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島津家由緒

2022年03月15日 19:12

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/15(火) 13:42:55.32 ID:Zb4IE7Az
近衛殿の御家令である、近藤兵部大輔が物語したことである。

島津家の事について、かつて、近衛殿に仕えた豊後の局という女性が、関東に下って源頼朝に仕えたが、
二位殿(北条政子)が彼女に嫉妬し、梶原景時に対し、「由比ヶ浜に沈めよ。」と命じた。
梶原はこれを請けて局を捕えた所、局はこのように訴えた

「私は京都に在った時、近衛殿の御憐れみを受けて既に懐妊しております。我が身がいかように成っても、
この子までを空しく成されることの悲しさよ。」

これには梶原も、佐殿(頼朝)がどのように思われるかも恐れ、殊に懐妊している事も憐れに覚えたため、
二位殿には「沈めました」と報告し、密かに鎌倉から落とした。そして摂津国難波のほとりの石の上にて
出産した。それは男子であった。この事を近衛殿に申し出ると、近衛殿は男子を慈しみ育て給った。

男子成長の後、関東にこの由が聞こえたため、頼朝は呼び迎え給うた。そして折節、薩州の島津に
継子が無かったため、この子を与えられた。
これにより島津は頼朝の御子の血筋とも申すが、実は近衛殿の御子の血筋なのである。
この男子出生の時の石のほとりには一社の産土の神が祝われ、今も島津家の上下共に、往来の度毎に
参詣しているという。

慶長・関ケ原の役で、島津家の人々を近衛殿は密かに家に隠された。その人々を隠し置かれた
土蔵は近年まで「島津蔵」と伝えていたのだが、現在では焼失したという。

紳書抄

島津家の由緒について



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