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この一言は天下の名言

2022年05月17日 19:03

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:15:21.99 ID:g40oUKwA
或る記に、坂崎出羽守(直盛)が将軍家を怨み参らせて、己が宿所に籠もった時、幕府の執政の人々は
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、

『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』

という旨を下知すべしと議定した。

その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。

正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!

人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」

そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。

新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。

新東鑑



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:37:38.40 ID:pgI56b42
嘘ついて何とかしようとするエライさんってヤだな
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横田大学の事

2021年09月27日 17:54

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 12:55:44.38 ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。



75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居

但馬入道が、有馬に入湯した時

2020年12月13日 17:05

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/13(日) 15:16:23.70 ID:MY/3Tvpu
但馬入道(柳生宗矩)が、有馬に入湯した時、内野あたりに鷹野に出られ、独り鷹を据え、脇差ばかりにて
あちらこちらと鷹を合わせていた。

そのような所に、物陰から大男一人が飛び出し、但馬に斬りかかってきた。
但馬入道は「心得たり」と、これを脇差で一打ちに討ち捨てた。
この時左手に据えていた鷹は、少しも騒ぎ驚くことはなかった。

名人の御事は言葉にも出来ないと、林山は常々これを物語り、心得はこれに有ると申していた。

柳生流秘書




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/16(水) 00:22:45.56 ID:e4iiTOrn
>>757
梶原一騎が極真アゲする時とそっくり

779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/21(月) 18:52:04.75 ID:aaqhnVsr
>>757
入道とあるから同じ柳生但馬でも親父の石舟斎の方だと思う
宗矩は入道してない

両名共上手である

2019年12月26日 16:40

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 00:02:03.79 ID:MjkcHwi4
秀忠公は剣術を柳生但馬守と小野次郎右衛門の両名から習っていた。
秀忠は次郎右衛門との稽古で、柳生に習った太刀を以て次郎右衛門に撃ちこんだがついに当たらず、また柳生との稽古では次郎右衛門に習った太刀で柳生に撃ち込んだがついに当たらず、両名共上手であると常々我々に仰られていた。

秀忠の近習だった永井直重が残した覚書『元和寛永小説』の中の逸話



444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 01:16:26.92 ID:Ea5Ja01t
>>443
ここで「どちらの教えも役に立たない」とキレないのがいかにも秀忠らしいな。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 04:18:30.60 ID:NaeV5kyq
二人を戦わせて勝った方に教わるんじゃ駄目なのか

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/26(木) 06:24:31.77 ID:qAsgelBv
>>446
師を競わせて教わる相手を絞るより複数の達人から教わる方が、色々気付きが有ったりして良いんじゃないですかね?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 16:56:36.07 ID:HJrn4SsC
>>443
どっちも立てるのがいかにも秀忠っぽいな
この噂を聞いた柳生と小野もいい気分になれるだろうし
非の打ち所がない。

御師範などとは事おかし

2019年08月29日 16:53

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 09:41:20.72 ID:DC9YQcSC
柳生但馬守(宗矩)の門前に托鉢の僧が来て剣術稽古の音を聞き
「大概(そこそこ)には相聞こえるが、御師範などとは事おかし」
そう嘲るのを、門番の者が聞いて咎めたが、聊かも取り合わなかったため但馬守にかくと告げると
「早々にその僧を呼び入れよ」
と、座敷へ通して対面した。

「御身出家なるが剣術の業を心がけたと見える。何流を学ばれたか。」

「御身は天下の御師範であるそうだが、剣術は下手である。流儀というのは剣術の極意ではない、
剣を遣うのに何の流儀が有るだろうか。」そう笑った

柳生もさる者と思い「然らば立ち会ってみられよ。」と言うと「心得た。」と稽古場に至り、
但馬守は木刀を持って「御僧は何を持つか。」と尋ねると
「某は出家であるので何を持つだろうか、速やかに何を以てなりとも打ち据えられよ。」
そう言い放って道場の中央に立った。

但馬守も「不埒なることを申すものかな。」と思いながら。「いざ」と打ち掛かろうとしたが、
この僧の有様、打ち掛かれば如何様にも手篭めにも成るべきように思われた。

さすがは但馬守であり、彼は木刀を下に置いて拝謁し
「誠に御身は知識道徳の人である。心法の修行をこそ教え給え。」
そうひたすら望んだ。かの僧も
「剣術に於いてはあまねく御身に続く者無し。」
と讃え、互いに極意を契ったという。

この僧は後に但馬守より申し上げ、大樹家(将軍家)家光公に昵近した、東海寺開山沢庵和尚である。

(耳嚢)



168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 10:08:30.13 ID:NPiNTWZ0
>>164
和尚強すぎw

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 17:30:48.26 ID:Jd3t6fCw
たくあんそうほう

但馬守殿は御あしらいなされ

2019年07月10日 17:16

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 02:13:00.48 ID:XPK8fwud
柳生但馬守殿(宗矩)は兵法御指南で、ある時に御側向へ「なにとぞ但馬守を打つように」
との(徳川家光の)御内意で、御庭で但馬守殿を竹刀打ちするようにと御所望遊ばされた。

御側向4,5人が御立ち向かったところ、御庭にある大竹5,6本を背にして但馬守殿は
御あしらいなされ、皆打たれたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:58:44.29 ID:EhSynLtZ
5対1で勝つってどんんだけ強いんだ
それとも側衆がヘタレなのか

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 08:36:06.01 ID:CyItAO8a
>>78
囲まれないように後ろを壁にする当たり妙にリアルでいいなw
完全な創作だったら囲まれても無傷で圧倒するだろうし。

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 17:01:12.06 ID:o9MkKrAQ
忖度です

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 23:08:54.49 ID:hxZg6iqB
ここで剣術の師匠倒したら色々面倒そうやなあ…

これに宗矩が返し

2018年11月07日 19:39

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 20:02:18.74 ID:dQlWUsaT
柳生但馬守宗矩の弟(実際には甥)である兵庫(柳生利厳)という者が詠んだ歌として、人の語るものに

「そのままに 理は有明の物としれ 開く扉に月ぞさやけき」

これに宗矩が返し

「出とも 月夜とならば暗からじ 見へて光のうつるにはなし」

と詠んだ。互いの剣術への考えを伝えたものだという。

(士談)

双方深いことを言っている気がするがさっぱりわからん



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 21:47:15.43 ID:0PROuOj4
月影か

東海沢庵の事蹟

2016年09月19日 18:46

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/19(月) 16:11:52.63 ID:1AA2sznt
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)



古観世大夫の堪能

2016年08月29日 17:08

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:32:04.64 ID:1ZZownvI
観世大夫の堪能

ある宴の中である人が話した。

猷廟(家光)の御時の事である。
観世大夫は猿楽に堪能であった。
そこで、猷廟は柳生但馬守(宗矩)に仰せられた。

「観世の所作を見よ。もし彼が心に隙間があり、”斬るならここだ”と思ったら申せ」

但州はかしこまって所作を見届けた。上意で

「いかがであったか」

と問われると、但州が答えた。

「始めから心をこめていましたが少しも斬るべき瞬間はありませんでした。
しかし舞の中で、大臣が柱の方で方向を変えましたとき少し隙間がありました。
あの所でなら斬り遂げることができましょう。」


 観世が楽屋に入って

「今日見物の中に一人、我が所作をじっと見ていた男がいた。何者か」

と言う。傍らから、

「あれこそ名高い柳生殿よ、剣術の達人である。」

と言うのを聞いて観世は

「だから我が所作を目を離さずじっと観ておられたのか。
舞の中で方向を変えた所で少し気を抜いていると、にっこりと笑われので、
理解できないことだと思っていたが、やはり剣術の達人であられたか。」

と言った。

後に猷廟がこれを聞かれて、御感悦されたという。

(甲子夜話)

そういえば、宗矩は能が好きだという話でしたね



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:33:46.64 ID:d+dwh2jF
>>128
こういう逸話好きだ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 18:13:49.13 ID:5iFImsmR
似たような話が江戸時代にもあるな
渋川流柔術二代目の渋川胤親が初代市川團十郎の歌舞伎を見て
「團十郎の立ち回りの動きは素晴らしい、あの動きなら私でも組み伏せることはできないだろう」
と言ったため、市川團十郎の評判がますます高まった。
しかし元禄17年2月19日、市川團十郎は舞台の上で役者の生島半六により刺殺。
「市川團十郎の動きには隙がないのではなかったのか?」
と尋ねられた渋川胤親は
「役者が隙のない動きを見せると言ってもそれは立ち回りの際の一瞬のことにすぎない
われわれ武道家はそれを絶えず行わなければならないからわれわれの価値があるのだ」
と言ったとかなんとか




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 14:56:02.26 ID:CL0LzVRD
>>128
柳生一族の能好きは宗矩に限ったことではない
柳生一門で武術修業した兄弟弟子に能のプロ金春流宗家金春七郎氏勝がいる
おそらくはこの七郎が、柳生一門の宗矩と同世代の中では、エースだった
柳生兵庫助は、自分の門下で目を惹く才能を感じた逸材に対して「七郎の再来」と期待を寄せたほど

宗矩にとってはかつて身近に能のプロがいて(過去形なのは、七郎は早逝したため)、
なおかつそれが武術の達人であったため、
能の武術的な動きに対する評価は非常に辛いものだと考えられる
そんな宗矩から合格点を出されたと解釈できる

梁の武帝が達磨に対面された通りに

2016年06月30日 16:06

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 09:14:07.33 ID:xdkSpOUE
 上様が沢庵和尚をお召されたころである。
如何様に応対するのがふさわしいかと、柳生殿が内々に尋ねられた。
沢庵和尚は

「梁の武帝が達磨に対面された通りにしてください」

と申した。
 その時の応対とはどういうものかと柳生殿は次々と尋ねられると、
甚だ仰山に重々しい事であることがわかった。

「それでは余り御崇敬が過ぎますので、いますこし軽くするべきではないか」

と柳生殿は申されると、和尚は

「あなたはそのようにお思いなられるだろうが、当将軍家を武帝ほどには私は思っていない。」

と申されたという。

 しかしながら、沢庵和尚は元来生臭坊主ではありませんでしたので、
江戸逗留の間は柳生殿の長屋に居られ、登城の際には下男を一人連れるだけだというので、
後に上様はそれは余りに粗末な事だと、別に旅宿を仰せ付けられ、
ついには和尚のために東海寺を御建立された。
末代には稀な智識である。

(本阿弥行状記)



柳生家門番の事

2016年06月15日 13:16

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 00:08:01.21 ID:bTZypxN7
柳生家門番の事

あるとき但馬守(柳生宗矩)の方へ沢庵がきた時に、門番所に一首の偈が張ってあった。

『蒼海魚竜住、山林禽獣家、六十六国、無所入小身』

「おもしろい文句であるが、末の句に病がある。」
と沢庵は口ずさむと、門番が
「いささかも病はない。これはそれがしの句である。」
と答えた。
沢庵は驚いていかなる者か次々と尋ねると、朝鮮の人で本国を奔命して日本に渡り、
但馬守方門番をしているとのことであった。

但馬守は聞いて、
「どうして入る所が無い事があろうか」
と二百石与えて、侍に取り立てたという。
今でも柳生家に子孫がいるとか。
(耳袋)

一体どの家なんでしょうか



殺害の気

2015年10月22日 10:43

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 01:39:43.03 ID:KVTBlHJd
ある時、柳生宗矩は児小姓に刀を持たせ、庭の桜が盛りに開いているのを賞して余念なく見入っていた。

この時、児小姓の心中に「いかに天下の名人であられるといえども、今この刀で後ろから切るならば、
どうして戦いなさることができようか」と思う念が浮かんだ。すると、宗矩はきっと四方を見回して
座敷に帰り、甚だ不審な様子で床の柱にもたれ、物を言わずに一時ばかりを過ごした。

それを近習の面々は皆恐れ怪しみ、「あるいは狂気などであろうか」と呟いた。用人の某は進み出て、
「先刻より、ご様子がいったい何なのか常ならぬように見えます。どのようにか、思し召しのことでも
おありなのでしょうか?」と、言った。

これに宗矩は、「そうなのだよ。ここに不審の晴れないことがあるまま案じているのだ。私は長年の
修練の功により、敵対する者の思うところが、まっさきにこちらの心に通じるのだ。そして、先ほど
庭の桜を眺めているうちに、ふと殺害の気が通じた。側を見ても犬一匹いない。ただこの児小姓がいる
だけである。それ故に、いぶかしさに心も快からず、思案してこの様子なのだ」と、言った。

その時、児小姓は進み出て、「今となってはどうして隠すことができましょう。恐れ入ることですが、
先刻そのように妄念が浮かびました」と言った。宗矩は表情を和らげ、「これで不審は晴れたな」と言い、
立って内へ入り、児小姓に対して何の咎めなどもなかったという。

――『撃剣叢談』



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 21:18:38.10 ID:WDN4Jz30
>>855
その逸話パタリロにも出てたな

松田の首を我にたむけよ

2015年09月24日 12:54

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 18:48:09.85 ID:Vnf8H2W3
 織田殿の時、柳生宗厳は大和の守護筒井入道順慶に属して所々で高名を上げていた。関白秀吉が天下を支配されて当国をことごとく御弟秀長大納言に差し上げられたときに、
柳生の譜代の郎等松田という者が告白したので、柳生の庄に隠田をもっていた罪により累代の所領が没収された。
宗厳は口惜しいと思い、三人の息子に、
「どうにかしてお前らは本領を安堵し、松田の首を切って我にたむけよ。」
と言った。宗矩が再びこの地を領ずることができると、松田を搦め取って荘田という郎等に首を刎ねさせたという。
(藩翰譜)



360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 19:03:31.29 ID:LqYxB5NU
へえ身内の告発だったのか

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 17:07:48.14 ID:o04kW+Do
山しかねえ領地なんだから棚田くらい勘弁してやれよ
それか加増とか言って申告以上実高未満のところに配置換えとかなw

柳生但馬守の心得

2015年01月01日 17:18

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 10:10:35.76 ID:5l+6ijwo
島原の乱、原城落城の時牧野伝蔵は一番に進み、二の丸と本丸の境で、右の方の城戸より本丸に入ろうとした。
しかし敵方から大石が激しく投げられたため、少し退いて堤の影に立って様子を見ていた。
ここで立花勢が堤の上に上がり敵方に激しく鉄砲を撃ちかけたため、敵が少し動揺した所を、伝蔵は十文字槍を取り直し
本丸の下まで突入した。ところがそこに、傍らの洞穴から敵兵が出てきて、鉄砲を向けて『近寄れば打たん』と構えた。

牧野伝蔵はかねてから柳生但馬守(宗矩)に聞き置いた心得があった。彼は鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。
敵兵は伝蔵が近づくのを見て鉄砲を撃ちはなった。しかし銃弾は槍に当たり、伝蔵を逸れ肘をかすって外れ飛んでいった。
そしてそのまま敵を一槍に突き伏せた。
(明良洪範)




柳生宗矩の事

2014年10月12日 18:51

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 19:30:35.77 ID:F+D6IqKH
柳生但馬守宗矩の柳生氏は、代々大和国柳生の庄を領する一族であり、徳川家に仕えたのは
関ヶ原の一乱の後であった。
徳川家光は若年よりこの柳生宗矩を師範とし、すこぶる尊敬し信頼していた。

宗矩は家光の師であり、また剣術の名人であるから家光も尊信しているのだと、人々はみな思っていたが、
実はそうではない。宗矩は常に家光の御前に在って治国平天下の道を年来教諭していた。それ故に
家光は彼を尊信していたのである。

柳生宗矩が老年に及び重病となった時、忝なくも将軍家光は自ら宗矩の屋敷に赴き枕元に座って
病の様子を尋ね、その後

「汝の教導のおかげで、私は平天下の道を知ることが出来た。」

そう語って聞かせた。

正保3年3月の終わりに、宗矩は死去した。この時家光は、従四位下に贈位を仰せ付けたそうである。
その後、事に触れては

「宗矩が存生していれば、この事を尋ねたいのだが。」

などと語り、宗矩の事を思い出していたという。

(明良洪範)




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 11:55:10.33 ID:MiYzqIo8
>>28
逸話に突っ込むのもなんだけど
宗矩が徳川に仕えたの関ヶ原の4年前だよ
関ヶ原の戦功で二千石もらってるし

柳生但馬守に聞いておいた心得

2014年09月10日 19:00

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 17:40:38.76 ID:Uhlc6+Ql
島原落城の時、牧野伝蔵(成純)は一番に進み、二の丸と本丸との境の、
右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。

そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、

伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。

伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。

その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。

――『明良洪範』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 06:39:47.84 ID:c+C10CCG
漫画みたいな心得だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 07:25:06.47 ID:xVOMU0vb
心得
「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ

倅推参なり

2014年03月26日 19:19

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 18:39:11.46 ID:8AIZ5yGq
徳川家光が品川御殿へ御成りになり、柳生但馬守(宗矩)が御供して剣術を上覧した。
御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。

その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。

それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。

家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、

二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。

但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。

この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。

飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。

結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。

――『明良洪範』





はかりごとは兵法の根本である

2013年10月31日 19:20

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:20:33.35 ID:j8lfx3zP
はかりごとは兵法の根本である。
このはかりごとは、相手がはかりごとだと思っていても、仕掛けていくと相手が乗ってくるものが本物である。
仕掛けておいて、こちらの術中にはまったところで勝つことだ。
はかりごとに相手が乗らなければ、次の手の仕掛け方が考えられてくる。
だから、こちらのはかりごとに敵が乗らないこともまた
こちらのはかりごとに乗ったということにもなるのである。

(柳生宗矩 兵法家伝書)   




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:22:37.27 ID:wfXyVMsk
四路五動を逆から見るとそうなるのか、なるほど

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 00:15:34.89 ID:GxSX+h7O
>>451
元就の調略じゃー!ってやつか

何を思って声を掛けたのか

2013年09月09日 19:53

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/09(月) 10:54:05.28 ID:j9AOOZfr
昔日、東武御能に諸侯が威儀を調えて着座し静まり返っていた所へ
その頃の観世太夫が幕から出てきたのを、列席のなかからイヤと声
を掛けた人があった。

おごそかな席で軽率な事をしでかしたのは誰であろうか、御不興を
蒙るのではないかと、各自が唾を飲み互いに顔を見合わせたが誰が
言ったのかは判らなかった。

案の定、御能が終わってから「先ほど列席のなかから声を聴いたが
誰であるか、何を思って声を掛けたのか」とのお尋ねであった。

その時、柳生但馬守が進み出て「先刻、観世太夫が切幕から出てきた
のを見た所、その気満ち満ちて一身の固めが隙もなく、中々容易には
立ち向かい難く見えましたので、御前を忘れ思わず声を掛けてしまい
ました」と申し上げると

「流石は但馬守、相応の褒めようだ」と言い、何の咎めも無かったと
言う。

(翁草)





無刀とは、其ノ二

2013年05月18日 19:55

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 02:27:27.59 ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。

無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。

無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。

柳生宗矩【兵法家伝書】