753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 04:58:49.89 ID:TcEpCjsE
関ヶ原の乱の時、加藤清正の北の方(清浄院)も大坂にいたのだが、石田三成が人質を取ろうと
しているという話を聞いたため、
清正から付けられていた竹田善兵衛家正と大木土佐恒持(兼能)は謀を廻らし、轉法口にいた
清正の舟奉行・梶原助兵衛(景俊)に梔子の煎汁を飲ませて、4,5夜眠らせなかった。
そうして疲れ衰えた助兵衛が大病人のようになると、彼を駕籠に乗せて綿帽子(防寒具)を
被せ、前後に衾(寝具)を重ねた。そして、門番の前で駕籠の戸を開き、断って屋敷に行く
ことを度々行った。すると、門番は後には見慣れて、いっこうに咎めなくなった。
一方で、川口で百足船を晩ごとに漕ぎ比べさせた。これも番船は見慣れて後には、「どれは速い、
どれは遅い」などと言って、守りを怠っていた。
そんなところへ清正から、「私には石田に与しなければならない用件はない。なんとしても、
北の方を敵に渡さずに逃げ落ちさせるのだぞ」と、告げて来た。それは大木の計画していた
ことであった。
それから、北の方にこの事を告げて、衾の下に彼女を押し隠し、その上に梶原がもたれ掛かって、
いつものように駕籠の戸を開いて門番の前を通った。大木も後から供をして「もし見咎められた
ならば、北の方を刺し殺して切り死にしよう」と思っていたが、事故も無かった。
そして轉法口に行き、やがて北の方を百足船に乗せて漕ぎ出した。番船の前をさっと行き過ぎて
2,3町にもなると、「あれはどういうことだ!」と騒ぎひしめいたが、その間に鳥の飛ぶが如く、
1里余りも漕ぎ延びた。
番船たちは「謀られたぞ!」と言って、碇を上げて追い付こうとしたが、その間に船は行き過ぎて、
ついには肥後へと下り着いたのであった。
大木と竹田は大坂に居残ってこの事を漏れ聞き、「討手が来たならば思うままに戦おう!」と、
待ち受けたが、敵方は関ヶ原の戦いで敗れたために、思いもよらず難を逃れた。
大木はもとは佐々成政に仕えて、後に清正に仕えた。才略と篤実を兼ね備えた者だったので、
清正の寵愛は厚く、今回のことにより、また2千石の禄を増し与えられたということである。
――『常山紀談』
関ヶ原の乱の時、加藤清正の北の方(清浄院)も大坂にいたのだが、石田三成が人質を取ろうと
しているという話を聞いたため、
清正から付けられていた竹田善兵衛家正と大木土佐恒持(兼能)は謀を廻らし、轉法口にいた
清正の舟奉行・梶原助兵衛(景俊)に梔子の煎汁を飲ませて、4,5夜眠らせなかった。
そうして疲れ衰えた助兵衛が大病人のようになると、彼を駕籠に乗せて綿帽子(防寒具)を
被せ、前後に衾(寝具)を重ねた。そして、門番の前で駕籠の戸を開き、断って屋敷に行く
ことを度々行った。すると、門番は後には見慣れて、いっこうに咎めなくなった。
一方で、川口で百足船を晩ごとに漕ぎ比べさせた。これも番船は見慣れて後には、「どれは速い、
どれは遅い」などと言って、守りを怠っていた。
そんなところへ清正から、「私には石田に与しなければならない用件はない。なんとしても、
北の方を敵に渡さずに逃げ落ちさせるのだぞ」と、告げて来た。それは大木の計画していた
ことであった。
それから、北の方にこの事を告げて、衾の下に彼女を押し隠し、その上に梶原がもたれ掛かって、
いつものように駕籠の戸を開いて門番の前を通った。大木も後から供をして「もし見咎められた
ならば、北の方を刺し殺して切り死にしよう」と思っていたが、事故も無かった。
そして轉法口に行き、やがて北の方を百足船に乗せて漕ぎ出した。番船の前をさっと行き過ぎて
2,3町にもなると、「あれはどういうことだ!」と騒ぎひしめいたが、その間に鳥の飛ぶが如く、
1里余りも漕ぎ延びた。
番船たちは「謀られたぞ!」と言って、碇を上げて追い付こうとしたが、その間に船は行き過ぎて、
ついには肥後へと下り着いたのであった。
大木と竹田は大坂に居残ってこの事を漏れ聞き、「討手が来たならば思うままに戦おう!」と、
待ち受けたが、敵方は関ヶ原の戦いで敗れたために、思いもよらず難を逃れた。
大木はもとは佐々成政に仕えて、後に清正に仕えた。才略と篤実を兼ね備えた者だったので、
清正の寵愛は厚く、今回のことにより、また2千石の禄を増し与えられたということである。
――『常山紀談』
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