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森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事

2019年08月27日 17:18

森忠政   
341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/26(月) 22:14:32.56 ID:Dm7AYDWD
「諸国百物語」「森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事」
まとめの5865の
「森家屋敷の怪女」
と後半が被ってるけど書いとく。

森美作殿、屋敷の裏に小さき堀あり。
その堀の内より小さき児出づる事もあり。
又女のかづきを着たるが、あなたこなたと歩く事も有り。
ある時美作殿、近習の衆を集め夜ばなしをなされけるに、
座敷のまはりを、女、髪を下げ、二人連れにてあなたこなたを歩きける影、座敷の壁に映りて見えければ、
美作殿、不思議に思召し座敷の内を立て廻し、すみずみまで侍どもに探させ御覧なされ候へども、何物もなし。
ただ影ばかり、あなたこなたとするが、みな人の目に見えけるとなり。
それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。

参照
森家屋敷の怪女








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那古野山三郎の弟のこと

2019年08月15日 17:13

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 17:00:58.55 ID:u77QSgOW
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。



この釜は、このようにしか据えようが無い

2019年07月01日 16:52

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:57:48.62 ID:UePEq9TT
遠州殿(小堀遠州・政一)が伏見で口切り(茶壺を開封する儀式)をされた時、古田織部殿が翌朝
お出でになるという前日、相伴の桑山伊賀守殿(元晴)、天野屋覚甫、服部道巴の3人が、前礼のため
六地蔵の遠州殿の茶室へ参られた。そこには明日に使う釜が仕掛けて有ったのだが、彼等はその仕掛けようが
気に入らず「釜を据えなおされよ。これでは織部殿が気に入るはずがない。」と言われた。
しかし遠州殿は「先ずこのままお見せした後、悪ければ直しましょう。」と答えた。

翌朝、織部殿はこの3人を相伴として座敷に入られた。この時伊賀守殿が「釜の掛けようは、これで
良いのでしょうか?」とお尋ねになった所、織部殿は「この釜は、このようにしか据えようが無いだろう。」
と答えられた。

先の3人の予想と違ったため、それ以降遠州殿は一目置かれるように成った。
この釜は森右近殿(忠政)が所望されたため、譲られたという。

(長闇堂記)

これにも何気に森忠政が出てた



作州は即日に京の町人から借りていた銀を返しなされ

2019年04月23日 18:37

森忠政   
818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:16:07.38 ID:dWsJWe3M
難波の役の冬陣(大坂冬の陣)で大名たちに白銀を分かち下された。加賀・仙台・薩摩などは
取り分けての大名なので、台徳院殿(徳川秀忠)から白銀3百枚、東照宮(徳川家康)からは
2百枚、合わせて5百枚ずつを下された。

森作州(忠政)などの大名には2百枚と百を合わせて3百枚を下された。作州はその時、即日
に京の町人から借りていた銀を返しなされ、人々は感心した。

――『老人雑話』



819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:46:17.16 ID:xWlDplvi
コーエーのゲームだと金も米も腐るほど余るけど、実際の台所事情はどこも厳しかったんだろうね
毛利なんかも、隆元が亡くなったあとは信用がなくて商人から金が借りられないって嘆く逸話があるし

森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じる

2018年08月01日 21:57

森忠政   
988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 00:04:14.80 ID:EJ6MU2Mq
森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じる


以下は森忠政がかわや*(いわゆる被差別民)の孫六に送った黒印状。
慣習権が認められる一方、後のえたと同様の役務が課せられていた。

四郡の内のかわや共に牢屋番や細工の仕事を、物頭の孫六が申し付けること。
扶持として(百姓)一戸ごとに籾を一升ずつ取らせる。ただし村々の家の数を
追って書き付けて提出するように。形式は口上にて申し渡す。
下々のかわやは、その者の居住地で稲を一戸につき一把ずつもらう代わりに
城の掃除を油断なくするように。

慶長五年                    忠政黒印
  七月九日
         孫六

――『続舊記集』

* かわたとも言う。語源は"皮のやく"とされ皮革業に従事する人を指した。


仙千代奪出

2018年05月28日 17:28

森長可   
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 09:59:11.73 ID:G3/hr0Wa
本能寺の後、信州より居城兼山に帰ってきた森長可は言った
「弟である乱丸、坊丸、力丸は討ち死にしたという事だ。信長公も御生害なされ、
この上は京に上っても意味がない。
岐阜の城にいる、残る弟の仙千代(森忠政)を奪い取ろう。
しかし人数多くては無理であろうから、井戸宇右衛門一人供をしろ。」

宇右衛門畏まり、加えて下人少々召し連れ、主従6人にて岐阜城に忍び入った。
日暮れまで静かに待ち、人質を置かれている家に、長可一人忍び入った。
傅役として付けられた各務長助13歳、仙千代14歳、二人共に手を取り家より引き出し、
城の下十丈ばかり(約30メートル)の谷底に大きな布団が用意してあり、
井戸宇右衛門その他が待っていた。

長可は二人をその布団の上に飛び降ろさせ、下に落ちると馬に乗せ、豆渡りの渡に向かい、
浅瀬に馬を入れて難なく川を越え尾張の地に入った所で夜が明けた。
そこから馬を早め、その日の内に兼山へ入った。

兼山で待っていた御母公は、「七世の孫に逢ったような心地です」と、喜ぶこと限りなかった。

(兼山記)



959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 12:07:42.11 ID:kUWGZNYS
30mと言うとマンションの10階位の高さか...
こわっ!!

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 12:38:40.87 ID:DVaPyOBu
布団でなんとかなる高さなのか・・・
かなり、高さは盛ってある感が。でも、岐阜城だと、山の上だしなあ。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 18:46:24.88 ID:homQuwcC
布団にまいて落としてなかったっか?

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 22:48:48.01 ID:8830ayA8
>>960
すまんけど、ちょっと布団持って行ってやって来てくれよ
報告よろ

よく人を見立ててから

2018年03月22日 18:39

森忠政   
717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 14:38:32.21 ID:Ml9sJDFQ
よく人を見立ててから


あるとき、森忠政君に近習の者が
「中小姓の扶持方に切米で勘定するのは、百石の物成より多くなりますから
 (中小姓に)所付*されて下さい」
と申し上げれば、(忠政は)
「折紙は本阿弥の札のごとく大切な物である。切米を貰っている者が
 他の国へ行っても大したことにはならないが、所付は他国でその者が
 放言すれば『あんな馬鹿者に知行を取らせたのか』と俺が笑われることに
 なるのだから、よく人を見立ててから所付はするものだ」
と仰せられたという。


――『森家先代実録』

* 具体的に知行所(領地)を付けること。


首を取り返す程なら

2018年01月27日 15:41

森忠政   
502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 03:05:35.16 ID:sDG9Imzt
首を取り返す程なら


大坂夏の陣でのこと。
森家家臣の石田惣右衛門が、佐竹衆から味方討ちにあったので
惣右衛門の子供二人が追いついて首を取り返すということがあった。

そのころの評判で
「知らないふりをしておけば、親はよく奉公したことになり
 佐竹衆も手柄に出来ただろう。首を取り返す程ならその者を討って
 親の首と一緒に持って帰ればよかったのに。二人とも弱いことだ」
といわれたという。


――『森家先代実録』



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 09:44:51.58 ID:VA82doJi
お、おう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 10:43:16.03 ID:MG3bVX6b
情け容赦がねえな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 15:18:35.40 ID:oJeOzHbl
夏の陣でも戦国の気風は残ってたんだなw

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 16:23:19.87 ID:jh7qn4rj
まさむね「知らないふりをしておけばいいものを神保が…」

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 18:26:15.97 ID:h5bGR4Hh
この場合、惣右衛門さんの扱いはどうなるんだ?
事故死?

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 20:58:26.45 ID:S3i1cgJH
たぶん討たれ損なんだろうね
だからこそ、黙ってれば戦闘中の討ち死にですんだんだろうし
武士としての面目を考えるなら、やはり敵を討ち取ってくるべきだったと思う

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 22:45:01.93 ID:CmJGJAHL
中途半端が一番悪いというのがよくわかる事例

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 23:42:10.35 ID:VA82doJi
秋田佐竹は遅参で居ないからどこの佐竹衆だろう

今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


春日周防の徒党の磔

2017年03月25日 20:44

森忠政   
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

一人の弟を捨て殺さば

2017年02月06日 17:56

森長可   
588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 13:03:39.23 ID:hcZgHN4K
一人の弟を捨て殺さば


天正十年冬、未だ天下の主が定まらないなか森長可の弟
お千(忠政)は岐阜城で神戸信孝の人質になっていたが
秀吉は(長可に)尾藤甚右衛門を遣わして、自分に一味するならば
遠江駿河両国を約するという誓詞を送ってきた。

森家の家老衆を悉く集めた評議の時に、一同それぞれが
秀吉公に一味するのが尤もだと長可様に申し上げたが
長可様がお千のことはどうしようと言われたので、その時
長田又左衛門(長可の姉婿)がお捨てしましょうと申し上げた。

長可様は
「先年三左衛門殿(父可成)が討死になり、蘭丸を始め三人が本能寺で
 生害した。御母公はこのことで日々お目が乾くことはないという。
 その上予の骨肉にはお千を除いて外はいない。秀吉公に一味して
 たとえどれほど立身しようとも、一人の弟を捨て殺さば母公への
 不孝となるので心得がたい」
と仰せられご同心されなかったので、林長兵衛為忠が進み出て
「私がお千様を盗み出してみせます」
と申し上げたので、ならばその方が取り計らうようにと仰せられた。

長兵衛が岐阜城へ行くとお千様は近江櫓にいたので
長兵衛は機転を利かせ櫓の窓子を引き剥がしお千様を跳躍させて
下には大布団を広げ待ち受けたので怪我などはなかったという。


――『森家系譜』

ちなみにこの長田は忠政が家督を継いだ後、居づらくなって出ていったとか。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:43:13.61 ID:r2/kuP1d
>>588
森家らしくない(偏見

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 18:38:33.89 ID:94zKLE+Z
遺言状とこの話だけで鬼武蔵を知った人は
情に厚い家族思いの武人だったと感動するなきっと

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:49:41.22 ID:H2xryelB
徳川の領土の遠江駿河を宛がうだなんて、いくら武蔵がアホの子だからって舐めすぎだろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:08:42.84 ID:94zKLE+Z
>>591
過去に二回ほど出た逸話だと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5948.html
鬼武蔵「駿河遠江に加え甲斐もよこせ」
秀吉の使者「さすがにそれはならぬ」
(使者が帰った後)
鬼武蔵(家来に)「さっきの条件でもわしに不自由はないのだ。だが駿遠甲の三ヶ国を手に入れれば、次節が来れば
其の方達にも小城の一つでも持たせることが出来たのに、お前たちにとっても運がなかった。」

やはり鬼武蔵さんは情に厚いお方だ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:15:08.55 ID:2frsTZP4
逸話スレが広まる以前に戦国関係の個人サイトでは、
森長可の遺言書の件で情にも厚い武人だったというと紹介されてた思い出

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:30:12.41 ID:DTcCJHU8
情に厚い人ではあるんだよ。戦になるとやりすぎちゃうだけで。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 01:35:08.44 ID:t/aGTs/k
酒呑むと人格変わるキチガイと一緒やな

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 06:01:55.42 ID:MBpleLyQ
ああ嫁が絡まなければの人と一緒だな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 15:22:33.98 ID:Qz9rerfe
>>597
敵に厳しく家族に甘い…そういえばプーチンやトランプも家族には凄く優しいそうな

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 16:51:11.22 ID:YRcOd+eb
DQNの家と一緒ですね

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 17:47:17.86 ID:tUWAHyh0
そりゃ敵には強面で当たらないといけないんだから
その分身内には優しくしないとまずいだろう

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 17:53:07.49 ID:jlg7zLfd
その割には家族で殺し合いする家が多いような…

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 19:31:21.27 ID:5gqA2q1V
おっと河内源氏の悪口はそこまでだ

森忠政の水理

2017年01月08日 16:12

森忠政   
494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 14:57:57.93 ID:IDAI/Glu
森忠政の水理


森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。

美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。

ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg
059-03.jpg
(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)

洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。

森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。


――『美作中古紀事』



伴惟安、妙向尼と森忠政を救い出す

2016年11月02日 17:11

森忠政   
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 16:21:59.71 ID:e8s4vPn2
伴惟安妙向尼森忠政を救い出す


天正十年六月二日、京都に於いて信長・信忠親子と蘭丸、坊丸、力丸
伴氏の伴正林伴太郎左衛門等が討死したことは三日の辰刻には甲賀の伴惟安にも伝わった。

そのとき長可は川中島にいて、母の妙向尼と千丸(忠政)は人質のために安土にいたが
惟安は以前から可成、長可にとりわけ目をかけられていたので
「今お二人はさぞ途方に暮れていられるだろう」と一族で話し合い
四日に野越の間道を越え安土へ行き、妙向尼と千丸をお守りして五日に甲賀へ連れ帰り
二人をすぐに自分の家に移し、伴氏一党で番をした。

十三歳の千丸はどじょうすくいとカエル釣りが好きなので伴家の子供達は日々お供していた。
あるとき「お千殿、いざカエル釣りに行きましょう」と子供達が言うと親どもが来て
「大名のお子様だが、訳あって少しこちらにいらっしゃる間は
お千様とお呼びし、何事も逆らわずお心のままにするのです」
と堅く制したという。

長可が信州を引き払って金山に帰ってくると、九月十一日に甲賀に迎えを送ったが
伴一党は守山武佐筋に朝倉の残党がいる可能性を危惧し、伊勢街道をお供して
勢州坂下で妙向尼と千丸を迎えの金山の者に渡した。

この忠義により天正十二年の暮れ(長可が討死し忠政が家督を継いだ頃)に甲賀に迎えが送られ
十三年の春、伴惟安と惟利の親子は初めて森家へ出仕することになり
他の残った伴党もこの親子の口利きで召し出されることになったという。


――『森家先代実録』



それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが

2016年10月14日 21:12

森可政   
212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/14(金) 14:54:41.43 ID:UGi9nDJa
徳川家には……


春も末のある時、森可政(森可成の弟で忠政の叔父)が忠政へ生の鱸を差し上げようとしたところ
近習衆は「忠政公は奥にいらっしゃるので今お披露目するのは難しい」
と断りそのまま持っていこうとした。

可政は大いに腹を立てて
「この時分は落ち目のナマモノがあるので、忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを直接ご覧にならないのは以ての外である!先年それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが
御列座の衆は
『あの可政は秀吉公の代には黄母衣の御大役として口を聞くような者だったが、庭先のハシゴをくれたのか』
と機嫌よく家康公の御前へ持っていってくださった。何を差し上げようとも
『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません』と返すような御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ!
早く取り返してきてくだされ!」
と言ったので近習衆は驚き早々に生の鱸を忠政に披露したということだ。


――『武家聞伝記』




細川忠利「うつけ者!」+「おまけ」

2016年10月05日 11:54

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:15.20 ID:EUk1JjrN
細川忠利「うつけ者!」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3506.html
↑この話で森忠政の跡継ぎになった長継と細川忠利のその後の話

将軍家光公の御上洛の折、森美作守(森忠政)様が京都で亡くなられたのを、
忠利公は代々心安く(森家に)出入りされていたので既に存じられていた。

何某とか名は覚えていないが「最早お亡くなりになられました」と(忠利に)申し上げると
「うつけ者!」とお叱りになられ(忠政が)ご存命のときの如く(森家へ)直に行き
「内々お願いしていた通り、内記(長継)殿ご養子のお願いは妥当だと思われているので
正式に認められるまでの間、少しも気になさらない様に」
と高々と引き受けられ、お帰りの時にご家来共歴々に
「最期のお願いは聞き届けられました、いずれも安心して下さい」とおっしゃられたので
先程叱られていた人も感涙し、その他の歴々ご家来共もまた涙を流しありがたがった。

このような様子だったので、内記様は美作十八万石と津山城を無事拝領された。
内記様という御名も(長継の)御所望にて(忠利の初任官時の官職、内記にちなんで)
おつけになられたと承っている。

――『旦夕覚書』

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:56.20 ID:EUk1JjrN
おまけ

寛永十四年十月十二日 森長継細川忠利書状

「一筆申し入れます。貴方から鹿毛の馬を頂いたとき『よそへやるようなことがあれば
貴方に絶対お返しします』と約束しました。この馬を肥後守(光尚、忠利嫡男)が見る度に
『乗りたい!』と言って借りるので、常時貸すことになってしまいました。
もっとも貸すことはないと言っていましたが、貸したと言っても我らの所にいるのは変わらず
(光尚は他人ではないので)この馬を借りたときのまま約束は破っていません。このことを
お聞きになられて、肥後守に勝手にやったのかと思われたら迷惑なので書きます。恐惶謹言」

――『細川家史料』




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:45:37.14 ID:yrg8J4ID
>>221-222
…まあ三斎様の息子らしい、としか言えんw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 00:29:50.65 ID:gOIwRA7i
できすぎ君忠利

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 01:14:22.18 ID:OZ+2mprs
忠利は優等生なイメージもあるけどやる事はやる

ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。




梃子でも動かない男

2016年08月18日 13:36

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 18:32:46.28 ID:O49atqFZ
梃子でも動かない男

寛永5(1628)年7月14日、江戸城において能があり諸大名が見物していた。
その時大地震が起こり、驚いて能舞台の周りの白洲に降りてしまう人が多かった。
森忠政は嫡男の忠広と共に座っていたが、向かいにいた忠広がすぐに(逃げようと)
立ち上がろうとしたのに気づくと忠広を思い切り睨みつけたので忠広は立ち上がれなかった。
忠政の隣に座っていた堀尾忠晴も立ち上がったが、忠政が袴の合引をつかみ座らせた。

伊達政宗は(逃げようと)端まで出てしまっていたが、忠政父子が(揺れていても)座っているのを見て
「御前が近いのに大騒ぎではないか、最早揺れも鎮まったのでみな席に戻られよ」
と差していた扇を開き、白洲に降りた人を取り鎮め自らも席についた。

翌日、堀尾は森家に来て忠政に
「昨日の御心付けは生生世世忘れがたいことです」と礼を言ったという。

――『森家先代実録』

……政宗がちょっとかっこ悪かったのでこっちに。




14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:11:30.95 ID:zg4l8qgT
>>13
政宗せっかく取り繕ったのにばれてるw

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:35:39.02 ID:WgAt7fYc
>>13
以前読んだのは、忠政と家康以外みんな逃げたが、
逃げようとした政宗は、忠政と家康が微動だにしないのを見て、逃げるのを止めた。
だったと思ったが、1628年なら家康死んでるな。

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:42:28.89 ID:q/ilRzTo
凡人と偉人のラインの
ギリギリ偉人側にいるのが政宗

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 21:32:27.65 ID:WgAt7fYc
堀尾忠晴って、前田利常の彼氏だったな。

松平の家がある限り

2016年08月12日 18:56

森忠政   
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 13:27:31.42 ID:s4KcRqqy
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』



森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

智勝院殿には父母が四人いる

2016年06月17日 17:57

森忠政   
856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 16:22:25.49 ID:kp3uQH50
智勝院殿(森忠政正室・お岩)には父母が四人いる。
実父:名護屋因幡守 実母:養雲院
養父:大和大納言(豊臣秀長)  養母:智雲院

太閤御台政所(高台院)の父は尾州浅井庄の浅野与七郎で、(高台院は)初名を祢々といい
養雲院殿の筆子(←原文ママ)だったので、当時木下藤吉郎と名乗っていた太閤との縁組の際
因幡守は与七郎へ「藤吉は唯人ではないので(嫁に)やりなさい」と差図した。

また(因幡守は)信長公にも木下殿を執り成され少々便宜を図られたので
(因幡守が亡くなった後)養雲院殿は後家料として摂津国の尾坂田に知行を与えられ
京都四条の屋敷で、余生は結構自由な暮らしでいらっしゃった。
養雲院殿死後は(世話をしていた者たちを)忠政君は召し抱えられたということだ。

――『森家先代実録』