梶原又右衛門の忠節

2016年03月20日 18:59

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:32:52.43 ID:vEIBgH9Y
本能寺の変が起こった時、尾張の住人梶原左衛門尉の嫡子松千代丸は13歳になっていたが、
その折病に冒され、己の宿舎で養生していた。

しかし、織田信忠の在る二条城の様子を聞くと、すぐにそこに向かおうとした
「私は未だ幼稚ではあるが、一廉の弓取りの子であるのだから、どうにかして私を連れて
御所の中に入れよ。働くこと叶わずとも、ただ伏しながら敵の刃にかかり、君の御供をいたさん!」

これに同姓の家臣である又右衛門という者が、強いて諌めた
「らとえ御所の中に入ることが出来たといえども、この有様ではどうしようもありません!
君御父子(信長・信忠父子)は逆臣のために殺されたとしても、その後いかようにも、織田家
ご親族の人々によって逆徒討伐の儀がなされるでしょう。であれば、今は治療をして、
その折を得て忠節を成されるべきです。

であれば、私はこれより御所に駆け入り、この事を申し上げ、恐れながら御名代として
信忠卿のお供をいたします!」

そう言い捨てるとその場をづんと立ち、馬を引き寄せ打ち乗り。諸鐙を合わせて二条城に馳せ、
寄せての明智軍に紛れて御所の中に入り、広縁にて跪き、松千代丸の状況を信忠に委細に言上し、そして言った
「主の代官に、それがし、御敵を防ぎ奉らん!」

その至忠に信忠も感じ入り、自らの薙刀を又右衛門に与えると
「屍は戦場に晒すとも、まことに後世までの面目なり!」
そして庭上に躍り出て、蜻蛉返し水車と、八方透かさず斬って廻り、敵数十人を薙ぎ伏せ突き伏せ、
尽く防いだが、寄手は大勢であったので事ともせず次々と向かってきたため、終には討たれた。

その忠節を感じ、陪臣でありながら、彼の名は阿弥陀寺の過去帳にも書き載せられているという。

(甫庵信長記)




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:44:12.47 ID:hslUDo2B
こないだから甫庵を出してくるのは
小説の「良い話」を紹介するのとおんなじなんだけどなぁ…

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:53:01.40 ID:ECqYoMqa
もっと後代の名将言行録からもいろいろ出てるし問題ないだろう
武功夜話でも出典書いてれば載せてOKだろうし

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:47.45 ID:Ile/5imJ
>>500
一応指摘しておくと、昨今は甫庵太閤記の史料性も再評価されてる。
徳川家の武田旧臣などから、独自ルートで取材したフシがあるらしい。
あと太田牛一信長記と甫庵信長記は、成立したのはほぼ一緒の時代の軍記。
逆に言えば太田牛一信長記を信用しすぎるのも危険。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:53.86 ID:hq9GYHmV
軍鑑なら、甲陽軍鑑なら...

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:58:24.17 ID:Ile/5imJ
>>502
甫庵太閤記じゃない、甫庵信長記だw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:55:07.93 ID:4DVvuEN+
武人百話も100年位前だね

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 08:43:31.70 ID:jqPquz/P
>>502
史料として見直されてるのは、甲陽軍鑑と同様に風習が参考になるって話で
事件などの顛末については評価が低いよ。

甫庵信長記は一次史料とあからさまに食い違ってる話が多いからさ

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 11:05:53.99 ID:Q9Nctl58
春日惣次郎の時代までは遡れそうなもので間違いないんだっけ?
まあおじいさんの回顧録とかには「時系列ぐちゃぐちゃだし話盛るし細かいところ適当過ぎ」ってのしばしばありそうなもんだが
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