判明せず、これも懸賞金を以って告発を待ったが、それも効果がなかった。

この時酒井家家臣のある者が気がついて
「先年、興楽寺の盗人御詮索の時、板倉周防守殿の考えられた手段によって盗賊を尽く
召し捕らえました。であれば今回もあの手段を使ってみてはいかがでしょうか?」

酒井忠勝はこれを聞くと
「よく心付いたものである。」

と、そのものを褒めた。ところが
「ただし周防守などは、どんな手段を使っても盗賊などを捜索することを職分としているが、
私は今、天下の大老職に居る。
そんな私が人を陥れて利を得るということは、職の盗と言うものである。
尋ねて知ることが出来ないからといって、とうして偽りによってそれを成せるだろうか?
よってその考えは、取り上げることは出来ない。」

そう言ったのだという。

(武野燭談)


板倉重宗の奇計についての逸話である





「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」

2012年11月06日 20:00

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 09:11:26.15 ID:Azyn9z1G
板倉勝重の子、重宗が父に代わって京都所司代となり、祇園社に参詣に向かったとき、
神社の前に子供たちが集まって遊んでいた。
一人の子が「ひとつ、ふたつ…」と数字を数えていたのだが、ふと

「なんで『ひとつ』から『ここのつ』まではみんな語尾に『つ』がつくのに、『とお』には
『つ』がつかないのかな」

と呟いた。
子供たちは静まり返りってしまったが、その中の9歳の少年が答えて言った。

「そりゃそうさ。5の時に『いつつ』と『つ』を二つ使ったから、10の分が足りなくなっちゃったんだよ」

このやりとりを聞いていた重宗は少年に興味を持ち、翌日さっそく彼を招待し、
上下に二つ重なった餅を食べさせて、尋ねた。

「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」

少年はしばらく考え込んでいたが、突然両手をポンと打って

「今鳴ったのは、左手?右手?」

と問い返した。
重宗はいよいよ感心し、取り立てて自分の側においた。
成長した少年は重宗の一の側近になったという。

                    「明良洪範続」




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 10:16:27.34 ID:NbK2TydX
質問に質問で答えるんじゃねーよゴラァ

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 11:11:33.76 ID:Azyn9z1G
>>312
口で説明するより実際に同じ気分を味あわせてやろうとか
そういう機転なんじゃない?

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 11:54:11.20 ID:2g0szYjX
鳴ったのは右手?左手?って禅問答があるんだよな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 11:59:45.26 ID:JBlHchof
頭の回転のよさをみたんだろな

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 12:13:23.15 ID:NrhQ01hW
のちの落語の佐々木政談である
しかし板倉重宗から後世の政談ものっていろいろパクってるんだな

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 17:27:24.90 ID:3lzC74sQ
>>311
旗が動いているのか?それとも風が動いているのか?
的な禅問答なんだろうね
「片腕しかない人の拍手の音を聴いてこい」て公案もあるけど禅て難しく感じる
なにが言いたいのかよくわからない

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 18:44:36.24 ID:JBlHchof
思考を繰り返すのがいいんだろ
実際たのしいぞ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 18:51:54.82 ID:bajq3D94
禅は答えが永遠にでそうになくてうあああってなるわ

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 19:14:05.93 ID:VS7Xiq+J
重宗「うあああ…よし、採用!」

板倉重宗は裁判の判決を下す際、必ずすることがあった

2011年03月19日 00:01

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 22:52:06.12 ID:J7a4GCWI
板倉重宗は裁判の判決を下す際、必ずすることがあった。

彼は先ず西に向いた廊下ではるかに拝礼をした。そして判決を下す部屋に至るのだが、
ここには茶臼一つを置き明障子を立て、その内に座して手づから茶を挽きながら訴えを聞いていた。
これを人々は非常に不思議に思ったが、重宗がその理由を語ることはなかった。

しかしはるか後年、重宗が相当に老いた頃、昔話の合間にふと、その理由を語ったそうだ

「私が決断所に出る前に、西面の廊下で礼拝していたのは、愛宕権現に祈っていたのです。
多くの神の中で愛宕権現は特に霊験あらたかだと聞いています。それ故、それを拝んでいました。

私の所願はこういうものでした。『今日、重宗は訴えについての判決を下します。
もし、私の判断に少しでも私心がまじっていれば、直ちに私の命を奪い給え』と。

判決の判断が曇るのは、その判断に私心が入り込む故だと思っているからです。

それから、茶臼ですが、ほんとうに出来た人というのは、自分の心を自ら動揺さないよう
出来るものだそうです。が、この重宗はそこまで出来た人間ではありません。
そのため、我心が動いているか静かであるかを、茶を挽くことで知るのです。

心が定まって静かなときは、手もそれに応じて、臼の回転も一定で、挽かれて落ちる茶も、
いかにも細やかです。
この細やかな茶が落ちた時に至って初めて、自分の心も定まったと知り、そこで判決を
下すのです。

それから、明障子を隔てて訴えを聞くのは、おおよそ人の面貌を見れば、憎々しい顔、哀れ気な顔、
信用できない顔と、沢山の種類があります。

正直そうな顔の人の言うことは誠にように聞こえ、信用できそうにない者の言うことは、何を聞いても
嘘のように感じるものです。哀れがましい人の訴えは、何か不正なことをされた被害者であると
思わせ、憎々しい人の紛争の訴えは、当人のほうが悪いように思ってしまいがちです。

こう言った事は我が目が見たものが心に移され、彼らが言葉を出さないうちから、彼は邪である、
正しくない、正直ではないなどと、先入観が生まれてしまい、訴えを聞いても、その先入観を元に
言葉を判断してしまう。そんな事は多いのです。

裁判において、哀れがましい者に憎むべきことがあり、憎々しい者に哀れなる事があり、
まことしやかな者に嘘偽りが多い、そんな事例は実にたくさん有りました。

人の心は知り難く、その容貌を以て定められるものではありません。

古には訴えを聞くには、その表情をもって聴くのだと言ったそうです。
ですがそれは、心がとらわれる事の無い人にだけ出来ることです。
この重宗がごときは見たものに心がとらわれ、先入観を作ってしまうことが多いのです。

また本来人々は、裁判の場に出ること自体が恐ろしいと思っているのに、さらに目の前に
自分の生殺を握る人間を見れば、心が萎縮して言うべきことも言えず、罪科を受けるという人も
いるかもしれません。ですから、互いに顔を見も見せられもしないほうが良いと、
あのようにしたのです。」


板倉重宗の、訴訟を判断するに当たっての姿勢である。





387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 23:14:24.30 ID:UX4B1y5T
板倉親子はソフィスティケートという言葉がしっくりくる

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 23:31:37.79 ID:m8i/8Xcb
>>386
性格は人相に出ると思うんだけどなあ

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 08:07:03.21 ID:1PrpjEl0
>>387
詭弁を弄する人って事?

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 09:09:23.48 ID:S/gaJNjq
醜いヤシは成敗したほうが、、

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 09:15:10.29 ID:eG0nUjmf
>>389
たしかにsophistication
はソフィストから派生した言葉だが、
詭弁のほかに洗練されたものという意味がある
承知の上での発言だとしたらスマン

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 09:46:36.14 ID:qu/NMN3D
>>388
性格が悪い人でも、その訴えに関しては正しかったりするしねえ

年寄りの武辺争い

2011年01月29日 00:02

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:30:34 ID:I9P1dmMH
大坂の陣も終わり、世も太平となった頃の事、
永井善左衛門の所に、板倉重宗が招かれた。

この時相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛、であった。
みなみな戦場生き残りの、老勇者たちである。

この頃今村は槍奉行、大久保彦左衛門は御旗奉行であった。
まず、今村が彦左衛門に食って掛かる

「わしは長久手でもどこの鑓場でも、人が十回かかるほどの働きをやって来たというのに
何のご褒美もなかったわ!彦左、おぬしはどれほど優れた働きをして、その様な結構なお役を
頂いたのだ!?」

これに彦左衛門
「わしは長篠で、鬼神のごとくと言われた岡部丹波を切り落とし、本多主水(彦左衛門の郎党)にその首を
取らせたわ!その他にもちくちくした事は数多あるが、まあ、甲州者などでは逃げたことが高名になるそうだ。」

これを聞いて黙っていられないのがその甲州者、そして高天神落城の際脱出した旧武田家家臣横田甚右衛門である。

「それがしが高天神城にこもったのは、『この籠城は運を開くことは出来ません』と勝頼様に申したのに
同心いたして頂けなかったゆえ、しからば一応勤め、どうしても駄目になれば敵を切り抜け、再び勝頼様に
お目見えいたしますと君臣約束した故である!!」

そう聞いても彦左衛門
「それは狭間潜(さまくぐり:城中から狭間(さま)を潜って逃げる者。転じて、逃亡者、臆病者)というものじゃ!」

「はっ!しかしあの時わしは三河者の頭の上を越えて行ったが、そのわしを指さす者すらおらんかったわ!」

「それはまあいい、ほかに何か無いのか?」

「ふん、そうだな、芦田小屋(芦田城)でも最も骨を折ったのはこのわしであった!」

この言葉に彦左衛門
「ほほう!芦田小屋から横田が逃げたという話は聞いていなかった!」

これには横田たまらず
「皆の衆あれを聞いたか!?三河衆は口が悪いから、人の武辺を言い貶す!全く意地の悪いことだ!
近藤石川といった連中に起請を書かせた上で言わせれば、ありのままに話すのだろうが。」

老勇者たちのいがみ合いヒートアップ。今にも発火せんばかりの空気の中、
ここで板倉重宗が割って入った

「いやはやいやはや!皆様はもはや老年でもあり、孫や子の事ばかりお話されると思っていたのですが、
武辺争いをなさるとは、近頃奇特なる事で、若き者の後学の為にも良いことです。
さあどうぞどうぞ、いくらでもやってください!さましく御重宝というべきものです!」

…と

この板倉重宗の言葉に気恥ずかしくなったか逆に白けたか、老勇者たち黙ってしまい、座敷の空気も
静まったそうである。

年寄りの冷や水ならぬ年寄りの武辺争い、と言うお話。
しかしまあこの人達、仲が悪いというより、そう言うコミニュケーションだったんでしょうねw




446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:50:41 ID:Q9lZeOBv
>>444
乱世を生きた武人の気質なんだろうな
日露戦争時に薩長出身者が幕末の活躍を話してると、
桑名藩雷神隊だった立見尚文が、
「キミら、オレの隊からは逃げてたよね?」
みたいにチャチャ入れたりしてるしw

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 01:06:37 ID:swpyhMCd
しかし重宗もどうかしてるな
あの彦左がのほほんと孫の話なんてするわけがないくらいわかりそうなもんだが

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 01:10:14 ID:iRVaeWLn
だからあてつけというかしらばっくれというか、そういう事なんだよと思うよw>重宗
「あんたらもう孫がいるような歳なのに、そう言う子どもみたいな意地の張りあいしてて
それはどうなの?」
って底意で言っているんだよ。


451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 01:40:36 ID:hii+OybT
戦場往来の爺ちゃんたちは我が強すぎるねえw

452 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/28(金) 03:58:35 ID:MhR7EtTZ
どうにも収まりのつかない口喧嘩を全員誉め上げてて収める、
さすがは板倉Jr.という話




関連
大久保忠教と横田尹松が・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1658.html

ある山寺の僧が弟子を小僧として仕込んでいた

2010年12月03日 00:00

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/02(木) 21:36:55 ID:KH0ouGsx
『ある山寺の僧が弟子を小僧として仕込んでいた。
しかし、ある時この小僧は寺から逃げ出して親のところに帰って来た。

親が小僧に理由を尋ねるには
「僕は立派なりたいと思って頑張って耐えていたのですが、お師匠の
折檻が酷いので逃げてきたのです。お師匠は僕に髪剃りをさせるのですが、
初心者なものですから時々失敗してお師匠の頭から血が出ると、大変折檻されます。

それと味噌をするときに、すりようが悪いと朝夕叩かれたり、便所に行くと
便所に行くのは悪いと折檻されました。もうとても耐えられない」

なんて酷い師匠だろうと思った親は住職にクレームをつけて子どもを引き取ると言った。
すると住職は呆れた顔でこう言った。
「大人のお前が小僧のたわ言を鵜呑みにするとは情けない。
望み通り引き取ってもらうが、檀家の手前、真相をはっきりさせておこう。

味噌の件だが…すりこぎでするのが当たり前なのに、あやつは味噌を鍋に入れて塗り杓子の
背中でこするから注意してるのに、何度も繰り返して何本も杓子を折ったのじゃ。これが折れた杓子ね。

便所の件だが、わしがあやつに何か申し付けると、あやつは代官衆のために新しく作った来客用の便所で
居眠りをしおるから叱ったのだ。誰も入らないように下していた鎖を捻じ切ってな。これが壊れた鎖ね。

そして髪剃りの件だが、あやつも剃る練習をしたろうと、わしの頭を剃らせたら腹を立ててわざと
傷をつけおったのだ。ほれ、わしの頭は傷だらけじゃろ」
そのように証拠を見せられた親は納得して帰っていったということだ』

「…という話でな。これは訴訟で裁く時にも大事なことだ。一方の話だけを聞くと相手はなんて
酷い奴だと思うものだ。また納得した話であっても、ゆっくり聞くと何かおかしいと後で気づく。
断片的なことで全体を判断することなどできはしない。それさえ心得ておれば、もう何も言うまい」
板倉勝重は息子重宗にそう教えた。