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里見勝広の滅亡

2019年10月15日 18:06

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/15(火) 14:54:40.83 ID:pTZaer+B
このころ、東上野山田郡高津戸において無残なことが有った。その始末を尋ねると、房州里見家の、
天文七年の国府台の戦いにつきあたる。この戦いで生実(小弓)の御所・発性院足利義明が討ち死にするが、
その義明に加担して軍功のあった里見刑部大輔義堯の叔父に、里見上総介実堯という人物が有った
(実際には実堯は義堯の実父であり、稲村の変で主君義豊に謀殺されており、ここでは桐生家重臣となった
里見勝広と混同していると思われる。以下里見勝広として記す)。この戦いの後、里見の頭領で甥である
義堯と不和に成り本国を出奔し、東上野に来て、一族の由来を以て仁田山の里見蔵人の家人と成った。
その後、弘治年間、上杉輝虎に攻められ仁田山城が落ちたことから桐生へと移った。

桐生大炊介直綱(助綱)はこの勝広が高家の余流であり(新田源氏は足利御一家とされた)、武勇にも
優れている所から礼儀を尽くしてもてなし、一門の列に加え、赤萩という所に砦を築いて城将とし、
仁田山八郎をつけて守らせた。

この桐生助綱死後、養子の又次郎重綱(親綱)が後を継いだが、奸臣の津布久(刑部)、山越(出羽守)
らに壟断され、家法が廃れて席次が乱れ、里見勝広も度々譴責されたが、幸い親綱はそれを聞き流していた。
しかしこのままでは将来がないと見た勝広は、嫡子平四郎実勝、次男兵部少輔勝康に、家人の
正木大倉左衛門を付けて密かに赤萩を立たせ、越後へやって上杉輝虎に仕えさせたのである。
その後この兄弟は佐渡、越中、および本庄の城攻めなどで抜群の働きをしたため輝虎に厚遇された。

その間父である里見勝広は老後を赤萩に残って日を送っていたが、例の津布久、山越らの悪家老が
桐生親綱に有りもしないことを讒言して、終に詰腹を着る仕儀に至った。すなわち、桐生家より
山越出羽守、荒巻式部太夫、斉藤丹後守、藍原左近太夫、津久井和泉守、風間将監、清水道仙、
内田主馬之介、水沼主税介らが人数を引き連れ赤萩へ押し寄せたのである。

これに里見入道(勝広)は少しも騒がず
「定めて桐生よりの討ち手であろう。子の兄弟が居合わしていれば私も采配を振るって華やかに
一戦を仕る所であるが、今はもう甲斐のないことである。腹を切って相果てる事としよう。」

そう言ったが、側に仕える石原石見守がそれを制し

「生害はいつでも出来ます。ひとまず谷山へ退き、御運の末を見届けてからになさりませ。」と言った。

これに近習の大貫佐兵衛弘景兄弟は
「この仕儀に至って谷山へ退かれたとて、老木に花も咲きますまい。逃れようとして却って見苦しい
有様に成っては、越後の二人の御子息まで面目を潰します。この上は寄せ手に一矢なりとも報いた上で
御生害あってしかるべきです。」
そう諌めたが、石原は無理に引き立て裏山より勝広を落ちさせた。

大貫兄弟は「今はもう主従三世の縁もこれまでである。せめて落ちられるまでの防ぎ矢を仕らん。」
と、長男彦八郎、次男彦七郎、弟の源左衛門、郎党筒田三郎右衛門らが打ち連ねて大庭に躍り出、
最後の杯を交わす間もなく敵に切り込み、思う様に切りかかり、瞬く間に敵のうち名のある
清水入道道仙、水沼主税介、風間将監の手勢から二十騎を討ち倒し、全員討ち死にをした。
大貫佐兵衛父子は館に火をかけ煙の中より打って出て戦い、切り死にした。

一方、里見入道勝広は石原石見守に連れられ谷山までどうにか落ち延びたものの、そこで石原は
たちまち変心して入道に生害させ、その首を証として敵陣へ送った。このため石原石見守を憎まない
者はいなかった。

(関八州古戦録)

何故か里見実堯と混同されていますが、桐生氏より仁田山赤萩を任された里見勝広の顛末。



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