FC2ブログ

林羅山と円模の地図

2018年12月04日 22:12

林羅山   
496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 16:59:32.80 ID:Mz61qWb/
林羅山と円模の地図


慶長11年6月15日、道春(林羅山)及び信澄(羅山の弟)は頌遊(松永貞徳)の仲介で
思いがけず耶蘇会者不干氏(ハビアン・日本人イエズス会士)の元に至った。
不干は従者の守長に三人を招かせ部屋に入れて、座らせた。

寒温(時候の挨拶)が終わると、春は徒斯画像(キリスト図)について質問したが
(不干は)はっきり解答しなかった。浅はかな解答になるのを恐れたのだろう。
またかの円模の地図(地球図)を見て、春が
「上下ということがあるのか」
と言うと、干は
「地中をもって下とする、地の上は天であり、地の下もまた天である。
 吾邦(ここでは西洋人のこと)は舟で大洋に漕ぎ出したが、東極は西、西極は東。
 これにより地の円であることを知る」
と答えた。

春は
「この理は成立しない。地下にどうして天があるだろうか。万物を観れば
 みな上下がある。彼が上下がないように言うのは、この理を知らないからだ。
 大洋の中は風も波もあるのだから、西に行こうとしてあるいは北や南に向かい
 その後東に行ったのを舟中の人が分からず、西に行ったと勘違いしただけだろう。
 西極が東になる訳がない。東極の西も同様である。物にはみな上下がある理を
 知らないので、彼は地中を下とし、地形を丸いとした。その惑いがどうして
 悲しくないだろうか。朱子の言う"天半地下を繞る"ことを彼は知らないのだから」
と言った。


――『排耶蘇』

他にも長々と反論があるがカット。羅山は中国の渾天説に拠って発言しているので
地が浮いていることには異論を述べていないが、朱子学では自然法則と倫理規範との
合致を説くので、天地の上下が相対的な地球図を忌避したらしい。
参考論文:金沢英之(2004)『《地球》概念のもたらしたもの』



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/04(火) 23:00:13.70 ID:5wNcBLpD
ハビアンがそのあと棄教したもんだから林羅山が論破したような風潮があるけど
ハビアン単に「ヨーロッパから東も西もわからない技術で日本までこれると思ってるのか」と呆れていた可能性

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し
スポンサーサイト



さすが人間ウィキペディア

2017年10月13日 12:52

林羅山   
313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 09:16:20.71 ID:HheWmS3P
ある夜、林羅山徳川家康に侍講する折り、列座の者達、羅山の博識がどれほどのものかを試みようとした。

先ず、岡田淡州が問うた
「蓬莱島という能狂言の中に、『鬼の持ちたる宝は隠れ笠、隠れ蓑、打ち出の小槌、ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』
と言う所がある。この『ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』とは何なのか?」

羅山答える
「鬼の宝として出た品々は、宝物の中でも上々であり、またこの上に上々無し、という意味で、
『上々、無上無上』と言っているのです。」

次に内田信州が問うた
「鎌倉に『ノツケン』堂という場所がある。昔金岡納言(巨勢金岡:平安期の宮廷画家)がここに来て、この
勝景を写さんとしたが、筆に尽くし難く、筆を捨てノッケに成りたる故に、この堂を『ノッケン堂』と云い、
また『筆捨松』と呼ばれる松も今に存在すると云うが、これは本当であろうか」

羅山これに
「金岡が筆を捨ててノッケになったのではありません。あの堂は金澤より出る山越への坂の右の、高い場所に
あり、坂から仰ぎ見ることから『仰見堂』、これが訛って『ノッケン堂』となったのです。」

堀田加州問うた
「子供の遊びに、左右の手を寄せて『鬼の皿』という事をする。その詞に曰く

『タイドノタイドノ、一モタイドノ、二モタイドノ、タイガ嬢、梶原、アノウン、メクラガ杖ヲ、
ツイテ通ルトコロヲ、サラバ、ヨツテ、ツイノケ』

と歌っているが、これは何を意味しているのか。」

羅山、これも
「これは鎌倉時代の、源頼朝の意にかなう、威勢強き人々を数え並べた歌です。
先ず『タイドノタイドノ』とは、”御台殿”すなわち北条政子の事で、『一もタイドノ二もタイドノ』とは
続けて並べる人が居ない、と云っているのです。

『タイガ嬢』とは”大の嬢”、すなわち頼朝の娘、大姫君という、清水冠者の夫人を指します。

次の『梶原』は平三景時で、これも当時の寵臣です。

『アノウン』とは安明寺といって、北条時政の妻である牧の方の一族で、盲人でしたが、彼は特別に
殿中において杖をついて歩くことを許され、この人に行き合う者達はみな彼を避けて通していました。
故に『サラバ、ヨツテ、ツイノケ』と云うのです。」

その後も様々な問答があったが、羅山はすべて滞りなく答え、皆、彼が細事にまで通じることに
感嘆したという。

(今古雅談)

さすが人間ウィキペディア



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 15:02:58.61 ID:Ohs68rOU
クイズ王とファンの集いかな?

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 16:40:34.79 ID:ZTvwgvqs
怪力乱神

林家の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること

2017年05月20日 16:22

林羅山   
916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 22:29:10.06 ID:gjHSfxW0
林家〔大学頭〕の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること〔嘗て近衛公より賜る所〕

林子(述斎)に会った日に、彼が着ていた継肩衣の紋に見馴れない牡丹をつけていた。
その故を問うと話してくれた。

「我が家の祖先の道春は初めは浪人儒者で、京に住んでいました。
その頃に近衛公に召されて特別に目をかけられ、遂にかの家の牡丹紋を賜ったといいます。」

予は悪口に

「これまで長年に渡り交友してきた中でその紋を見かけたことがなかったので、
あなたの新作ではないかと思いましたよ。
そもそも今の御台所(広大院)に媚びてことではないのですか?」

などと言って戯れ笑った。

実にその賜紋は古き伝えがあり、
今も林家の古器には杏葉牡丹を蒔絵を施したものが往々あるとか。

(甲子夜話続編)


林羅山の心をも動かす平家物語

2016年03月22日 11:14

林羅山   
522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 21:40:22.47 ID:WI2DWjOe
 林道春は鳥羽戀塚の碑銘を書かれた時、

「袈裟御前は女ながらも鉄肝石心の烈婦で、源ノ渡に義を立てて身代わりになった志、古今に例のない女のみさおである。」

と、感涙を流された。

また

「源渡、後に重源と改名した者は、隔て心のない出家である。自分は儒者であるので、
儒の見識によりこの評論はしばらく筆を差し置かせてもらう。」


とも言われた。
(本阿弥行状記)

林羅山の心をも動かす平家物語



今もてはやされている林道春などは

2016年02月03日 18:38

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 01:25:22.33 ID:nCCVptJZ
 学問を好む人がまたしても仏をそしり、韓退之の仏骨表をほめそやして、
梁の武帝が台城で逆臣侯景により飢え死にさせられた事に対して、『この武帝が仏を信じたため餓死されたのだ』と笑うものはわずかである。

 しかれども韓退之の一生を聞き伝わると甚だ不人柄で、時の執権にこびへつらって京兆の司(日本ノ所司代ニ準ズ)になられたようである。
大いに笑うべし。ただ物知りとはほめ申すべし。
君に忠臣、民に慈愛ある、国家の用に立つ人ではさらさらない。

 また梁の武帝が仏法の信仰が厚く、それゆえに侯景に餓死させられたのではさらさらない。
父子の恩愛を大いに間違えた人で、昭明太子が憂いながら死なれたことをわきまえるべきだ。その訳は史書に詳しい。

 その他、漢代で賈誼という人が、天下の田地・商人の元手まで平等にしようと致されたのを、陳平・周勃らが大いに讒言したので失脚された。
後にこの賈誼は江南の諸侯の附家老となり早世されたという。
 かの賈誼などが、所謂腐れ儒者と申す者である。例えば兄弟を同じくし、百姓ならば田畑、商人ならば元手銀を同じに渡しても、
その身の幸、不幸でいろいろとなるものである。小さいことですらこのようである。
まして天下一統平等にしようという事は、管の中から天を見るに等しい。
自己の少量の見識で造物主の御気に違い、埒もない事を申し上げ、ついには天の御罰を蒙ったのか,
たった三十歳ばかりで死去、ああ恐るべし。
 彼が申す事を用いなさったら、漢家四百年の基礎となる事業はどうしてたもてただろうか。

 儒仏ともその人の用い様で治乱あるが、中華の歴代を考えると、天下を乱した博学高才の学者は多い。
学問を好むとも、文華の学問は用いてはならない。
 特に天下の政務に仏法は甚だよろしく、上宮太子などが所々に寺を御建立されたことでわかるでしょう。

 今もてはやされている林道春などは、太子をそしり、兼好法師の徒然草、源氏物語をそしられています。
このようなことは、朱晦菴の遺風を真似られていることと、我々はおかしくおもっています。
(本阿弥行状記)

さすが代々の法華宗の本阿弥一族
仏嫌いの林羅山に容赦ない



小を捨てて大を取ることである

2015年12月17日 10:58

林羅山   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/17(木) 03:19:56.94 ID:pFfurwkJ
ある人が林羅山に問うて曰く、「孝経の、『身体髪膚は父母に受けたり、敢て毀ひ
傷らざるは孝の始なり』というのは、自分の姿形は皆父母の身を分けたものだから、
少しも損ない傷つけないことが孝の始まりであるということだ。

ところが、礼記には『戦陣勇ならざるは孝にあらず』とある。免れて延命すれば
身体を損なわず、勇み進んで戦い死ぬ時は身体を損なうのみならず命をも失う。
これを孝とするとは何ぞや。こうであるのに、2つのどちらを取ろうというのか」

羅山は答えて曰く、「『我が身をつつしんで身体をやぶらず、父母全くして生む、
子全くして帰すべし』。これは姿形だけでなく心にも僻事のないようにという教えだ。
姿形でさえ損なわなければ、このように孝である。ましてや、心ならばなおさらだ。

あるいは、もしも戦いに臨んで死ぬべき時に死ななければ義ではないわけだが、
義をやぶるということは心を損ない傷つけることだ。どうしてそれが孝となるだろう。

中途半端に生きて恥辱をかき、親の名をも汚すのは不孝である。ただし死ぬべき
ではない時に死んでは愚かにして孝ではない。それゆえ、孝と義との2つながらも
背かずに、軽きを捨てて重きを取ることだ。小を捨てて大を取ることである」

――『儒門思問録』



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 10:29:44.26 ID:N8YCgJZl
寝台白布、これを父母に受く、あえて起床せざるは孝の始めなり(´ω`)ムニャムニャ

これを聞いて羅山は慨然とし

2015年11月25日 09:11

林羅山   
679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 01:51:44.79 ID:dFOPgJ6b
明暦3年1月19日、江戸の北部で失火があった。この明暦の大火の時、

林羅山は邸宅で読書をしていたが、弟子がこの事を告げ、「ここも免れません!」
と、報じた。これに羅山は頷くだけで読書をやめなかった。

それからまた弟子は報じて、「火が近くまで迫っています! どうして先生は
お立ち去りにならないのですか!?」と、言った。

こうして羅山は、読んでいた本を手にして乗り物に乗った。だが、乗り物の中でも、
その本を読み続けてやめなかった。やがて、郊外の別宅に到着した時も、羅山は
落ち着いて、普段と変わらぬ表情で本を読み続けた。

しばらくすると人が馳せて来て、「邸宅はことごとく焦土となりました」と、報じた。
その人に羅山が、「銅庫(書庫)にまで火は及んだか?」と、尋ねたところ、
「ともに焼失しました」とのことであった。

これを聞いて羅山は慨然とし、天を仰ぎ嘆いて、「長年力を尽くして蓄えたものが、
一度の祝融(火の神)のために奪われてしまった。惜しむべし、惜しむべし…」
と、言った。この夕べの羅山は鬱々として楽しまず、五日後、にわかに死去した。

――『先哲叢談』



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 04:39:52.14 ID:Tg1sHwCd
その棺には生前お気に入りだった振袖が掛けられ…

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 05:38:39.27 ID:F0sgTeCG
じょれんの出番だな

中江与右衛門の異議

2013年03月16日 19:51

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/16(土) 14:09:28.30 ID:ErCvbDB9
寛永五年、祇園祭の夜のこと。
儒者、菅玄同が弟子の安田安昌に斬り殺される事件がおきた。
これを受けた林叔勝(羅山長男)は、
藤原惺窩の弟子で、京都では知られた存在であった玄同擁護に立ち、
弟子が師を殺すなど不義不忠の至りであると、
安昌への徹底的な批判を展開した。
学問派閥の頂点、林家が意見したことでこの事件は瞬く間に全国へ知れわたることとなった。
林家が言うのならばと、安昌への批判はいっそう激しさを増したのだが、
伊予国は大洲藩の下級武士、中江与右衛門がこれに異議の声をあげた。
近江滋賀生まれの与右衛門は京での菅玄同のふるまいを知っていたこともあり、
菅玄同という儒者は、膨大な書物を読み知識歴史には詳しいが、
詳しいがゆえに、あくまでも文字で示した「仁」であり「義」の型に人を押し込め、
「忠」という文字をもって弟子を扱い、
その態度はまるで畜生を扱うようであったことを批判し、
あれでは弟子の人間性も武士の誇りをも傷つけて当然である。
しかし、弟子の安昌も短絡的に過ぎたとし、
師、弟子ともに人面獣心であったと結論した。
そして、その三年後には、
「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」
という論文を発表し、林羅山の知識偏重と美麗字句を批判するに至る。
それが与右衛門二十四歳のころ、
後の日本陽明学の祖、中江藤樹である






「子の好きにさせるつもりだ」

2013年02月13日 19:51

林羅山   
401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/13(水) 18:03:49.51 ID:IIjIdp+N
林羅山は十四歳の時、建仁寺に寓して書を読んだ。

この頃の羅山は、才学のある宿僧が皆字を問うほどの人だったので、
この人は必ずすぐれた名僧になるだろう、と思った人々に出家を
勧められたが、羅山は聞き入れなかった。

そこで前田玄以を頼り、羅山の父信時にこれを強いたが、信時は、
「子の好きにさせるつもりだ」と応じなかった。

羅山はますます聞き入れず、ついには寺を去って家に帰り、
再び寺門に入ることはなかった。

――『先哲叢談』







鍋島家の祖

2013年01月24日 19:53

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 22:33:17.63 ID:9F3Oc/un
勝茂さまが将軍様に元旦の挨拶を申し上げた帰りのこと、
城内を歩いていると、突然に林羅山が近づいてきて、
「鍋島家の先祖は何氏でありますかな?」
と問いかけてきた。
今までそのようなことを考えていなかった勝茂さまは、
確信があるわけでなかったがその場の思いつきで、
「鍋島は少弐氏の流れにござる」
と答えを返したところ、羅山は、
「おお、それは名家でござるな。
いま幕府では系図改めが進行中でござるが、
いずれ太田備中守殿からお申し入れがあろう」
と会話が弾んだ。

勝茂さまは鍋島邸にお帰りになると、
いろいろと調査をされて、平原善左衛門が少弐氏の流れで、
その系図も持っているということを突き止めた。
そこで善左衛門から系図を取り上げて鍋島の系図に作りかえられ、
幕府へと提出されたということである。
その後、先祖に興味が湧いたので調べてみると、
鍋島家の祖である鍋島三郎兵衛尉経直さまは、
佐々木氏だとの説があるとわかった【葉隠】


関連
「失礼、鍋島殿のご先祖はどなたかな?」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3896.html


178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 23:06:05.21 ID:XBeC+MAB
>>177
これは現代の感覚でみると悪い話にみえるけど当時の尺度だと良い話なのかな?

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 23:53:41.13 ID:f70+D/ZQ
悪い話だったら家臣が書き残さないんじゃね?

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 00:22:24.84 ID:7hS+4jx3
いい加減と言うかおおらかと言うか。

>系図改めが進行中
何でアータは自分ちのチェックしてないんですか。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 00:58:41.10 ID:2wZMAWwa
残念ながら既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3896.html

駿府で徳川家康は林羅山に質問をした

2012年08月18日 20:50

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 16:05:37.21 ID:oIwLRfRm

慶長十七年三月、駿府で徳川家康林羅山に質問をした。

「中庸に『道はそれ行はるべからず』とあるが、どうして行われなかったのだ」
「行われなかったのではなく、人君はみな暗愚であったので行うことができませんでした」

「では中とは何だ」
「中とはおよそ一定し難きことで、それぞれに格好の道理があることを申しまして、
理と申すも同じ様なことです。中にも権にも善悪があります。湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことのようですが、その心は善でありました。古人の『逆に取て順に守る』に当たります」

「では善でも悪でもないのが中の至極か」
「それがしの愚意は尊旨とはまったく違います。中とはまったくの善であっていささかも
悪所のないことを申します。ゆえに善を善とし、悪を悪として取捨することも中ですし、
是非を考えて邪正を分かつのもまた中です」

羅山は湯武について ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2094.html のように言った。

「対して新の王莽や魏の曹操などは人の家国を奪い、己一身の驕奢だけを望んだ奸賊で
あって湯武とは天と地ほどの違いがあります。また『逆に取て順に守る』とは権謀術数の徒の
申す所にして、聖人の言われた権道とはまったく違います。

こうしたことはみな経典に記されておりますので、邪説のためにお疑いの心をお持ちにならない
ことが肝要です。古今聖人が懇ろに教え置いた言葉は、単なる理の一字には留まりません」

この時、家康は羅山の説の醇正さと明晰さに感心したとされる。

――『徳川実紀(羅山行状)』



121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 17:42:19.96 ID:oIwLRfRm
>>120
うわ、申し訳ない。「中にも権にも~に当たります」までは家康の言葉だった。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2094.html と同じですね。
こんな感じ↓

「では中にも権にも善悪があるが、湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことだが、その心は善であった。古人の『逆に取て順に守る』に当たる。
では善でも悪でもないのが中の至極なのか」




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 18:00:56.86 ID:sH4sD/XL
権現様「ふーむつまり、新・魏のような禅譲より殷・周のような放伐のほうが善ということだな」
林羅山「え?」

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 18:52:02.82 ID:XFFckGPj
地獄への道は善意で敷き詰められているという言葉もありましてな

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 22:46:14.91 ID:k9w5P8oc
豊臣の天下奪った権現様になんて事言ってるんだよ(´・ω・`)

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/18(土) 23:36:27.55 ID:5iDCGB5y
>>124
だから殷周の故事を引いて正当化してるんだろ(´・ω・`)

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 00:04:16.60 ID:Hb6qklkd
晋まではまだいいよ。所詮漢民族内の政遍歴なんだから。
そのあとの南北朝・五胡十六国のぐちゃぐちゃぶりの中から大義名分論が出てきて
江戸時代の儒家はそれに付き合わされて、ついには徳川幕府が自己否定してしまうわけだが。

林羅山、男色注意

2011年10月06日 22:06

林羅山   
987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 23:55:47.00 ID:vCQvQ9L4
じゃあ埋めがてらに一つ 林羅山が詠んだ詩の話 男色注意


『羅山林先生別集』に収録されている一篇
別集というのは、少年期の作品や故あって人に示さなかった詩文を集めたものなんだそうな


酒力茶煙莨蕩風 少年座上是仙童
遠公不破邪婬戒 男色今看三咲中

酒の酔で心も浮かれ、茶を沸かす煙と莨(タバコ)の煙が混じり合う
そんな寛いだ所で、仙童のように美しい少年を相手にしているお二人さん
廬山の寺で禁足の誓いを立てていた遠公(慧遠)が、陶淵明、陸修静の二人を見送って、
不覚にも虎渓を渡ってしまい、三人で大笑いしたという中国の故事がありますよね
邪淫を遠ざけると誓ったこの私も、今日思わず男色の戯れに間近に接してしまいましたよ 呵呵


江戸初期の代表的儒学者 林羅山が男色の戯れを目撃してしまったが
「虎渓三笑」を持ってきて、明るく笑い飛ばし狂歌まで詠んじゃったお話

ちなみに羅山が少年期に師事した建仁寺の雄長老(英甫英雄)も、
男色を詠った狂歌が数多くあるそうです




徳川家康、法師武者に

2011年02月14日 00:01

737 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/12(土) 23:50:18 ID:9dJHA8T1
大坂の陣の折の話である。

徳川家康は大阪城に近づくと、率いてきた軍勢に、一斉に鎧の着用を命じた。
と、ここで金地院崇伝ともう一人の僧、そしてやはり頭をまるめている儒学者の林羅山
家康のもとにやってきた。

甲冑を着込んで。

どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、
家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた

「我らが手にも三人の法師武者があるわ」

これは幸若舞「堀河夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊昌俊を派遣した事件)の
一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったものである。

この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたという。
幸若舞は当時の流行歌のようなものなので、その歌詞は常識の範疇なんですね。

大坂の陣開戦前の、ちょっとコミカルなひとこま。




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:08:43 ID:S+HF8EsR
>一人の僧

天海だったかな?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:33:40 ID:vdBJgzcm
>>737
>>738
大坂城の博物館に伝天海着用の甲冑があるらしいけど、その時のかねえ
関ヶ原合戦図屏風にも鎧姿の“南光坊”が描いてある物があるとか

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:40:10 ID:bkRgrFXX
山崎の恨みはらさいでか!

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:56:01 ID:iR8VTLZV
>>742
顕如所用と伝わる兜もあるな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 04:21:45 ID:k6MLXP8v
>>742
関ヶ原の屏風の南光坊は後世の後付けだったはず
正直、家康は天海を近従させるほど仲が良いイメージが無い
そして>>737の3人の坊さんは絶対事前に家康と打ち合わせしてる

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 08:18:33 ID:zQGldhXw
イメージで言われても困るがな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 14:39:03 ID:6xDFA7sH
>>737
権現様の円熟味と戦前の緊張感が和らいだ情景が目に浮かぶ逸話だな