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三好が是程のうつけでは

2022年03月22日 16:52

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 12:13:02.25 ID:uwizcW1I
三好左京大夫(義継)が将軍(足利)義輝公を討ち、その祝言の連歌をしようと連衆を集め、
里村紹巴、里村心前、灰屋紹由などが参った。座を定めて、三好殿が「発句をしたぞ」と申され、
そして句を出すと

『しやくとして しかもろとある木の上に くうくうとおなきやるハ八幡殿の御使か、
やら目出度やな』

とされた。満座興を覚ましていたが、三好殿が申すには
「”しゃく”はろの木、”くうくう”は鳩なり。」と申した。
その後色々有って百韻は終わった。

その後、織田信長公上洛の時、御咄のついでに、この発句の事を里村紹巴が御咄申した。
信長公はこれを笑われると思っていたのだが、御返事もなされず、無興にして座を立たれた。
紹巴も、どうして御意に入らなかったのだろうかと思いながら退出した。

信長公はすぐに森三左衛門(可成)を召して「先程の発句の物語を聞いたか」と仰せになった。
森が「承り候」と申すと、信長公は仰せになった

「三好が是程のうつけでは、天下を取るような事はできない。これを案ずるに、松永弾正(久秀)は
天下への望みが有って、先ず三好に将軍を討たせ、しかし三好はうつけであり、天下の支配は成らない、
その時天下を取るべしと考えている佞人なのだろう。
幸いに松永は出仕して在京しているのだから、これを早々に討つべし!」

森三左衛門は承ると
「仰せ、尤もであります。さりながら御上洛早々に、最初に出仕つかまつった松永を誅殺すれば、
今後味方に参る大名は無くなってしまうでしょう。ですので、重ねての事に遊ばされるべきです。
松永弾正は佞人なのですから、次第に悪逆を顕すでしょう。その節に成敗遊ばすべきです。」

と申したため、その時は松永安穏となった。

これは先の三好殿連歌の時の連衆の中に在った、灰屋紹由の咄だという。


川上久国雑話



411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 14:02:32.05 ID:OkHuMmoM
里村紹巴、「時は今」の歌会にもいるし小説の主人公行けそうだよな
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「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




大将の兜、鉛痕

2016年07月14日 13:11

森可成   
851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 22:48:09.91 ID:nZuFrBJI
大将の兜、鉛痕

 今冬、赤穂老侯〔美濃守忠賛〕が予の荘を訪ねられた。
そのときの談中で、
「私の祖の三左衛門〔可成〕が着られた兜が今も伝わっている。
鉢の側には銃鉛が半ば打ち込まれた痕がある。
上の方にも十文目の鉛痕がある。これは上にすべったかと思われる。
このような事に遭っても、やはり着ておられたものなのか。」
と話された。

 先年仁正寺侯〔下総守長昭〕の祖の長勝〔初め平左衛門、後に下総守〕が着られた
一谷と称する兜の図を侯が示したものを写しおいた。
この兜には後立がある。大きな版のようなものであった。
これにも銃鉛の痕があると聞いた。

 聞き伝わることには、板倉内膳正(重昌)は、正月元日に天草の城を攻めたとき、
城中の賊が、十文目筒で内膳正の兜を打つと、真向かいに当たり、
内膳はすぐに落馬して死んだ。
徒士は内膳を負って退き、兜を脱いで見てみると、鉢に弾が当たったが貫通していなかった。
内膳の頭は砕けて腐肉のようになっていたという。

(甲子夜話)



「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな

「名人」と「天下一」

2012年05月12日 21:03

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 18:28:45.77 ID:CtL9kiUh
「名人」と「天下一」

ある道での素晴らしい人を讃える際、現代でも良く使われる言葉。
この二つ、織田信長が使い出したといわれている。

戦国大名の権化ともいうべき信長は、ある時は慈悲深くある時は冷酷無比、とかなり複雑な個性をもっていたが。
そのうちの一つに、褒めるの大好き! という面があった。
特に相撲達者が好きで、しばしば大会を開き成績の良い者は、苗字も持たない低い身分の者だろうと
百石取りの家臣にしたり、という逸話が伝わっている。

名人という称号も、元は信長が本因坊算砂の囲碁の腕を褒めたのがはじまりとされている(真偽については論争あるが)。

さて、一方の天下一。
信長から、実際に天下一という称号を授かった家臣に道家清十郎・助十郎兄弟がいた。
彼らは尾張守山出身で、森可成の家臣もしくは寄騎という立場だった。
美濃・高野口合戦において、まだ同盟を結ぶ前の織田軍と武田軍が戦った際に先駆けを務め、首三つを取るなどの功名を挙げた。
その戦いぶりがよほど見事だったらしく、信長は道家兄弟の旗に直筆で「天下一之勇士也」と書き、褒美とした。
道家兄弟は、織田家中から名誉の武人と羨ましがられていたという(大田牛一の信長公記)。
が、この兄弟はその後、長く生きなかった。
森可成が、近江坂本において浅井朝倉の大軍を相手にし奮戦の末に討ち死にした時、これに殉じたのだ。

また、天下一の称号は職人などにも与えられ、賦役免除などの特権が伴った(秀吉も真似た)。
これにあやかろうとしたのか、例えば鏡作りの世界では製品に天下一、と彫り入れるのが流行。
しかし江戸幕府が天和二年(1682)に天下一の称号の使用を禁止し、以後は途絶えた。

なお信長の天下一、というのは何もその世界で唯一人、というほどの意味はなかった模様。
何しろ、道家兄弟からして二人とも天下一だったのだから。
江戸時代の創作色の強いほうの信長記だと「天下一を名乗るのが二人もいて、信長が残念に思う」事件なんかがあるが、
このあたりの価値観の変化を想像すると面白いかもしれない。




129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 20:45:19.04 ID:7q1WltS/
天下一がダメなら天下無双や天下無比ならいいよね。

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 21:21:52.54 ID:MQivP+YC
秀吉が加藤さん(地味)に「日本無双」の称号を与えようとして、
山中長俊に「いやあんた、前に宮部善祥坊にも『日本無双』の名前あげてたじゃん。『無双』なのにかぶっちゃダメでしょ!?」
と止められたなんて話もあったな
このスレで既出だったかどうかは覚えてないが

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 23:52:32.40 ID:ElX5iuyX
『天下に一つと無い逸品』という口上で
馬鹿な金持ちにガラクタを売り歩いた詐欺師がいたって話をどこかで聞いた事がある

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 01:34:48.53 ID:x5I5eniY
売僧稼業 うまー

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 04:36:29.42 ID:dvvFRb4i
ば…売僧

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 06:11:52.92 ID:4Pn8nYaC
>>132
一条戻橋の御準備整いましてございます

135 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/13(日) 11:17:29.83 ID:ZJGf6pn7
>>132
遺掲用の書筆と茶室の準備が整うてございます

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 14:11:36.18 ID:dRsl4T5z
ゲヒ殿と三歳様がアップを始めました。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 14:17:17.58 ID:VFI99hR7
>>130
東と西に分けて本多忠勝と立花宗茂に天下無双を授けた
無双の称号あげたがりのラスボスカワユス