秀吉の才用は、かくこそ

2017年07月15日 11:25

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/15(土) 08:38:23.91 ID:NrgiGGBk
清州会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる中、勝家の家臣・毛受荘助(勝照)が請い受けて
秀吉への遣いとして向かった。これは、秀吉のこれまでの動向は心得がたいものであり、
対面すれば押して刺し違えんと考えたのである。

こうして毛受が到着すると、秀吉は察した
「あの毛受は心早く勝れた勇士である。今度の使節としての来訪も、何らかの心持ちがあるのだろう。」

彼は毛受を招き入れ、毛受が出て来るや、脇差も差さず色代まで不意に現れ

「遠方よりのこの度の使節、浅からぬ思いであるぞ。」

そう言って毛受の手を取り、限りなく懇ろに連れ立って奥の席に招き、先ず勝家の安否、
そして今の互いの考えなどを語り、それから料理を出して饗した。

毛受は秀吉と刺し違えることを決心していたのだが、不意に傍に引き添えられ、様々な懇情を受けたため、
先ずはそれへの謝礼に及んだ。
そしてその後、再び秀吉が近づいてくる事を待っていたのだが、以降秀吉が近づくことは全く無く、
毛受は本意を失って帰っていったという。

この話は事実かどうかは解らないが、秀吉の才用は、かくこそと思われる。

(士談)


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一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


近頃、良将と言い慣わしているのは3人である

2017年04月07日 09:09

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 07:40:50.80 ID:QSR6vaY2
近頃、良将と言い慣わしているのは3人である。

明智日向守(光秀)、柴田修理亮(勝家)、石田治部少輔(三成)である。

この3人は天下分け目の合戦をしたからだろうか。

――『武功雑記』


796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 11:41:48.62 ID:JGVRCPsM
光秀は統率力はあるが人望がなく
勝家は人望はあるが統率力がなく
三成はどちらも足りなかった

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:15:53.54 ID:MegIC7/H
三陪臣の知恵、勇気、大志になぞらえると
光秀:知恵と勇気はあるが大志が欠けている堀直政タイプ
勝家:勇気と大志はあるが知恵が欠けている直江兼続タイプ
三成:知恵と大志はあるが勇気が欠けている小早川隆景タイプ

それぞれ一度は敵対したことのある相手のような

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:35:17.52 ID:5LsjIhpR
天下三陪臣は直政版は言行録だけど、成立した時代の早い葉隠の直茂版の方が正確そう
堀直政って隆景や兼続とならぶくらいの功績を挙げてるの?

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 13:07:31.94 ID:D1fqJLWP
名将言行録につっ込み入れるのは野暮

その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな

死せるエムベロルの妻の弟なる柴田殿

2016年02月18日 18:02

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 16:53:07.51 ID:gfgaEMBE
死せるエムベロル(織田信長)の妻の弟なる柴田殿(Xibatodono)は、信長の遺族中、最も近い
親類であったが、羽柴藤吉郎の行為を快からず思い、力を極めて彼に抵抗した。ここにおいて、
藤吉郎は柴田殿を滅ぼさんとその居城を囲んだ。

柴田殿は突然攻撃を受け、免れる事ができないのを知り、将士を尽く集めて言った
「卿等は予の窮境をしらん。予は残虐なる暴王に屈せんよりは、むしろ自殺せんとす。
予の願う所は、予が死したる後は卿等が予を火葬するにあたり、不人情なる叛乱者をして
誇らしめるべき何者をも残さざるように成してほしいという事である。
卿等は生命を保たんがために如何なる談合を成すも可なり。」

しかし万座の者達は、柴田殿の決心を賞賛し、みな柴田殿の例に倣わんと決心した。

柴田殿は彼らの忠義に感じ、この世の別れとして宴をおこない、食卓上には様々な肴を具え、
ある限りの楽器を鳴らし、彼らの好む茶、および酒を飲み交わし、かくて饗応も静まるころ、
彼らは起きて各種の燃焼物を部屋に満たし、これに火を放つと、焔煙は屋を貫いた。

ここにおいて、残酷なる饗宴が始まり、柴田殿は先ず妻子、僕婢を刺殺し、あるいは重傷を負わせると、
彼の諸将もこれに倣って同様に親族従者を殺した。次に彼らはこれらの死骸を火中に投じ、その上に立ちながら
切腹して果てた。

時に藤吉郎は、城中に火災が起こったのを見て、偶然の失火だと思い好機を逸してはならないと
総攻撃を命じたが、門といい城壁といい何らの戦備も抵抗もなく、ただ未だ焼け終わらない
数個の死骸を見たのみであった。

藤吉郎は柴田殿の城を陥れて都に帰るや、最初の名の藤吉郎のみならず羽柴の名も改めて、
関白殿、すなわち日本の最上卿と称し、1594年以降は太閤様と名乗った。すなわち大エムベロルの事である。

(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本史より、柴田勝家の最期についての記述である。



彼を味方に引き入れよ

2015年02月02日 18:44

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 17:18:46.62 ID:v46v+ulg
賤ヶ岳の合戦の前、羽柴秀吉は湯浅甚助を呼び出しこう命じた
「汝は長浜に参り。柴田勝家の養子の、伊賀守勝豊の与力共に近づき、弁舌を以って彼を味方に
引き入れよ。伊賀守は、内々、佐久間(盛政)と不和であり、それ故に勝家にも恨みを持っていると聞く。
これ畢竟の幸いである。

何故汝を差し寄越すかといえば、前に長浜城を引き渡す時、伊賀守の家老与力らと、互いに親しく
語り合っていたためであり、それ以上に深い仔細があるわけではない。」

これに湯浅畏まり、長浜表に至って、勝豊の家老・徳永石見守、並びに与力の大境藤八、疋田左近、
山路将監、木下半右衛門、神谷越中守らに対面して、

『今度味方に参られれば、皆様は大名に取り立てられます。ことさら伊賀守様に対しては、
秀吉からは、以前より内々ご入魂に語り合う仲で、今以って些かも疎遠にしようと思っていないので、
各々が進めて秀吉に力を合わせるということになれば、先ずは当分の賞として越前国を参らせ、
その上で時期を見て、北國の総大将に取り立てたいと考えていると言われました。
それ故に、このようにあなた方に申し入れたのです。』

甚助はそのように弁舌を振るい、朝夕に親しく語りかけたので、やがで各々も同心し、主人勝豊に
秀吉の考えを詳しく申し述べて、それに同調するよう勧めた。
しかし勝豊はこれを聞くと
「秀吉がいかに懇切に申されると言っても、父に向かって弓を引く道理があるべきものか。」と
それを喜ぶ気色は全く見えなかった。

それでも右の者達は、勝豊の前に代わる代わる進み出て
「殿の仰る通り、父子に仲違いが在ったからと、敵方に与力遊ばされるのは、我々が無道であるかのように
思われることでしょう。

ですが、殿にはご病身であられる故に、かねがね勝家公の御前も遠ざかられ、父子の御仲も疎遠に
なられたように見えます。
一方で佐久間(盛政)殿は、加州表で優れた働きがあったため、大身と成られ、家中の者達も
甚だ以って尊崇しております。

それに引き換え、殿は勝家公には疎まれ、家中の面々にも、有り甲斐もなく思われており、何の
御面目がありましょうか。

その上勝家公には、御実子である権六殿もいらっしゃいますから、行く末も良き事はないでしょう。
また、勝家公は武略知謀も類ない方ですが、現在は御簾中と成られた小谷の御方(お市)の容色に
耽られ、軍の駆け引きも、以前と違いはかばかしいご方便も無いように見えます。

一方の秀吉公の業績を見るに、知謀勇決は古今に優れ、民を憐れむこと堯舜の如くであり、
殿が日頃から彼と昵懇であるのは幸いの事です。今度の招きに応ぜられ、御合力なされば、秀吉も、
よもやその恩賞を忘れることはないでしょう。行く末北国の総大将と成り給われば、誠に以って
目出度き事ではありませんか。
例え殿がご立身なさらなかったとしても、今度の合戦に秀吉公がお勝ちになる事、鏡に映すように
見えております。
また、無道の父を討ってその子を取り立てる事も、和漢にその例多くあります。

とにかく、行く末頼もしからぬ勝家公に従うよりも、秀吉に与する事こそ、然るべきと存じます。」

このように、様々な言葉で勧めたため、勝豊も終に欲心に引かれ本性を取り失い、
「私もよく考えて見れば、汝らが言うところ、尤もに思う。この事、良きに取り計らうように。」
と認めたため、家老与力の面々大いに喜び、急ぎ湯浅を招いて同心する旨を語り、宜しきように
頼み入ると述べたため、甚助は「仕済したり」と早々に帰り秀吉に報告すると、大いに喜ばれ、
勝豊に来國實の太刀に金子三百両を添えて贈り、その他家老・物主(指揮官クラス)達にも、名作の太刀に
黄金を相添えて先々の事も含めて、当座の褒美として贈った。
(余吾庄合戦覚書)

秀吉による、柴田勝豊寝返り工作についての記事である。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 18:37:02.40 ID:QJ6jOJwH
秀吉「幼君担いじゃったけど、異心とかないから。」
柴田「異心ないなら、お前さんの近江の本拠地である長浜城もわしによこせよ」
秀吉「おうあげる。ただしお前さんの息子の勝豊さんを城主にしろ」
柴田「いいとも。よっしゃ、秀吉の居城を奪ったったわw」

秀吉「ねえ、ぶっちゃけ俺と組まない?」
勝豊「えっ」
秀吉「あんたにあげた長浜城って長年俺の城だったからさー、あんたが知らない城の弱点とか抜け道とか全部知ってるんだよね」
勝豊「えっ」
秀吉「戦になったら一瞬で城を奪えるってことよ。親父さんは雪で支援にも来れないしさ、降伏して俺の仲間になんない?」
勝豊「えっ」
秀吉「知ってるよー、親父さんと折り合いがよくないってこと。後継者レースで旗色悪いんだってね。俺のとこに来たら柴田の家督はあんたに継がせるけど。」
勝豊「降伏します」
秀吉「よっしゃよっしゃ」

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 19:55:20.58 ID:wH2fpVQL
>>352
映画 清州会議見た後だとやっぱ勝家ってアホだなと思ったw

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:15:23.98 ID:9SXo73QX
そりゃ映画はそういうキャラ造形してるだけの話だから

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:52:28.59 ID:VHdjDGxt
信雄ェ…

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 21:44:47.01 ID:UPmazaXR
信雄なんてうつけを演じて生き永らえたからな
お陰で阿呆の役柄になっとる

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 12:49:50.16 ID:8X7Rn/qa
>>357
うつけを演じてなければ大織田家の跡取りになれたかもねww

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 13:00:16.44 ID:LIUZm0by
やっぱ鼻の毛が足らんかったんや

其仔細は大番袋に物を入、口をしめたる心にて、

2015年01月29日 18:44

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 23:27:10.96 ID:EPXENs12
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦い。4月19日、柴田勝家方の佐久間玄蕃(盛政)は羽柴秀吉方の大岩山砦を
攻め落とし、守将であった中川瀬兵衛(清秀)を討ち取った。

この注進は、岐阜にあった秀吉のもとに、その日の七つ時分(午後4時頃)には伝えられた。
これを聞くや秀吉は、岐阜城を織田信雄に任せ、まだ日の入らぬ内に、十三里の道を駆けつけた。

日暮れに地蔵山の走り矢倉へと上がり、「敵はどのように陣取っているか?」と尋ねると
「向かいに見える火の明かりも敵です。柴田殿の本陣はここからは見えません。
海端に火が多く見えるのは、中川瀬兵衛が陣取っていた場所だったのが攻め落とされ、
今は佐久間玄蕃が陣取っています。」と説明を受けた。すると秀吉は皆にこう語りかけた。

「ざっと済んだ!明日は皆々拾い首を取るように!
どういう意味かといえば、我々は今、大番袋(雑物を入れる大きな袋)に物を入れ、その口を閉めた
状況にあるのだ!

柴田もあれほどの軍勢を率いる人間であるから、今夜にはここに私が駆けつけたことを聞きつけるだろう。
そうなれば必ず、夜の内に引き上げようとする。そこに付け込めば敵は必ず敗北する。
鳥が歌う時分に、皆々、出撃の準備をせよ!」
(ざっとすみ候。明日は皆々ひろい首を御取せ候半と。其仔細は大番袋に物を入、口をしめたる心にて、
柴田も物仕にて候間、今夜是へ御懸付被成候を、聞可申候。然は夜内に引取可申候。御付候はば
敗軍可仕候間、鳥がうたい候て、皆々拵可申)

案の定、鳥が歌い出す時分に、佐久間玄蕃の陣は撤退のため取り騒いだため、秀吉方は競ってこれに
取り付き、まだ夜も明けぬ内に首を取り、夜が明けてから度々競り合いがあって、ついに敵を破った。

これは伊藤金左衛門の語った話である。
細川忠興軍功記)




細川忠興軍功記より、清須会議について

2015年01月28日 18:54

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 19:44:56.60 ID:tczRCWOg
山崎の合戦で明智光秀が滅びると、尾張国清州で、羽柴秀吉、柴田修理亮勝家が参会の上、
織田領国の国割を行うことに成り、織田三七(信孝)も岐阜より清須へ御出でになり、
羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田勝入といった人々はそれ以前から清須に参り、
柴田勝家を待っていた。

柴田勝家が清須に到着する期日がわかると、その日は植原次郎右衛門の邸宅の広間に
織田信雄織田信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田勝入らが御出でになり、柴田勝家が来るのを待っていた。
その広間の庭には、故信長・信忠父子の侍が、身分の大小共に、八百ばかり控えていた。

柴田勝家は堀重門より入ってきた。供の侍は三百ばかりであった。
柴田は縁に上がると角柱にもたれていた。柱の下には勝家の三人の甥達も詰めかけ控えていた。

信雄、信孝は座敷の間の内に居られた。秀吉は前から縁側に居た。池田、丹羽は前から御座の間に詰めていた。

秀吉は勝家に言った
「修理殿の御出を待って、御国割をしようと考えていたのですが、あなたの到着が遅くなり、
御両人様(信雄・信孝)より急ぎ国割をするようにとの仰せがありました。
信雄様は尾張に北伊勢を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。
信孝様は美濃に南近江を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。」

勝家はこれを聞くや怒った
「私への相談なしに国割を行うとはどういうことか!?そういう事をするのなら、その頭を押しつぶして
くれようか!?」
(我に談合なしに国割だてをいてくれい、其つれするならは、頭邊迄押くれう)

しかし秀吉
「私の頭を押しつぶすなど出来るものか!上様の御弔い合戦は私がしたのだ。笑わせる事をいうものだ!」
(我か頭邊押事成間敷候。上の御弔合戦が我か仕候。笑敷事申)
そう言い捨てた。

そこに、池田、丹羽が二人のいる殿中の間に入ってきた。信雄・信孝の兄弟も立ち上がって側に行き
「お前たち両人が、魚と水のように親しい関係にあることが、われら兄弟のためにも成るのだ。
そのようであってはならない」と諭した。
その時池田、丹羽が「急いで盃を出すのだ!」と言って盃を出させ、秀吉、勝家の両人に
盃を交わさせたため、その場は静まった。

その後織田信孝は秀吉にこう言った
「明日は修理も国に下る。その方も長浜へと帰るという。であれば岐阜にて、風呂を立てるよう
申し付けているので、帰りに立ち寄ってほしい。」

しかし秀吉は翌朝未明に清須を立ち、墨俣に馬上一人だけで着いた。墨俣の代官は、佐脇作左衛門の
親類であった。秀吉はそこに立ち寄り、湯漬けを食すと、乗ってきた馬を亭主の馬に乗り換えて、
そこから鈴鹿を左にして、水口を通り、その日は八幡山に出て、その夜、船にて長浜に到着した。
これは柴田勝家が国元へ帰るのを待ち受けるためであった。

柴田勝家は岐阜で於市様と祝言を相整えると、彼女を越前へと同道した。
長浜を通過という時、長浜の様子を聞いて、伊吹山の東面に沿った道があり、長浜を避けそこを通って
越前北之庄へと向かった。

これより、秀吉と勝家の関係に悪しき色が立ったのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興軍功記より、清須会議についての記事である。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 09:57:01.76 ID:acmwtuGF
三七殿の面目が丸潰れだな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:28:27.09 ID:YTE0kkux
三斎様はいろんなもの記録に残してるから立派かと思いきや、あれだからな。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:43:52.78 ID:fOARUKvb
>>315
源義朝の例があるしな
ああだから野間に幽閉させたか

フロイス書簡から、柴田勝家の最期

2015年01月20日 18:43

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 15:42:47.78 ID:0TlXsLFW
もうすぐセンゴクの勝家が死にそうなのでフロイス書簡から勝家の最期

六月三日、羽柴は勝利を保ちつつ全軍をもって越前国に侵入し、
柴田がわずかな手勢と共に逃げ込んだ北庄の城を包囲するに至った。

彼はすでに六十歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、
広間に現れると彼に侍していた武士たちに向かって、
「予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が臆病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、
 予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すことになる故、
 予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。
 もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう」
と簡明に語った。

一同、
「武士のみならず、その妻子までがことごとく必ずや彼に倣い、来世まで随従するであろう」
と答え、柴田はこれに対し、
「汝らが速やかに決心し、予と同じ意志であることを大いに喜ぶが、
 ただ心苦しく思うのは汝ら一同の予に対する愛情に報いる術がもはや今生においては得られぬことである」
と言った。

そして彼は数多くの馳走を運ばせて彼らに振る舞い、酒を飲んでは楽器を奏して歌い、
大いに笑い楽しむ様はあたかも戦勝祝いか、夜を徹しての宴のようであった。
城の各部屋と広間にはすでにたくさんの藁を積み、戸も窓もことごとく堅く閉じ、
城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。
城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。
事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く、信長の姉妹で数ヵ月前にめとった妻と
その他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己の腹を十字に切り、その場で息絶えた。
他の武士および彼と共に内にいた残る人々も皆、同様にまず己の愛する妻子を殺した。
すぐさま前述の歌に代わって、はなはだ大きな悲鳴と鳴き声が聞こえ、燃え広がる炎が生ずる音よりも高く恐ろしげであった。
彼らは幼い子供たちの年齢や涙を少しも顧みず、全員を殺した後、ある者は自らの手で、またある者は互いに差し違えた。
そして、この痕跡を消すべくただちに火の手が回り、同署にあった憐れむべき亡骸を焼き尽くした。
羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、
話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事の一切を目撃させた後、城の裏門から出して敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。




我らの主なるデウスの御摂理

2014年09月20日 20:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 21:08:08.82 ID:JyLJUgo+
織田信長の没後、その家臣で羽柴筑前守(秀吉)と称する者が天下の政治を
司る事になった。

彼(秀吉)は優秀な騎士であり戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
信長は彼をして毛利の諸国の攻撃に従事させ、既に4,5ヶ国を武力で占領していた。

羽柴秀吉には高貴さと武勲において彼よりも優れた二人の競争相手がおり、
彼はその競争相手を亡き者にしようと決意を固めた。そして先ず越前国の主君である
柴田殿(勝家)と一戦を交えてこれを滅ぼし、5,6千名の兵を殺した。
柴田自身は城に立てこもり、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである。

第2の敵は信長の息子の三七殿(信孝)であった。
三七殿には、かつての父の家臣であった羽柴に臣従することは、到底耐え難いことであった。
彼は美濃国の君主であり、2度にわたって羽柴に対して軍を起こした。
しかし羽柴勢が攻撃してくると、彼はそれに対向する軍勢を有しなかったので、
それまでいた兄弟に当たる殿(信雄)の城(岐阜城)を捨て、身内の武将のもとへ
援助を求めて逃走した。だが同行していたその家臣が、羽柴に忠誠を示すことによって
顕著な報酬に与ろうとして、途中三七殿を殺害してしまったのである。

これは明らかに、我らの主なるデウスの御摂理によることを示していた。

と言うのは、先にデウスはこの三七殿にキリシタンの教えについて大いなる喜びと
光と知識を授け給い、また彼自身も、キリシタンになる意向を度々表明し、
自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに広まるよう協力しようと言っていながら、
少しばかり栄えるとデウスに背を向け、心は全く悪に染まり、デウスに扶助を
求めるどころかそれを拒否し、魔術師のヴォミト(吐物)を求め、偶像を拝みに
走ったのである。

だが、デウスは突如としてそのような彼との絆を絶ち給い、それによって彼は
無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまったのだ。

ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝が滅んだのはキリスト教から離れたからだ、というフロイスの記述である。




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:22:30.77 ID:sUxkV9mz
死者には厳しいフロイスさん。ぶれないねぇ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 05:26:42.96 ID:5hFl6qT+
>>307
死者に厳しいのではなく、フロイスは人物評は基本的にその人物の死後に書くことにしている
フロイスいわく「日本では情勢の変化が激しすぎるからリアルタイムでは人物評なんか書けない」

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 06:54:20.06 ID:DLha5Ble
入信してもいつ棄教するかわからないから、という気がするが

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 09:28:39.06 ID:B86Odyjt
>>309
それは逆にはっきり書かなければならない事だから

柴田勝家の肖像画

2014年01月25日 18:39

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:29:53.95 ID:iQ6lVeQj
柴田勝家の肖像画

賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした

現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった

しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている

図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「面赤メ」等といった書き入れも見受けられる

写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える

※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:35:36.13 ID:iQ6lVeQj
『本朝名将百図』の肖像画は「柴田勝家」で画像検索をすると
陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます





今度の野洲郡での合戦に

2013年05月04日 19:53

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:30:22.13 ID:5P/7dMEO
柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀らが、6,7千の軍勢で近江国野洲郡に侵入し、散々に町中を放火した所、
佐々木(六角)勢1万ばかりが馳せ向かい攻めかかったが、そのまま日を経て、川を挟んで
両軍対峙の形となった。

この時、六角方の杉坂いく兵衛という者は後方に残っていたのだが、戦況が心許なく思い
前線に見廻りに行きたいと考えていたのだが、それにはせめて、人数5百ばかりも連れていかねば
一方の固めにもならないと思うものの、その時は手勢2百ほどしか無く、このため比叡山へ行き
玄妙院の法印に会ってこのように言った

「今度の野洲郡での合戦に、多くの者達が馳せ向かいましたが、織田方を成敗したという知らせは
未だ承わらず、心許なく思っており、そのため私は陣中に見舞に参りたいと考えています。
しかしそのためには、せめて手勢5百も連れていかねば意味が有りません。

そこで、貴僧にお頼みしたいのは、この比叡山の百姓たちに古具足や錆鑓などを持たせて、3百人ほどを
合力していただきたいということなのです。
そのようにして頂ければ私はその謝礼として、あなたが頼もしき僧であると人々に披露し、
多くの寺領が付くよう宣伝しましょう!」

この頼みを法印は聞いて、『たしかに、こういう時に援助をすれば、侍の働きの役に立ったといって、
一層その栄誉が得られるだろう』と思い、それから若大衆や檀家と相談して、彼らの配下の百姓のうち、
誰の百姓を何十人などと組み合わせていき、そして古い腹巻を巻かせ、彼らの脇差からにわかにサビを
落とさせ、竹の柄を付けたり樫の棒を拵えてかづく者もあり、思い思いの軍装をした3百人の加勢を
提供した。

杉坂はこれに大いに喜び、5百の人数で野洲郡へと急ぎ、ようやく近くまで来て見てみると、
すでに合戦が始まっていた。

鬨の声、矢さけび、弓鉄砲の音、人馬の声、これらが天地を覆すかのように夥しい音量で
聞こえてくると、3百人の加勢は、もとより百姓であるのでこれを聞いて引き震え、胸騒ぎして
このように言い出した

「知行や所領を取っても、寺の得にはなるが、我々には一合の得にもならない。
このような弓鉄砲の飛び交う大事の場所に行っては、必ず一矢で死んでしまうだろう。
私はそんな目に合うのは嫌だ。お前たちはどう思う?」

こんな相談をしている内に、軍勢から一人抜け二人抜け、終にはガラガラと逃げ尽くして、
杉坂たちが「止まれ!止まれ!」と叫んでもまるで聞かなかった。
これには杉坂も法印も、ただ呆れ果てるより外無かったそうである。
(義殘後覺)




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:47:32.34 ID:AlDhoViu
信盛「戦わずして逃げるとは…」
祐直「もってのほかにござる」
義統「左様左様」

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:49:42.64 ID:MYYccr3l
信長、三歳、秀吉「ちょっとそこに座れ」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:51:33.36 ID:8SKGvBND
戦が始まって急に集めた兵はそりゃ逃げるだろうな~と思う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 21:59:36.02 ID:LYD06Xrh
つか、このころの百姓で兵役に就いたことがないとか、まともな武具を持ってないとか、比叡山の荘園は平和なところだったんだね

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 22:04:39.72 ID:bzRKkpzn
>>518
真面目な話するとこの時代の惣村は、この手の軍役で人員を提供させられる場合正規の村の構成員は先ず出さない。
流れ者などを金で雇って提出する。なのですこぶる質が悪く、戦国大名からは何度もそういう事はするなという禁制が出されたが、
結局守られなかった模様。

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 23:57:25.99 ID:OvJz/j0O
坊主って自分の金と名誉のためなら、農民なんてゴミでしかないんだろうな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 00:39:16.25 ID:hhH728Ol
マジレスすると戦国期の百姓は生産者として非常に立場が強く、荘園領主どころか戦国大名にとっても
その意向を無視して何かを推し進めるなんて不可能だった。
当時の慣用句に『百姓様ほどになりたし』というものまであった。身分的にも憧れられる立場だったわけ。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 01:00:44.12 ID:3IO2wfWk
右から左と極端なやつばかりだな

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 01:26:43.92 ID:y4bTC+sM
一部の資料だけで日本全国そうだったと言うのは無理があるわな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 02:52:09.17 ID:fivGPUoN
まぁマジで無茶振りなんかしたら逃散するか他の領主に帰属しちゃうからね

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 07:47:32.57 ID:BsjcJRCK
農業をしている人の中に百姓は含まれるが
農業労働者と百姓は違うぞ。
派遣と派遣会社の経営者くらいに。

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 16:42:45.80 ID:ufNsTbxQ
知ったか2ちゃんねる

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 17:42:01.67 ID:JTaylOhg
近江の惣村って織豊期から江戸初期にかけて何度も武器を取っての大規模な争い起こした記録残ってなかった?
領主や大名の制止振り切って惣村同士で大規模な同盟組んで争っていたような

まあ惣村間の戦いと戦国大名間の戦いのレベル差がどれくらいあったのかはわからないけど
瓶割り柴田が突っ込んできてる状況だしね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 17:57:42.73 ID:3IO2wfWk
だから百姓と一口で言っても
地侍や足軽に即転身できるような武装農民地主層もいれば
専業農民や武器なんて持てない小作人層も居るわけ

この話の農民は武器自弁も出来ない下層専業農民や小作人層で、
戦闘のど素人だからいざとなったらビビッテ逃げたと言うだけ

柴田殿の分別類いなし

2013年04月07日 19:03

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 20:23:19.27 ID:uiONzrgf
柴田修理亮勝家が越前を領した年の事である。

その城下に、美々しいなりをした60ばかりの老婆が、人を数多召し連れ宿を取った。
この老婆は城下の者達に

「人の妻女を押し取って都に登らせる、その邪魔をする者あれば処罰いたす!」

と言い、実際に5,6人のものがこの老婆のもとに拉致された。これは下々の者では解決できないこであると、
領主である勝家に訴えが上がり、勝家は

「なんという奇妙な事件だ。急ぎこの者たちを連れて寄越せ!」

直ぐに家臣たちが老婆の元に行き「殿よりの仰せである!すぐに来るのだ!」と言ったが、老婆は

「修理殿は慮外なことを言うものかな。我に来いなどと言うのはおこがましいが、行ってこそ
知ることもあるだろう。」

そう言って乗り物で城へと向かった。
勝家は老婆と対面すると

「お前は私の町中に入って、人の妻女を理不尽に取って行くと言うのは、一体どういう理由からか?」

老婆が申すことに
「御身は事の様をご存じない。私は信長公に召し置かれたものである!
信長公の御意に入りそうな女房があれば、この国に限らず、どこの国であっても見立て次第に
連れてまいれ、との仰せによって私はここに来ているのだ。
これを偽りであるとお考えになるなら、人をやって信長公に訴えなされ!」

勝家はこれを聞くと暫く考えた
『この老婆の言うことはきっと真実なのだ。であるが、信長公はなんと前代未聞の無道を
なされることか。尋常のことではないが、ここで何とかせねば。』

そして

「老婆よ!お前は何と恣に振舞っているのか!?そもそも信長公は世の政法を正しくされ、
無道の輩を罰されるのが常である。
人の妻女を拐かすのは、その咎至極であること、前代よりの定法である!

信長公ほどの賢君を無道の犯罪者の如く語ったこと、その罪軽からず!」

そうして老婆とその配下十余人を召し捕ると縛り付けて船に載せ、大海に漕ぎ出し、
そこで穴を開けて沈めた。
その後、勝家はこの事を包み隠さず信長に報告した。

信長は勝家からの報告を見てたちまち興を覚まし、何も語らず、

『柴田の忠節の仕置、神妙である。今後そういった者があれば、私の方に知らせるように。』

と返事を返した。
これ以後、信長はこのような行為を思いとどまり、人々は、柴田殿の分別類いなしと喜ぶこと限りなかった。
日頃”鬼柴田”と武勇と呼ばれているが、それだけの事はあると、褒めぬ人は居なかったという。
(義殘後覺)


参考
柴田勝家と信長の女狩り・いい話


942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 22:06:48.08 ID:s8JE6rh5
織田が無道…すまん

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 22:28:36.59 ID:3fiOjRyy
何で人妻…

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 22:44:08.38 ID:DOwNY/e1
何で婆さんに頼む…

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 23:34:30.74 ID:I4IGnLHk
穴を開けて沈めたって船に穴開けたってこと?

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 23:39:19.05 ID:Ccjgq9sW
太平洋でやれば補陀落渡海できたのに

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 00:07:06.68 ID:aXA4HYNI
>この老婆の言うことはきっと真実なのだ。

勝家の中でのノブ酷いな

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 00:27:09.55 ID:RglCw+fd
ソマリア沖で海賊をボート1艘に押し込めて漂流の刑にした某ロシアを思い出した。

>>947
信長に取り立てられて恩義を感じる奴は多いだろうけど、
信長の人柄に心服している人間なんていなかったんじゃない?w

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 01:01:47.91 ID:vtfZ77yE
>>947
まあ信長の蛮行に呆れて敵対してた時期ありますしwww

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 02:10:18.91 ID:27qIEd/T
わざわざ船に押し込めて沈めるて、フランス革命のヴァンデ反乱みたいだな

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 04:57:16.95 ID:5cbBzom4
この話は既出だね。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 09:55:54.39 ID:3z5WgOEd
信長の有力家臣でずっと忠誠していたのは丹羽と池田ぐらいじゃないの。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 10:10:30.94 ID:lWQzATh/
佐久間信盛「…」

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 12:42:37.53 ID:oUb71fmX
既出の話にしては記憶になかったから調べたら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-42.html
なるほど、随分前の話だったか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 13:36:37.25 ID:MAND/M52
>>952
池田が有力なら川尻も有力でいいんじゃね

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:17:15.47 ID:27qIEd/T
安心と信頼の森家

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:40:09.72 ID:56uDSA8a
池田が有力家臣とか(笑)

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:34:07.20 ID:aeCUbO6X
有力じゃないの?

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:18:41.81 ID:nlHdZ48x
有力ってのがどの程度のレベル指すか次第じゃない?
池田家は姉川の恩賞で2万石の城持ちになってるから有力幹部であることは間違いない
でもこのレベルの幹部は織田家中に数十人居るわけで幹部中の幹部の丹羽と並べて語るほどではない

天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

2012年03月07日 21:50

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 05:04:23.05 ID:L0jQzyS1
天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

『覚

一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと

一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
  政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
  当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?

  羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
  天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
  有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
  
一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
  申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
  道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。

一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
  兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
  その墨付は双方に存在している。

一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
  内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
  本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。

  一方で家康の行動を見てみろ。彼は度々の上様の御動座によって、武田一類を尽く討ち果たし、その後の平定を
  仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
  その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
  徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に追い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
  これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!

  しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
  秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
  政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
  今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
  上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
  このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
  これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
  しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。


                   柴修 勝家(花押)
天正十年十月六日
  堀久太郎殿』
  

清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)







272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 06:59:47.53 ID:1pP/TvnR
>>270
平山優が「天正壬午の乱」で一部を紹介してた手紙だね。

秀吉と勝家が争い始めたせいで、予定されてた織田政権
からの援軍が貰えなくなったとあった。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:43:57.22 ID:9YCq36jo
>>270
火事場泥棒的に甲斐、信濃掠め取ってる家康褒めてるwww
そこも織田領だから

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:50:37.32 ID:1pP/TvnR
>>273
それは事実誤認。
家康は、ちゃんと織田政権の許可を貰って侵攻してる。


275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:56:52.37 ID:4UlnHobY
「援軍を送れないのは~だからだよ」という勝家の書状か、なるほど

>>274
織田政権っていったい誰?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:15:35.47 ID:1pP/TvnR
>>275
具体的に侵攻を認める書状を出したのは秀吉。

勝家の手紙でも判るように信長亡き後の織田家は、清須会議の
結果を受けて重臣の合議制で進めることになってた。
だから、織田政権扱いにしてる。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:23:26.73 ID:2yGOlGLa
あと織田信雄からも織田信孝からも、家康に対して充分な援助ができないことを詫びる書状が出てたりするね。
織田家中では争っていても、対北条に関しては意識が統一されていた。
家康の甲斐信濃侵攻は、織田家の完全な支持のもとの行動だったわけだ。

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:28:48.98 ID:VeIse7g4
うーん、時代に置いていかれた感が漂う文面

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:43:37.32 ID:bmHT1+x3
>>273から漂う家康アンチの臭い

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 09:45:53.50 ID:iaQ7qK/H
ていうか、上杉や北条が攻めてきてるのに切り取られるがままにしておく方が問題だろ。
「織田から許可取ってないから黙って見てました」じゃ済まん。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 10:22:28.35 ID:O9eygUz0
>>277
織田の援軍が、信雄からの三千で終わっちゃったからね。
北条との和睦の時には、ちゃんと信雄、信孝が仲介したけど。


282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 10:41:32.15 ID:N92JjHc1
埋められたり北条にボコられて逃げたりしたからしょうがない

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 12:16:21.79 ID:iCWn/gbD
肝心の織田家が内部で争いを始めていたから、家康がおいしくいただいてももしょうがない

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 12:27:57.43 ID:a20rsPRR
鬼武蔵さんが無責任に帰っちゃったのがいかんかったよね、河尻さん滝川さんが惨いめにあったの

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:12:49.90 ID:ouTTO3FR
滝川一益はともかく、
川尻も鬼武蔵も在地武士たちから恨み買いまくりだったからな…
逃げるか殺されるか二つに一つだったと思うよ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:16:29.11 ID:Wc6mNpzP
鬼武蔵さんならそこは返り討ちにして欲しいところだが、足場が固まってない・
多勢に無勢・自陣は浮き足立ってるってのじゃ逃げるしかないわな。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:18:32.88 ID:cXUR8w+6
いや、でも家康の甲斐・信濃獲りは、火事場泥棒とかおいしく頂いたとか、そんな
生易しいもんじゃなかったと思うぜ。確かにあの時しかチャンスはなかったとは
いえ、中身を見ると、けっこうムチャしてるから。ここぞとばかりに甲・信に大兵
力を送り込む余力があったわけでもないし。家康にとっても大きな賭けだったんじ
ゃないかと。
失敗して逆に徳川がぶっ潰れてた可能性も十分あったと思う。北条が出てきた後
なんか特にね。完全に数的不利の状況でぶつかったわけで。
当時の徳川にとってある意味、身の丈以上の冒険。

家康って、後に天下とっちゃったからイメージ的にちょっと大物感あるかもしれ
ないけど、独立後は対今川でも対武田でも対北条でも、基本的に相手の方が兵力的
にずっと有利な状況で、辛抱強く戦ってきた立場だったんだから。


288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:34:23.20 ID:ouTTO3FR
家康が秀吉に臣従するまでに戦った格下って真田くらいだよな・・・

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 14:41:17.84 ID:O9eygUz0
>>288
木曾義昌とかもいるよ。

本人が出馬してるケースだと、三河や遠江辺りの
国衆を相手にしてる時くらいかな。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 19:55:30.71 ID:2TvwxyNL
その国衆だって今川や武田のついていたような連中だしなあ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 20:19:43.49 ID:TTvOZGf5
三河一向一揆

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 20:20:27.93 ID:TTvOZGf5
真田だって当時は上杉配下だ

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/08(木) 09:15:48.51 ID:yyCUGesD
>>287
まぁそれだけのことができるからこそ織田も同盟という関係を続けわけだわね。

使えないならどこより先に信長が潰して自分の手駒置いてただろしうな。

清須体制の成立前後の、情勢とその分析

2012年03月04日 22:34

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 08:06:20.03 ID:z1dbpBgd
「多聞院日記」、天正10年(1582)の記事より

6月29日
『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
まずは大慶である。
伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』

7月6日
『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』

7日
『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う

柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。

それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。

筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。

以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』


清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。





256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 17:43:44.24 ID:NMWqnEVD
>>254
Q太郎パねぇ。清洲会議出てないよなwwww

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 18:29:51.94 ID:JM5TmENz
名人の立場もかなり微妙なとこだよな。誰からも気を遣われる

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:24:05.38 ID:okSBeQKy
キュッキュキュッキュキュッキュ久太郎はね御守なんだ御守なんだ御守なんだけれど(ゴメン)

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:25:15.00 ID:rACJ8lMi
信長が死んでなければ、長浜は名人のモノ

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 02:19:21.78 ID:y/4ZV0Ux
高橋名人か

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 17:29:42.68 ID:DCKxR8Nx
名人と蘭丸は同じ系統な気がするけど、蘭丸には森家の血が流れてるので....

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 18:15:28.02 ID:c/g9TG66
ヒャッハー!になるとw

毛利家、賤ヶ岳の裏で

2011年10月05日 22:03

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:51:34.89 ID:ipCvu13n
天正11年4月、近江では賤ヶ岳の戦いが進行していた。

さて、柴田勝家は3月より備後鞆にある将軍足利義昭と連絡を取り、義昭の上洛を支持し、
義昭を通じて毛利が対秀吉の軍を出すことを求めた。
ちなみにこの義昭の上洛に関しては、徳川家康も支持を表明しているので、かなり大掛かりな
政治的策動があった模様である。

この義昭よりの要請に毛利家当主毛利輝元は、談合衆(毛利家最高幹部)の吉川元春小早川隆景
福原貞俊に意見を求めた。

彼らの出した結論は

『両軍の強弱が解らない以上、我らは両方にいい顔をして、動静を見守っているのが良いでしょう。』

方針はそのように決まった。

現実的といえば実に現実的、野心がないといえば実に野心の無い、なんとも毛利的な政治判断と言えるだろう。
(毛利家文書)




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 00:10:45.93 ID:wZjgziK+
佐竹さんが羨ましそうな眼差しでこちらを見ています

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 08:50:36.51 ID:+/YwN+r7
関ヶ原とは状況が違うから比較できないけどな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:58:58.06 ID:EJ5Trvwq
よっぽど秀吉軍がトラウマだったのか?

細川幽斎は北ノ庄城の戦いの後

2011年09月10日 22:27

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/10(土) 11:59:21.23 ID:K/zqXgpB
細川幽斎は北ノ庄城の戦いの後、柴田勝家を自刃に追い込んだ豊臣秀吉から一首求められた。

「昨日まで 城を修理する 勝家も 今日は柴たく 灰となりける」と詠んだ。

「城の修理」に勝家の官称修理亮を、「柴たく」に柴田をかけ、「灰となりけり」で自刃した後、城が炎上した様子を
伝えている。(『細川家記』)




535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 12:21:33.79 ID:sc9LLtbF
誰が上手い事を言えと…って言うか秀吉から一首求められて(上手い事言ってくれと)だもんなw
こう言うのがすっと出るってやっぱり凄いわ~