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彼は当地において信長のよう

2019年06月19日 15:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 01:30:36.02 ID:dilkD3xh
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。



23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 14:17:43.21 ID:M0+GVcV7
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 09:37:30.92 ID:3qib0QTB
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな
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武功を挙げた盛政は

2019年04月13日 12:47

794 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:41:30.13 ID:8euuL6hJ
佐久間盛政は、1554年尾張国御器所に生まれた。
『佐久間軍記』によれば、長じては身の丈六尺(約182㎝)となったとある。
相当な巨漢だったらしい。
盛政は勇猛果敢な武将であったが、微笑ましい逸話も残されている。
『陳善録』によると、まだ18歳の頃のこと、前田利家の家臣村井長頼とともに敵将の首をとるという武功を挙げた盛政は、信長ではなく真っ先に叔父の柴田勝家に首を見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったという。



795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:48:49.39 ID:aHLiQiKX
>>794
確か比叡山焼き討ち直前の金ヶ森攻めの時のエピソードだよね?

796 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:53:12.45 ID:8euuL6hJ
>>795
よく知ってるな!どマイナーEpなのに...
盛政からしたら立場的に一段下の村井長頼と仲が良かったのは意外だったことは印象に残るて

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 12:41:34.23 ID:aHLiQiKX
佐久間盛政って面白い逸話多いよね~

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 17:47:33.27 ID:w1OWPUsS
地下鉄で有名なあの御器所出身の人なんだ!

織田信長公、座興ふかき事

2019年04月10日 17:16

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 00:31:04.91 ID:Y0JDf8tv
織田信長公、座興ふかき事

正月五日、「節振舞あるべし」と言うことで、佳例にまかせ、諸大名を集められた。
さて、種々の饗応あって後、夜に入ると信長公より「大盃にて、上戸も下戸も押し並べて給うべし」と
仰せになり、「余興として順に舞をするように」と言われ、面々は嗜んでいた芸を以て舞い歌い
入り乱れ、各々前後も解らぬほどの大酒盛りとなった。

このような所に、柴田修理介(勝家)が飲もうとしていた大盃を見て、信長公は「今一つ明智光秀に指すように」
と仰せになった。「畏まって候」と勝家は一息に飲み干し、これを日向守(光秀)に渡したところ、光秀は
「これは困ったことだ、たった今ようやくその盃を飲み干して貴殿に回したというのに、またそこから
給わるという事、どうやって給わればいいのか。そうか御免を頂きたい。」と、頭を畳につけて辞した。
これに修理介「私もそう思うが、殿の御意によって指すのだ。否応有るべからす。」
「如何ほど御意にても、もはや塞ぎ詰まっています。御宥免頂きたい。」
そう申して、座敷の隙間から次の間へと逃げた。

その時、信長公は座敷を立った。光秀が次の間でうつ伏せにひれ伏していると、その首を取って押し付け、
御脇差を引き抜き

「いかに、きんかん頭、飲むのか飲まないのか、一口に返事をせよ。飲まぬと言うならこの脇差の切っ先を、
後ろから喉まで飲ませてやろう。光秀いかに、いかに!?」

これを聞いて光秀も心乱れるが、この有様に酒の酔も俄に醒め、

「ああ殿様、切っ先がひやひやと見に覚え候。さりとては御脇差御ゆるし候へ。死に申すことは、
今少し早うございます。」

そう申し上げる。これに信長公

「そういう事なら、仰せを背かず飲むべきか、さに非ずば、脇差を飲ますべきか、何れを飲むのか、
はやはや返事をせよ。いかに、きんかん頭!」
そう言いながら、脇差のみねにてかなたこなたを撫で回した。
光秀は気も魂も消える心地して
「御ゆるし候へ、起き上がって、御意のごとく御酒を飲みましょう。」

「なるほど、それならば立ち退こう。もし飲めなければ、今度は脇差をしかと飲ますぞ!」
そう仰せになって立ち退かれると、光秀は顔の色青く、目の色、顔つきも変わって起き上がり、かの大盃を
取って戴き、酒を請けた。
そしてようやく九分ほど飲み及んだ時、信長公ご覧になり

「あれを見よ人々、何ほど詰まりても、酒は自由なる物にて飲めるものだ。餅や飯などは、詰まった時は
どうあっても食せない。私は饗宴の亭主役をつとめて、飲ませることが面白いのだ。」
そう仰せになると、座中一同、どっと興じた。

かくして夜も、はや東が白んでくると、信長公は簾中へ下がられた。これを見て、諸侍は、
我先にと帰っていった。


光秀は宿所に帰ってつらつらと考えた
「助かった。危うき命を保つことが出来た。諸侍数多ある中に、私一人がこのような目に合わされること、
今回も含めて三度目である。これは普段から、私を殺そうと折を待っているのではないだろうか。
酒というものは、必ず心底を打ち明けるものであれば、あのようにされたのだろう。
『思う内に有れば色外にあらはるる』という言葉はまさにこれだ。重ねてよくよく心得ておくべきだ。」

この事があってから、光秀は事(謀反)を思い立たれたと言われる。

(室町殿物語)



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:16:14.65 ID:/JL74bm0
さすがに嘘だろ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:24:54.58 ID:Y0JDf8tv
>>840
室町殿物語の元になった「室町殿日記」は慶長二年から慶長七年の間には成立したと考えられていて、なおかつ文禄五年ころに成立したとされる
「義殘後覺」にもほぼ同じ内容の話が収録されているので、事実かどうかはともかく、秀吉の時代に、光秀の謀反の理由についてこういう話が
語られていたのは確実だと思う。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:30:16.23 ID:zxEYpi3D
年次はいつなのか 3回目というが1回目と2回目は何があったのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 04:14:55.06 ID:oaAsJqRE
「是非もなし」

やっぱアイツ怒ってたのか
( ´•ω•` )

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:55:15.98 ID:LRQ0nIoS
>>841
思い付くのは2つあると思うんだ

そんなに極端に本能寺から経ってないこの時代でも
光秀謀叛の理由は良く分かってなくて話の種になってたんだなってことと

なんかもう面白くする方向に走っちゃってるんじゃないかということ

故に再び謀叛を起こした

2019年02月24日 19:16

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 19:51:30.66 ID:MaZU3Wfr
山路正国の逃走後)

とりわけ織田三七信孝は秀吉に与するを好まず、また三介信雄に対しては牆に鬩ぐ(兄弟が内輪で
喧嘩すること)恨みがあって侮りを抑える心はなく、故に再び謀叛を起こした。

信孝が柴田・滝川と一統して天下を覆そうとする旨を議定したことは秀吉の聞くところとなり、4
月17日に秀吉は長浜より美濃大垣城に至る。信孝は美濃・伊勢の人数を端々で一手になし、方々
を焼き回った。

このため秀吉は「是非とも岐阜に攻め入り、鬱憤を散らさん!」とするところで、その頃は長雨が
止まず、郷土の川は洪水してまったく兵馬を渡すことができなかったので、秀吉は大垣に5,6日
滞留した。その間に伊勢峯城(滝川方の城)を信雄の御人数や、その他蒲生飛騨守氏郷・長谷川藤
五郎秀一・多賀・山崎・池田などが攻め詰め、落去したとの吉報があった。武辺勝利の吉兆である。

さて柴田勝家は信孝の御謀叛に力を得て、天下を取らんとしたのは無論のことである(可取天下事
勿論也)。旧冬に勝家が信孝に一味した時は救い奉ることができず無念であったが、今この時には
きっと一戦に及ばんとする。

幸いにも只今秀吉は美濃に赴いているので、その隙にまずこの表を打ち破るべく、かの謀叛人の山
路将監(正国)を案内者にして、敵の行動や陣取の様子をことごとく尋ね探らせた。

天正11年(1583)卯月20日、佐久間玄蕃助(盛政)を大将となして余呉の海馬手を通り、
賤ヶ岳を手元に置いて、中川瀬兵衛尉清秀が陣取る尾崎に押し寄せ、柴田父子は堂木山と左祢山を
襲うために近々と人数を立ち寄らせたのである。

――『天正記(柴田退治記)』


玄蕃助は罪多き故

2019年02月23日 17:24

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 13:40:02.74 ID:HxtaoOXS
柴田勝家討伐後)

また勝家嫡男の柴田権六と佐久間玄蕃助(盛政)は先刻、越前府中の山林に馳せたところを生け捕ら
れて来た。そこで後日の戒めのために、隣国方々の城で引き回した(爲後證引廻隣國方々城)。

権六は近江佐和山で誅殺し、玄蕃助は今回の矛盾の主犯格にして罪多き故(玄蕃助今度矛楯張本人而
罪多故)、車で洛中を渡して六条河原で誅殺し、柴田権六の首と同じく獄門に掛けたものである。

――『天正記(柴田退治記)』

最期の美談で知られる佐久間玄蕃だが、柴田退治記には「大罪人だから処刑した」としか記述されず


柴田勝豊の死

2019年02月22日 18:58

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/21(木) 19:29:31.77 ID:SlVLXdW7
柴田勝豊の降参と織田信孝との和睦後)

山崎城で越年した秀吉は元日より播磨姫路に赴き、2日3日の間には諸国の大名小名が袂を連ねて
踵を接し、車馬門前の市をなす。秀吉は朝には礼者に向かって親愛を尽くし、夕には近習に対して
政道を説き、天下の工夫は昼夜いとまあらず。

そうして若君御幼少の間は伯父の織田三介信雄を御名代となし、まず若君を安土に移し奉った。閏
正月初旬に秀吉もまた安土に至り、国々の諸侍は若君への礼儀を調え尊仰をもっぱらにする。あた
かも将軍(織田信長)御在世の時のようで、まことに君臣の礼は諸人の感心するところであった。

秀吉は安土に10余日逗留してその後また山崎に帰り、諸国に陣触して軍兵を集めた。軍兵は長浜
に寄せ来たり、秀吉は重ねて堅固にその人質を取った。

その頃、勝豊(柴田勝豊)は病気が穏やかならず、起き伏しも叶わずに病床にあった。これ故に自
身で出張することはできず、与力に大金藤八と山路将監(正国)を越前の境目に遣わし、片岡天神
山に出城を拵えて修理亮勝家に相対し、秀吉への無二の色立ての奥底を極めて、惟住五郎左衛門尉
(丹羽長秀)と組んで越前の押さえとなった。

(中略。滝川一益の挙兵)

秀吉は引き退いてまた長浜に至り、しばしば帷帳の中にいても心はあらゆる方面に向けられ、夙興
夜寝の謹み浅からず。

はたまた伊賀守勝豊は病気に堪えずにより上洛して、扁蒼の術を尽くしてもその効果はなく、すで
に易簀に及ぶを嘆いて曰く、遺言したのである。

「私は一世の内に再び越州の地を踏んで本懐を遂げるべく、恨みを晴らそうというところで、不幸
にもこのようになった。秀吉が越前を平らげて私の望みが叶えば、草葉の陰の弔慰となるだろう」
(我一世中再踏越州之地復寃可遂本懐之處不幸而如此。秀吉平越前於達我望者可爲草陰之吊慰)

秀吉は涙を押さえて離別を惜しむも、無常の習いでついに勝豊は逝去したのである。秀吉は金銀を
賜って洛中洛外の僧をもって供養し、葬礼法会を行ったことは数えきれないほどであった。

ここに至って秀吉は勝豊の人数を同木山に入れ置いたが、調略の風説があった。これにより木村隼
人佐(定重)が入れ替わり、大金藤八・木下半右衛門(一元)・山路将監は外構に出してもっぱら
これを用心した。すると山路将監の謀叛は次第次第に露見し、将監は妻子を捨てて白昼に敵陣へと
走り入ったのである。

――『天正記(柴田退治記)』


勝豊は内々恨みを含んでいた

2019年02月21日 10:15

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/20(水) 19:51:45.68 ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』


秀吉はこれを識量して

2019年02月20日 18:17

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 18:28:01.04 ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』


天が秀吉を祐けたのだ

2019年02月18日 17:36

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 21:17:30.62 ID:9bBq3pfH
豊臣秀吉は、天運に乗った人であった。

賤ヶ岳の戦いの折、織田信孝は岐阜の城に拠って秀吉と対したが、柴田勝家は信孝と通謀して
「堅く義父岐阜を守れ、秀吉必ず来たり攻めん。我柳ヶ瀬の麓を回って前後より挟み撃てば、
一戦にしてその頸を見ん」との約を定めた。

秀吉は勿論これを知らず、岐阜城を攻め囲もうとした。ところがここで、その夜より水瓶を返したような
大雨となり、呂久、郷戸のニ川、俄に激浪滔々たれば、渡ること能わず、川の此方に陣した。
そこで勝家が柳ヶ瀬を出発したとの情報を得、秀吉は川を渡らず岐阜を捨てて、柳ケ瀬へと軍を進めた。
しかし洪水の故に、信孝もこの秀吉の軍を追撃することができなかった。
勝家の謀は却って自ら不意に遭う端緒となってしまったのである。

これ天が甚雨、洪水を以て秀吉を祐けたのだ。

(武将感状記)

この時大雨で秀吉が岐阜城囲めなかったのは史実なのね。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 19:58:27.32 ID:aeCHFtum
神戸具盛「堅く義父を守れ、か……さすが柴田はいい事言うのう」

柴田勝家自害

2019年02月13日 17:48

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 00:14:41.65 ID:WTqP41ZB
柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』


神速無比の人なり

2019年02月12日 18:11

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/11(月) 20:06:12.81 ID:GR8PkkoR
太閤は柴田勝家を征伐した時、城に火の手が上がるのを見てそのまま越中に赴き佐々陸奥守(成政)を征
伐した。勝家の首を見なかったが、そのような事をも何とも思われなかったのである。神速無比の人なり。

(中略)

太閤は万時早速なり。ある時に右筆が醍醐の“醍”の字を忘れた。太閤は指で“大”の字を地に書き曰く、
「汝は知らぬのか。このように書け」ということである。

また高麗の軍中に奉書などを下される時にも「継いだ紙に書け。あるいは悪いところは墨で消してこれを
持って行け」と遣われたという。(原注:一本には「『俊傑の人はこのような小枝には心を掛けぬものだ』
とのことだったという」とある)

――『老人雑話』


柴田勝家自害の時)

秀吉が北ノ庄城の天守が焼け上がるのを御覧になって、「又左衛門殿(前田利家)はどのように御観察に
なるか」と仰せられれば、又左衛門殿は「勝家は自害致されたか、または武略でもござるのかこの二つと
存じます」とのことであった。

秀吉がこれを御聞きになられて「武略の様子とは如何に」と仰せなされば、又左衛門殿は「勝家は天守に
火を掛け自害したように見せかけ、自身はひとまず落ちたのかもしれません」との御答えであった。さて
秀吉は、

「勝家ほどの者が居城の天守に火を掛けるということは、私も人もそうだが、城持ちほどの者にとっては
天守一つであっても運を開くための天守である。それに火を掛けるほどならば、とりわけての何かはあるまい。
ただ単に勝家の自害は必定である。(それに火をかくる程ならは別條候まし但自害は必定也)


又左衛門殿が仰せられたように、たとえ一旦落ちて山林へも入り、その後に尊氏などのようにまた重ねて
義兵を挙げようとの判断であろうとも、あの体をなすまでに成り行っては、2年3年の間に義兵を挙げる
ことはできないのである。その間に私が聞き出して、尊氏のようにはならずに勝家は縛り首にあうだろう。

『首を見る』『遺体を探し出す』などと申していては、3日5日は日柄が立ってしまうのは必定である。
首遺体は見ること不要の物だ(頸死骸見候はん事不入物候)。いざや、ただちに加賀国に押し込む!」

と仰せになって、かの石橋(北ノ庄の石橋)を又左衛門殿が真っ先に押し渡り、秀吉は城を横目にして加
賀国へと御馬を速められた。

秀吉は御使番衆を召し寄され、「下々の者どもを町屋に入れて、2泊分の米・塩・味噌を用意させよ。馬
の飼料以下も同様である。その他の物でも、乱取りしようと心を入れてはならぬ。その通り下々へ触れよ」
と仰せになり、その夜は船橋を御渡りとなって、御陣取りを一夜で御据えになった。

――『川角太閤記』


同道し引き取れば良かったのではないか

2019年02月10日 17:41

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 07:29:58.83 ID:4nGBoZpj
織田備後殿(信秀)からの、息子信長への遺誡のうちに、「大利を得た場合、其の勢いをよく養えば
敵国は自然に滅びるものである。」というものがあった。
この事を柴田勝家はよく知っていた故に、賤ヶ岳の戦いの際、中川清秀の砦の急襲に成功した
玄蕃允(佐久間盛政)に急ぎ引き取れと、使者数度に及んだが、玄蕃はそれを用いず自分の戦果を誇る
様子が見えた。

或いは曰く、このように玄蕃允が下知を用いないのであれば、勝家が早々に進み来て、玄蕃を引き立て
同道し引き取れば良かったのではないか。秀吉ならばそうしただろうと、心ある人は悔やんだという。

(甫庵太閤記)


そもそも賤岳の合戦というのは

2019年02月05日 18:12

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 22:03:16.83 ID:3S04r08d
そもそも賤岳の合戦というのは秀吉卿一世の大利にして、天下の人の誰がこれを知らないことだろう。

とりわけ七本槍の名はもっとも高く、婦女に至るまでこれを口にせぬ者はいない。かつこの山は麓より
絶頂に至って1里ほどのその絶景を言えば、余呉・琵琶両湖を直下にして比良・伊吹の二山を巽坤に見
渡し、その眺望に至っては類なきものであろう。

そういうわけで、君が世の今は遠い国の人々も、この山に登って遊覧しなさることが日々あるものだか
ら、折々に私などにも、砦の跡や地理の次第を尋ねなさる人々もいるので、私は不能不才ながらこの岳
の麓に住んでいるから、この戦いをあらかじめ知っていなくてはと、この辺りの里々の某の秘蔵で某の
記録という『賤ケ岳合戦実録』というものがあって、密かにこれを借り求めて閲覧した。

その文に詳略はあれどいずれも一体で、もとは1人が著述したものかと思われる。また百年の後に作っ
たような事もあった。またこの辺りに流布する物ながら、かえって地理に合わない事もあって、実録と
いうのも訝しい事ばかり多かった。

かの世上で広まる『太閤実記』『太閤真顕記』を始めとして、『北国太平記』その他書々にこの合戦の
次第を著しているといえど、いずれもその意は不同で、いずれが是で非なのか分からない。

近頃は『絵本太閤記』という物が出て、もっぱら世に広まっている。その中の賤ケ嶽の段の著述の節は
著者や画工などがこの山に登って地理をうかがい、またこの辺りの実録などと言われる物をもよく聞き
正し、あれも取ってこれも捨てずして著述した物だから、これ以上に面白さの及ぶものもないだろう。
賤ケ岳の合戦を夜戦としたり七本槍の戦う相手を定めたのは、真顕記をもとにしてこの辺りの実録とい
うものに拠ったものであろう。

私はある時、とある書店のもとでこの戦いのことを語り出したところ、書店は曰く「『太閤記(甫庵太
閤記)』という一著書があるけれども、その文体は華やかではないので、これを見たいという人もいな
いから紙魚の腹を肥やしている」と投げ出したものを見ると、実記や真顕記の類ではなく、まったくの
古文で実々しい事が多かった。

かつ著者の名は“小瀬甫庵”と記していた。小瀬甫庵は加賀の儒生で、信長の祐筆の太田和泉守牛一と
いう者の友であったのだということだ。その時代の人でこれはとても印刻の時代も古く、旧記といえよ
う。これなどは実録とも言うべきか。しかし前述の書々とは戦いの次第がまったく異なる事もあって、
また訝しく思った。

ある日、浅井郡高田という里に渡辺某がいて、私のもとにやって来たことがあった。主(渡辺某)曰く
「あなたは賤岳の麓の人だから、地理はもちろん故実も聞いてらっしゃるでしょう。そのまま語ってく
ださい」とのことだったので、私はかの不審のあらましをありのままに語ると、主は曰く「予の祖先に
渡辺勘兵衛(了)という者がいて秀吉卿に従い奉り、そこかしこの戦場に赴いたあらましを自筆して残
した物がある」と一帳を見せなさった。その中でまず賤ケ嶽の戦いを見ると僅かに紙3ひらほどだった
が、その趣意は甫庵が著述したところと付節を合わすが如くであった。

私はここに至って大いに嗟嘆して甫庵の太閤記の実なることを知る。これよりかの書々を用いず、もっ
ぱらこの書を信用し、すなわちその中の第五第六の二巻を抜き写し、私に『賤嶽合戦記』と外題して上
下の二巻となして人々に風聴致したのは、愚かな心で捻くれて思い悩んだからなのだろうか。

この度、東の同胞のもとより申し遣されたやんごとなき御方より、賤嶽地理の図や合戦の次第を記す物
を望みなさり、日はなくとも書き写して遣してほしいとの旨を申し遣された。

それならば良き筆を持ちなさる人に助けて頂かなくてはと、あちこち頼んでも誰か助けようという者も
いないので、私などが見る甲斐もなき筆で寒夜の灯火をかかげて写し終わるままで、脱字誤字はいくら
もあるだろう。よくこれを察し、よくこれを考えてなさって頂きたい。「何事も山賤が写したものよ」
と見許しなさって、私の不能を憐れみなさって頂きたい。

なお詳しくは印刻の本を尋ねて読みなさるべし。この辺りの実録帳物を見ることをゆめゆめ望みなさっ
てはならないと、その後ろの方に記し申した。

文政2年卯臘月上旬記之畢      湖北黒田住人 西川与三郎記之

――『賤嶽合戦記 奥書』



彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ

2019年02月02日 20:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 23:31:44.36 ID:wYso0K98
佐久間玄蕃允盛政は21日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では険阻を隔てて勝家(柴田勝家)に通じる
ことができず、蔵王社を出て北之庄城の後巻のために加賀へと赴いたが、そのようなところに中
村の郷民が赴いて、盛政を取り囲んだ。盛政はこれを見て、

「私はすでに運命尽き、また戦おうとも利はあるまい。かの藤吉猿面郎の所へ私を連れて行け!
一言申すべき事がある!(彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ)」

と申し彼らに捕らわれた。その後、北之庄でこれを見た浅野弥兵衛長政は「あなたは“鬼玄蕃”
と言われた人ではないのか。どうして死ぬことができなかったのだ」と申した。盛政は笑って、

「汝は愚かだな。源頼朝は大庭景親に負けて節木の中に隠れ、義昭将軍(足利義稙か)は細川政
元に捕らわれてその囲みを受けるも、ついには免れて大功を立てたのだ。将たる者が、どうして
容易く敵に死を許すことあらんや!」

と申し、聞く者は皆舌を鳴らして感嘆したという。佐々源六勝之(佐久間勝之)は勝家に従って
北之庄に至り、その後に盛政のことを聞き加賀尾山へ赴いて北之庄の後詰をしようしたが、兵は
集まらず越中に帰ったという。

――『佐久間軍記』


すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


私に吉法師様の御守りを

2019年01月25日 17:40

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 20:40:30.79 ID:OZsAZlBz
(清州会議の時)

「それでは吉日を選び、吉法師様への御礼を定める」と、勝家(柴田勝家)は申し出された。それより
「日柄を見よ」とその役の者に申し渡され、ややあって談合は終わり、その日から4日目に御礼は定め
られたとの事である。

「それでは御礼の次第目録を作れ」と、まずは御一家衆の御礼目録の巻物1巻ができた。またその次に
国大名衆の御礼の目録が別紙に1巻できた。「国大名衆は柴田修理殿、次に滝川左近殿(一益)、丹羽
五郎左衛門殿(長秀)、それから羽柴筑前守を目録に書き付けよ」とのことだった。秀吉はこれを御見
及びなさると、

「勝家と各々らへ訴訟がござる。御聞き分けになられればかたじけない。各々も内々に御存知のように、
信忠様がとりわけて私に御目を掛けられた子細(>>652)がござるが、御存知なので申し上げる必要も
あるまい。特別な訴訟ではござらぬ。私に吉法師様の御守りを仰せ付けられて下され。

私は早々と年寄りになったので特別な望みもござらぬ。城介様(織田信忠)に御奉公致すと心に取り置
いているので、この吉法師様を信忠様と存じ奉り、随分と御奉公を致したい。とりわけて申し上げる子
細はござらぬ」

と仰せ出された。これに勝家が「勝家を始めとして、秀吉が訴訟と申し出された時にはどのような事か
と各々存じたが、これは以ての外に心安き訴訟だ。我らとしても同心致す。各々もきっと別条あるまい」
と申された。

これにその他の大名衆も「貴所(秀吉)に信忠様が御目を掛けられたその様子は隠れ無きことでござる。
昔を思い出されて、吉法師様の御守りと仰せられたことは感じ入り申す。筋目を立て申し上げたうえに、
ひとしお頼もしき御覚悟である」と、各々申されたのだと聞いている。

こうして、その目録に秀吉は御入りにはならなかった。それから、その次々に御礼の次第目録を定めて
納めたとの事である。それより、柴田殿を始めとして各々は御城を出られ、屋形屋形へと戻られた。

――『川角太閤記』


筑前守殿は城介様に恋慕故

2019年01月23日 22:33

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 21:18:36.57 ID:lazxmLUg
柴田殿(勝家)の三七殿(織田信孝)を天下の主に取り立てたいとの思案は、柴田殿が三七殿の具足始
を致された故と聞いている。この御契約故、後に柴田殿と三七殿は御懇意になられたと聞く。

秀吉は城介殿(織田信忠)と御懇意であられたと聞いている。その子細は、城介殿が御若衆の時に御公
家衆などは城介殿に御恋慕なさった。これを城介殿は御難しく思し召され、その御様子を秀吉は見及び
なさると、

「それならば、私に御目を掛けなさっていると世間に御披露なさいませ。そうすれば御気難しきことも
ございますまい。その上で私も本心から御難しきことは申し上げませぬ。その他のことも、その通りに
なさるのがよろしいでしょう」

と申し上げられた。信忠様はこれをもっともだと思し召されたということなのか、秀吉と御知音のよう
に世間で成り行き、ますます後々も御目を掛ける振る舞いをなされたという事である。

信長殿が御妹婿の浅井殿を御成敗なされて、内々にその後家をどうするかと思し召されていたところ、
三七殿は「柴田に遣されますように」と仰せ上げられた。また城介殿は「筑前守に遣されますように」
と仰せ上げられた。

そんな折に朝倉を御追罰なされ、その諸職一円を柴田に遣されて柴田は殊の外大名となられた。その時
に三七殿は、「ただ柴田に遣しなさいませ。柴田が大名にもなられた以上は、御兄弟となられましても
苦しからぬことでしょう」と仰せ上げられ、信長殿も「もっともだ」との仰せで柴田に遣しなさった。

この由緒故に三七殿を柴田は引き立てなさり、筑前守殿は城介様に恋慕故、その因みをもって吉法師様
を取り立てたいと思し召し、互いに数奇の争いとなったと承り候事。

――『川角太閤記』


前田利家うらきりしたる故

2019年01月17日 19:05

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 21:13:33.90 ID:QYRGmbyD
柴田勝家は賤ヶ岳の砦に居たが、前田利家の裏切りのため敗北し、彼はここにて討ち死にしようと
決心していた。しかし勝家家臣の徳山五兵衛と言う者が
「ここで討ち死にしても意味がありません。越前北ノ庄に退かれ、御城にて心静かに御腹を召すべきです。」
と諌めた。勝家もそれに同意し、越前へと撤退した。この時五兵衛は
「天下に隠れなき、勝家様の金の御幣の馬印をお預け下さい。勝家様の御命に代わり、私が
討死いたします。」と申し、言葉通り死を遂げた。

(原文)
柴田しつがたけの取出に居たりけるか、前田利家うらきりしたる故、柴田爰にて討死せんとありし時、
柴田か家臣徳山五兵衛と云もの申けるは、是にて討死し玉はんこと詮なし、越前北の庄へのかせ玉ひ、
御城にて心しつかに御腹召候へかしと諫めけれは、けにもとやおもばれけん、越前さして退玉ふ。
五兵衛申けるは、天下にかくせなき、きんの五弊あつけたまへ、御命にかはり討死仕らんと申て死をとげたり。

(祖父物語)

賤ヶ岳の敗因を、はっきり「前田利家の裏切りのため」と書いているのはホント珍しい。


清州会議

2018年10月07日 16:05

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:22:44.89 ID:KeNTnhbo
その日、秀吉は勢を分けて丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、信長公御父子を始め
本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、それより岐阜へ赴いて、

信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も
来会せられ、丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、

織田家の正統なので主君と定めて信雄・信孝両人を後見とし、信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・
長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、三法師丸を安土に移した。また三法師丸が15歳になられるまでは、

信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて
柴田、播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、丹波は以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)
に授けるとのことだったという。これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。

若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も

加えること及ばなかった。丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。柴田勝家
は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または

衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。このため丹羽は秀吉に囁き「ただいま四海は大いに
乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ」と言った。秀吉は大いに笑って、

「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず」と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとして

いるとの由が聞こえたので、秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。勝家はこれを聞いて
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、「秀吉はどんな計略を設けているだろう」と大いに

気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。これを聞いて秀吉は大いに笑い、「私が何の遺恨あって
勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ」と言って養子の次丸を人質に遣わすと、

勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を
察した。賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:34:22.16 ID:Pi4MhT5K
>>280
>勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または衣をかかげて尻を叩くなどして
えぇ…w

日本国に大いなるうつけたる者三人あり

2018年10月04日 21:35

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 09:12:34.05 ID:mCJF7Uvf
上杉家の侍が織田家の城下に来た。これは直江方(景綱か)より、織田方へ謀の使いとして
派遣された者であった。しかしこの使者は柴田勝家によって捕らえられ、拷問にかけられた。

しかし使者は拷問の中、高らかに笑った。目付けの者これを見て「何故笑うのか」と問うた。

「日本国に大いなるうつけたる者三人あり、よってこれを笑うのだ。」

「うつけたる者とは誰だ。」

「うつけた知音(友人)を知らずして、このような大事を申し通ずるうつけが一人、
またそんな事も辨えず、使いに頼まれたうつけ者が一人、
また味方になるものを敵にするうつけ者一人。
この三人の大馬鹿者が寄り合い、その中で私一人が目壺に入ったのは、おおいなる仕合せと存じ、
これを笑うのだ。」

勝家はこの報告を受けると信長に申し上げた上で、この使いの者を免し様々に馳走し、褒美を取らせ
彼を援助した。

(名将言行録)

上杉からの使者が怪しいので拷問にかけてみたが、「友好国の使者にこういうことするの?上杉を敵に
回す気!?」という内容を言われて待遇を変えた、という所でしょうか。