勝家への返答

2018年06月08日 18:41

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/08(金) 17:47:16.27 ID:K7zh36zA
清須会議の後、織田信雄と織田信孝の対立が顕れ、諸大名は信雄・羽柴秀吉方と
信孝・柴田勝家方へと分かれた。

そのような中、蒲生氏郷は妻が信長次女であり(相応院)、信雄も信孝も自身の
小舅であることから、どちらに付くとも態度を表明しなかった。
そのため柴田勝家からも羽柴秀吉からも、平に頼み申すとの遣いが送られた。

蒲生家に対して世間ではこう考えていた
「蒲生父子は柴田勝家の寄騎として、勝家出陣の時は先手を任され毎回手柄を成された。
勝家が越前を拝領された後は柴田とは離れたが、最前よりの好であるから、きっと柴田に
同心するだろう。」

しかし氏郷はどう考えたのか、勝家に対して切れ目(断交)の返事をした。
蒲生家では安井孫右衛門という者を越前に付け置いていたのだが、彼を一旦帰国させ、
その上で使いとして勝家の元へ向かわした。

安井が蒲生の返答の内容を申すと、勝家は「思いもかけないことだ、蒲生は必ず味方となると
思っていたのに。」と、力を落とした様子であった。その上で、勝家はこの安井孫右衛門に
別して目をかけていたので

「今度の合戦に討ち勝てば、近江国にて存分の知行を宛てがおう」と、折り紙を渡して
帰させたという。

(氏鄕記)

勝家はいい人だな



979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/08(金) 19:13:33.87 ID:A67A5fmZ
>>978
>勝家はいい人だな
まあ裏を返せば悪い人には勝てないな…
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柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)


羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは

2018年04月30日 17:49

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:05:21.88 ID:u2Lcbudr
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは、その権勢の争いともいい、また信長公の御妹であるお市御料人が
その言われであるとも申す。

彼女は淀殿の御母であり、近江国浅井(長政)の妻であり、浅井と死別し、その母と
一所におられたのだが、天下一の美人の聞こえ有り、秀吉は彼女へ御臨みをかけられたのだが、
柴田勝家が岐阜に参り、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取り己の
妻とした。

秀吉はこのことを聞くと激怒し、柴田を越前には帰さないと近江国長浜へ出陣した。
しかしここに丹羽長秀、池田勝入が扱いに入り、柴田勝家はお市御料人を同道して
越前への道を通った。

翌年三月、柴田方より近江柳瀬に出陣した。秀吉は大阪より出て近江長浜に砦を築き、
互いに足軽の合戦をしていた。

ここで佐久間玄蕃(盛政)が「かように日を暮らしていては意味がありません。」と柴田に進言し、
賤ヶ岳の下の湖畔を通り高山右近の出城を攻め落とし、玄蕃が直にその城に籠もった。

柴田は玄蕃に「深入りである。早く引き取れ」と伝えたが、玄蕃は「弱きことを言われるものだ、
旗下にて出城の一つも二つも攻め落とすべきなのに、急いで引けとは何事か。」
と引かなかった。

この時の事について、後にこう言われた
『玄蕃は柴田の指図のように引いておけば良かったのである。そこから5日のうちに、
秀吉方に謀反人が出て、柴田方の利運に成るはずであったのに、玄蕃が要らざる強味を出して
しまった』と。

実は筒井順慶が柴田と心を合わせ、秀吉を裏切るよう定めていたのだ。
順慶は其の頃大和伊賀両国を領する大名であり、返す返すも残念なことであった。

(祖父物語)

祖父物語の時点でもう、お市に「天下一の美人の聞こえ」があったなんて書かれていたんですね。
あと賤ヶ岳の時筒井順慶が秀吉裏切ろうとしていた、なんて話は珍しい。



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:08:58.58 ID:dJFLIRdd
賤ヶ岳で洞ヶ峠を決め込んだのか

信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....

高櫓は爆発しはじけ飛んだ

2017年11月27日 18:49

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 18:45:31.90 ID:U5xmHEcL
柴田勝家の軍が加賀一揆勢との戦いを繰り広げていた頃のこと。
加賀国二曲という城、現在は別宮と呼ばれているが、この地は吉原二郎兵衛という者の
領地であった。
ここに一揆の者共集まり、夜中にこれを攻めた。

しかし城方はよく持ちこたえ、敵勢を押し返そうかという時分、城中の高櫓の上から
鉄砲を撃たせていたが、ここの足軽大将は、腕に火縄をかけた状態で鉄砲を撃たせていた。
そして火薬を継ぐ時、火薬箱に火が入り、高櫓は爆発しはじけ飛んだ。

城中は衝撃と黒煙で取り乱し、寄せ手はこれに利を得て、夜明け頃ついに城を乗っ取り、
吉原に腹を斬らせ、城内の土蔵を開けて尽く略奪に及んだ。

このような時に、二曲落城を知った千代城の拝郷五左衛門(家嘉)が駆けつけ
一揆勢を攻め立てた。

一揆勢は略奪の最中の、突然の攻撃に驚き、略奪物を捨てて城の後ろの切所へと落ちた。
拝郷は逃げる一揆勢に追撃をかけ大いにこれを破った。

ところがこの一揆勢の中に一人、才覚のある者がいて、棒に白手ぬぐいを結びつけて山に立て置き
引き上げた。拝郷はこれを見て、伏兵があると判断し、長追いに及ばなかった。
その間に一揆勢は危機を脱して、つづら折りの山路を退くことが出来た。

(士談)

余談だが劇画『子連れ狼』の主人公・拝一刀は、この拝郷家嘉のひ孫という設定であるという。



秀吉の才用は、かくこそ

2017年07月15日 11:25

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/15(土) 08:38:23.91 ID:NrgiGGBk
清州会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる中、勝家の家臣・毛受荘助(勝照)が請い受けて
秀吉への遣いとして向かった。これは、秀吉のこれまでの動向は心得がたいものであり、
対面すれば押して刺し違えんと考えたのである。

こうして毛受が到着すると、秀吉は察した
「あの毛受は心早く勝れた勇士である。今度の使節としての来訪も、何らかの心持ちがあるのだろう。」

彼は毛受を招き入れ、毛受が出て来るや、脇差も差さず色代まで不意に現れ

「遠方よりのこの度の使節、浅からぬ思いであるぞ。」

そう言って毛受の手を取り、限りなく懇ろに連れ立って奥の席に招き、先ず勝家の安否、
そして今の互いの考えなどを語り、それから料理を出して饗した。

毛受は秀吉と刺し違えることを決心していたのだが、不意に傍に引き添えられ、様々な懇情を受けたため、
先ずはそれへの謝礼に及んだ。
そしてその後、再び秀吉が近づいてくる事を待っていたのだが、以降秀吉が近づくことは全く無く、
毛受は本意を失って帰っていったという。

この話は事実かどうかは解らないが、秀吉の才用は、かくこそと思われる。

(士談)


一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


近頃、良将と言い慣わしているのは3人である

2017年04月07日 09:09

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 07:40:50.80 ID:QSR6vaY2
近頃、良将と言い慣わしているのは3人である。

明智日向守(光秀)、柴田修理亮(勝家)、石田治部少輔(三成)である。

この3人は天下分け目の合戦をしたからだろうか。

――『武功雑記』


796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 11:41:48.62 ID:JGVRCPsM
光秀は統率力はあるが人望がなく
勝家は人望はあるが統率力がなく
三成はどちらも足りなかった

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:15:53.54 ID:MegIC7/H
三陪臣の知恵、勇気、大志になぞらえると
光秀:知恵と勇気はあるが大志が欠けている堀直政タイプ
勝家:勇気と大志はあるが知恵が欠けている直江兼続タイプ
三成:知恵と大志はあるが勇気が欠けている小早川隆景タイプ

それぞれ一度は敵対したことのある相手のような

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:35:17.52 ID:5LsjIhpR
天下三陪臣は直政版は言行録だけど、成立した時代の早い葉隠の直茂版の方が正確そう
堀直政って隆景や兼続とならぶくらいの功績を挙げてるの?

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 13:07:31.94 ID:D1fqJLWP
名将言行録につっ込み入れるのは野暮

その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな

死せるエムベロルの妻の弟なる柴田殿

2016年02月18日 18:02

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 16:53:07.51 ID:gfgaEMBE
死せるエムベロル(織田信長)の妻の弟なる柴田殿(Xibatodono)は、信長の遺族中、最も近い
親類であったが、羽柴藤吉郎の行為を快からず思い、力を極めて彼に抵抗した。ここにおいて、
藤吉郎は柴田殿を滅ぼさんとその居城を囲んだ。

柴田殿は突然攻撃を受け、免れる事ができないのを知り、将士を尽く集めて言った
「卿等は予の窮境をしらん。予は残虐なる暴王に屈せんよりは、むしろ自殺せんとす。
予の願う所は、予が死したる後は卿等が予を火葬するにあたり、不人情なる叛乱者をして
誇らしめるべき何者をも残さざるように成してほしいという事である。
卿等は生命を保たんがために如何なる談合を成すも可なり。」

しかし万座の者達は、柴田殿の決心を賞賛し、みな柴田殿の例に倣わんと決心した。

柴田殿は彼らの忠義に感じ、この世の別れとして宴をおこない、食卓上には様々な肴を具え、
ある限りの楽器を鳴らし、彼らの好む茶、および酒を飲み交わし、かくて饗応も静まるころ、
彼らは起きて各種の燃焼物を部屋に満たし、これに火を放つと、焔煙は屋を貫いた。

ここにおいて、残酷なる饗宴が始まり、柴田殿は先ず妻子、僕婢を刺殺し、あるいは重傷を負わせると、
彼の諸将もこれに倣って同様に親族従者を殺した。次に彼らはこれらの死骸を火中に投じ、その上に立ちながら
切腹して果てた。

時に藤吉郎は、城中に火災が起こったのを見て、偶然の失火だと思い好機を逸してはならないと
総攻撃を命じたが、門といい城壁といい何らの戦備も抵抗もなく、ただ未だ焼け終わらない
数個の死骸を見たのみであった。

藤吉郎は柴田殿の城を陥れて都に帰るや、最初の名の藤吉郎のみならず羽柴の名も改めて、
関白殿、すなわち日本の最上卿と称し、1594年以降は太閤様と名乗った。すなわち大エムベロルの事である。

(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本史より、柴田勝家の最期についての記述である。



彼を味方に引き入れよ

2015年02月02日 18:44

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 17:18:46.62 ID:v46v+ulg
賤ヶ岳の合戦の前、羽柴秀吉は湯浅甚助を呼び出しこう命じた
「汝は長浜に参り。柴田勝家の養子の、伊賀守勝豊の与力共に近づき、弁舌を以って彼を味方に
引き入れよ。伊賀守は、内々、佐久間(盛政)と不和であり、それ故に勝家にも恨みを持っていると聞く。
これ畢竟の幸いである。

何故汝を差し寄越すかといえば、前に長浜城を引き渡す時、伊賀守の家老与力らと、互いに親しく
語り合っていたためであり、それ以上に深い仔細があるわけではない。」

これに湯浅畏まり、長浜表に至って、勝豊の家老・徳永石見守、並びに与力の大境藤八、疋田左近、
山路将監、木下半右衛門、神谷越中守らに対面して、

『今度味方に参られれば、皆様は大名に取り立てられます。ことさら伊賀守様に対しては、
秀吉からは、以前より内々ご入魂に語り合う仲で、今以って些かも疎遠にしようと思っていないので、
各々が進めて秀吉に力を合わせるということになれば、先ずは当分の賞として越前国を参らせ、
その上で時期を見て、北國の総大将に取り立てたいと考えていると言われました。
それ故に、このようにあなた方に申し入れたのです。』

甚助はそのように弁舌を振るい、朝夕に親しく語りかけたので、やがで各々も同心し、主人勝豊に
秀吉の考えを詳しく申し述べて、それに同調するよう勧めた。
しかし勝豊はこれを聞くと
「秀吉がいかに懇切に申されると言っても、父に向かって弓を引く道理があるべきものか。」と
それを喜ぶ気色は全く見えなかった。

それでも右の者達は、勝豊の前に代わる代わる進み出て
「殿の仰る通り、父子に仲違いが在ったからと、敵方に与力遊ばされるのは、我々が無道であるかのように
思われることでしょう。

ですが、殿にはご病身であられる故に、かねがね勝家公の御前も遠ざかられ、父子の御仲も疎遠に
なられたように見えます。
一方で佐久間(盛政)殿は、加州表で優れた働きがあったため、大身と成られ、家中の者達も
甚だ以って尊崇しております。

それに引き換え、殿は勝家公には疎まれ、家中の面々にも、有り甲斐もなく思われており、何の
御面目がありましょうか。

その上勝家公には、御実子である権六殿もいらっしゃいますから、行く末も良き事はないでしょう。
また、勝家公は武略知謀も類ない方ですが、現在は御簾中と成られた小谷の御方(お市)の容色に
耽られ、軍の駆け引きも、以前と違いはかばかしいご方便も無いように見えます。

一方の秀吉公の業績を見るに、知謀勇決は古今に優れ、民を憐れむこと堯舜の如くであり、
殿が日頃から彼と昵懇であるのは幸いの事です。今度の招きに応ぜられ、御合力なされば、秀吉も、
よもやその恩賞を忘れることはないでしょう。行く末北国の総大将と成り給われば、誠に以って
目出度き事ではありませんか。
例え殿がご立身なさらなかったとしても、今度の合戦に秀吉公がお勝ちになる事、鏡に映すように
見えております。
また、無道の父を討ってその子を取り立てる事も、和漢にその例多くあります。

とにかく、行く末頼もしからぬ勝家公に従うよりも、秀吉に与する事こそ、然るべきと存じます。」

このように、様々な言葉で勧めたため、勝豊も終に欲心に引かれ本性を取り失い、
「私もよく考えて見れば、汝らが言うところ、尤もに思う。この事、良きに取り計らうように。」
と認めたため、家老与力の面々大いに喜び、急ぎ湯浅を招いて同心する旨を語り、宜しきように
頼み入ると述べたため、甚助は「仕済したり」と早々に帰り秀吉に報告すると、大いに喜ばれ、
勝豊に来國實の太刀に金子三百両を添えて贈り、その他家老・物主(指揮官クラス)達にも、名作の太刀に
黄金を相添えて先々の事も含めて、当座の褒美として贈った。
(余吾庄合戦覚書)

秀吉による、柴田勝豊寝返り工作についての記事である。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 18:37:02.40 ID:QJ6jOJwH
秀吉「幼君担いじゃったけど、異心とかないから。」
柴田「異心ないなら、お前さんの近江の本拠地である長浜城もわしによこせよ」
秀吉「おうあげる。ただしお前さんの息子の勝豊さんを城主にしろ」
柴田「いいとも。よっしゃ、秀吉の居城を奪ったったわw」

秀吉「ねえ、ぶっちゃけ俺と組まない?」
勝豊「えっ」
秀吉「あんたにあげた長浜城って長年俺の城だったからさー、あんたが知らない城の弱点とか抜け道とか全部知ってるんだよね」
勝豊「えっ」
秀吉「戦になったら一瞬で城を奪えるってことよ。親父さんは雪で支援にも来れないしさ、降伏して俺の仲間になんない?」
勝豊「えっ」
秀吉「知ってるよー、親父さんと折り合いがよくないってこと。後継者レースで旗色悪いんだってね。俺のとこに来たら柴田の家督はあんたに継がせるけど。」
勝豊「降伏します」
秀吉「よっしゃよっしゃ」

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 19:55:20.58 ID:wH2fpVQL
>>352
映画 清州会議見た後だとやっぱ勝家ってアホだなと思ったw

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:15:23.98 ID:9SXo73QX
そりゃ映画はそういうキャラ造形してるだけの話だから

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:52:28.59 ID:VHdjDGxt
信雄ェ…

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 21:44:47.01 ID:UPmazaXR
信雄なんてうつけを演じて生き永らえたからな
お陰で阿呆の役柄になっとる

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 12:49:50.16 ID:8X7Rn/qa
>>357
うつけを演じてなければ大織田家の跡取りになれたかもねww

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 13:00:16.44 ID:LIUZm0by
やっぱ鼻の毛が足らんかったんや

其仔細は大番袋に物を入、口をしめたる心にて、

2015年01月29日 18:44

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 23:27:10.96 ID:EPXENs12
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦い。4月19日、柴田勝家方の佐久間玄蕃(盛政)は羽柴秀吉方の大岩山砦を
攻め落とし、守将であった中川瀬兵衛(清秀)を討ち取った。

この注進は、岐阜にあった秀吉のもとに、その日の七つ時分(午後4時頃)には伝えられた。
これを聞くや秀吉は、岐阜城を織田信雄に任せ、まだ日の入らぬ内に、十三里の道を駆けつけた。

日暮れに地蔵山の走り矢倉へと上がり、「敵はどのように陣取っているか?」と尋ねると
「向かいに見える火の明かりも敵です。柴田殿の本陣はここからは見えません。
海端に火が多く見えるのは、中川瀬兵衛が陣取っていた場所だったのが攻め落とされ、
今は佐久間玄蕃が陣取っています。」と説明を受けた。すると秀吉は皆にこう語りかけた。

「ざっと済んだ!明日は皆々拾い首を取るように!
どういう意味かといえば、我々は今、大番袋(雑物を入れる大きな袋)に物を入れ、その口を閉めた
状況にあるのだ!

柴田もあれほどの軍勢を率いる人間であるから、今夜にはここに私が駆けつけたことを聞きつけるだろう。
そうなれば必ず、夜の内に引き上げようとする。そこに付け込めば敵は必ず敗北する。
鳥が歌う時分に、皆々、出撃の準備をせよ!」
(ざっとすみ候。明日は皆々ひろい首を御取せ候半と。其仔細は大番袋に物を入、口をしめたる心にて、
柴田も物仕にて候間、今夜是へ御懸付被成候を、聞可申候。然は夜内に引取可申候。御付候はば
敗軍可仕候間、鳥がうたい候て、皆々拵可申)

案の定、鳥が歌い出す時分に、佐久間玄蕃の陣は撤退のため取り騒いだため、秀吉方は競ってこれに
取り付き、まだ夜も明けぬ内に首を取り、夜が明けてから度々競り合いがあって、ついに敵を破った。

これは伊藤金左衛門の語った話である。
細川忠興軍功記)




細川忠興軍功記より、清須会議について

2015年01月28日 18:54

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 19:44:56.60 ID:tczRCWOg
山崎の合戦で明智光秀が滅びると、尾張国清州で、羽柴秀吉、柴田修理亮勝家が参会の上、
織田領国の国割を行うことに成り、織田三七(信孝)も岐阜より清須へ御出でになり、
羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田勝入といった人々はそれ以前から清須に参り、
柴田勝家を待っていた。

柴田勝家が清須に到着する期日がわかると、その日は植原次郎右衛門の邸宅の広間に
織田信雄織田信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田勝入らが御出でになり、柴田勝家が来るのを待っていた。
その広間の庭には、故信長・信忠父子の侍が、身分の大小共に、八百ばかり控えていた。

柴田勝家は堀重門より入ってきた。供の侍は三百ばかりであった。
柴田は縁に上がると角柱にもたれていた。柱の下には勝家の三人の甥達も詰めかけ控えていた。

信雄、信孝は座敷の間の内に居られた。秀吉は前から縁側に居た。池田、丹羽は前から御座の間に詰めていた。

秀吉は勝家に言った
「修理殿の御出を待って、御国割をしようと考えていたのですが、あなたの到着が遅くなり、
御両人様(信雄・信孝)より急ぎ国割をするようにとの仰せがありました。
信雄様は尾張に北伊勢を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。
信孝様は美濃に南近江を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。」

勝家はこれを聞くや怒った
「私への相談なしに国割を行うとはどういうことか!?そういう事をするのなら、その頭を押しつぶして
くれようか!?」
(我に談合なしに国割だてをいてくれい、其つれするならは、頭邊迄押くれう)

しかし秀吉
「私の頭を押しつぶすなど出来るものか!上様の御弔い合戦は私がしたのだ。笑わせる事をいうものだ!」
(我か頭邊押事成間敷候。上の御弔合戦が我か仕候。笑敷事申)
そう言い捨てた。

そこに、池田、丹羽が二人のいる殿中の間に入ってきた。信雄・信孝の兄弟も立ち上がって側に行き
「お前たち両人が、魚と水のように親しい関係にあることが、われら兄弟のためにも成るのだ。
そのようであってはならない」と諭した。
その時池田、丹羽が「急いで盃を出すのだ!」と言って盃を出させ、秀吉、勝家の両人に
盃を交わさせたため、その場は静まった。

その後織田信孝は秀吉にこう言った
「明日は修理も国に下る。その方も長浜へと帰るという。であれば岐阜にて、風呂を立てるよう
申し付けているので、帰りに立ち寄ってほしい。」

しかし秀吉は翌朝未明に清須を立ち、墨俣に馬上一人だけで着いた。墨俣の代官は、佐脇作左衛門の
親類であった。秀吉はそこに立ち寄り、湯漬けを食すと、乗ってきた馬を亭主の馬に乗り換えて、
そこから鈴鹿を左にして、水口を通り、その日は八幡山に出て、その夜、船にて長浜に到着した。
これは柴田勝家が国元へ帰るのを待ち受けるためであった。

柴田勝家は岐阜で於市様と祝言を相整えると、彼女を越前へと同道した。
長浜を通過という時、長浜の様子を聞いて、伊吹山の東面に沿った道があり、長浜を避けそこを通って
越前北之庄へと向かった。

これより、秀吉と勝家の関係に悪しき色が立ったのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興軍功記より、清須会議についての記事である。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 09:57:01.76 ID:acmwtuGF
三七殿の面目が丸潰れだな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:28:27.09 ID:YTE0kkux
三斎様はいろんなもの記録に残してるから立派かと思いきや、あれだからな。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:43:52.78 ID:fOARUKvb
>>315
源義朝の例があるしな
ああだから野間に幽閉させたか

フロイス書簡から、柴田勝家の最期

2015年01月20日 18:43

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 15:42:47.78 ID:0TlXsLFW
もうすぐセンゴクの勝家が死にそうなのでフロイス書簡から勝家の最期

六月三日、羽柴は勝利を保ちつつ全軍をもって越前国に侵入し、
柴田がわずかな手勢と共に逃げ込んだ北庄の城を包囲するに至った。

彼はすでに六十歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、
広間に現れると彼に侍していた武士たちに向かって、
「予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が臆病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、
 予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すことになる故、
 予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。
 もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう」
と簡明に語った。

一同、
「武士のみならず、その妻子までがことごとく必ずや彼に倣い、来世まで随従するであろう」
と答え、柴田はこれに対し、
「汝らが速やかに決心し、予と同じ意志であることを大いに喜ぶが、
 ただ心苦しく思うのは汝ら一同の予に対する愛情に報いる術がもはや今生においては得られぬことである」
と言った。

そして彼は数多くの馳走を運ばせて彼らに振る舞い、酒を飲んでは楽器を奏して歌い、
大いに笑い楽しむ様はあたかも戦勝祝いか、夜を徹しての宴のようであった。
城の各部屋と広間にはすでにたくさんの藁を積み、戸も窓もことごとく堅く閉じ、
城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。
城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。
事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く、信長の姉妹で数ヵ月前にめとった妻と
その他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己の腹を十字に切り、その場で息絶えた。
他の武士および彼と共に内にいた残る人々も皆、同様にまず己の愛する妻子を殺した。
すぐさま前述の歌に代わって、はなはだ大きな悲鳴と鳴き声が聞こえ、燃え広がる炎が生ずる音よりも高く恐ろしげであった。
彼らは幼い子供たちの年齢や涙を少しも顧みず、全員を殺した後、ある者は自らの手で、またある者は互いに差し違えた。
そして、この痕跡を消すべくただちに火の手が回り、同署にあった憐れむべき亡骸を焼き尽くした。
羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、
話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事の一切を目撃させた後、城の裏門から出して敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。




我らの主なるデウスの御摂理

2014年09月20日 20:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 21:08:08.82 ID:JyLJUgo+
織田信長の没後、その家臣で羽柴筑前守(秀吉)と称する者が天下の政治を
司る事になった。

彼(秀吉)は優秀な騎士であり戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
信長は彼をして毛利の諸国の攻撃に従事させ、既に4,5ヶ国を武力で占領していた。

羽柴秀吉には高貴さと武勲において彼よりも優れた二人の競争相手がおり、
彼はその競争相手を亡き者にしようと決意を固めた。そして先ず越前国の主君である
柴田殿(勝家)と一戦を交えてこれを滅ぼし、5,6千名の兵を殺した。
柴田自身は城に立てこもり、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである。

第2の敵は信長の息子の三七殿(信孝)であった。
三七殿には、かつての父の家臣であった羽柴に臣従することは、到底耐え難いことであった。
彼は美濃国の君主であり、2度にわたって羽柴に対して軍を起こした。
しかし羽柴勢が攻撃してくると、彼はそれに対向する軍勢を有しなかったので、
それまでいた兄弟に当たる殿(信雄)の城(岐阜城)を捨て、身内の武将のもとへ
援助を求めて逃走した。だが同行していたその家臣が、羽柴に忠誠を示すことによって
顕著な報酬に与ろうとして、途中三七殿を殺害してしまったのである。

これは明らかに、我らの主なるデウスの御摂理によることを示していた。

と言うのは、先にデウスはこの三七殿にキリシタンの教えについて大いなる喜びと
光と知識を授け給い、また彼自身も、キリシタンになる意向を度々表明し、
自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに広まるよう協力しようと言っていながら、
少しばかり栄えるとデウスに背を向け、心は全く悪に染まり、デウスに扶助を
求めるどころかそれを拒否し、魔術師のヴォミト(吐物)を求め、偶像を拝みに
走ったのである。

だが、デウスは突如としてそのような彼との絆を絶ち給い、それによって彼は
無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまったのだ。

ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝が滅んだのはキリスト教から離れたからだ、というフロイスの記述である。




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:22:30.77 ID:sUxkV9mz
死者には厳しいフロイスさん。ぶれないねぇ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 05:26:42.96 ID:5hFl6qT+
>>307
死者に厳しいのではなく、フロイスは人物評は基本的にその人物の死後に書くことにしている
フロイスいわく「日本では情勢の変化が激しすぎるからリアルタイムでは人物評なんか書けない」

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 06:54:20.06 ID:DLha5Ble
入信してもいつ棄教するかわからないから、という気がするが

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 09:28:39.06 ID:B86Odyjt
>>309
それは逆にはっきり書かなければならない事だから

柴田勝家の肖像画

2014年01月25日 18:39

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:29:53.95 ID:iQ6lVeQj
柴田勝家の肖像画

賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした

現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった

しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている

図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「面赤メ」等といった書き入れも見受けられる

写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える

※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:35:36.13 ID:iQ6lVeQj
『本朝名将百図』の肖像画は「柴田勝家」で画像検索をすると
陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます





今度の野洲郡での合戦に

2013年05月04日 19:53

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:30:22.13 ID:5P/7dMEO
柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀らが、6,7千の軍勢で近江国野洲郡に侵入し、散々に町中を放火した所、
佐々木(六角)勢1万ばかりが馳せ向かい攻めかかったが、そのまま日を経て、川を挟んで
両軍対峙の形となった。

この時、六角方の杉坂いく兵衛という者は後方に残っていたのだが、戦況が心許なく思い
前線に見廻りに行きたいと考えていたのだが、それにはせめて、人数5百ばかりも連れていかねば
一方の固めにもならないと思うものの、その時は手勢2百ほどしか無く、このため比叡山へ行き
玄妙院の法印に会ってこのように言った

「今度の野洲郡での合戦に、多くの者達が馳せ向かいましたが、織田方を成敗したという知らせは
未だ承わらず、心許なく思っており、そのため私は陣中に見舞に参りたいと考えています。
しかしそのためには、せめて手勢5百も連れていかねば意味が有りません。

そこで、貴僧にお頼みしたいのは、この比叡山の百姓たちに古具足や錆鑓などを持たせて、3百人ほどを
合力していただきたいということなのです。
そのようにして頂ければ私はその謝礼として、あなたが頼もしき僧であると人々に披露し、
多くの寺領が付くよう宣伝しましょう!」

この頼みを法印は聞いて、『たしかに、こういう時に援助をすれば、侍の働きの役に立ったといって、
一層その栄誉が得られるだろう』と思い、それから若大衆や檀家と相談して、彼らの配下の百姓のうち、
誰の百姓を何十人などと組み合わせていき、そして古い腹巻を巻かせ、彼らの脇差からにわかにサビを
落とさせ、竹の柄を付けたり樫の棒を拵えてかづく者もあり、思い思いの軍装をした3百人の加勢を
提供した。

杉坂はこれに大いに喜び、5百の人数で野洲郡へと急ぎ、ようやく近くまで来て見てみると、
すでに合戦が始まっていた。

鬨の声、矢さけび、弓鉄砲の音、人馬の声、これらが天地を覆すかのように夥しい音量で
聞こえてくると、3百人の加勢は、もとより百姓であるのでこれを聞いて引き震え、胸騒ぎして
このように言い出した

「知行や所領を取っても、寺の得にはなるが、我々には一合の得にもならない。
このような弓鉄砲の飛び交う大事の場所に行っては、必ず一矢で死んでしまうだろう。
私はそんな目に合うのは嫌だ。お前たちはどう思う?」

こんな相談をしている内に、軍勢から一人抜け二人抜け、終にはガラガラと逃げ尽くして、
杉坂たちが「止まれ!止まれ!」と叫んでもまるで聞かなかった。
これには杉坂も法印も、ただ呆れ果てるより外無かったそうである。
(義殘後覺)




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:47:32.34 ID:AlDhoViu
信盛「戦わずして逃げるとは…」
祐直「もってのほかにござる」
義統「左様左様」

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:49:42.64 ID:MYYccr3l
信長、三歳、秀吉「ちょっとそこに座れ」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:51:33.36 ID:8SKGvBND
戦が始まって急に集めた兵はそりゃ逃げるだろうな~と思う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 21:59:36.02 ID:LYD06Xrh
つか、このころの百姓で兵役に就いたことがないとか、まともな武具を持ってないとか、比叡山の荘園は平和なところだったんだね

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 22:04:39.72 ID:bzRKkpzn
>>518
真面目な話するとこの時代の惣村は、この手の軍役で人員を提供させられる場合正規の村の構成員は先ず出さない。
流れ者などを金で雇って提出する。なのですこぶる質が悪く、戦国大名からは何度もそういう事はするなという禁制が出されたが、
結局守られなかった模様。

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 23:57:25.99 ID:OvJz/j0O
坊主って自分の金と名誉のためなら、農民なんてゴミでしかないんだろうな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 00:39:16.25 ID:hhH728Ol
マジレスすると戦国期の百姓は生産者として非常に立場が強く、荘園領主どころか戦国大名にとっても
その意向を無視して何かを推し進めるなんて不可能だった。
当時の慣用句に『百姓様ほどになりたし』というものまであった。身分的にも憧れられる立場だったわけ。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 01:00:44.12 ID:3IO2wfWk
右から左と極端なやつばかりだな

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 01:26:43.92 ID:y4bTC+sM
一部の資料だけで日本全国そうだったと言うのは無理があるわな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 02:52:09.17 ID:fivGPUoN
まぁマジで無茶振りなんかしたら逃散するか他の領主に帰属しちゃうからね

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 07:47:32.57 ID:BsjcJRCK
農業をしている人の中に百姓は含まれるが
農業労働者と百姓は違うぞ。
派遣と派遣会社の経営者くらいに。

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 16:42:45.80 ID:ufNsTbxQ
知ったか2ちゃんねる

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 17:42:01.67 ID:JTaylOhg
近江の惣村って織豊期から江戸初期にかけて何度も武器を取っての大規模な争い起こした記録残ってなかった?
領主や大名の制止振り切って惣村同士で大規模な同盟組んで争っていたような

まあ惣村間の戦いと戦国大名間の戦いのレベル差がどれくらいあったのかはわからないけど
瓶割り柴田が突っ込んできてる状況だしね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 17:57:42.73 ID:3IO2wfWk
だから百姓と一口で言っても
地侍や足軽に即転身できるような武装農民地主層もいれば
専業農民や武器なんて持てない小作人層も居るわけ

この話の農民は武器自弁も出来ない下層専業農民や小作人層で、
戦闘のど素人だからいざとなったらビビッテ逃げたと言うだけ