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あの鉄砲は狭間くばりといって

2021年02月21日 19:09

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/21(日) 17:35:22.72 ID:jMSoTC5v
大阪冬の陣の時、寄手は西南北東、大方軍勢が揃った所に、城中より大小の鉄砲を、つるべ放ちに
事も夥しく撃ち出した。

これに諸方の寄手は色めきあったが、このような所に古田大膳(重治)殿の家中にて、高禄を受け
日頃は用に立つ人と聞こえている老武者が、鉄砲の音に驚き、
「大将に御物具まいらせよ!各々覚悟せよ!」
と勧めたため、物に慣れない若者たちは、「すわ、敵が出てくるのか!?馬よ、物具よ!」と
罵りひしめき、上を下へと騒ぎ立てた、

このような所に、先手の組頭である森次郎兵衛原十兵衛の二人が馳せ来た。
「これは何事に騒いでいるのか!?狼狽えたことを申して、大将をも驚かし参らす事、
沙汰の限りである!
あの鉄砲は狭間くばりといって、城攻めの時の大法である。この事を大将に申されよ。
何れも心安くして、静まり候へ!」

そう言い捨てて、それぞれの持ち口に帰っていった。

この森次郎兵衛は戦場において、度々の高名があった中にも、三木城攻めの時、太閤、その時は
羽柴筑前守殿と云って、付城をなされたが、敵の別所方より押し返して来た所に、次郎兵衛が
走り出て、門を支えさせ、合い鑓を合わせて追い払った。その振る舞いが比類無かったため、
筑前守殿より召され、陣羽織を手づから給わった。

また原十兵衛稲葉一鉄に仕えていた時の手柄、また八王子にて度々比類なき働きが有った。
後には森内記(長継)殿に仕えたという。

備前老人物語



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すなわち鬮取りにされたという

2021年02月06日 17:58

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/06(土) 14:53:10.50 ID:CAEJcein
大阪冬の陣の時、伊勢の大将であった本多美濃守(忠政)殿の陣屋に、組の人々を集めて、
天王寺表での、それぞれの陣場の配置を渡した。

その時、古田大膳(重治)殿は病気で、家来の原十兵衛が名代として来ていた。
十兵衛は陣場の割付、地形、剣難を見渡して
「このような御割付については、ひとまず大膳に申し聞かせないことには請け取ること出来ません。
願わくば鬮取りにて仰せ付け下されますように。」
と申した。

この言葉に、本多殿は以ての外に腹立たれ、あれこれと議論したが、十兵衛は少しも臆せず
「いかに仰せられましても、この分にては請け取れません。」と申しきったため、話が進まず、
その場も苦々しい様子に見えた所に、分部左京(光信)殿が進み出て十兵衛に向かい

「其の方などの身として、美濃守殿の御言葉を言い返すなど、慮外千万、沙汰の限りであるぞ。」
と戒められ、また美濃守殿に向かい

「十兵衛の申す所は、一途に己の主人を大事に考えていることで、その身分を忘れ、御前を憚らず
慮外を申し上げたのだと思います。それを思召し分けられ、御赦免なされ、鬮取りを仰せ付けられれば、
十兵衛にとっても当座の面目、一代の名誉となるでしょう。」

そう、理を尽くして申すと、本多殿も機嫌を直し、すなわち鬮取りにされたという。

この原十兵衛は、後に森内記(長継)殿の家に仕えたという。

備前老人物語



長門守は侍の冥利が尽きた人なので

2018年04月19日 18:26

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 15:07:18.14 ID:ZlVxawXH
長門守は侍の冥利が尽きた人なので


寛永15年4月14日、肥前国島原城主の松倉長門守勝家が
島原一揆の咎めにより森長継へと預けられた。
津山で長門守殿を預かっていたが台命により、5月4日には
江戸の内記様(長継)の御屋敷に移すこととなった。
宗門御奉行の井上筑後守(政重)が何度も来て、長門守殿の話を聞いて
口上書等を書き、長門守殿の小姓の権兵衛・瀬兵衛も吟味された。
権兵衛は二度拷問されたが、瀬兵衛は新参者だったので拷問されなかった。

そうして7月19日に長門守殿の切腹が決まり、前の日の晩に
内記様は検使から介錯人を出すように求められたときのため
侍分で足軽大将の井川弥一右衛門と、歩行の福本与三右衛門を
介錯人が侍分でも歩行でもいいように、両人に仰せ付けられた。

19日の朝、森家臣の林伊織が筑後守殿にそのことを申し上げると
「長門守は侍の冥利が尽きた人なので、年若といえども内記殿が
 足軽大将を仰せ付けた弥一右衛門に介錯人をさせる程ではない。
 歩行に介錯をさせられるように」
と筑後守殿が仰せられたので、福本与三右衛門が介錯をつかまつった。
小姓の権兵衛・瀬兵衛も縛首となった。

そのとき福田左内が井川弥一右衛門の袖を引いて
「このような大名の御首を切ってしまったら、小身者は冥加が尽きて
 罰が当たってしまうだろう。(与三右衛門の)末路を見ておくように」
と私語をした。
それから八年が過ぎた後、与三右衛門の弟が百姓との公事に
負けてしまったため、与三右衛門も作州を立ち退くこととなったという。


――『森家伝記』

森家の史料では勝家は斬首になってなかったので。


細川忠利「うつけ者!」+「おまけ」

2016年10月05日 11:54

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:15.20 ID:EUk1JjrN
細川忠利「うつけ者!」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3506.html
↑この話で森忠政の跡継ぎになった長継と細川忠利のその後の話

将軍家光公の御上洛の折、森美作守(森忠政)様が京都で亡くなられたのを、
忠利公は代々心安く(森家に)出入りされていたので既に存じられていた。

何某とか名は覚えていないが「最早お亡くなりになられました」と(忠利に)申し上げると
「うつけ者!」とお叱りになられ(忠政が)ご存命のときの如く(森家へ)直に行き
「内々お願いしていた通り、内記(長継)殿ご養子のお願いは妥当だと思われているので
正式に認められるまでの間、少しも気になさらない様に」
と高々と引き受けられ、お帰りの時にご家来共歴々に
「最期のお願いは聞き届けられました、いずれも安心して下さい」とおっしゃられたので
先程叱られていた人も感涙し、その他の歴々ご家来共もまた涙を流しありがたがった。

このような様子だったので、内記様は美作十八万石と津山城を無事拝領された。
内記様という御名も(長継の)御所望にて(忠利の初任官時の官職、内記にちなんで)
おつけになられたと承っている。

――『旦夕覚書』

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:56.20 ID:EUk1JjrN
おまけ

寛永十四年十月十二日 森長継細川忠利書状

「一筆申し入れます。貴方から鹿毛の馬を頂いたとき『よそへやるようなことがあれば
貴方に絶対お返しします』と約束しました。この馬を肥後守(光尚、忠利嫡男)が見る度に
『乗りたい!』と言って借りるので、常時貸すことになってしまいました。
もっとも貸すことはないと言っていましたが、貸したと言っても我らの所にいるのは変わらず
(光尚は他人ではないので)この馬を借りたときのまま約束は破っていません。このことを
お聞きになられて、肥後守に勝手にやったのかと思われたら迷惑なので書きます。恐惶謹言」

――『細川家史料』




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:45:37.14 ID:yrg8J4ID
>>221-222
…まあ三斎様の息子らしい、としか言えんw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 00:29:50.65 ID:gOIwRA7i
できすぎ君忠利

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 01:14:22.18 ID:OZ+2mprs
忠利は優等生なイメージもあるけどやる事はやる