義光が上杉家から恨まれる様になった理由

2015年03月03日 18:39

496 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/02(月) 23:47:57.54 ID:SOa/h9Hp
義光が上杉家から恨まれる様になった理由

太閤豊臣秀吉の死後、石佐(石田三成)は天下に反逆を企て様として会津黄門(上杉景勝)と謀を共にした
上杉景勝は会津に下り、ひそかに伊達や佐竹、相馬といった隣国の諸将を味方に引き入れ様と画策をした
景勝は山形へも使者を遣わし
「この度徳川家康の天下勝手に憤りを感じ、豊臣秀頼公を扶け此を排する試みである。山形(最上義光)殿も同心するなら是非とも徳川攻めの先手をお頼みしたい
会津の隣国の誼で格別昵懇にいたしたい」という趣の書状を寄越された

最上義光は嫡子義康と弟の楯岡光直、その他本城豊前(楯岡満茂)と志村九郎(志村光安)、鮭延秀綱を召し集め評定を開いた

義光(´・ω・`)「景勝の考えは多分大坂の秀頼卿がまだまだ幼いので、家康公を亡ぼし、天下の政道を代わりに執るつもりなのだろうか
秀頼卿の名を捧げはすれ、実の伴わないものと思われる
みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた
これは山よりも高く、海よりも深いものである
徳川様のためには一命も惜しくはないが、それを天下に不義なす上杉に一味する等、馬鹿げた事とは思わないか?」
と仰せられた

そこに鮭延秀綱が「潔い事ではありますが、ちょっと考えてみてください
上杉は武門の名家、それに東国でも比類なき大々名です
単独で家康公に敵対する腹積もりはなく、おそらくは同調する勢力がそれなりに存在する事でしょう
そこへ戦略もなく、小兵の味方だけでは上杉を敵に回し千に一つの勝機も難しかろうと存じます
時間稼ぎをし、その間に景勝の動向を家康公に注進なされてはいかがでしょう?
上杉勢がいざ最上を敵と見做し攻めて来ても、領内で戦えば地の利は味方にあり、勝機は得る可能性も増えるはずです」と進言した

(つづく)

497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/02(月) 23:51:02.17 ID:SOa/h9Hp
(つづき)

義光は少し思案し
(´・ω・`)「秀綱の言う事ももっともだ。会津へは今少し時間を貰える様使者を出し、徳川様には上杉軍が味方を募っている旨を報告しよう」と答えた

そこへ上杉家から「味方として軍費の足しに用いてほしい」と多額の金銀が送り届けられた

義光は「…時間を引き延ばしてごまかしていたら、戦費を贈られて既成事実を先に作られてしまったか
これではとうてい味方をしないと言っても裏があるのではないかと疑われてしまう
とうてい上杉に助力等できないのだから、この金銀を会津に返し、きっぱりと最上家の旗色を示すべきである」と言ったが

本城豊前(楯岡満茂)は「今後の事はさて置き、上杉が最上に猜疑心を持たない様時間稼ぎにもなりますから、
貰える物は貰っておいた方が宜しいのではないでしょうか?」と義光を説得した

(´・ω・`)「…些(いささ)か後ろめたさはあるが、これも窮余の一策…
軍費に一部を宛てがい、残りは皆で配分せよ」
と上杉家からの金銀は番頭物頭は言うに及ばず、馬廻りの武士以下にまで残らず分け与えられた

家康公の御恩は上杉家からの金銀等には比べものにならないものである
義光公のお心の奥底では駒姫の件で豊家をお恨みなされているともお聞きした事がある

叶う事はなかったが駒姫の助名嘆願にも家康公が最上家を格別に懇得なされている事は義光公も常々忝なく思っている事である

家康公の御恩を思わば上杉家を謀(たばか)る事もやむを得ない事である、と
最上領の人達は旗色を定め、上杉とのいくさを決断する気持ちとなった

「山形軍談」「最上記」ほか




499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 00:18:38.26 ID:W2InvcPu
> みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた

そんなに恩受けたっけ?

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 01:10:00.23 ID:gPerzVmy
>>499
志村光安が織田信長に謁見する際に徳川家康が取次役になった
・小田原参陣直前に最上義守の病と葬儀で遅参の調停を徳川家康が取り成した
・上杉に奪われた庄内領裁判で徳川家康は最上義光を擁護した
・秀次事件の際蟄居されていた最上義光を弁護した

など

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楯岡光直翁之亊

2015年03月02日 18:27


684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 12:49:07.47 ID:SOa/h9Hp
楯岡光直翁之亊

1622(元和8)年最上家が改易されると、出羽の主立った者たちは国外退去となり、最上騒動の中心人物とされた楯岡光直は、
幕府の命令で九州小倉の細川忠利に預けられることになった。
忠利は、江戸表にいたが国元の家臣に手紙を書いて楯岡光直の処遇についての指示を出した。

「甲斐守(光直)が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。
宿舎はしばらくは寺をあてよ。
屋敷については自分がそちらに行ってから申し付ける。
(光直は)家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように。
光直は最上義守の※次男にて、義光の弟、其姉は伊達政宗の母堂なり。」

『細川実記』細川忠利の手紙

光直はしばらくは蟄居の身柄であったが幕府から猶予されると忠利に請われ細川家に仕え、その子孫は千石の家老職として明治維新を迎えた。

※義守の次男は長瀞義保(ながとろよしやす・ながとろよしもち)。光直は三男ともされる。




最上騒動

2014年09月04日 18:50

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 01:11:00.45 ID:u2I46lAI
最上騒動

父・家親の急死により山形は12歳の最上家信(後の義俊)が継ぐ事となったが若年であったために、
重要な決定は義光・家親の慣例に従う他に、幕府に許可を得る事が求められた

国元を離れ江戸で育った家信は重臣らと水が合わず、また重臣らも若年な上に文楽に興じる家信の政道と
指揮力に不安と不満を感じた

氏家光氏「家宰の私が言うのもなんだが、…若殿は国を束ねるには…ちょっと、な…」

楯岡光直「義康君、家親君、義親君は已にあらず
…若の代わりに光茂(後の山野辺義忠)君ではどうであろう?」

鮭延秀綱「あぁ、光茂殿なら亡き大殿(義光)譲りの才覚もあるし、誠に主として申し分無いな!」
松根光広「あいや待たれよ!家信は幼いとは言え最上の大守、吾等が支えずしてなんとする」

東根景佐「あまり大きな声で騒ぐな。若の耳に聞こえるぞ」

家中は山野辺派と家信派に別れ、険悪な雰囲気となった

やがて元和8(1622)年、反家信の山野辺派の横暴に憤りを感じた松根光広は鬱憤を抑え切れず
老中の酒井忠世に「家親の頓死は楯岡光直の毒殺に違いない」と訴えた

忠世は訴えに基づいて光直を取り調べたが証拠はなく、光広は筑後の立花氏にお預けとなった

騒ぎを重く見た幕府は旗本の島田利正(後の二代目南町奉行)と米津田政(後の初代北町奉行)を
代官として山形に派遣

幕府の調停に従わず、家内騒動が続く様なら問題を起こした責で一旦国替と減封を命じ、家信には新たに
他国で6万石を与え、
成長の後様子を見ていずれは山形と出羽の本領を段階的に還す、という決定を下した

しかし光茂と秀綱は「松根のような家臣を重用する家信を仰ぐ事は出来ぬ」と反論し、
最上家で最大の光茂擁立派である秀綱は「もし願い叶わぬなら、吾等山野辺派は知行を返上し、
頭を丸め高野山へ参る」と続けた

島田と米津は江戸に急ぎ戻り、この様子を忠世に報告した

幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易された

山野辺光茂は備前岡山の池田忠雄の下に追放され
楯岡光直は肥後熊本の細川家に預けられた




一栗高春の乱

2014年08月22日 13:49

983 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:27:11.06 ID:k/wP8bZN
一栗高春の乱

慶長19(1614)年に最上義光が没すると、江戸で徳川秀忠の近習をしていた最上家親が帰国しその遺領を継いだが、国元から長く離れていたために在国の重臣らとは意思の疎通が噛み合わない部分が少なからずあった

鶴ヶ岡城の侍大将であった一栗高春も家親とは馬が合わず、酒田を治める亀ヶ崎城の志村光惟(志村光安の息子)を訪ね
「家親様よりは舎弟の清水義親さまの方が我らが最上家の当主として押しいただくべき方ではなかろうか?」と腹の内を打ち明けたが
光惟は高春に「徳川の治世が定まった今、徳川家に覚えめでたき家親さまをこのままみなで支えていくべきでしょう」と諌めた

しかし日がな家親の政事は義光のやり方に倣わぬ部分があり、些細な事で処罰をされる郎党が増えるに至り
大事を光惟に漏らした高春は「家親の耳に反意が入れば、わしとてただでは済まぬだろう」と危惧を強めた

同年6月、故・最上義光の弟である楯岡光直が内陸から庄内に来るのに合わせ、宴の企画がなされた

高春は寶客警護と称して武装させた兵を鶴ヶ岡城に数十人配し、宴もたけなわの時を見計らい
「かねて諸将にお話いたしました清水義親さまを仰ぐ儀のご返事を、この場で改めて頂戴できませぬでしょうか」と申し出た

志村光惟「楯岡光直さまも見えられてるのに、そちはまだその様な事を言うのか?」
下秀実(下吉忠の息子。吉忠の隠居により跡を継ぎ尾浦城主)「宴の席で切り出す話でなかろう」

高春「同心頂けぬのであれば御免!」

光惟と秀実が高春によって斬られた

(つづく)

984 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:28:24.50 ID:k/wP8bZN
(つづき)

新関久正「兵部(高春)!貴様乱心したか!?」

高春「新関さまこそかねては親身に話を聞いてくだされたのは偽りでござれたか?」

久正「多少の蟠(わだかま)りがないとは言えないまでも、そちのやっている事は謀叛でしかないわ!」

この一喝で鶴ヶ岡城にいた侍たちがすわ大事(事件)かとわらわらと集まって来た

高春はどうにか城外に逃れたが、追っ手は増すばかり

添川の淵に達した所で天命を悟った高春は自刃して果てた

高春に最期まで従った者は40名ほどであったという

この乱により清水義親を最上家の当主に擁立しようと考える家臣の存在を知った最上家親は
大阪の豊臣征伐を控える大変な時期に少しでも後顧の憂いを減らそうと
清水城攻撃を発令した