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これに宗矩が返し

2018年11月07日 19:39

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 20:02:18.74 ID:dQlWUsaT
柳生但馬守宗矩の弟(実際には甥)である兵庫(柳生利厳)という者が詠んだ歌として、人の語るものに

「そのままに 理は有明の物としれ 開く扉に月ぞさやけき」

これに宗矩が返し

「出とも 月夜とならば暗からじ 見へて光のうつるにはなし」

と詠んだ。互いの剣術への考えを伝えたものだという。

(士談)

双方深いことを言っている気がするがさっぱりわからん



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 21:47:15.43 ID:0PROuOj4
月影か
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東海沢庵の事蹟

2016年09月19日 18:46

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/19(月) 16:11:52.63 ID:1AA2sznt
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)



古観世大夫の堪能

2016年08月29日 17:08

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:32:04.64 ID:1ZZownvI
観世大夫の堪能

ある宴の中である人が話した。

猷廟(家光)の御時の事である。
観世大夫は猿楽に堪能であった。
そこで、猷廟は柳生但馬守(宗矩)に仰せられた。

「観世の所作を見よ。もし彼が心に隙間があり、”斬るならここだ”と思ったら申せ」

但州はかしこまって所作を見届けた。上意で

「いかがであったか」

と問われると、但州が答えた。

「始めから心をこめていましたが少しも斬るべき瞬間はありませんでした。
しかし舞の中で、大臣が柱の方で方向を変えましたとき少し隙間がありました。
あの所でなら斬り遂げることができましょう。」


 観世が楽屋に入って

「今日見物の中に一人、我が所作をじっと見ていた男がいた。何者か」

と言う。傍らから、

「あれこそ名高い柳生殿よ、剣術の達人である。」

と言うのを聞いて観世は

「だから我が所作を目を離さずじっと観ておられたのか。
舞の中で方向を変えた所で少し気を抜いていると、にっこりと笑われので、
理解できないことだと思っていたが、やはり剣術の達人であられたか。」

と言った。

後に猷廟がこれを聞かれて、御感悦されたという。

(甲子夜話)

そういえば、宗矩は能が好きだという話でしたね



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:33:46.64 ID:d+dwh2jF
>>128
こういう逸話好きだ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 18:13:49.13 ID:5iFImsmR
似たような話が江戸時代にもあるな
渋川流柔術二代目の渋川胤親が初代市川團十郎の歌舞伎を見て
「團十郎の立ち回りの動きは素晴らしい、あの動きなら私でも組み伏せることはできないだろう」
と言ったため、市川團十郎の評判がますます高まった。
しかし元禄17年2月19日、市川團十郎は舞台の上で役者の生島半六により刺殺。
「市川團十郎の動きには隙がないのではなかったのか?」
と尋ねられた渋川胤親は
「役者が隙のない動きを見せると言ってもそれは立ち回りの際の一瞬のことにすぎない
われわれ武道家はそれを絶えず行わなければならないからわれわれの価値があるのだ」
と言ったとかなんとか




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 14:56:02.26 ID:CL0LzVRD
>>128
柳生一族の能好きは宗矩に限ったことではない
柳生一門で武術修業した兄弟弟子に能のプロ金春流宗家金春七郎氏勝がいる
おそらくはこの七郎が、柳生一門の宗矩と同世代の中では、エースだった
柳生兵庫助は、自分の門下で目を惹く才能を感じた逸材に対して「七郎の再来」と期待を寄せたほど

宗矩にとってはかつて身近に能のプロがいて(過去形なのは、七郎は早逝したため)、
なおかつそれが武術の達人であったため、
能の武術的な動きに対する評価は非常に辛いものだと考えられる
そんな宗矩から合格点を出されたと解釈できる

梁の武帝が達磨に対面された通りに

2016年06月30日 16:06

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 09:14:07.33 ID:xdkSpOUE
 上様が沢庵和尚をお召されたころである。
如何様に応対するのがふさわしいかと、柳生殿が内々に尋ねられた。
沢庵和尚は

「梁の武帝が達磨に対面された通りにしてください」

と申した。
 その時の応対とはどういうものかと柳生殿は次々と尋ねられると、
甚だ仰山に重々しい事であることがわかった。

「それでは余り御崇敬が過ぎますので、いますこし軽くするべきではないか」

と柳生殿は申されると、和尚は

「あなたはそのようにお思いなられるだろうが、当将軍家を武帝ほどには私は思っていない。」

と申されたという。

 しかしながら、沢庵和尚は元来生臭坊主ではありませんでしたので、
江戸逗留の間は柳生殿の長屋に居られ、登城の際には下男を一人連れるだけだというので、
後に上様はそれは余りに粗末な事だと、別に旅宿を仰せ付けられ、
ついには和尚のために東海寺を御建立された。
末代には稀な智識である。

(本阿弥行状記)



柳生家門番の事

2016年06月15日 13:16

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 00:08:01.21 ID:bTZypxN7
柳生家門番の事

あるとき但馬守(柳生宗矩)の方へ沢庵がきた時に、門番所に一首の偈が張ってあった。

『蒼海魚竜住、山林禽獣家、六十六国、無所入小身』

「おもしろい文句であるが、末の句に病がある。」
と沢庵は口ずさむと、門番が
「いささかも病はない。これはそれがしの句である。」
と答えた。
沢庵は驚いていかなる者か次々と尋ねると、朝鮮の人で本国を奔命して日本に渡り、
但馬守方門番をしているとのことであった。

但馬守は聞いて、
「どうして入る所が無い事があろうか」
と二百石与えて、侍に取り立てたという。
今でも柳生家に子孫がいるとか。
(耳袋)

一体どの家なんでしょうか



殺害の気

2015年10月22日 10:43

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 01:39:43.03 ID:KVTBlHJd
ある時、柳生宗矩は児小姓に刀を持たせ、庭の桜が盛りに開いているのを賞して余念なく見入っていた。

この時、児小姓の心中に「いかに天下の名人であられるといえども、今この刀で後ろから切るならば、
どうして戦いなさることができようか」と思う念が浮かんだ。すると、宗矩はきっと四方を見回して
座敷に帰り、甚だ不審な様子で床の柱にもたれ、物を言わずに一時ばかりを過ごした。

それを近習の面々は皆恐れ怪しみ、「あるいは狂気などであろうか」と呟いた。用人の某は進み出て、
「先刻より、ご様子がいったい何なのか常ならぬように見えます。どのようにか、思し召しのことでも
おありなのでしょうか?」と、言った。

これに宗矩は、「そうなのだよ。ここに不審の晴れないことがあるまま案じているのだ。私は長年の
修練の功により、敵対する者の思うところが、まっさきにこちらの心に通じるのだ。そして、先ほど
庭の桜を眺めているうちに、ふと殺害の気が通じた。側を見ても犬一匹いない。ただこの児小姓がいる
だけである。それ故に、いぶかしさに心も快からず、思案してこの様子なのだ」と、言った。

その時、児小姓は進み出て、「今となってはどうして隠すことができましょう。恐れ入ることですが、
先刻そのように妄念が浮かびました」と言った。宗矩は表情を和らげ、「これで不審は晴れたな」と言い、
立って内へ入り、児小姓に対して何の咎めなどもなかったという。

――『撃剣叢談』



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 21:18:38.10 ID:WDN4Jz30
>>855
その逸話パタリロにも出てたな

松田の首を我にたむけよ

2015年09月24日 12:54

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 18:48:09.85 ID:Vnf8H2W3
 織田殿の時、柳生宗厳は大和の守護筒井入道順慶に属して所々で高名を上げていた。関白秀吉が天下を支配されて当国をことごとく御弟秀長大納言に差し上げられたときに、
柳生の譜代の郎等松田という者が告白したので、柳生の庄に隠田をもっていた罪により累代の所領が没収された。
宗厳は口惜しいと思い、三人の息子に、
「どうにかしてお前らは本領を安堵し、松田の首を切って我にたむけよ。」
と言った。宗矩が再びこの地を領ずることができると、松田を搦め取って荘田という郎等に首を刎ねさせたという。
(藩翰譜)



360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/23(水) 19:03:31.29 ID:LqYxB5NU
へえ身内の告発だったのか

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 17:07:48.14 ID:o04kW+Do
山しかねえ領地なんだから棚田くらい勘弁してやれよ
それか加増とか言って申告以上実高未満のところに配置換えとかなw

柳生但馬守の心得

2015年01月01日 17:18

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 10:10:35.76 ID:5l+6ijwo
島原の乱、原城落城の時牧野伝蔵は一番に進み、二の丸と本丸の境で、右の方の城戸より本丸に入ろうとした。
しかし敵方から大石が激しく投げられたため、少し退いて堤の影に立って様子を見ていた。
ここで立花勢が堤の上に上がり敵方に激しく鉄砲を撃ちかけたため、敵が少し動揺した所を、伝蔵は十文字槍を取り直し
本丸の下まで突入した。ところがそこに、傍らの洞穴から敵兵が出てきて、鉄砲を向けて『近寄れば打たん』と構えた。

牧野伝蔵はかねてから柳生但馬守(宗矩)に聞き置いた心得があった。彼は鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。
敵兵は伝蔵が近づくのを見て鉄砲を撃ちはなった。しかし銃弾は槍に当たり、伝蔵を逸れ肘をかすって外れ飛んでいった。
そしてそのまま敵を一槍に突き伏せた。
(明良洪範)




柳生宗矩の事

2014年10月12日 18:51

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 19:30:35.77 ID:F+D6IqKH
柳生但馬守宗矩の柳生氏は、代々大和国柳生の庄を領する一族であり、徳川家に仕えたのは
関ヶ原の一乱の後であった。
徳川家光は若年よりこの柳生宗矩を師範とし、すこぶる尊敬し信頼していた。

宗矩は家光の師であり、また剣術の名人であるから家光も尊信しているのだと、人々はみな思っていたが、
実はそうではない。宗矩は常に家光の御前に在って治国平天下の道を年来教諭していた。それ故に
家光は彼を尊信していたのである。

柳生宗矩が老年に及び重病となった時、忝なくも将軍家光は自ら宗矩の屋敷に赴き枕元に座って
病の様子を尋ね、その後

「汝の教導のおかげで、私は平天下の道を知ることが出来た。」

そう語って聞かせた。

正保3年3月の終わりに、宗矩は死去した。この時家光は、従四位下に贈位を仰せ付けたそうである。
その後、事に触れては

「宗矩が存生していれば、この事を尋ねたいのだが。」

などと語り、宗矩の事を思い出していたという。

(明良洪範)




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 11:55:10.33 ID:MiYzqIo8
>>28
逸話に突っ込むのもなんだけど
宗矩が徳川に仕えたの関ヶ原の4年前だよ
関ヶ原の戦功で二千石もらってるし

柳生但馬守に聞いておいた心得

2014年09月10日 19:00

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/09(火) 17:40:38.76 ID:Uhlc6+Ql
島原落城の時、牧野伝蔵(成純)は一番に進み、二の丸と本丸との境の、
右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。

そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、

伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。

伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。

その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。

――『明良洪範』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 06:39:47.84 ID:c+C10CCG
漫画みたいな心得だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 07:25:06.47 ID:xVOMU0vb
心得
「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ

倅推参なり

2014年03月26日 19:19

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 18:39:11.46 ID:8AIZ5yGq
徳川家光が品川御殿へ御成りになり、柳生但馬守(宗矩)が御供して剣術を上覧した。
御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。

その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。

それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。

家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、

二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。

但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。

この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。

飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。

結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。

――『明良洪範』





はかりごとは兵法の根本である

2013年10月31日 19:20

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:20:33.35 ID:j8lfx3zP
はかりごとは兵法の根本である。
このはかりごとは、相手がはかりごとだと思っていても、仕掛けていくと相手が乗ってくるものが本物である。
仕掛けておいて、こちらの術中にはまったところで勝つことだ。
はかりごとに相手が乗らなければ、次の手の仕掛け方が考えられてくる。
だから、こちらのはかりごとに敵が乗らないこともまた
こちらのはかりごとに乗ったということにもなるのである。

(柳生宗矩 兵法家伝書)   




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:22:37.27 ID:wfXyVMsk
四路五動を逆から見るとそうなるのか、なるほど

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 00:15:34.89 ID:GxSX+h7O
>>451
元就の調略じゃー!ってやつか

何を思って声を掛けたのか

2013年09月09日 19:53

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/09(月) 10:54:05.28 ID:j9AOOZfr
昔日、東武御能に諸侯が威儀を調えて着座し静まり返っていた所へ
その頃の観世太夫が幕から出てきたのを、列席のなかからイヤと声
を掛けた人があった。

おごそかな席で軽率な事をしでかしたのは誰であろうか、御不興を
蒙るのではないかと、各自が唾を飲み互いに顔を見合わせたが誰が
言ったのかは判らなかった。

案の定、御能が終わってから「先ほど列席のなかから声を聴いたが
誰であるか、何を思って声を掛けたのか」とのお尋ねであった。

その時、柳生但馬守が進み出て「先刻、観世太夫が切幕から出てきた
のを見た所、その気満ち満ちて一身の固めが隙もなく、中々容易には
立ち向かい難く見えましたので、御前を忘れ思わず声を掛けてしまい
ました」と申し上げると

「流石は但馬守、相応の褒めようだ」と言い、何の咎めも無かったと
言う。

(翁草)





無刀とは、其ノ二

2013年05月18日 19:55

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 02:27:27.59 ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。

無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。

無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。

柳生宗矩【兵法家伝書】





無刀取りとは、

2013年05月17日 19:52

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 13:54:00.33 ID:kROGa/BJ
柳生流と言えば無刀取り。
近頃は町人たちもその様に言う。
しかし無刀と言っても必ずしも、
相手の刀を素手にて奪う技ということではない。
こちらが刀を使えない時にでも、
他人に斬られないということこそが本意である。
相手は刀を持ち、こちらは素手だから、
相手の刀を奪ってやろうとするということではない。
相手が、素手の者に刀を奪われないぞとするところを、
そのままにし、刀をあえて奪わないのも無刀の技である。
刀をけして奪われはしないぞ!と意識する者は、
刀を奪われないことに意識が集中するゆえに、
人を斬ることに意識がいかなくなる、そういうものである。
柳生流は斬られないことをこそ勝ちと定義する。
素手で刀を取るなどは芸人の道理だ。
無刀取りとは、ただ自分が刀を使えないときに、
他人に斬られないようにする工夫のことである

【兵法家伝書】




306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 14:54:10.96 ID:MD13DrHo
「あら?そうなの?じゃあちょっとあーた本物の無刀取り見せてくださる?」

古の言葉にこうある。

2013年05月06日 19:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 12:11:19.22 ID:rbk7QNbd
古の言葉にこうある。
兵は好ましくないことである、と。
間違いない。天もこれを憎む。
しかし、やむにやまれぬときこれを用いる。
これもまた天の道である。
これはどういうことかと言うならば、
弓矢、太刀、長刀、これを兵と言い、
これらは不吉で好ましくないと言うことだ。
それはなぜかと言えば、
天の道は万物を活かす道であるから、
殺すということは実に好ましくないことである。
だからこれは天の道に違うことであり憎むという。
然れども、やむにやまれず兵を用いて人を殺すことを、
これもまた天の道という。
その心は、と問われ答えるならば、
春には花が咲き、緑が溢れるものだが、
秋には霜が来て、葉は落ち、木はしぼむ。
これ、天の成敗なり。
天には完成(極点に至った)したものを、打つという道理がある。
人も運命のなかで仕方なく悪をなしてしまうこともある。
しかしその悪も極点にまで至れば、これを討つ。
ここをもって、兵法も天の道であるとわかる。
一人の悪によって万人が苦しむことがある。
して、一人の悪を殺して万人を活かす。
是のように、人を殺す刀は、人を活かす刀であるべきだろう

柳生宗矩 兵法家伝書序文より】




215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 22:05:08.64 ID:xw7xX6oa
>>201
「兵法家伝書」の柳生宗矩の言葉だとこれと
「目的が正しければ謀(はかりごと)も真となる」みたいなのが好き
他の剣豪の言葉と(良くも悪くも)一線を画してる感じだけど

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 22:07:42.56 ID:T9McTrWu
影武者徳川家康じゃないが、
柳生が幕府の隠密あつかいされる理由がわかった気がする

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 11:44:46.31 ID:R4tdSUWV
宗りんは権の人じゃろ?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 12:33:58.42 ID:d39vHQ9f
>>217
柳生宗矩は創作だと「権」を強調されて「剣」はいまいち扱いされがちだけど
当時の評価は剣豪としてもぶっちぎりに高いよ

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 12:46:39.42 ID:Wm0auKVY
独眼竜政宗で白刃取りした時は子供ながらにえっ?ってなったが

大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」

2012年08月09日 20:52

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 17:28:45.09 ID:mHVSUtao

柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。

当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。

そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
「但馬殿、いざ参らん!」と言った。

困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。

「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。

それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」

当然、宗矩は仕合?を断ったという。

――『名将言行録』




874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 17:47:44.17 ID:wJrs8txV
いつみても嫉妬心丸出しのヤな奴だな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 17:50:36.94 ID:cu3uAtem
古豪や剣豪でよくあるような逸話なのになんでここまでダサくなるのか

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 18:00:10.69 ID:Mds0W+dQ
これはおそらく、可児才蔵が決闘申し込まれて決闘の場所に完全武装した上郎党20人引き連れてきたって話の
改変バージョンなんだろうな。


877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 18:18:12.82 ID:89E4OFzW
>>873
断られるのは織り込み済みなんだろな・・・

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 18:32:13.63 ID:XH7TY4VB
清正バージョンもあったよね

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 19:16:04.43 ID:FWGx8qE2
キンギオブ面倒臭いが彦左衛門でいいのかな?

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 19:23:10.49 ID:f6Gh6SYK
>>875
突っ込み待ちで嫌味をだらだら語る逸話が多すぎるからかしらねえ…

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 19:31:06.39 ID:bvZQLNg7
大久保彦左衛門ってなんかイメージ悪いなw

この人って失脚した人だっけ?

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 19:54:06.01 ID:eXaOyBTq
幕末から明治にかけて大久保彦左衛門ブームというのがあって、どうもそのころ、硬直化した組織の中で
上に向かって物の言える人間というのが求められていたらしく、そのシンボルとして彦左さんが注目されたらしい。

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:05:19.62 ID:o1YlFD6e
大坂の陣でふつーに鎧武者を9人切り倒してる宗矩なら、その気になれば彦左衛門ぐらいどうにでもなるんだろうけど。
新参の宗矩が譜代の面目を潰すわけにもいかないよね。

可児才三とどっかの武芸者なら、戦場往来の古強者が薄肌剣術の隆盛に物申すいい話になるけど、宗矩と彦左衛門だと
新参者にパワハラする老害の話になる。


884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:13:56.40 ID:eXaOyBTq
まあこの話の作者が意図した解釈は、『将軍家指南役であり将軍側近でもある、権威も権力も極まっている
柳生宗矩に一本食らわした』という痛快な話としてのものでしょうな。

あまり難しく考えずに、一休さんのトンチ話と似たようなものだと思えばいいw

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:15:49.10 ID:V1MseDbz
老害って・・・
イメージで決めつけすぎ

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:16:33.94 ID:j4ZhLhzB
小野忠明「なら俺と仕合しようぜ!彦左衛門殿。」

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:16:35.33 ID:nAeyhI04
一応言っとくけど名将言行録は民明書房のようなもんだぞ。

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:19:45.11 ID:j4ZhLhzB
>>887
違います。

名将言行録 > それまでの逸話をまとめたもの
民明書房 > 完全妄想

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 20:55:04.80 ID:Yz7ZaWV4
まさむね「では某と一つ相撲でも…」

890 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/08(水) 22:18:15.03 ID:trKb4po3
>>888
まぁ、あと200年もすれば同じ扱いになるからwww
というか、幻の『民明書房』を探すことに一生を捧げる研究者がでるかもしれんぜw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 22:44:02.33 ID:SnIlGC2o
首切り茂吉も伝説になるな

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 23:30:27.45 ID:FWGx8qE2
民明書房だろうが本物の文章だろうがまーくんのイメージはさほど変わらないだろうなw

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 00:02:31.57 ID:3gqbyJV6
>>886
大人げない小野忠明vs嫌味ったらしい彦左衛門

二人の対決を呆れ顔で見ている

宗矩と横田甚右衛門

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 03:00:08.61 ID:P7WzNdAJ
>>873
おお、 三河者の精神が形になったようだ

895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/09(木) 09:23:06.12 ID:awAqdDYX
宗矩:めんどくせぇ~なぁ~ 

近衛信尋公、無双の美少年成りし故

2012年04月29日 21:08

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 16:46:59.81 ID:XSm62Ux7
新井白石の『白石先生紳書』より

『近衛信尹の養子にて、後陽成天皇の第四皇子であった近衛信尋公と言えば、御幼少の頃無双の美少年であったので、
伊達政宗、並びに藤堂高虎、柳生宗矩といった人々は、上洛する時は常に、心やすく出入りしていた。』

(応山公(信尋)御幼少の時に、無双の美少年成し故、政宗、并 藤堂泉州、柳生但馬等、常に上洛の時は、
心安く出入り有し。)

『中でも伊達政宗などは、このようにせっせと訪問したため気に入られ、大変に睦まじい仲となって、ひとしお昵懇の
間柄であった。
そうであったので今でも近衛家と伊達家は家礼関係(公家の間の一種の主従関係)を結んでいるのだという。
藤堂高虎は、信尋公の以前の邸宅を造営してさし上げたそうである。』

(政宗などこれを以ってや亦り給ひけん、限りなくむつまじくなりて、一入昵懇の御事也。干今(いまに)御家礼申給ふ。
藤堂此前の亭を造営してまゐらせしなり。)


近衛信尋に対して、柳生宗矩は28歳差、伊達政宗は32歳差、藤堂高虎にいたっては43歳差である。
こんな、孫みたいな高貴で学識豊かな美少年に、戦国乱世を生き抜いたいい年したおっさんたちが
メロメロになっていたわけである。貴種で美形だと、なるほど無敵なのである。

どうでもいいが、ここでもやっぱり伊達政宗の表記は「政宗」である。政宗と書かないといけない決まりでもあったのか?
そんなこともふと考えさせる逸話である。




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 16:57:52.38 ID:TbMbEuJJ
東の政宗、西の輝元

あと名前で直接書かれてる人っていたっけ?

柳生宗矩「兵法の極意」

2010年09月14日 00:01

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 20:47:52 ID:kWNHI+30
戦国の遺風が色濃く残る開幕直後、将軍家指南役たる柳生宗矩のもとに剣術の訓練をしたことがないと称する
一人の入門志願者が現れた
しかし、その男の一挙手一投足を見ると、尋常の使い手ではないことが伺える。怪しんで追及すると
「武士は死を恐れてはならぬと父から強く教えされ、数年それを心がけ、今では死を恐れなくなりました」 と
宗矩は「それこそ兵法の極意にござる」として、即座に免許皆伝を許した




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 21:16:02 ID:rkiERr1p
>>42
>「武士は死を恐れてはならぬと父から強く教えされ、数年それを心がけ、今では死を恐れなくなりました」
もしこれが立花宗茂だとしたら・・・

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 22:10:46 ID:W1nF5BK0
>>42
武田信繁が書いた九十九箇条のなかで戦場では、
「命を惜しむ者がかえって死ぬ羽目に至り、死をいとわぬ者がかえって生をまっとうするものだ」
という呉子の兵法を紹介してるね。
葉隠の「死ぬこととみつけたり」もそうだけど、武士の言葉は表裏どちらでも意味の通じるものが多いと思う

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 22:54:02 ID:T4JGGBs9
>46
現代の歩兵の戦術を書いた本を読んだことあるんだが、その中で
「待ち伏せを喰らった場合は、撃ってくる奴の方へ即座に突撃せよ」
ってのがあったのを覚えてる。

何を馬鹿な、と思ってよく読むと
「逃げても弾より早く走れるわけじゃなし、何か仕掛けがしてあるかもしれん方に行くよりは、
撃ってる奴らの後ろに回り込んで、そいつらを始末した方が生き残る率は高くなる」
って言う理論なのな。(もちろん状況によって何パターンか対処法は違うんだけどね)

意味合いは違うかもしれんけど現代にも通じるものがあるんやね>死を恐れない奴の方が生き残る