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安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


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家康は自身で戦い、私は動かなかった

2019年04月20日 18:26

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 18:55:29.76 ID:l2a+y5ii
(小牧・長久手の戦いの時)

勝入(池田恒興)敗死の後、榊原式部少輔(康政)と大須賀五郎左衛門(康高)は川を渡り敵へ赴く。
これに堀左衛門佐(秀政)が向かって打ち破った。両将は堪えず、士卒を皆討たれて逃げ退いた。ま
た井伊兵部(直政)がやって来ると、左衛門佐も新手を恐れて退いたという。

太閤はこの合戦以後に「今度の戦は我が方が勝った。大将3人(池田恒興・池田元助・森長可)が討
死したといえども、多数の首を取った。家康は自身で戦い、私は動かなかった」と宣ったという。

――『老人雑話』



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 19:00:31.00 ID:kUMmH9X6
>>890
負けを認めなければ負けじゃない理論

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:11:34.46 ID:v7SZidTe
勝ったのは堀久

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/21(日) 04:36:50.30 ID:ah9l/2ru
>>890
豊臣秀吉は動かない

久野氏内紛

2018年12月19日 22:28

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 19:17:20.93 ID:g1LvLh8E
(掛川城の戦いの時)

ここに今川氏真はこの20日に、密かに金丸山の久野三郎左衛門一門の老臣・久野八右衛門宗明の方へ
密使を遣わして、内々に申し送ったことには、

「久野一族が旧好を思って徳川方を叛き氏真方へ一味するならば、明夜に氏真が軍勢を出して天王山の
本陣に夜討しよう。その時に久野一族も敵の後陣より襲い攻めれば、徳川勢を破ること疑いなし。もし、
この事が謀の如くになれば、遠江一国を久野一族に授けてその功に報いよう」

久野一族は三郎左衛門宗能の弟・淡路守宗益、佐渡守宗憲、叔父・弾正忠宗政とその弟・采女宗常、
将監某、日向守守政、その他一族らがこれを聞いて皆利欲に引かれて義理を忘れ、氏真に一味すると
返答した。さて、その事を一家の大将・宗能に告げてその上で諫め申したことには、

「徳川殿は掛川城を攻め給うとも、この城は要害堅固でそのうえ今川方は忠義金鉄の勇士が数多籠って
いるため、容易く攻め落としなさることはできますまい。それよりは当家の一族が同意して氏真の命に
応じて夜討の働きをし、その功によって氏真から遠江一円を賜れば、家を興し先祖の孝、かつ子孫への
栄華を残すことでしょう。この事こそ、よく御思慮なさるべきです」

宗能はこれを聞くと、

「各々の諫言は一理無しというわけでもない。しかしながら、宗能は去年に一族を引き連れて徳川殿に
帰順し、その後はすこぶる厚い恩を蒙った。今故なくその恩を捨てて利のために義に叛き裏切ることは、
勇士の本意にあらず。そのうえ氏真の有様を見るに、讒を信じ佞を愛す昏愚の愚将で、行末は頼もしく
ない。面々も不義の謀計は思い止まるように」

と言って、その申すところを用いず。その翌21日には氏真が重ねて河井与四郎を使者とし「久野一族
がいよいよ同意するならば、明夜城から出る。きっと裏切るように」との旨を申し越したのであった。
よって淡路守・佐渡守・弾正・采女・将監らは皆氏真に同意し、「宗能を討って一族皆氏真に一味し、
明夜裏切ろう」と評議を決したのである。

八右衛門宗明は「いずれにして宗能は一門の惣領主将である。それなのに一門らは宗能を討たんとする
ことは嘆かわしい」と思い、この事を宗能に告げると宗能は大いに驚き、本間十右衛門長孝を使者とし
内々にこの子細を神君(徳川家康)の御陣に告げ奉った。

神君は大いに御感心され、菅沼新八郎定盈・松平与一郎忠正・植村出羽守家政(家存)・三宅総右衛門
康貞を加勢に遣わされて、また榊原小平太康政にも「宗能に力を添えて反逆者一族らを誅すべし!」と
命じられた。よって康政ならびに宗能は金丸山の本丸に籠り、その他加勢の四将は二丸に籠った。

この時に、淡路守・采女・将監は大手に向かい、佐渡守・弾正は搦手より攻め寄せた。城中では敵襲を
予想していたので多くの矢砲を隙間なく射出し撃ち出し、寄手が攻めあぐんだ折に、二丸に籠っている
加勢の輩は手分けして敵の後ろへと廻って、「徳川勢を後詰するぞ!」と喚き叫んで突いて掛かった。
本丸二丸に籠った輩も門を開いて切って出れば、寄手は散々に敗北した。

ついに淡路守は生け捕りとなり、腹を切らせなさった。(原注:『家忠日記』『三河物語』)その夜に
一族家人5十余人が討ち取られ、弾正・采女・将監らは追い払われて佐渡守は行方も知れず落ち失せた。

この日、榊原康政は様々に工夫して奮戦し、中根善次郎(長重)・遠藤八右衛門・篠島才蔵・竹内太郎
左衛門・竹尾平十郎などの従士は多く功をはげまして各々高名したという。(原注:『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


もし斥候の者が討たれると、

2018年10月19日 21:46

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 00:10:42.28 ID:hpo4qwgu
徳川家康がある時、敵方への物見を、甲州衆の内より遣わした。この時、榊原康政は物見の侍たちに向かって
言った

「各々、心得はあるか?このような物見には心得がなくては叶わぬものである。」

斥候の武士は
「委細心得候」と答え、物見をして帰還した。

側に射た人が康政に「あれはどう言う事か」と尋ねた。これに康政は

「もし斥候の者が討たれると、やむを得ず合戦に成ってしまうものだ。敵は大軍で味方は少勢なのだから、
『軽く見て帰れ』との心を伝えたのだ。」

と言った。

(士談)

最初からそのままそう言ってはいけなかったんですかね。


二俣城請取

2018年09月06日 21:11

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 01:48:42.24 ID:9PLLbYM4
この年(1575年)6月より大久保七郎右衛門忠世は蜷原の砦において、二俣城を乗り取らんと謀を
巡らせた。守将の依田下野守幸政(信守)は先より老病危篤であったが、6月19日ついに亡くなった。

その子・右衛門信蕃、その弟・源次郎信行(信幸)と善九郎信慶らは亡父の遺命を守って堅固に籠城し、
浜松よりもしばしば軍勢が向けられて攻められたものの、信蕃兄弟は厳しく防戦して義を守った。

12月に至ると城内は次第に兵糧米も尽き果てて、今は籠城も叶い難くなった。甲斐からも勝頼が印書
を遣わして、「只今後巻の人数を遣わし難い。これまで籠城した義忠は天晴手柄なり。

今は早く城を開いて甲州へ帰るように」と申し送られた。しかし依田兄弟はなおも義気弛まず城を枕に
討死せんと思い定めていた。そこに神君(徳川家康)より大久保新十郎(忠隣)・榊原小平太(康政)

をもって「依田兄弟が7ヶ月籠城して義心勇気をあらわしたことは感ずるに余りある。とはいえ後詰の
頼みもなき孤城を守って餓死するのは知慮の足りぬようなものである。速やかに城を渡して命を全うし、

後の功を立てられるべし」と、利害を説いて和睦を勧めなさった。依田兄弟もようやく得心して12月
23日に城を開けると定まり、新十郎と小平太が証人として城内に入ると、依田からは源次郎・善九郎

兄弟を証人に出した。ところが23日は雨が降っていたため、蓑笠を着て城を出るのは見苦しいとして、
翌24日、快晴を待って城内をよく掃除させて城兵をことごとく引き払い、二俣川で互いの証人を

取り返すと、静々と引き取って高天神城に入り、田中城をも守った。(原注:依田は蘆田を領したので、
蘆田とも称したという)神君もこの兄弟の振舞いを天晴頼もしく思し召し、御賞美なさったという。

さて二俣城は大久保忠世に賜った。

――『改正三河後風土記(蘆田覚書・東遷基業・武徳編年集成)』



251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 08:09:27.83 ID:lpRqTw82
依田家も神君に目を掛けられ後見に笠井肥後が付いたけどアホな子孫のせいで断絶したな

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 11:02:18.35 ID:8U+1XYjZ
げんじろうのぶゆきって……真田の倅みたいな名前だな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:04:44.33 ID:tESTErXx
真田丸に徳川関係で出るかと思ったのに>依田信蕃

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:07:49.73 ID:tESTErXx
考えたら依田信蕃(のぶしげ)と依田信幸
昌幸とも縁が深いし、よけいにややこしい

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:46:20.58 ID:ZVw5fpoO
真田丸は登場人物の関係で依田は意図的に省いたって言ってたじゃん

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 07:59:05.28 ID:RtFh+62U
>>253
出てたやん
徳川関係で出るってのが意味わからんけど

小田原城中に入りたいのです

2018年01月11日 19:01

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)


武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

昨日、東京国立博物館に行って来た

2015年07月06日 15:32

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 14:40:03.38 ID:HQudLpG9
昨日、東京国立博物館に行って来た
相変わらずのお宝尽くしだったが戦国関連のいくつか紹介

榊原康政像(重要文化財)
http://i.imgur.com/fPtEbOu.jpg
fPtEbOu.jpg

榊原康政所用 黒糸威二枚胴具足(重要文化財)
http://i.imgur.com/J398Pqq.jpg
J398Pqq.jpg
徳川頼房所要 大釘後立一の谷兜
http://i.imgur.com/rhBwpAl.jpg
rhBwpAl.jpg

武田逍遙軒作 普賢延命像
http://i.imgur.com/WOMnEXV.jpg
WOMnEXV.jpg

オマケ 

三日月宗近の見学に並ぶ刀剣乱舞ヲタ
http://i.imgur.com/KlYRQJv.jpg
KlYRQJv.jpg



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 15:08:32.93 ID:hwcyjchQ
>>304
小平太の鎧かっこいいな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:46:38.94 ID:l9yaohVx
慶長くらいになると甲冑の袖って無くなるよね
鎧はだんだん軽装化していく流れがあったのかな

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:58:39.50 ID:RPShjNjo
>>306
雑兵だと紙子の上着だけなんてのも居たらしいからなあ。もう完全に防御力より機動力って感じだったっぽい。
戦国時代がもう少し長く続いたら、近代ヨーロッパみたいに甲冑のない軍隊に成ってたかもね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:55:01.00 ID:WafE7F0k
小平太の鎧なら同じくトーハク所蔵の南蛮胴具足もいいよな

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:58:13.81 ID:mPv56eu4
>>307
鉄砲足軽はそうなってたな。鉄砲相手だと鎧の破片で怪我が余計ひどくなったらしい

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 18:07:37.90 ID:b67TShaf
袖で防ぐ様な矢なんかもう飛んでこねぇよって感じなんかね

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:15:53.35 ID:hvua1bAK
>>304
こういうのって撮影禁止じゃないの?

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:33:07.77 ID:8Yqs3qU3
>>312
施設や展示品による

※この場合撮影禁止品は劣化対策、個人寄託品や限定公開品等

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:17.21 ID:HQudLpG9
>>312
撮影禁止の展示物には撮影禁止マークがある

撮影禁止されてなくても、フラッシュ炊いたりするのは厳禁
AF補助光は、どうか知らんが俺は消して撮影してる

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:50.95 ID:8Yqs3qU3
○東京国立博物館の総合文化展(旧平常展)の撮影については、ホームページに下記の通り記載されています。
※なお、平成館2階は特別展の会場です。他の建物・室で特別展が開催されるときもあります。

○特別なイベント(博物館に初もうでなど)の期間や土日・祝日でなければ、館内は広いので混雑することはあまりありません。
通常は、午前中の早い時間帯や、閉館前の時間帯はかなりすいています。


TOP >> 来館案内 >> お客様へのお願い
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=127

撮影
* 平成館2階の展示室内は撮影禁止です。
上記以外の展示室であっても撮影を禁止することがあります。
* 撮影可能な展示室においても、撮影禁止マークのついている作品に関しては、所蔵者の意向により撮影ができません。
* 撮影可能な展示室においてはカメラを手で持って撮影してください。 フラッシュ、追加照明、一脚・三脚は使用できません。
* 携帯カメラなどシャッター音が出る場合は特に、他のお客様の迷惑とならないよう、ご配慮ください。

TOP >> 東博について >> よくある質問
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=156

トーハク=東京国立博物館の館内施設などについてのQ&A
Q:展示室で写真撮影はできますか?
A:総合文化展については、個人利用にかぎって写真撮影ができます。ただし、撮影禁止マークのついている作品は、所蔵者の意向により撮影をお断りしています。
また、一脚、三脚などの使用とフラッシュの使用はできません。他のお客様のご迷惑となるような行為(割り込んだり、撮影のため長時間その場にとどまるなど)はおやめください。撮影した画像を営利目的で複製・配布することはできません。
特別展会場については、写真撮影は禁止です。
総合文化展か特別展かわからないときは、係員にお尋ねください。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:03:43.98 ID:hvua1bAK
>>313-315
へー、撮影OKな場合もあるんだ。勉強になった。ありがとう。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:13:37.76 ID:A0Bx4ZtG
>>307
逸話準拠だと加藤清正の足軽隊がそういう装備だったと言われてる(名将言行録とかでも記載有)。
頭部を保護する為兜は付けさせたけど鎧は無し、んで鉄砲隊の場合は塹壕を掘らせる。
もうここまで来ると近代歩兵とさして変わらんな。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:35:56.71 ID:tKnnyIQM
>>310
幕末はそうだったって聞いた記憶があるけど、戦国ですでにそうなっていたってことか

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:48:44.53 ID:iNl9VvN2
幕末はとんがり帽子にズボンが最先端。あとはモフモフをつけてたらそれは偉い人。

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 23:26:17.42 ID:ON1KkSTM
やっぱ銃の発明の影響って半端ない

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 02:36:26.50 ID:YBIfurp9
それいうなら伝来でしょw

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 03:30:49.37 ID:C4Min6L8
いや、火薬の発明でしょ


榊原康政、秀忠遅参の弁明

2015年02月23日 18:45

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 04:39:55.53 ID:Tx+sPy36
関ヶ原の合戦の時、徳川家康は慶長5年(1600)九月一日に江戸を発った。
合戦の当日、徳川秀忠は信州上田にあり、その後、家康は関ヶ原の勝利の後、草津に在陣していた所に
秀忠は着陣した。そこでは井伊・本多の部隊を始めとして、関ヶ原の合戦で負傷し、甲冑指物などを
損じた者達が多く居た中、秀忠の軍勢は皆見事な軍装束であったため、それが却って見苦しく見えたと
言い伝えられている。

秀忠の着陣を知った家康は機嫌を悪くし、対面を許さなかった。
これに対し、秀忠と伴に着陣した榊原康政は家康の御前に出ると、一気呵成に畳み掛けて申し上げた

「この度、中納言様(秀忠)が御着陣が遅い故に御対面なされないというのは、実に御情け無い義であると
存じます。

武辺の事において、他人との間であれば『出し抜き』と申す事もございます。ですが父子の間で
出し抜きをされ、その上御勘当までなさるとは、実に情け無い。武道の義について、中納言様には
もはや御廃りに成ってしまいましたぞ。

そもそも上様がこのように合戦をされたのは、御子孫の為であるはずです。なのにその御子様に
自ら武道の疵をお付けなさるとは、これ以降、御家もその武道も、衰える成り行きと成ってしまうでしょう。
誠に、御思慮無き義でございます!」

これを聞いた家康は殊の外不機嫌となり、
「それは式部(康政)の逆公事(訴えられるべき相手から,訴えるべき者が逆に訴えられること)と
言うものではないか!一体いつ私が出し抜きをしたというのか。その理由を申し述べよ。
申し述べられなければその分にては相成るまじ!」

そう怒ったが、康政は少しも恐れず
「さればその事についてですが、よくよくお聞きくださるように。
九月一日に江戸を御出立なされたのであれば、その知らせは前日には中納言様に送られたことでしょう。
ところがその知らせが我々に届いたのは、ようやく九日になってでした。そこから昼夜急ぎ向かいましたが、
木曽川に出水があり途中も差し支えたため、この様に間に合わなかったのです。
これは出し抜きではないというのですか!?」

家康はこれを聞くと
「何を出鱈目を申しておる!?私が一日に江戸を出立するという事は、その前日に伝えるよう飛脚に申し付けた。
であるから二日以内には届いているはずである!」

「いいえ、その飛脚が到着したのは九日であること、紛れもありません。その使いの者にどうぞお尋ねください!」

これに家康は即刻詮議をし、使いの者は家康の出立の前日に江戸を出たものの、途中の川で洪水が起こっており
道を通ることが出来ず、そのためようやく九日になって到着したことを申し上げた。
ここで康政は申し上げた

「そういった訳があったのに、ご究明もなさらず中納言様の落ち度とのみ思われ御勘当なされるというのは、
近頃にない御思慮無き事です!」

これに家康は非常に困惑し、「なるほど、そういうことなら尤もである。」と、康政に向かって
謝罪した。そして今晩、夜になってから秀忠と対面したいので、参られるよう申してほしいと
仰せに成った。
こうしてその夜、対面がなされた。その席では父子とも非常に機嫌よく談笑した。
(明良洪範)

榊原康政、秀忠の遅参を弁明するというお話




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 07:45:59.23 ID:xC4xsz6Q
使いの者に嘘を言わせたのか

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 08:18:18.57 ID:PARFqk+2
そして次は早すぎると怒鳴るんだろ?

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 16:40:59.11 ID:XEhV0af4
裏で口合わせしたのかな?面倒くさいな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 18:51:38.04 ID:Tx+sPy36
秀忠の部隊に対し連絡が悪天候で使者が遅れた事が、関ヶ原への遅参と成ったというのは、現代は史実と考えられている。
つまりこの話が一番史実に近いと考えられる。

首争論

2014年12月10日 18:46

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 22:31:54.60 ID:uKneZsTT
武田信玄の病状悪化・死去により武田の西上作戦が取り止めになり勝頼が相続するゴタゴタの間、徳川家康は天正4年七月十九日、長篠城を攻め落とした。
この徳川方の逆侵攻に勝頼は穴山梅雪を後詰として遠江に進行させた。
これを徳川軍は迎え撃ち、これまで一方的にやられっぱなしだった武田軍にとうとう勝利、
喜び沸き立つ徳川方の陣営のなかで起こった一幕を三河物語から

榊原小平太(康政)の同心に上方の牢人がいた。大久保治右衛門尉(忠佐)が手柄を立てて首を引っさげて帰ってくるところ、
その牢人が来て、仲間七八人に後ろから押さえさせ、治右衛門尉の首を奪っていった。治右衛門は汗を握り腹が立ったが、首を取り返すことはかなわず帰っていった。
そのとき、榊原小平太がその牢人を召し連れて御前へ出たのを戸田之三郎右衛門尉(忠次)が見て急いで治右衛門尉のところに行った。

「治右衛門尉は知らないのか。あいつは只今、榊原小平太が召し連れて御前へ出て行ったぞ。」
「かたじけない。よくぞ聞かせてくれた。」

治右衛門尉は彼の者が帰らないうちにと、御前へと急ぎ、三郎右衛門も「我も味方するぞ。」と着いていった。
二人して御前に着いて治右衛門尉は

「あの人が差し上げたという首級は、皆見たであろうように、我が打ちとって引っさげて帰ってくるところを、七八人がやって来てひったくったものです。
我らにかぎらず、久しい譜代衆は各々、知行を頂けなくても、譜代の主なので、自分も他人も女子を顧みず、一命を捨てて戦働きをしてきましたが、
あのようなものは過分の知行を与えられ配下を多く持っているので、いつもあのように働きましょうが、
小身の我らのような者は、いくら働いてもご奉公にはならぬことがあるでしょう。
しかしながら、彼等は待遇が良ければ御家にとどまりますが、悪ければ出ていきます。譜代衆は、良くても悪くても御家の犬なので出て行かないのというのに、
彼のしてもいない手柄を認められる事は、一段と迷惑であります。」

と発言した.これに榊原小平太が

「治右は謂れのない事を仰せられている。我らの同心の手柄は歴然としているのに。納得がいかぬ。」

と言えば、治右衛門尉は反論した。

「どちらが正しいかどうか、あなたがどうして分かるのだろうか。その場に来ていないのに、いらざることをおっしゃりなさる。
見ぬ京物語はせざる物です、どれだけ同心を連れていようとも、無かったことをあったことにはなるまい。」

そのとき、家康が命令した。
「治右衛門尉、余計な事は言うな。我家ではお前の武辺を避難するものはいないだろうに。我の存分まかせてておけ。」

治右衛門尉はかしこまって御前を退出した。件の牢人は、その場にいられなくなりどこへでもなく行方をくらました。



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 07:06:07.32 ID:0UZMtryH
> 人参失敗した

人生失敗した、に見えたw

ただ戦に勝とうと言うまでのことか

2014年08月05日 18:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 11:54:10.10 ID:b8dJHAwn
長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉軍の森武蔵守長可、池田勝入を討ち取る戦果を上げた徳川家康は、その後
小幡城へと入った。

ここに榊原康政大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」

しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。

そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。

後日、家康は浜松城において、この時のことを語った

「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」

一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」

家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。

(岩淵夜話別集)

小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。




436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 12:37:03.44 ID:TWdXO505
家康隙がない。
これじゃ名人戦になるわけだわ。

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 12:42:18.27 ID:6W4uCpiW
絶対勝てない相手にどう上手く負けるか修行しつくした熟練の駿河人

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 13:29:39.39 ID:TY4Krwfl
どちらにしても討っておいてよかったのは

…鬼武蔵だろうな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 14:12:25.81 ID:nO8C0IrR
鬼武蔵を討ったいい話

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 14:50:51.31 ID:j9EDO2I9
三河人と駿河人それぞれの良いところを貪欲に取り込んだ知勇の人だが
面倒くささも人一倍なのが家康

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/05(火) 18:23:53.87 ID:d32SMxTa
>>435
成る程・・・正に名人だったんだな
家康の戦話で一番凄みを感じたわ

[ 続きを読む ]

さてさて、御事はおこなる人哉

2014年07月30日 18:53

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:11:59.62 ID:1Iz7iLnm
同じ話はここに出ていますが、出典のある詳しいバージョンということで
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-231.html

天正壬午の乱の結果、甲斐を徳川が領有すると、旧武田家の一条、土屋、原、山県の配下にあった者達は、
そのほとんどが井伊直政に付けられた。そして家康は「山県昌景の赤備えは見事であった」と、
直政の備えを皆赤色にした。

この時家康は、最初は酒井忠次に甲州人を召し預けようと考えていたのだが、それよりも、
若輩の直政を引き立てるために彼に付属させたいと、忠次本人に相談した。

忠次はこれを聞くと
「殿の仰るように井伊直政は若輩ですが、私の目から見ても臆しているようにも見えません。
ですので、彼の者に甲州人を付ければいよいよ励み働くことでしょう。」と申し上げた。

さて、その後忠次の所に榊原康政がやって来てこのように言った
「甲州人を半分に分け、私と直政の両人に付けられるべきなのに、直政のみに付けられたことは
なんと口惜しい事でしょう!この康政、どうしてあの若輩者に劣るでしょうか!?
この後、もし直政に出逢えば刺し違えようと決意しました。ですので、今生の暇乞いに参ったのです。」

これを聞いた忠次は激怒した
「お前は馬鹿か!!!(さてさて、御事はおこなる人哉)

殿は私に預けようと言って来たのを、私が勧めて直政に付けさせたのだ!
これを聞き分けずに軽卒な行動をするつもりなら、殿に申すまでもなし、
私がお前の妻子一族まで、全員串刺しにしてくれる!!!」
そう以ての外に怒り罵ったという。
(武功実録)




830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:40:37.51 ID:nv8Xlm8h
甲州兵の戦経験値は異常

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:00:17.17 ID:CPc5dUvq
なんで喧嘩してんだよ。鬼武蔵つれてくるぞ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:05:58.29 ID:LINdzkzZ
つれてきても討ち取られちゃうだろ。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:20:22.98 ID:Oda6FVfj
出典かくならちゃんと徳川実紀って書いた方がよくない?
鳥居家譜とか武功実録って今見れる手段あるの?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:45:28.87 ID:BP+5V0ZH
薩摩の兵は下がると斬るとか無茶苦茶な法で軍紀を守ったけど
甲州兵はどうやって軍紀を保ったのかね
戦えば損害も出るし規律の弱い補充兵も来るだろうし

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 06:19:59.64 ID:9LUB8Toi
康政おこなる?

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 08:59:12.87 ID:vkO2DVH/
酒井の激怒っぷりもすごいな 串刺しってw

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 13:58:11.91 ID:mSVmn9LE
激烏滸なの?

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 14:40:40.30 ID:Oda6FVfj
中世では無礼な奴は「尾籠(おこ)であるぞ!」と言われて責められるという話があるとかないとか

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 14:48:05.79 ID:nayFSFDk
当て字を音読みした、びろう、も悪い意味となるややこしさ

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 16:30:25.13 ID:SgluMGfl
三河武士ってよく刃傷沙汰にならねえなw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 16:44:46.91 ID:LINdzkzZ
しょっちゅうなってるし

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 18:47:36.95 ID:HS4w3HiT
たしか同盟中にも織田勢とやりあってただろw

太閤を御討ちの時節は只今ですぞ

2014年01月26日 19:08

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 15:53:50.04 ID:N+yoJwM1
小田原陣の間に徳川家康は、今日は榊原康政に先手をいたすように命じ、井伊直政には
側にいるように命じた。直政はいつもこのような事を嫌う人だが、今日は快く承知した。

時に、太閤の周囲に手廻しかいないのを見た直政は、太閤を御討ちの時節は只今ですぞしかじか、
と申し上げた。これを家康が殊の外叱ると、

直政は思いがけない顔つきで「それならば私に御先手を命じてください」と申し上げたとのこと。
(兵部思ノ外ナル顔色ニテ左候ハハ私ニ御先手ヘ被仰付候ヘト申上候由)

――『武功雑記』





397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 16:11:29.63 ID:dswV/4WY
三河武士だと君臣の不満と不満のやりとりがいい話に見える不思議

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:07:54.74 ID:kAU3MUWs
直政は太閤に何か含むことでもあったの?まるで親の仇みたいじゃないか

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 17:12:12.38 ID:8arBemqh
>>398
きっと親を食われたんだよ

榊原康政「腸が腐ってやがて死にます」

2014年01月20日 19:02

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 21:04:04.55 ID:dV2qOaNU
俗に伝わることに、忠勝・康政は家康公から賞功に貰う土地が常に少なく、
また家康公が一国を与えるという約束を破ったために憤っていた。

そのため、康政の病中に家康公から見舞いの使者が来たときは
布団から出ずに「腸が腐ってやがて死にますとお伝えしろ」と言い、
秀忠公からの使者には、布団から出て礼服を着て陳謝した。


『武家事紀』より、有名な康政の「腸が腐って死ぬ」と言う話。
ちなみにこれを本多正信と結びつけたのは隆慶一郎だそうです。




342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 23:59:15.17 ID:UnU8qmT2
榊原康政…館林10万石
本多忠勝…大多喜→桑名10万石
かぁ、なかなか争奪戦の舞台になった場所だし、下手な一国与えられるよりよっぽど信頼されてるよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:27:43.52 ID:8sz4NDNR
信頼されているとしても、
名誉では腹は膨れないからな…。
というか、どちらかと言うと約束を反故にされるという点の方じゃないかな。

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:43:04.77 ID:UQ1/Gv4L
そもそもそんな約束自体が創作だしなぁ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 02:42:52.46 ID:vgKQnmXz
家康はケチで有名だし三河時代に譜代家臣には苦労が絶えなかったからこれらの仕打ちは当然でしょ
大身の大名にしたら反逆してくるからな

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 07:33:55.27 ID:v8M8ol/E
>>345
> 家康はケチで有名
これがまず嘘なんだよなあ…

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 14:46:37.08 ID:WV5UkCAO
一騎でも喧嘩しかねないのが三河武士かと・・・ケチならまだマシじゃね?

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 18:09:18.52 ID:d+373OnL
>>341
隆慶一郎の本だと思ったら峰隆一郎
そんな時代が俺にもありました

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 20:42:19.63 ID:DpEh9r12
>>348
全然作風違うし、無駄にエッチでグロいなあと思いました
あと、作品数は見習えばいいなとも思いました

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 01:47:52.06 ID:MVuGoiUp
>>348
浅井長政と浅野長政みたいだな

『徳川武士銘々傳』による徳川四天王紹介

2014年01月18日 18:34

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 00:00:09.79 ID:Q9tscSoN
『徳川武士銘々傳』による徳川四天王紹介(※添えられている既出の逸話は割愛)

酒井忠次は徳川家康の四天王とされ、井伊・本多・榊原と雄名を天下に表わしたる。
中興の祖を忠次とする。
忠次は本多忠勝に似たる豪雄ではない。
榊原康政の如く身に七十創を蒙る「曹参」の武勇にもない。
井伊直政が如き勇将の器でもない。
一言で約せば沈勇にして謀略に富し者である。
忠次の如きは将略の勇がある。
絶奇なる籌策を抱く人というべし。


本多忠勝は秀吉より源義経の家臣である佐藤忠信の兜を与えられたことがあったが、
その恩威にも心を動かさず、天下の御家人となることは彼が喜ぶ所ではなかった。
ただ、三河武士と唱えられ徳川累代の家臣と呼ばれることが、この上なき栄誉と思っている。

忠勝の勇は戦国の士に求め難きもので、忠勝の忠は全く絶倫である。
忠勝の勇は「樊カイ」に適し、智は「韓信」に比す可きだ。


榊原康政は忠臣無双の将である。
英主に康政が如き臣あり、勇にして智あり。
康政の勇は人のよく知る所であり、彼の智は知らない人はいない。


井伊直政は悪木盗泉で徳川殿に仕えて二心なき武士なり。
かかる義烈の直政は勇武の気性も鬼神を凌ぐ勢いがある。

長久手の役の折、この先陣に進みたるは言わずもがなの直政。
家名と共に照り輝く赤幟、赤旗、朱具足で白きは槍の身刃のみ。
この槍刀さえ一振りすれば唐紅に敵の血潮で染め上げて赤き心を表わす。
この赤隊はアサヒに輝き山よりこなたへ馳せ降り、天下の上方勢を遠慮なく縦に横にと掛け破り、
大将をあまた討ち取って、名もなき士卒は蕪大根を切るが如くスッパスッパと飛ばす。
この時より天下に轟く勇名は「赤鬼」と呼ばれるようになる。

また、士卒を率いて戦う将帥の器のみならず、打物執っても無双の武士なり。
昔日の武人が侍従といい、兵部を称するのは実に無上の栄誉であり
かかる高位の直政も君の馬前に死は塵芥より軽く、利は一足の草鞋に同じく、
婿君と仰ぐ下野守の初陣に手柄を取らせようと将たる地位を置き自ら手を下して敵に向かうは、
乳虎を叱咤する武夫の胸中に嫣然とした美人も愛してしまうであろう可憐な情もある。
直政こそ古今無類の武将と仰ぐべきだ。




113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 01:07:19.13 ID:KRm5VfS3
人物紹介

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 09:26:19.83 ID:9JYqeLNU
近代デジタルライブラリーでざっと読んだけど
徳川家臣のいろんな逸話を幅広く集めて紹介しているが
読んでみるとやっぱり四天王は他の徳川家臣とは違うことが解る
>>111のような比較も興味深いね

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 15:39:00.26 ID:WhKpmH8n
そんな徳川四天王も結局は「狡兎死して走狗烹らる」の運命。

116 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/18(土) 15:41:37.00 ID:seiNbtwq
四天王の所は「名誉家系」として幕末まで続いてるよ?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 15:54:04.78 ID:RQ47MmjE
徳川ほど粛清しないのも世には珍しいくらいだが

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:23:04.13 ID:SSBslH6O
海老すくいさんにしてもパパにゃんにしても冷遇されてるってわけじゃないわな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:26:12.06 ID:wE0h5lRb
榊原なんか普通なら改易されるような事3,4回やらかしてるのに明治まで残ってるし。

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:37:09.03 ID:9mmhZYgF
家康だか秀忠から誓書もらってたんだっけ

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/18(土) 16:57:22.50 ID:9JYqeLNU
>>119
海老すくいさんが例の件とかで冷遇されていたわけじゃないってのも子孫みてもわかるけど
パパにゃん冷遇なんて聞いたことないけどな
佐和山っつか彦根も都の守備や大坂城を見据え西の大名衆に睨みを効かすを要所でパパにゃん配置はすごく納得だし

榊原康政「中でも深いのは溝口殿である」

2013年11月30日 18:54

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 15:50:11.05 ID:YSnA27A7
溝口外記は禄五千石で秀吉の使番である。ある時、彼は榊原康政と同座した。
溝口は直参であるために、座上について甚だ驕る様子があった。

康政は十万石を領するといえども、末席より礼敬した。溝口は綿帽子を身に着け、
「我は病気なり(だから防寒のために綿帽子を身に着けている)」と言った。
康政は常に彼の無礼を憎んだので、こう言った。

康政「各々方は秀吉公の恩を深く蒙っている。中でも深いのは溝口殿である」

座の人々「誰もが恩を蒙っているのに、溝口殿一人をお指しになるのは理由があるのですか?」

康政「私は家康の家臣だが、溝口殿の如き人を扶持して当然である(自分はそれだけの大禄だ)。
それに戦功を論じれば、溝口殿は我が片手にも及ばれまい。にもかかわらず、いま上座して傍若無人の体
であるのは、ひとえに秀吉の威を借りてのことだ。ならば、その恩はとりわけて深いのではないかな?」

これには返答する者もなかった。

――『武将感状記』




930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 21:32:12.46 ID:TQUJ+M7d
>>924
榊原康政の挑発皮肉、ある意味すがすがしいものがあるな
でも康政が10万石を領したのも秀吉のおかげなんだけどね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 03:27:30.64 ID:yz93w+dv
>>930
溝口はそのときの仕返しをしてたのかもしれない