人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



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「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

昨日、東京国立博物館に行って来た

2015年07月06日 15:32

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 14:40:03.38 ID:HQudLpG9
昨日、東京国立博物館に行って来た
相変わらずのお宝尽くしだったが戦国関連のいくつか紹介

榊原康政像(重要文化財)
http://i.imgur.com/fPtEbOu.jpg
fPtEbOu.jpg

榊原康政所用 黒糸威二枚胴具足(重要文化財)
http://i.imgur.com/J398Pqq.jpg
J398Pqq.jpg
徳川頼房所要 大釘後立一の谷兜
http://i.imgur.com/rhBwpAl.jpg
rhBwpAl.jpg

武田逍遙軒作 普賢延命像
http://i.imgur.com/WOMnEXV.jpg
WOMnEXV.jpg

オマケ 

三日月宗近の見学に並ぶ刀剣乱舞ヲタ
http://i.imgur.com/KlYRQJv.jpg
KlYRQJv.jpg



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 15:08:32.93 ID:hwcyjchQ
>>304
小平太の鎧かっこいいな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:46:38.94 ID:l9yaohVx
慶長くらいになると甲冑の袖って無くなるよね
鎧はだんだん軽装化していく流れがあったのかな

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:58:39.50 ID:RPShjNjo
>>306
雑兵だと紙子の上着だけなんてのも居たらしいからなあ。もう完全に防御力より機動力って感じだったっぽい。
戦国時代がもう少し長く続いたら、近代ヨーロッパみたいに甲冑のない軍隊に成ってたかもね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:55:01.00 ID:WafE7F0k
小平太の鎧なら同じくトーハク所蔵の南蛮胴具足もいいよな

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:58:13.81 ID:mPv56eu4
>>307
鉄砲足軽はそうなってたな。鉄砲相手だと鎧の破片で怪我が余計ひどくなったらしい

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 18:07:37.90 ID:b67TShaf
袖で防ぐ様な矢なんかもう飛んでこねぇよって感じなんかね

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:15:53.35 ID:hvua1bAK
>>304
こういうのって撮影禁止じゃないの?

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:33:07.77 ID:8Yqs3qU3
>>312
施設や展示品による

※この場合撮影禁止品は劣化対策、個人寄託品や限定公開品等

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:17.21 ID:HQudLpG9
>>312
撮影禁止の展示物には撮影禁止マークがある

撮影禁止されてなくても、フラッシュ炊いたりするのは厳禁
AF補助光は、どうか知らんが俺は消して撮影してる

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:50.95 ID:8Yqs3qU3
○東京国立博物館の総合文化展(旧平常展)の撮影については、ホームページに下記の通り記載されています。
※なお、平成館2階は特別展の会場です。他の建物・室で特別展が開催されるときもあります。

○特別なイベント(博物館に初もうでなど)の期間や土日・祝日でなければ、館内は広いので混雑することはあまりありません。
通常は、午前中の早い時間帯や、閉館前の時間帯はかなりすいています。


TOP >> 来館案内 >> お客様へのお願い
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=127

撮影
* 平成館2階の展示室内は撮影禁止です。
上記以外の展示室であっても撮影を禁止することがあります。
* 撮影可能な展示室においても、撮影禁止マークのついている作品に関しては、所蔵者の意向により撮影ができません。
* 撮影可能な展示室においてはカメラを手で持って撮影してください。 フラッシュ、追加照明、一脚・三脚は使用できません。
* 携帯カメラなどシャッター音が出る場合は特に、他のお客様の迷惑とならないよう、ご配慮ください。

TOP >> 東博について >> よくある質問
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=156

トーハク=東京国立博物館の館内施設などについてのQ&A
Q:展示室で写真撮影はできますか?
A:総合文化展については、個人利用にかぎって写真撮影ができます。ただし、撮影禁止マークのついている作品は、所蔵者の意向により撮影をお断りしています。
また、一脚、三脚などの使用とフラッシュの使用はできません。他のお客様のご迷惑となるような行為(割り込んだり、撮影のため長時間その場にとどまるなど)はおやめください。撮影した画像を営利目的で複製・配布することはできません。
特別展会場については、写真撮影は禁止です。
総合文化展か特別展かわからないときは、係員にお尋ねください。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:03:43.98 ID:hvua1bAK
>>313-315
へー、撮影OKな場合もあるんだ。勉強になった。ありがとう。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:13:37.76 ID:A0Bx4ZtG
>>307
逸話準拠だと加藤清正の足軽隊がそういう装備だったと言われてる(名将言行録とかでも記載有)。
頭部を保護する為兜は付けさせたけど鎧は無し、んで鉄砲隊の場合は塹壕を掘らせる。
もうここまで来ると近代歩兵とさして変わらんな。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:35:56.71 ID:tKnnyIQM
>>310
幕末はそうだったって聞いた記憶があるけど、戦国ですでにそうなっていたってことか

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:48:44.53 ID:iNl9VvN2
幕末はとんがり帽子にズボンが最先端。あとはモフモフをつけてたらそれは偉い人。

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 23:26:17.42 ID:ON1KkSTM
やっぱ銃の発明の影響って半端ない

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 02:36:26.50 ID:YBIfurp9
それいうなら伝来でしょw

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 03:30:49.37 ID:C4Min6L8
いや、火薬の発明でしょ


榊原康政、秀忠遅参の弁明

2015年02月23日 18:45

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 04:39:55.53 ID:Tx+sPy36
関ヶ原の合戦の時、徳川家康は慶長5年(1600)九月一日に江戸を発った。
合戦の当日、徳川秀忠は信州上田にあり、その後、家康は関ヶ原の勝利の後、草津に在陣していた所に
秀忠は着陣した。そこでは井伊・本多の部隊を始めとして、関ヶ原の合戦で負傷し、甲冑指物などを
損じた者達が多く居た中、秀忠の軍勢は皆見事な軍装束であったため、それが却って見苦しく見えたと
言い伝えられている。

秀忠の着陣を知った家康は機嫌を悪くし、対面を許さなかった。
これに対し、秀忠と伴に着陣した榊原康政は家康の御前に出ると、一気呵成に畳み掛けて申し上げた

「この度、中納言様(秀忠)が御着陣が遅い故に御対面なされないというのは、実に御情け無い義であると
存じます。

武辺の事において、他人との間であれば『出し抜き』と申す事もございます。ですが父子の間で
出し抜きをされ、その上御勘当までなさるとは、実に情け無い。武道の義について、中納言様には
もはや御廃りに成ってしまいましたぞ。

そもそも上様がこのように合戦をされたのは、御子孫の為であるはずです。なのにその御子様に
自ら武道の疵をお付けなさるとは、これ以降、御家もその武道も、衰える成り行きと成ってしまうでしょう。
誠に、御思慮無き義でございます!」

これを聞いた家康は殊の外不機嫌となり、
「それは式部(康政)の逆公事(訴えられるべき相手から,訴えるべき者が逆に訴えられること)と
言うものではないか!一体いつ私が出し抜きをしたというのか。その理由を申し述べよ。
申し述べられなければその分にては相成るまじ!」

そう怒ったが、康政は少しも恐れず
「さればその事についてですが、よくよくお聞きくださるように。
九月一日に江戸を御出立なされたのであれば、その知らせは前日には中納言様に送られたことでしょう。
ところがその知らせが我々に届いたのは、ようやく九日になってでした。そこから昼夜急ぎ向かいましたが、
木曽川に出水があり途中も差し支えたため、この様に間に合わなかったのです。
これは出し抜きではないというのですか!?」

家康はこれを聞くと
「何を出鱈目を申しておる!?私が一日に江戸を出立するという事は、その前日に伝えるよう飛脚に申し付けた。
であるから二日以内には届いているはずである!」

「いいえ、その飛脚が到着したのは九日であること、紛れもありません。その使いの者にどうぞお尋ねください!」

これに家康は即刻詮議をし、使いの者は家康の出立の前日に江戸を出たものの、途中の川で洪水が起こっており
道を通ることが出来ず、そのためようやく九日になって到着したことを申し上げた。
ここで康政は申し上げた

「そういった訳があったのに、ご究明もなさらず中納言様の落ち度とのみ思われ御勘当なされるというのは、
近頃にない御思慮無き事です!」

これに家康は非常に困惑し、「なるほど、そういうことなら尤もである。」と、康政に向かって
謝罪した。そして今晩、夜になってから秀忠と対面したいので、参られるよう申してほしいと
仰せに成った。
こうしてその夜、対面がなされた。その席では父子とも非常に機嫌よく談笑した。
(明良洪範)

榊原康政、秀忠の遅参を弁明するというお話




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 07:45:59.23 ID:xC4xsz6Q
使いの者に嘘を言わせたのか

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 08:18:18.57 ID:PARFqk+2
そして次は早すぎると怒鳴るんだろ?

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 16:40:59.11 ID:XEhV0af4
裏で口合わせしたのかな?面倒くさいな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 18:51:38.04 ID:Tx+sPy36
秀忠の部隊に対し連絡が悪天候で使者が遅れた事が、関ヶ原への遅参と成ったというのは、現代は史実と考えられている。
つまりこの話が一番史実に近いと考えられる。

首争論

2014年12月10日 18:46

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 22:31:54.60 ID:uKneZsTT
武田信玄の病状悪化・死去により武田の西上作戦が取り止めになり勝頼が相続するゴタゴタの間、徳川家康は天正4年七月十九日、長篠城を攻め落とした。
この徳川方の逆侵攻に勝頼は穴山梅雪を後詰として遠江に進行させた。
これを徳川軍は迎え撃ち、これまで一方的にやられっぱなしだった武田軍にとうとう勝利、
喜び沸き立つ徳川方の陣営のなかで起こった一幕を三河物語から

榊原小平太(康政)の同心に上方の牢人がいた。大久保治右衛門尉(忠佐)が手柄を立てて首を引っさげて帰ってくるところ、
その牢人が来て、仲間七八人に後ろから押さえさせ、治右衛門尉の首を奪っていった。治右衛門は汗を握り腹が立ったが、首を取り返すことはかなわず帰っていった。
そのとき、榊原小平太がその牢人を召し連れて御前へ出たのを戸田之三郎右衛門尉(忠次)が見て急いで治右衛門尉のところに行った。

「治右衛門尉は知らないのか。あいつは只今、榊原小平太が召し連れて御前へ出て行ったぞ。」
「かたじけない。よくぞ聞かせてくれた。」

治右衛門尉は彼の者が帰らないうちにと、御前へと急ぎ、三郎右衛門も「我も味方するぞ。」と着いていった。
二人して御前に着いて治右衛門尉は

「あの人が差し上げたという首級は、皆見たであろうように、我が打ちとって引っさげて帰ってくるところを、七八人がやって来てひったくったものです。
我らにかぎらず、久しい譜代衆は各々、知行を頂けなくても、譜代の主なので、自分も他人も女子を顧みず、一命を捨てて戦働きをしてきましたが、
あのようなものは過分の知行を与えられ配下を多く持っているので、いつもあのように働きましょうが、
小身の我らのような者は、いくら働いてもご奉公にはならぬことがあるでしょう。
しかしながら、彼等は待遇が良ければ御家にとどまりますが、悪ければ出ていきます。譜代衆は、良くても悪くても御家の犬なので出て行かないのというのに、
彼のしてもいない手柄を認められる事は、一段と迷惑であります。」

と発言した.これに榊原小平太が

「治右は謂れのない事を仰せられている。我らの同心の手柄は歴然としているのに。納得がいかぬ。」

と言えば、治右衛門尉は反論した。

「どちらが正しいかどうか、あなたがどうして分かるのだろうか。その場に来ていないのに、いらざることをおっしゃりなさる。
見ぬ京物語はせざる物です、どれだけ同心を連れていようとも、無かったことをあったことにはなるまい。」

そのとき、家康が命令した。
「治右衛門尉、余計な事は言うな。我家ではお前の武辺を避難するものはいないだろうに。我の存分まかせてておけ。」

治右衛門尉はかしこまって御前を退出した。件の牢人は、その場にいられなくなりどこへでもなく行方をくらました。



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 07:06:07.32 ID:0UZMtryH
> 人参失敗した

人生失敗した、に見えたw

ただ戦に勝とうと言うまでのことか

2014年08月05日 18:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 11:54:10.10 ID:b8dJHAwn
長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉軍の森武蔵守長可、池田勝入を討ち取る戦果を上げた徳川家康は、その後
小幡城へと入った。

ここに榊原康政大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」

しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。

そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。

後日、家康は浜松城において、この時のことを語った

「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」

一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」

家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。

(岩淵夜話別集)

小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。




436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 12:37:03.44 ID:TWdXO505
家康隙がない。
これじゃ名人戦になるわけだわ。

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 12:42:18.27 ID:6W4uCpiW
絶対勝てない相手にどう上手く負けるか修行しつくした熟練の駿河人

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 13:29:39.39 ID:TY4Krwfl
どちらにしても討っておいてよかったのは

…鬼武蔵だろうな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 14:12:25.81 ID:nO8C0IrR
鬼武蔵を討ったいい話

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 14:50:51.31 ID:j9EDO2I9
三河人と駿河人それぞれの良いところを貪欲に取り込んだ知勇の人だが
面倒くささも人一倍なのが家康

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 18:23:53.87 ID:d32SMxTa
>>435
成る程・・・正に名人だったんだな
家康の戦話で一番凄みを感じたわ

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さてさて、御事はおこなる人哉

2014年07月30日 18:53

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:11:59.62 ID:1Iz7iLnm
同じ話はここに出ていますが、出典のある詳しいバージョンということで
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-231.html

天正壬午の乱の結果、甲斐を徳川が領有すると、旧武田家の一条、土屋、原、山県の配下にあった者達は、
そのほとんどが井伊直政に付けられた。そして家康は「山県昌景の赤備えは見事であった」と、
直政の備えを皆赤色にした。

この時家康は、最初は酒井忠次に甲州人を召し預けようと考えていたのだが、それよりも、
若輩の直政を引き立てるために彼に付属させたいと、忠次本人に相談した。

忠次はこれを聞くと
「殿の仰るように井伊直政は若輩ですが、私の目から見ても臆しているようにも見えません。
ですので、彼の者に甲州人を付ければいよいよ励み働くことでしょう。」と申し上げた。

さて、その後忠次の所に榊原康政がやって来てこのように言った
「甲州人を半分に分け、私と直政の両人に付けられるべきなのに、直政のみに付けられたことは
なんと口惜しい事でしょう!この康政、どうしてあの若輩者に劣るでしょうか!?
この後、もし直政に出逢えば刺し違えようと決意しました。ですので、今生の暇乞いに参ったのです。」

これを聞いた忠次は激怒した
「お前は馬鹿か!!!(さてさて、御事はおこなる人哉)

殿は私に預けようと言って来たのを、私が勧めて直政に付けさせたのだ!
これを聞き分けずに軽卒な行動をするつもりなら、殿に申すまでもなし、
私がお前の妻子一族まで、全員串刺しにしてくれる!!!」
そう以ての外に怒り罵ったという。
(武功実録)




830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:40:37.51 ID:nv8Xlm8h
甲州兵の戦経験値は異常

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:00:17.17 ID:CPc5dUvq
なんで喧嘩してんだよ。鬼武蔵つれてくるぞ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:05:58.29 ID:LINdzkzZ
つれてきても討ち取られちゃうだろ。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:20:22.98 ID:Oda6FVfj
出典かくならちゃんと徳川実紀って書いた方がよくない?
鳥居家譜とか武功実録って今見れる手段あるの?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:45:28.87 ID:BP+5V0ZH
薩摩の兵は下がると斬るとか無茶苦茶な法で軍紀を守ったけど
甲州兵はどうやって軍紀を保ったのかね
戦えば損害も出るし規律の弱い補充兵も来るだろうし

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 06:19:59.64 ID:9LUB8Toi
康政おこなる?

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 08:59:12.87 ID:vkO2DVH/
酒井の激怒っぷりもすごいな 串刺しってw

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 13:58:11.91 ID:mSVmn9LE
激烏滸なの?

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 14:40:40.30 ID:Oda6FVfj
中世では無礼な奴は「尾籠(おこ)であるぞ!」と言われて責められるという話があるとかないとか

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 14:48:05.79 ID:nayFSFDk
当て字を音読みした、びろう、も悪い意味となるややこしさ

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 16:30:25.13 ID:SgluMGfl
三河武士ってよく刃傷沙汰にならねえなw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 16:44:46.91 ID:LINdzkzZ
しょっちゅうなってるし

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 18:47:36.95 ID:HS4w3HiT
たしか同盟中にも織田勢とやりあってただろw

太閤を御討ちの時節は只今ですぞ

2014年01月26日 19:08

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 15:53:50.04 ID:N+yoJwM1
小田原陣の間に徳川家康は、今日は榊原康政に先手をいたすように命じ、井伊直政には
側にいるように命じた。直政はいつもこのような事を嫌う人だが、今日は快く承知した。

時に、太閤の周囲に手廻しかいないのを見た直政は、太閤を御討ちの時節は只今ですぞしかじか、
と申し上げた。これを家康が殊の外叱ると、

直政は思いがけない顔つきで「それならば私に御先手を命じてください」と申し上げたとのこと。
(兵部思ノ外ナル顔色ニテ左候ハハ私ニ御先手ヘ被仰付候ヘト申上候由)

――『武功雑記』





397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 16:11:29.63 ID:dswV/4WY
三河武士だと君臣の不満と不満のやりとりがいい話に見える不思議

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:07:54.74 ID:kAU3MUWs
直政は太閤に何か含むことでもあったの?まるで親の仇みたいじゃないか

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:12:12.38 ID:8arBemqh
>>398
きっと親を食われたんだよ

榊原康政「腸が腐ってやがて死にます」

2014年01月20日 19:02

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 21:04:04.55 ID:dV2qOaNU
俗に伝わることに、忠勝・康政は家康公から賞功に貰う土地が常に少なく、
また家康公が一国を与えるという約束を破ったために憤っていた。

そのため、康政の病中に家康公から見舞いの使者が来たときは
布団から出ずに「腸が腐ってやがて死にますとお伝えしろ」と言い、
秀忠公からの使者には、布団から出て礼服を着て陳謝した。


『武家事紀』より、有名な康政の「腸が腐って死ぬ」と言う話。
ちなみにこれを本多正信と結びつけたのは隆慶一郎だそうです。




342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 23:59:15.17 ID:UnU8qmT2
榊原康政…館林10万石
本多忠勝…大多喜→桑名10万石
かぁ、なかなか争奪戦の舞台になった場所だし、下手な一国与えられるよりよっぽど信頼されてるよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:27:43.52 ID:8sz4NDNR
信頼されているとしても、
名誉では腹は膨れないからな…。
というか、どちらかと言うと約束を反故にされるという点の方じゃないかな。

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:43:04.77 ID:UQ1/Gv4L
そもそもそんな約束自体が創作だしなぁ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 02:42:52.46 ID:vgKQnmXz
家康はケチで有名だし三河時代に譜代家臣には苦労が絶えなかったからこれらの仕打ちは当然でしょ
大身の大名にしたら反逆してくるからな

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 07:33:55.27 ID:v8M8ol/E
>>345
> 家康はケチで有名
これがまず嘘なんだよなあ…

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 14:46:37.08 ID:WV5UkCAO
一騎でも喧嘩しかねないのが三河武士かと・・・ケチならまだマシじゃね?

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 18:09:18.52 ID:d+373OnL
>>341
隆慶一郎の本だと思ったら峰隆一郎
そんな時代が俺にもありました

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 20:42:19.63 ID:DpEh9r12
>>348
全然作風違うし、無駄にエッチでグロいなあと思いました
あと、作品数は見習えばいいなとも思いました

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 01:47:52.06 ID:MVuGoiUp
>>348
浅井長政と浅野長政みたいだな

『徳川武士銘々傳』による徳川四天王紹介

2014年01月18日 18:34

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 00:00:09.79 ID:Q9tscSoN
『徳川武士銘々傳』による徳川四天王紹介(※添えられている既出の逸話は割愛)

酒井忠次は徳川家康の四天王とされ、井伊・本多・榊原と雄名を天下に表わしたる。
中興の祖を忠次とする。
忠次は本多忠勝に似たる豪雄ではない。
榊原康政の如く身に七十創を蒙る「曹参」の武勇にもない。
井伊直政が如き勇将の器でもない。
一言で約せば沈勇にして謀略に富し者である。
忠次の如きは将略の勇がある。
絶奇なる籌策を抱く人というべし。


本多忠勝は秀吉より源義経の家臣である佐藤忠信の兜を与えられたことがあったが、
その恩威にも心を動かさず、天下の御家人となることは彼が喜ぶ所ではなかった。
ただ、三河武士と唱えられ徳川累代の家臣と呼ばれることが、この上なき栄誉と思っている。

忠勝の勇は戦国の士に求め難きもので、忠勝の忠は全く絶倫である。
忠勝の勇は「樊カイ」に適し、智は「韓信」に比す可きだ。


榊原康政は忠臣無双の将である。
英主に康政が如き臣あり、勇にして智あり。
康政の勇は人のよく知る所であり、彼の智は知らない人はいない。


井伊直政は悪木盗泉で徳川殿に仕えて二心なき武士なり。
かかる義烈の直政は勇武の気性も鬼神を凌ぐ勢いがある。

長久手の役の折、この先陣に進みたるは言わずもがなの直政。
家名と共に照り輝く赤幟、赤旗、朱具足で白きは槍の身刃のみ。
この槍刀さえ一振りすれば唐紅に敵の血潮で染め上げて赤き心を表わす。
この赤隊はアサヒに輝き山よりこなたへ馳せ降り、天下の上方勢を遠慮なく縦に横にと掛け破り、
大将をあまた討ち取って、名もなき士卒は蕪大根を切るが如くスッパスッパと飛ばす。
この時より天下に轟く勇名は「赤鬼」と呼ばれるようになる。

また、士卒を率いて戦う将帥の器のみならず、打物執っても無双の武士なり。
昔日の武人が侍従といい、兵部を称するのは実に無上の栄誉であり
かかる高位の直政も君の馬前に死は塵芥より軽く、利は一足の草鞋に同じく、
婿君と仰ぐ下野守の初陣に手柄を取らせようと将たる地位を置き自ら手を下して敵に向かうは、
乳虎を叱咤する武夫の胸中に嫣然とした美人も愛してしまうであろう可憐な情もある。
直政こそ古今無類の武将と仰ぐべきだ。




113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 01:07:19.13 ID:KRm5VfS3
人物紹介

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 09:26:19.83 ID:9JYqeLNU
近代デジタルライブラリーでざっと読んだけど
徳川家臣のいろんな逸話を幅広く集めて紹介しているが
読んでみるとやっぱり四天王は他の徳川家臣とは違うことが解る
>>111のような比較も興味深いね

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 15:39:00.26 ID:WhKpmH8n
そんな徳川四天王も結局は「狡兎死して走狗烹らる」の運命。

116 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/18(土) 15:41:37.00 ID:seiNbtwq
四天王の所は「名誉家系」として幕末まで続いてるよ?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 15:54:04.78 ID:RQ47MmjE
徳川ほど粛清しないのも世には珍しいくらいだが

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:23:04.13 ID:SSBslH6O
海老すくいさんにしてもパパにゃんにしても冷遇されてるってわけじゃないわな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:26:12.06 ID:wE0h5lRb
榊原なんか普通なら改易されるような事3,4回やらかしてるのに明治まで残ってるし。

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:37:09.03 ID:9mmhZYgF
家康だか秀忠から誓書もらってたんだっけ

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:57:22.50 ID:9JYqeLNU
>>119
海老すくいさんが例の件とかで冷遇されていたわけじゃないってのも子孫みてもわかるけど
パパにゃん冷遇なんて聞いたことないけどな
佐和山っつか彦根も都の守備や大坂城を見据え西の大名衆に睨みを効かすを要所でパパにゃん配置はすごく納得だし

榊原康政「中でも深いのは溝口殿である」

2013年11月30日 18:54

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 15:50:11.05 ID:YSnA27A7
溝口外記は禄五千石で秀吉の使番である。ある時、彼は榊原康政と同座した。
溝口は直参であるために、座上について甚だ驕る様子があった。

康政は十万石を領するといえども、末席より礼敬した。溝口は綿帽子を身に着け、
「我は病気なり(だから防寒のために綿帽子を身に着けている)」と言った。
康政は常に彼の無礼を憎んだので、こう言った。

康政「各々方は秀吉公の恩を深く蒙っている。中でも深いのは溝口殿である」

座の人々「誰もが恩を蒙っているのに、溝口殿一人をお指しになるのは理由があるのですか?」

康政「私は家康の家臣だが、溝口殿の如き人を扶持して当然である(自分はそれだけの大禄だ)。
それに戦功を論じれば、溝口殿は我が片手にも及ばれまい。にもかかわらず、いま上座して傍若無人の体
であるのは、ひとえに秀吉の威を借りてのことだ。ならば、その恩はとりわけて深いのではないかな?」

これには返答する者もなかった。

――『武将感状記』




930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 21:32:12.46 ID:TQUJ+M7d
>>924
榊原康政の挑発皮肉、ある意味すがすがしいものがあるな
でも康政が10万石を領したのも秀吉のおかげなんだけどね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 03:27:30.64 ID:yz93w+dv
>>930
溝口はそのときの仕返しをしてたのかもしれない

振舞いに呼ばれた本多正信は

2013年05月06日 19:51

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 20:07:11.46 ID:BkSiWucm
ある時、榊原式部大輔(康政)が本多佐渡守(正信)を振舞いに呼んだことがあった。
この時、板倉伊賀守(勝重)も同行した。
ここで康政が正信に言った

「私は頂いた敷地が狭いため思ったように家を建てることが出来ない。ところが
そこで菜を作る者達には、広い敷地を与えられている。
なので敷地に家を立て、菜を作らない私のような者にも、広い敷地を頂きたいものだ。」

正信はこれを聞いて

「殿が菜を作る者達に好感を持ち、広い敷地を与えるのは当然のことです。
それは、今後何事が起こったとしても、自分の敷地で菜を作っている者達は、それが必ず御用に立つからです。

敷地に大きな家を作り菜を作らないあなた方は、いざという時に殿の足に縋ってたかる者というべきです。」

そう、返答したそうである。
(紀伊國物語)


(名将言行録)
552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 20:36:13.51 ID:uqsrtS/X
振舞いに呼ばれながらそこまで言うか

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:07:10.72 ID:wsoNoVcB
紀伊國物語って、他に見ない逸話がたくさんあるね
でもオチがない話が多いので、創作っぽさも感じない
もしかしたら、作者の好き嫌いが存分に入ってるのかも知れないけど

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:44:01.37 ID:BBTeRyGk
>>552
下心が良く見える振舞いだから返事もあからさまにしたのかも

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 19:22:54.80 ID:aKQS9Ed0
>>551
して菜を作るものの名はなんと?

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:36:05.43 ID:a3wunDU1
>>560
鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官…

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:38:49.75 ID:XAN9v53R
義経にしておけ

家康、3人への加増を問われ

2013年04月13日 19:51

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 16:44:43.09 ID:HHMEhDl2
徳川家康の関東への移封が決まった頃、豊臣秀吉から徳川家康に対し、内々にお尋ねが有った

「中書(本多忠勝)、式部(榊原康政)、兵部(井伊直政)の三人には、いかほど加増するつもりか?」

家康は、彼ら三人に10万石づつ与えようと考えていたのだが、ふと気がついた

『まてよ?ここで10万石と言えば、殿下はもっと増やせと言うに違いない。』

そこで家康はこう答えた。「6万石です。」

秀吉これを聞くと
「それは少ない!10万石づつにせよ!」

と言った。そしてその通りに加増されたとのことである。
(紀伊國物語)





249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 16:54:25.37 ID:rU86EnFu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5336.html
秀吉を野人呼ばわりした康政だけ特別に10万石と思ってた
ところでこの当時は四天王は同等と思われてたのか、そうでもなかったのか

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 17:22:56.69 ID:8u0FUquJ
家康のケチな話か

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 17:59:35.22 ID:0Q0idVXv
>>250
ケチというよりは領地経営の方向性の問題では
豊臣自身では金山や港など要衝は抑えても領地自体はほとんど自分で管理せず配下に任せ重臣は大領持ちにする
徳川はある程度本家で保持し大大名は政治に参画できない

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 07:29:07.48 ID:mfR8ma/i
>>249
酒井忠次だけ世代が違うからなぁ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 17:36:12.74 ID:856mjIMT
酒井忠次って四天王筆頭に見えて数合わせなんじゃないか?
武田四天王に穴山信君入れちゃったような感じ

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 19:51:03.57 ID:Ql5gz06+
あの石川数正と同格だから本来ならば四天王よりも格上だわ

榊原康政、堀川城攻め

2012年12月29日 19:55

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 17:41:14.94 ID:2edVXPOQ
永禄十一年三月、徳川家は遠州の城々を攻め取らんと尾藤彦四郎らが
籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。

康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。

その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。

その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。

ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。

――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』





883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 18:39:37.75 ID:vbEgc1jm
遺言のつもりで何か言い残した後に回復するって…あー照れくさいわぁw

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 18:59:11.40 ID:nGqfpWiH
日根野さんは、切腹した後に身辺整理だからその点きちんとしてるな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 23:03:00.33 ID:9Lcwdn0n
堀川城って撫で斬りにされた城だよな

平岩親吉の正直な心

2012年11月09日 20:02

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 17:08:56.35 ID:R0jiYxA7
伏見城築城の祝いの後、豊臣秀吉井伊直政本多忠勝
榊原康政平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。

直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。

康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、
家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。

そして親吉は黄金を受け取らず、
「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。
今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」
と、黄金を使者に返し渡した。

このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を
信康や義直の後見として附けたのである。

――『名将言行録』




342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 20:42:02.56 ID:YL2d4lQn
>>340
丁度この時分あたりか
「太閤秀吉は伏見の城を縄張りとする時に井伊直政に相談した」と
『武功雑記』にメモの様に書かれているけど
なぜ徳川家臣で陪臣である直政に相談したんだろ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 20:45:58.65 ID:Qe9oBR+n
>>342
秀吉政権では井伊直政は陪臣ではなく独立大名扱い。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 21:46:50.68 ID:YL2d4lQn
>>343
聚楽第行幸などでも有力大名扱いでしたっけ
それにしても直江兼続以上の面白い立ち位置だったんだな

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 22:19:10.12 ID:PZRa+Oyr
小牧・長久手の時に思いっ切り悪口書かれた相手に黄金百枚かぁ…。

館林城主にしろとアドバイスしたのもそうだが、秀吉は康政評価してたんだなー。
井伊と同等ってかなりすげー

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/10(土) 06:06:25.59 ID:JcXIIyEn
>>343
井伊家は名門で官位も高かったからなー

果たして榊原康政は

2012年10月28日 19:20

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 12:47:45.50 ID:/qWygdPl

平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。

この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、

弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。

――『名将言行録』





榊原康政と井伊直政

2012年09月18日 20:26

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:00:29.29 ID:Pg1WQe+C
レベルが足りないので3回に分けますorz

徳川四天王の榊原康政井伊直政の関係は初めは良好なものでは無かった。
武田家の遺臣が康政よりも13歳も年下で、まだ元服を終えたばかりの直政の付属部隊になった時は
「若造のくせに。こうなったら万千代と刺し違えてくれるわ」
と言い放ち、徳川四天王の長者である酒井忠次に叱責される有り様であった。

501 名前:500の続き[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:05:59.55 ID:Pg1WQe+C
家康の為に心血を注いで働く直政を見るにつけ、康政も己を恥じて認めるようにる。
後に康政と直政は深い信頼関係で結ばれた間柄となった。
直政が先陣すると康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政が安堵した。
「俺が直政より先立てば必ず直政は病気になり、直政が先立てば俺もすぐに死んでしまうだろう
そして家康様のお心を知るのは俺と直政だけだ」
康政は常々語っていたという。

502 名前:501の続き[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:11:02.62 ID:Pg1WQe+C
関ヶ原合戦明け、本多忠勝を交えた徳川三傑の飲み会が開かれた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5007.html
その席で関ヶ原本戦に間に合わなくて凹んでいた康政を真摯に励ます直政の姿があった。
関ヶ原から1年半後に直政が没すると、井伊家の行く末に康政が心を砕き何くれとなく世話を焼いている。
そして直政の死から4年後、康政もその生を静かに閉じた。




503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:27:16.00 ID:hP+Fqc6y
そう言えば地味に康政さんって苦労人だよな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:43:55.42 ID:XlIBp+gt
安藤さんが涙目になる位いい話よの

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:52:43.41 ID:motsuw+B
サド守が遠くからニヤニヤしつつ見守ってそう

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 00:10:50.90 ID:e0Z3PZXP
なるほど井伊美術館のホームページに
直政没後の井伊家を親身に守ってやろうとする康政からの書状があるね

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 00:45:01.31 ID:JIzIkwda
>>504
帯刀さんあんたは出てくんなw

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 00:56:47.27 ID:RSgyjJ8e
井伊家が彦根に居続けたのに榊原家は流浪の大名だったのは何でだ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 05:03:33.33 ID:4PyLIHdj
榊原さんは四天王の中ではどうにも地味だけど三河者らしい人物だよね
俺は好きだなぁ

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 07:38:44.21 ID:Vz2pnaMF
榊原は照久の権現様膝枕のインパクトが強すぎてw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 08:13:06.71 ID:9cLo9fyK
>>508
普通なら改易級のことを代々の藩主がやらかしたが、「榊原家は別格だから」許してもらえたけど、
代わりに転封になった。

あと、井伊家は京都の監視役として動かせない。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 08:17:17.78 ID:jNf2tLkU
>>508
栄転やら当主幼少とか乱行とか

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 08:58:39.96 ID:O72/6u+N
そういえば安藤帯刀も直政亡き後の井伊の面倒をみていたな
息子だかが井伊家の家老になったんじゃなかったか

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 11:01:44.76 ID:JIzIkwda
>>515
安藤重勝だっけか
彦根藩士で木村重成討ち取ったと言われている人だな

二の手はこのように

2012年09月03日 20:51

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20:24:47.32 ID:EH9UdyJK
姉川の戦いにおいて、徳川軍では先陣が酒井忠次、二陣が榊原康政であった。

先ず酒井の先陣が、小笠原與八郎、菅沼新八郎、奥平といった寄騎とともに川を渡ったが、岸が高く
上がり兼ねていた所、榊原の部隊が真一文字に進んできて、上がり難き岸も「遮二無二押し上げよ!!」
そうして、「エイトウエイトウ」の掛け声とともに無理矢理に押し上がり、酒井の部隊の前に進もうとした。

これを見た酒井の部隊の兵たち「榊原の部隊に遅れては無念である!」と競いあうように岸に推し上がって進み、
そのため合戦にも利を得たという。

合戦後徳川家康

「康政の二の手のやりかたは今後の手本となるべきものだ!二の手の行動はこのようにしたいものだ。」と、
大いに激賞したとのことである。
(常山紀談)




334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 21:36:15.62 ID:bysBIx0B
>>331
榊原康政はここでも先鋒を追い越してるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4701.html

榊原の韋駄天走りっていうけど、榊原隊の足ってそんなに速かったのかな?
川渡るのも速いってことは、足腰が強いのか?


335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 21:54:15.06 ID:yjIr/Tc6
>>334

川を渡っている先鋒の頭やら肩やらを橋代わりに、走っていったんじゃね?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 22:58:30.30 ID:+VjcDlhZ
>>335
因幡の白うさぎかよっw

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23:09:27.13 ID:i0Di4b3O
怒った先鋒に鎧を剥かれて更に速く!

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 19:57:49.22 ID:y3CmCXPe
もし徳川が小牧で敗北して家康死亡の場合
なんでも出来る康政さんがいの一番に最高禄で再就職が決まりそうだ
ラスボスが曹操が敵の檄文書きを許した故事に倣った場合の制限付で

天正2年上杉謙信、榊原康政宛書状

2012年05月31日 21:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/31(木) 18:14:11.40 ID:VuDhoVpx
天正2年(1574)1月、対武田で信長・家康と同盟する上杉謙信が、徳川家康家臣、榊原康政宛に出した書状


『越中に帰陣して以来家康に対して書状を出せませんでした。これは全く私の本意ではありません。

内々に、旧冬の間に信濃・甲斐に調略を入れたのですが、味方に成るものを作ることが出来ず、そうしているうちに
ついに越山となってしまいましたが、その間も家康への援助を休むことはありませんでした。
味方を作るためこの春まで調略を引き伸ばして行なっていましたが、そうしているうちに関東の諸将は
何れも当方に属したので、この18回目の越山は、西上野において放火をし、これを期に引き上げました。

ところで、甲信の武田勝頼との決戦が不可避だというのに、信長の態度について(おそらく勝頼と
和平をするというような)風聞があります。勝頼とは必ず決戦におよび、興亡を賭けねばなりません。
この事は家康に対してもしっかり念を押して下さい。
例によって武田四郎(勝頼)は計略を色々仕掛けてくるでしょうが、それらに振り回されすぎてはいけません。

なお、詳細は村源(村上源五郎国清)より話させます。恐々謹言。

(天正2年)正月九日                     謙信(花押)

  榊原小平太(康政)殿

(榊原文書)


謙信公、この頃は武田を、しかも織田徳川を主導する勢いで滅ぼす気満々だったらしい。
しかしそれでも、対関東の片手間感がぬぐえない書状であるw




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/31(木) 19:01:42.66 ID:qdlhlMAg
まさか…熱田神宮を焼いたのは上杉…?