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勝敗は互いに天運に任せ候

2018年09月12日 22:06

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 17:10:37.08 ID:48VXc6XE
(山崎の戦いの時)

羽柴方総軍3万5千5百余騎は龍の雲を得て虎の風に嘯く猛威にて、6月12日に摂津尼崎を打ち立ち、
先陣はすでに山崎天神の馬場芥川辺りに充満したため、後陣はいまだ西宮清水の辺りに妨げられた。

その日の晩景、秀吉から光秀の洞ヶ峠本陣へ堀尾吉晴が使者として申し遣わされた。

「光秀が叛逆して主君・信長公御父子を弑逆奉る由を、備中高松城で承った。秀吉は不肖の身ながらも
いやしくも人の臣として、主君が弑逆にあわれたのを他所に見ることはできない。すみやかに叛臣を

誅戮して亡君の御憤りを安め奉らんと夜を日についでここに参着した。明くる13日、久我畷辺りにて
互いに雌雄を決せんと、その旨使命を通ずるものなり」

光秀も柴田源左衛門雄全(勝定か)をもって返答した。

「よくよくの御使者もっとも祝着するところに候。光秀が織田殿を恨み奉ることは世の人口に膾炙する
ところであり、今更事新たに申すに及ばず。明日の合戦は光秀の本望これに過ぎず。

勝敗は互いに天運に任せ候」

光秀はこのように使者を返し、急いで明日の合戦の手配を行った。

――『改正三河後風土記』


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柴田源左衛門勝定、勝家に追放される。その理由とは?

2010年11月08日 00:00

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 22:56:16 ID:XNFL6uOv
柴田源左衛門勝定、勝家に追放される。その理由とは?

天正七年のある日、近江坂本の明智長閑斎、その子十郎左衛門光近のもとに
柴田源左衛門と名乗る者が一族郎党百余騎随え訪ねて来た。
自分は故あって主君勝家に改易されましたので、明智家に仕官したいと願い出る。
この源左衛門、明智左馬助の妹を娶り、十郎左衛門もまた左馬助の妹を妻として
いた縁により越前より頼ってきたそうな。
十郎左衛門の父、長閑斎は明智光秀の伯父であったので、源左衛門の願いを聞き
光秀と引き合わすこととした。
さて光秀、源左衛門と対面して尋ねられる。
汝の先君柴田殿は北陸を平定してこれを良く治め、威勢盛んであると聞くが、其方
いったい何をして越前を立退くこととなったのか。
源左衛門勝定これに答えて申すには、勝家様は領内を統治するにあたって家臣の所替を
決められました。その中にそれがしも含まれており越中木船の城へ遣わされることと
なりました。けれども実はそれがし寒いのが苦手でございまして、元居た越前安居
でさえ難儀していたところ、今度は越中と聞き、これより寒い所に行くのは困ると
訴えたのですが、勝家様は既に決めたことであるのに命令に背くのかと甚だ立腹され、
たとえ一族の者であっても聞き届けるわけにはいかないと、それがしに暇を言い渡され
たので越前を立退き参ったのです。と。
光秀はこれを聞いて、それならば当家で召抱えようと、彼を丹波の国柏原の城に
入れ置かれました。

以上、寒がり柴田源左衛門のお話でした。上の方で明智軍記のことが出ていたので
便乗仕り候。想像力を働かせれば勝家なりの気遣いと思えなくもないが、こっちに
投稿します。なお、寒がりと書いたけど、原文では寒気を痛むる持病候てとあるので
もしかしたら病気か何かかもしれない。
余談であるが、この源左衛門、本能寺の変後も光秀に属し山崎合戦に従軍。光秀が
滅ぼされてからは堀秀政に仕え越前へ、久太郎没後は子の秀治に仕え越後へとどんどん
寒いところにいってるわけだが寒気痛むる持病とやらは治ったのだろうか・・・?




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:04:27 ID:F7kNdUSJ
この主君に仕えていては危ないと言う悪寒がしたと言うことかw

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:09:32 ID:OokD/8Qd
当時の暖房や衣服の貧弱さって洒落にならないからなw
さらに雪を掻き分けて戦場に出ることを思うととんでもない寒さだろうよw

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:20:46 ID:F8HkL/TZ
ちょっと面倒な骨折したことがあるんだけど、寒い日には
本気で涙目になるほど痛むからなあ・・・

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:31:16 ID:OIfE65EY
漢よといわれた傷が秋を知る という川柳を思い出した。