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山本勘助と申す、大剛の武士である

2022年10月18日 15:52

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/17(月) 22:30:50.64 ID:GJZgmUi9
天文十二年正月三日に、武田の家老衆は打ち寄って、その年の武田晴信公の御備について談合した。
「諏訪、或いは佐久、小縣の敵味方の境において味方の城を構築する場合、その城の設計を能く致せば、
千の人数で保持する城であっても、三百で保つ事が出来る。これは城の取り様、縄張りに奥義がある
ためである。

このような城の設計を能く存じたる剛の者が、駿河の今川義元公の御一家、庵原殿の亭衆に居る。
彼は今川殿の直臣と成ることを望んだが、義元は召し抱えなかった。

かの者は三州牛久保の侍だが、四国、九国(九州)、中国、関東までも歩き廻った侍であり、
山本勘助と申す、大剛の武士であると聞く。この勘介を召寄せお抱えあるべきである。」

この事は板垣信方より晴信公へ申し上げられ、これにより、知行百貫の約束にて、その年三月、
駿河より勘介を召し寄された。

勘介の御礼を受けられ、晴信公は即座に仰せ付けられた

「勘介は一眼、さらに手傷を数ヶ所負っているため、手足も少々不自由に見える。
色黒く、これほどの無男でありながらその名が高く聞こえるのは、能々ほまれ多き侍であると覚える。
このような武士に百貫は少分である。」

との儀にて、二百貫を下された。

さて、その年の暮、霜月(十一月)中旬に晴信公は信州へ御出馬あり、下旬より十二月十五日までの間に、
城九つ落ちて晴信公の御手に入ったのだが、これは偏に山本勘助の武略の故であった。

晴信公二十二歳の御時の事である。

甲陽軍鑑



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山本勘助、召し抱えられる

2013年10月13日 19:05

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 10:15:15.14 ID:3sbmom2J
天文12年(1543)正月3日、武田家の家老衆が集まり、その年の武田晴信(信玄)公の軍備について
会議が行われた。

そこで話し合われたことに、諏訪、佐久、小縣という敵味方の境に城を構える場合、
その構え方さえ良ければ千人の敵兵に対して味方300で持ちこたえることが出来る。
これには城の縄張りが重要である。

このような城の縄張りについて良く知っている剛の者が、駿河の今川義元の家来である庵原安房守の
身内に居る。彼は義元に奉公したいと望んでいるが、義元の方では召抱えようとしない。
この者は三河牛久保の侍であるが、四国、九州、中国、関東までも巡り歩いた。

この大剛の武士の名は、山本勘助という。

板垣信方はこの勘助を呼び寄せ、お召し抱えに成るよう晴信公に提言した。それにより
その年の3月、知行100貫という約束で駿河から勘助を呼び出した。

勘助からお礼の挨拶を受けられた晴信公は、即座にこう仰られた

「勘助は片目であり、数カ所の負傷で手足も少々不自由のように見え、しかも色は黒い。
これほどの醜男でありながら、高い名声を持っているのじは、よくよく能力に優れた誉れ高い武士であると
思われる。そのような武士に100貫では少ない!」

そうして勘助に、倍の200貫をくだされた。

その年の暮れ、11月中旬に晴信公は信濃に出陣された。
11月の下旬から12月15日までに、9つの城を陥とし晴信公が手に入れられたが、これは全て
山本勘助の武略によるものであった。
時に晴信公、22歳の頃である。

(甲陽軍鑑)

良い話なんですけど、晴信公、初対面の勘助さんに醜男言い過ぎですw




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 08:23:06.12 ID:t2jqhrbE
男でも色の黒いのはダメなのか・・・「しかも」ってw