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ただ慎重を期すために

2021年11月13日 16:36

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/13(土) 15:51:20.18 ID:Yu5pwVdZ
名将言行録に、京都所司代の勝重が重昌と兄の重宗とに対しある訴訟の是非について答えよと問う場面がある。
重昌はその場で返答したが重宗は1日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。
周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという。

難題は1日寝かせるのがいいらしい。
教訓、結論急ぐと死ぬ。



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仙石久勝最後の戦い

2021年09月29日 18:37


624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 22:41:21.23 ID:4mwlR5+s
仙石久勝最後の戦い

悪い話スレ>>63の続き

寛永15年元旦(1638年2月14日)、板倉重昌による原城への総攻撃は失敗に終わり総大将・板倉重昌は討死、
総攻撃に参加した諸藩の兵も4千に達する死傷者を出した。

土佐藩・山内忠義から派遣された使者の雨森九太夫をはじめとする手勢も多くの損害を出し、使者代表の雨森九太夫自身も一揆勢の銃弾で重傷を負ったため、
翌1月2日に着陣した仙石但馬久勝と土佐藩使者代表の役割を交代し、本国土佐へ帰還することになった。

ここで仙石久勝の素性を紹介したい。彼の弟はかつて三国一の臆病者と謳われた仙石権兵衛秀久である。福島正則に仕えて広島藩・三原城番を務めた
人物でもある。福島家が改易となった後は広島城受け取りの役を果たした土佐藩主・山内忠義に招かれ土佐藩の中老となっていた。
この度の土佐藩使者として、子息3名(嫡子・左近、二男・勘兵衛、三男・八左衛門)と忠義の馬周り・毛利久八と5名の飛脚に多数の兵を連れ島原へ赴いていた。

さて、久勝は同時期に島原へ着陣した正使の幕府老中・松平信綱、副使・戸田氏鉄に面会するとこう申し出たという。

仙石久勝「我ら土佐藩兵に一所攻め口を与えていただきたい。」

先の総攻めに参加した雨森九太夫同様、久勝も一揆勢への攻撃に加わるつもりである。
これを聞いた松平信綱と戸田氏鉄

( ゚Д゚) ( ゚Д゚)

( ゚Д゚) ( ゚Д゚ ) (ゴニョゴニョ)

(; ゚Д゚) (; ゚Д゚) 「「却下」」

(中略)諸国之使者え責口は不被下候間左様ニ相心得候得 「山内家資料」

表向きは各国からの使者には攻め口を与えないということで松平信綱と戸田氏鉄に却下された。
とはいうものの、

仰渡尤但馬儀福島以来場数名誉之者ニ候間軍之差引御談合可被成ニ付老躰旁座上自由ニ仕候得と被仰付御本陣近被差置候

攻め口を与えること自体は断ったものの、松平信綱は福島家以来の軍のやり取りに秀でた者として、久勝を信綱の戦の相談役にして
山内家と久勝の面子を立てたのである。

こののち、久勝の嫡子3人と毛利久八は2月27日の最後の総攻撃に加わり、彼ら久勝の子息らについては

同月二十七日惣責之節は嫡子左近二男勘兵衛三男八左衛門毛利久八右孰も城中え乗入候由中ニも八左衛門儀一揆二三人槍にて
突倒し其身も冑をしたたかに打たれ候得共ためし鉢ニて強ハ痛不申名誉なる仕合といづれも申あひ候と申傳候

このように記録されている。

こうして、仙石久勝最後の戦いである島原の乱は終結した。

そして、久勝は島原の乱終結の翌寛永16年(1639年)3月8日に死去。享年88歳。
戦傷で亡くなった雨森九太夫とは異なり、彼の最後については詳細は記録されていないものの、
恐らくはこの時の良き思い出と共に安らかに亡くなったのではないかと個人的には思う。

戦国の世を駆け抜けて土佐藩に仕えたもう一人の武人の最後の戦いの記録である。
参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意


625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 23:08:50.66 ID:kR2UOwai
東郷隆のいくつかの小説で主人公として描かれてたっけ>仙石久勝
「決戦!関ヶ原2」収録の短編「戦さ神」だと高知市の愛宕神社が仙石久勝が山城国愛宕権現を勧請したものとかいう話があった

『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

「板倉殿は戦死するでしょう」

2020年09月16日 18:37

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 21:59:08.82 ID:ELV/ZHul
島原の乱の際、反乱鎮圧のために板倉重昌が出向くことになった。
この時、囲碁棋士の安井算哲
「板倉殿は戦死するでしょう」と予言した。
その後、板倉重昌の戦死の報が届き、人々が予言的中の理由を尋ねたところ算哲は
「このたびの一揆は宗門に関することです。
一向一揆を見ても分かりますように人々は宗門については妥協を許さず命を賭して戦います。
しかし板倉殿は普通の一揆と思って出陣しておりました。
この心懸けでは一揆勢を甘く見るだろうと懸念したのでそう申し上げたのです」
算哲の明察の評判は江戸中に知れ渡ったとのことである。
なお、同じ安井算哲で「初手で天元(碁盤の真ん中)に打てば必勝である!」
と豪語して見事に本因坊道策に負け越した人物(渋川春海)がいるが、それはこの安井算哲の息子である。



539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/15(火) 22:08:40.14 ID:TIWU7cjA
苛政が要因じゃなく宗教が理由だからと言ってるのね
実際苛政が原因じゃないんだっけ?

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 22:22:38.16 ID:ELV/ZHul
いったん転んだけど飢饉や苛政とかでこれは天主の罰だ!とキリシタンに立ち戻った人々が非キリシタンも巻き込んで籠城したようで
幕府軍が「苛政が原因であるなら藩主たちは処分するから降伏してくれ」
と矢文で告げても
「われわれは幕府や藩主に不満を持ったのではない。キリシタンとして後生のために戦うのだ」
と返しているから、きっかけはともかく籠城の首謀者にとっては宗門のためではないかと。

541 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/15(火) 22:33:09.80 ID:TIWU7cjA
>>540
詳細ありがとうございます
きっかけこそ苛政や飢饉の可能性が高いけど、首謀者たちは宗教で覚悟完了した感じなんですね

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 01:33:53.50 ID:ROcezHiE
>>540
一気税根絶やしにしたあと、藩主一族をきっちり処分した幕府は律儀かもしれない。

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 13:06:20.40 ID:Ej4q/9if
松倉家は二代に渡って島原で苛斂誅求やって反乱起こされたからな
藩主として無能すぎる、幕府としても社会不安を鎮めるためには処罰しかない

大坂との御誓詞の御取り替え

2019年07月20日 16:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 19:24:59.07 ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



冥加無く生き残り

2017年09月29日 22:14

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/29(金) 08:24:08.37 ID:SOu1LN08
寛永島原一揆が落居の後、幕府評定所において、井伊直孝、保科肥後守、酒井讃岐守、堀田伊賀守、
松平信綱、並びに老中列座して、石谷貞清を召して、上意の旨を以って御詮議の事があった。
石谷貞清は討ち死にした最初の幕府上使・板倉重昌の副使だったのである。
やるべきではない合戦をして人を多く討たせたことは、板倉・石谷が焦って討って出た故である、との
詮議であった。

石谷は申し上げた
「聊かも焦って仕った事などありません。『松平伊豆守、戸田左門が後の仕置のため使わされる』との
御奉書到来の上は、なんとかして年内に埒を明けておくべきでしたが、その甲斐もなく、
ならば元旦に押し寄せ城を乗っ取り、『後の御仕置』が出来るようにしたい、との心得にて、元旦を
総攻めと決めたのです。
仮に『我々両人が仕る所悪しきにより、重ねて伊豆・左門を下す』という事であったなら、焦って
致すということも有ったかもしれません。

そういった事でありますが、内膳(板倉重昌)は冥加にかなって元旦に死を遂げ、御奉公の一通を立て、
この御詮議にも逢いませんでした。
私は冥加無く、只今まで生き残り、このような御詮議をも承ることになりました。」

この言葉にその座の何れも黙り込んだという。

(士談)

武士って厄介な連中だな



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/29(金) 16:59:04.01 ID:lC8w7Akb
戦争が政治や外交の延長だってことを考えないとそう見えるかも

此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


人にとっては、一言であっても

2017年03月07日 21:37

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)


嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



大将の兜、鉛痕

2016年07月14日 13:11

森可成   
851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 22:48:09.91 ID:nZuFrBJI
大将の兜、鉛痕

 今冬、赤穂老侯〔美濃守忠賛〕が予の荘を訪ねられた。
そのときの談中で、
「私の祖の三左衛門〔可成〕が着られた兜が今も伝わっている。
鉢の側には銃鉛が半ば打ち込まれた痕がある。
上の方にも十文目の鉛痕がある。これは上にすべったかと思われる。
このような事に遭っても、やはり着ておられたものなのか。」
と話された。

 先年仁正寺侯〔下総守長昭〕の祖の長勝〔初め平左衛門、後に下総守〕が着られた
一谷と称する兜の図を侯が示したものを写しおいた。
この兜には後立がある。大きな版のようなものであった。
これにも銃鉛の痕があると聞いた。

 聞き伝わることには、板倉内膳正(重昌)は、正月元日に天草の城を攻めたとき、
城中の賊が、十文目筒で内膳正の兜を打つと、真向かいに当たり、
内膳はすぐに落馬して死んだ。
徒士は内膳を負って退き、兜を脱いで見てみると、鉢に弾が当たったが貫通していなかった。
内膳の頭は砕けて腐肉のようになっていたという。

(甲子夜話)



自分ひとりの潔さに走るべきではない

2015年07月02日 15:40

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:46:00.43 ID:JLPxzHuv
島原で切支丹の乱が起きたとき、板倉重昌石谷貞清を差し向けられたが、
なかなか落城の報せが来ないので、酒井忠朝が出陣を仰せつけられた。
するとその後すぐ、松平信綱が御前へとまかり出て、

「此度の件、酒井殿に島原への出陣を御命じになられましたが、結果は出ないと思われます。
何故かと言えば、酒井殿はいまだに屋敷で準備し、出発しておりません。
このことが、もはや、将軍さまのお心に叶わぬふるまいでございます。
もし、私に御命じくださるならば、ただちに出発し、即座に一揆ばらを踏み潰してみせましょう。」

と申し上げたので、これを伊豆守(松平信綱)に仰せつけられ、彼は即座に出発した。
同時に酒井忠朝には、島原には行かずともよし、というお達しが届いた。
備後守(酒井忠朝)はこれを聞くやいなや、

「知恵伊豆の仕業に決まっている。討ち手の先を越されては人前に出す顔もない。
こうなれば、追いついて伊豆守を討ち果たすより他にない。
すぐに馬を出せ」

と言いつけ屋敷を飛び出した。(1/2)

281 名前:278続き[] 投稿日:2015/07/02(木) 12:25:51.40 ID:l3ekoU/Z
すると、父の酒井忠勝が、

「待て」

と声を掛け、

「はやまるな。仕損じるぞ。まず落ち着いてよく聞け。
土井利勝が最期、私に向かい、
『伊豆守に気をつけろ』
と遺言された。
伊豆守が小細工をすることはかねてから私も知っている。
追いかけ伊豆守を討ち果たしたなら、お前は本望で、
世間の者たちもお前を剛の者よと称えるだろう。
しかしながら忠節のところは微塵もない。
あの程度の伊豆守だが、あれでひとかどの器量を持った男だ。
幕府のお役に立つことも多い。
その伊豆守を討ち果たせば、まずは幕府に御迷惑をおかけすることになり、
さらには、
『幕府の指図が雑だから、酒井殿が鬱憤を晴らしたのだ』
などと日本中で噂されるようになれば、主君に悪名を着せることになり、
重ね重ねの不忠である。
いま、お前が耐え忍び生きながらえるのはとても苦しく難しいことだろう。
しかし、我が身の難儀や恥までも耐え忍び、
主君を支えていくような者が、誠の忠臣なのだ。
自分ひとりの潔さに走るべきではない。」

と諭したので、忠朝もたちまち納得した。
そのうえで、忠勝は、

「理解したなら、隠居せよ。世の人々が嘲るだろう。」

と忠朝に奉公を退かせた。
家督は二男の忠直が継いだとのこと 【葉隠】(2/2)



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:16:07.22 ID:Q3aqugVa
DQN目竜「敵もろとも伊豆守も殺して手柄を奪うが良い」

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:27:09.63 ID:TWKN05ff
じんぼぅ失っても知らんぞ