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「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

2023年02月19日 17:41

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/18(土) 19:22:49.71 ID:PgV/ljYw
続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。

秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。



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「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」

2023年02月13日 19:16

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/12(日) 18:48:58.34 ID:8AdD7kWK
続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」

平岩主計頭親吉の弟の平右衛門が榊原小平太康政と喧嘩し、平右衛門が負傷したところで皆で引き離した。
その時、平岩親吉は御家人の宿老で榊原康政は小身で若年であった。
親吉が申されるには「小平太はその身の才智勇において匹敵するものがなく、上の御用にきっと立つべき人材である。
一方でわが弟はさほどの者ではなく、御用に立つようにも思われない、弟を逼塞させよう」と追い込んだ。
はたして榊原康政は天下の三傑と称せられ古今の英将となった。
平岩親吉の心根に智勇がなかったならば、諸人のあざけりを恥じて康政を罰したであろう。
「東国三十三ヶ国の間、徳川上杉武田の家中にも十人もいないであろう強勇の将である」
と聞く人はみな涙を流し、親吉を嘲る者は一人もいなかった。

「名将言行録」にも同じような話があるようで
親吉の弟の平右衛門は平岩康長のことらしい



当城に鎮守があるか

2022年07月09日 16:34

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/09(土) 11:09:41.07 ID:/UX4P9R1
天正年中、徳川家康公は江府(江戸)に移り給った時、榊原式部大輔康政を召され、

「当城に鎮守があるか」

と御尋ねになられた。康政承り、「御曲輪の内の北の辺りに、小社が見えました。」と言上した。
則ち康政を案内として北曲輪に入ると、小坂の上に、梅の木を数多植えてあるのをご覧になって、

「太田道灌は歌人であった故に、天神を勧請したのか」
と仰せになった。また一社の額を見られて

「当城に鎮守がなければ、坂本の山王を勧請すべしと思っていたが、量らずも山王社が建て置いてあるぞ」
との上意があったのを、康政承り

「ここにおのずからそのようになっていたのは、偏に御永久の吉瑞と存じ奉ります」
と申し上げると、家康公も御機嫌斜めならずして、こうしてこの社を紅葉山に移され、新たに造立された。

新東鑑

この紅葉山山王社が、後に更に移転して、現在の永田町の日枝神社となったそうで。



小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

2022年04月19日 18:42

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/18(月) 18:51:46.68 ID:F7aHokVL
景憲家伝」より、小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

信長は長篠で勝ってからことのほか不行儀が増した
柴田修理(勝家)すらも主の小鼓にて柴田に熊谷(能の敦盛)の脇を申し付け、「男(主役のシテ)見事とて脇無用引込候へと呵(大声で叱る)」
甲州没落のときも諏訪にて明智光秀の陣取りが見事だったことに嫉妬し、「明智があたまを打、その上小姓ともに明智があたまを打候へと被申、榊原小平太(康政)われら所より使に行、則其次の間にて見之物語仕る也」

榊原小平太もドン引きしたのか嬉々としてしゃべったのか
権六はいらない子

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/18(月) 18:54:43.65 ID:F7aHokVL
又聞きと書きましたが、正確には家康が語ったことを小幡景憲が記した部分です



子飼いの武士ども、槍を仕り候

2021年05月23日 17:36

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 18:07:21.47 ID:VXFhhPTe
(小牧・長久手の戦いの時)

堀久太郎殿(秀政)はそのまま人数を引き返し、備えを立てられたところで式部大輔殿(榊原
康政)の人数が行きかかり、久太郎殿の備を見てまた見崩れ仕った。久太郎殿の人数は式部大
輔殿を追い立て来たるところで、権現様の御旗の手を見付け久太郎殿の人数もまた崩れ申した。

それより権現様は浅間山へ御上り、御備遊ばされた。阿弥陀ヶ峰には井伊兵部少輔殿(直政)
を立てられた。その様子が勝入公(池田恒興)、紀伊守様(池田元助)、武蔵守様(森長可
へ聞こえたゆえ取って返され、井伊兵部少輔殿と武蔵守様と合戦が始まり申した。

その節、兵部殿の手先で平松重治郎・鳥居重治郎の両人、武蔵守様の手では千田主水・山田八
右衛門とが一番に槍を合わせ申す。武蔵守様の備が色々と崩れ仕ったのを、武蔵守様は手槍を
御取り、御進み出て追い払わんとなされたところ、兵部殿の手より強く鉄砲を撃った故、その
鉄砲が武蔵守様に当たり御討死なされた。

すなわちその手が崩れ申した時に、権現様の御旗本、金の扇子の御馬印が進んだのを勝入公の
人数が見付け、ことごとく敗北仕った。その折、武蔵守様の御死骸を御家来が引きかけ退いた
が、後ろから大勢が追いかけるので退くことに難儀し、その辺りに捨て置いたのを本多八蔵殿
が御首を挙げられ、ならびに刀を取り添えて権現様へ御実検に入れられた。その刀で武蔵守様
ということが知れ申したという。

それより勝入公は東の方へ退かれたのを安藤彦兵衛殿(直次)が槍付けられ、永井伝八殿(直
勝)が首を挙げられた。紀伊守様は勝入公の討死を御聞き付け、阿弥陀ヶ峰の方へ乗り付けて
御越しになったのを、また彦兵衛殿が槍を合わされ首を御取りになったという。

権現様はことごとく御勝利を得られて「参(欠字)たちの子飼いの武士ども、槍を仕り候」と
仰せられ、信雄公へ首実検に入れ申すようにと仰せ付けられた。首どもは御送り遣わされ、そ
れより早速御人数を小幡へ御引き取り遊ばされた。

――『忠勝公御武功其外聞書



きっと敗軍して逃げて来たのだろう!

2021年05月17日 16:11

堀秀政   
728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/17(月) 12:50:05.19 ID:r5e3KAQv
(小牧・長久手の戦い、白山林の戦いの時)

武蔵守様(森長可)が岩崎の城を御攻めの時は秀次公(豊臣秀次)は総軍の
後ろにおられた故、白山林と申す所で弁当を使い、諸勢たむろ仕るところへ
榊原式部大輔殿(康政)の人数が猪の越海道へ押し来たり、これを見付けて
そのまま見崩れ仕った。

その節、秀次公先手の士大将・田中久兵衛(吉政)と申す者は、堀久太郎殿
(秀政)の陣へ乗り来たり、敵が出たと注進した。

すると久太郎殿が申されたのは「其の方は一手の組頭、人数をかけ引きする
役人だ。敵が出たと注進に来る人にあらず。きっと敗軍して逃げて来たのだ
ろう!」と大いに叱られ、そのまま人数を引き返し、備を立て置かれた。

――『忠勝公御武功其外聞書



宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


家康は自身で戦い、私は動かなかった

2019年04月20日 18:26

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 18:55:29.76 ID:l2a+y5ii
(小牧・長久手の戦いの時)

勝入(池田恒興)敗死の後、榊原式部少輔(康政)と大須賀五郎左衛門(康高)は川を渡り敵へ赴く。
これに堀左衛門佐(秀政)が向かって打ち破った。両将は堪えず、士卒を皆討たれて逃げ退いた。ま
た井伊兵部(直政)がやって来ると、左衛門佐も新手を恐れて退いたという。

太閤はこの合戦以後に「今度の戦は我が方が勝った。大将3人(池田恒興・池田元助・森長可)が討
死したといえども、多数の首を取った。家康は自身で戦い、私は動かなかった」と宣ったという。

――『老人雑話』



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 19:00:31.00 ID:kUMmH9X6
>>890
負けを認めなければ負けじゃない理論

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:11:34.46 ID:v7SZidTe
勝ったのは堀久

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/21(日) 04:36:50.30 ID:ah9l/2ru
>>890
豊臣秀吉は動かない

久野氏内紛

2018年12月19日 22:28

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 19:17:20.93 ID:g1LvLh8E
(掛川城の戦いの時)

ここに今川氏真はこの20日に、密かに金丸山の久野三郎左衛門一門の老臣・久野八右衛門宗明の方へ
密使を遣わして、内々に申し送ったことには、

「久野一族が旧好を思って徳川方を叛き氏真方へ一味するならば、明夜に氏真が軍勢を出して天王山の
本陣に夜討しよう。その時に久野一族も敵の後陣より襲い攻めれば、徳川勢を破ること疑いなし。もし、
この事が謀の如くになれば、遠江一国を久野一族に授けてその功に報いよう」

久野一族は三郎左衛門宗能の弟・淡路守宗益、佐渡守宗憲、叔父・弾正忠宗政とその弟・采女宗常、
将監某、日向守守政、その他一族らがこれを聞いて皆利欲に引かれて義理を忘れ、氏真に一味すると
返答した。さて、その事を一家の大将・宗能に告げてその上で諫め申したことには、

「徳川殿は掛川城を攻め給うとも、この城は要害堅固でそのうえ今川方は忠義金鉄の勇士が数多籠って
いるため、容易く攻め落としなさることはできますまい。それよりは当家の一族が同意して氏真の命に
応じて夜討の働きをし、その功によって氏真から遠江一円を賜れば、家を興し先祖の孝、かつ子孫への
栄華を残すことでしょう。この事こそ、よく御思慮なさるべきです」

宗能はこれを聞くと、

「各々の諫言は一理無しというわけでもない。しかしながら、宗能は去年に一族を引き連れて徳川殿に
帰順し、その後はすこぶる厚い恩を蒙った。今故なくその恩を捨てて利のために義に叛き裏切ることは、
勇士の本意にあらず。そのうえ氏真の有様を見るに、讒を信じ佞を愛す昏愚の愚将で、行末は頼もしく
ない。面々も不義の謀計は思い止まるように」

と言って、その申すところを用いず。その翌21日には氏真が重ねて河井与四郎を使者とし「久野一族
がいよいよ同意するならば、明夜城から出る。きっと裏切るように」との旨を申し越したのであった。
よって淡路守・佐渡守・弾正・采女・将監らは皆氏真に同意し、「宗能を討って一族皆氏真に一味し、
明夜裏切ろう」と評議を決したのである。

八右衛門宗明は「いずれにして宗能は一門の惣領主将である。それなのに一門らは宗能を討たんとする
ことは嘆かわしい」と思い、この事を宗能に告げると宗能は大いに驚き、本間十右衛門長孝を使者とし
内々にこの子細を神君(徳川家康)の御陣に告げ奉った。

神君は大いに御感心され、菅沼新八郎定盈・松平与一郎忠正・植村出羽守家政(家存)・三宅総右衛門
康貞を加勢に遣わされて、また榊原小平太康政にも「宗能に力を添えて反逆者一族らを誅すべし!」と
命じられた。よって康政ならびに宗能は金丸山の本丸に籠り、その他加勢の四将は二丸に籠った。

この時に、淡路守・采女・将監は大手に向かい、佐渡守・弾正は搦手より攻め寄せた。城中では敵襲を
予想していたので多くの矢砲を隙間なく射出し撃ち出し、寄手が攻めあぐんだ折に、二丸に籠っている
加勢の輩は手分けして敵の後ろへと廻って、「徳川勢を後詰するぞ!」と喚き叫んで突いて掛かった。
本丸二丸に籠った輩も門を開いて切って出れば、寄手は散々に敗北した。

ついに淡路守は生け捕りとなり、腹を切らせなさった。(原注:『家忠日記』『三河物語』)その夜に
一族家人5十余人が討ち取られ、弾正・采女・将監らは追い払われて佐渡守は行方も知れず落ち失せた。

この日、榊原康政は様々に工夫して奮戦し、中根善次郎(長重)・遠藤八右衛門・篠島才蔵・竹内太郎
左衛門・竹尾平十郎などの従士は多く功をはげまして各々高名したという。(原注:『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


もし斥候の者が討たれると、

2018年10月19日 21:46

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 00:10:42.28 ID:hpo4qwgu
徳川家康がある時、敵方への物見を、甲州衆の内より遣わした。この時、榊原康政は物見の侍たちに向かって
言った

「各々、心得はあるか?このような物見には心得がなくては叶わぬものである。」

斥候の武士は
「委細心得候」と答え、物見をして帰還した。

側に射た人が康政に「あれはどう言う事か」と尋ねた。これに康政は

「もし斥候の者が討たれると、やむを得ず合戦に成ってしまうものだ。敵は大軍で味方は少勢なのだから、
『軽く見て帰れ』との心を伝えたのだ。」

と言った。

(士談)

最初からそのままそう言ってはいけなかったんですかね。


二俣城請取

2018年09月06日 21:11

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 01:48:42.24 ID:9PLLbYM4
この年(1575年)6月より大久保七郎右衛門忠世は蜷原の砦において、二俣城を乗り取らんと謀を
巡らせた。守将の依田下野守幸政(信守)は先より老病危篤であったが、6月19日ついに亡くなった。

その子・右衛門信蕃、その弟・源次郎信行(信幸)と善九郎信慶らは亡父の遺命を守って堅固に籠城し、
浜松よりもしばしば軍勢が向けられて攻められたものの、信蕃兄弟は厳しく防戦して義を守った。

12月に至ると城内は次第に兵糧米も尽き果てて、今は籠城も叶い難くなった。甲斐からも勝頼が印書
を遣わして、「只今後巻の人数を遣わし難い。これまで籠城した義忠は天晴手柄なり。

今は早く城を開いて甲州へ帰るように」と申し送られた。しかし依田兄弟はなおも義気弛まず城を枕に
討死せんと思い定めていた。そこに神君(徳川家康)より大久保新十郎(忠隣)・榊原小平太(康政)

をもって「依田兄弟が7ヶ月籠城して義心勇気をあらわしたことは感ずるに余りある。とはいえ後詰の
頼みもなき孤城を守って餓死するのは知慮の足りぬようなものである。速やかに城を渡して命を全うし、

後の功を立てられるべし」と、利害を説いて和睦を勧めなさった。依田兄弟もようやく得心して12月
23日に城を開けると定まり、新十郎と小平太が証人として城内に入ると、依田からは源次郎・善九郎

兄弟を証人に出した。ところが23日は雨が降っていたため、蓑笠を着て城を出るのは見苦しいとして、
翌24日、快晴を待って城内をよく掃除させて城兵をことごとく引き払い、二俣川で互いの証人を

取り返すと、静々と引き取って高天神城に入り、田中城をも守った。(原注:依田は蘆田を領したので、
蘆田とも称したという)神君もこの兄弟の振舞いを天晴頼もしく思し召し、御賞美なさったという。

さて二俣城は大久保忠世に賜った。

――『改正三河後風土記(蘆田覚書・東遷基業・武徳編年集成)』



251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 08:09:27.83 ID:lpRqTw82
依田家も神君に目を掛けられ後見に笠井肥後が付いたけどアホな子孫のせいで断絶したな

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 11:02:18.35 ID:8U+1XYjZ
げんじろうのぶゆきって……真田の倅みたいな名前だな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:04:44.33 ID:tESTErXx
真田丸に徳川関係で出るかと思ったのに>依田信蕃

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:07:49.73 ID:tESTErXx
考えたら依田信蕃(のぶしげ)と依田信幸
昌幸とも縁が深いし、よけいにややこしい

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:46:20.58 ID:ZVw5fpoO
真田丸は登場人物の関係で依田は意図的に省いたって言ってたじゃん

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 07:59:05.28 ID:RtFh+62U
>>253
出てたやん
徳川関係で出るってのが意味わからんけど

小田原城中に入りたいのです

2018年01月11日 19:01

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)


武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

昨日、東京国立博物館に行って来た

2015年07月06日 15:32

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 14:40:03.38 ID:HQudLpG9
昨日、東京国立博物館に行って来た
相変わらずのお宝尽くしだったが戦国関連のいくつか紹介

榊原康政像(重要文化財)
http://i.imgur.com/fPtEbOu.jpg
fPtEbOu.jpg

榊原康政所用 黒糸威二枚胴具足(重要文化財)
http://i.imgur.com/J398Pqq.jpg
J398Pqq.jpg
徳川頼房所要 大釘後立一の谷兜
http://i.imgur.com/rhBwpAl.jpg
rhBwpAl.jpg

武田逍遙軒作 普賢延命像
http://i.imgur.com/WOMnEXV.jpg
WOMnEXV.jpg

オマケ 

三日月宗近の見学に並ぶ刀剣乱舞ヲタ
http://i.imgur.com/KlYRQJv.jpg
KlYRQJv.jpg



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 15:08:32.93 ID:hwcyjchQ
>>304
小平太の鎧かっこいいな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:46:38.94 ID:l9yaohVx
慶長くらいになると甲冑の袖って無くなるよね
鎧はだんだん軽装化していく流れがあったのかな

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:58:39.50 ID:RPShjNjo
>>306
雑兵だと紙子の上着だけなんてのも居たらしいからなあ。もう完全に防御力より機動力って感じだったっぽい。
戦国時代がもう少し長く続いたら、近代ヨーロッパみたいに甲冑のない軍隊に成ってたかもね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:55:01.00 ID:WafE7F0k
小平太の鎧なら同じくトーハク所蔵の南蛮胴具足もいいよな

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:58:13.81 ID:mPv56eu4
>>307
鉄砲足軽はそうなってたな。鉄砲相手だと鎧の破片で怪我が余計ひどくなったらしい

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 18:07:37.90 ID:b67TShaf
袖で防ぐ様な矢なんかもう飛んでこねぇよって感じなんかね

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:15:53.35 ID:hvua1bAK
>>304
こういうのって撮影禁止じゃないの?

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:33:07.77 ID:8Yqs3qU3
>>312
施設や展示品による

※この場合撮影禁止品は劣化対策、個人寄託品や限定公開品等

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:17.21 ID:HQudLpG9
>>312
撮影禁止の展示物には撮影禁止マークがある

撮影禁止されてなくても、フラッシュ炊いたりするのは厳禁
AF補助光は、どうか知らんが俺は消して撮影してる

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:50.95 ID:8Yqs3qU3
○東京国立博物館の総合文化展(旧平常展)の撮影については、ホームページに下記の通り記載されています。
※なお、平成館2階は特別展の会場です。他の建物・室で特別展が開催されるときもあります。

○特別なイベント(博物館に初もうでなど)の期間や土日・祝日でなければ、館内は広いので混雑することはあまりありません。
通常は、午前中の早い時間帯や、閉館前の時間帯はかなりすいています。


TOP >> 来館案内 >> お客様へのお願い
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=127

撮影
* 平成館2階の展示室内は撮影禁止です。
上記以外の展示室であっても撮影を禁止することがあります。
* 撮影可能な展示室においても、撮影禁止マークのついている作品に関しては、所蔵者の意向により撮影ができません。
* 撮影可能な展示室においてはカメラを手で持って撮影してください。 フラッシュ、追加照明、一脚・三脚は使用できません。
* 携帯カメラなどシャッター音が出る場合は特に、他のお客様の迷惑とならないよう、ご配慮ください。

TOP >> 東博について >> よくある質問
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=156

トーハク=東京国立博物館の館内施設などについてのQ&A
Q:展示室で写真撮影はできますか?
A:総合文化展については、個人利用にかぎって写真撮影ができます。ただし、撮影禁止マークのついている作品は、所蔵者の意向により撮影をお断りしています。
また、一脚、三脚などの使用とフラッシュの使用はできません。他のお客様のご迷惑となるような行為(割り込んだり、撮影のため長時間その場にとどまるなど)はおやめください。撮影した画像を営利目的で複製・配布することはできません。
特別展会場については、写真撮影は禁止です。
総合文化展か特別展かわからないときは、係員にお尋ねください。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:03:43.98 ID:hvua1bAK
>>313-315
へー、撮影OKな場合もあるんだ。勉強になった。ありがとう。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:13:37.76 ID:A0Bx4ZtG
>>307
逸話準拠だと加藤清正の足軽隊がそういう装備だったと言われてる(名将言行録とかでも記載有)。
頭部を保護する為兜は付けさせたけど鎧は無し、んで鉄砲隊の場合は塹壕を掘らせる。
もうここまで来ると近代歩兵とさして変わらんな。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:35:56.71 ID:tKnnyIQM
>>310
幕末はそうだったって聞いた記憶があるけど、戦国ですでにそうなっていたってことか

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:48:44.53 ID:iNl9VvN2
幕末はとんがり帽子にズボンが最先端。あとはモフモフをつけてたらそれは偉い人。

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 23:26:17.42 ID:ON1KkSTM
やっぱ銃の発明の影響って半端ない

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 02:36:26.50 ID:YBIfurp9
それいうなら伝来でしょw

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 03:30:49.37 ID:C4Min6L8
いや、火薬の発明でしょ


榊原康政、秀忠遅参の弁明

2015年02月23日 18:45

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 04:39:55.53 ID:Tx+sPy36
関ヶ原の合戦の時、徳川家康は慶長5年(1600)九月一日に江戸を発った。
合戦の当日、徳川秀忠は信州上田にあり、その後、家康は関ヶ原の勝利の後、草津に在陣していた所に
秀忠は着陣した。そこでは井伊・本多の部隊を始めとして、関ヶ原の合戦で負傷し、甲冑指物などを
損じた者達が多く居た中、秀忠の軍勢は皆見事な軍装束であったため、それが却って見苦しく見えたと
言い伝えられている。

秀忠の着陣を知った家康は機嫌を悪くし、対面を許さなかった。
これに対し、秀忠と伴に着陣した榊原康政は家康の御前に出ると、一気呵成に畳み掛けて申し上げた

「この度、中納言様(秀忠)が御着陣が遅い故に御対面なされないというのは、実に御情け無い義であると
存じます。

武辺の事において、他人との間であれば『出し抜き』と申す事もございます。ですが父子の間で
出し抜きをされ、その上御勘当までなさるとは、実に情け無い。武道の義について、中納言様には
もはや御廃りに成ってしまいましたぞ。

そもそも上様がこのように合戦をされたのは、御子孫の為であるはずです。なのにその御子様に
自ら武道の疵をお付けなさるとは、これ以降、御家もその武道も、衰える成り行きと成ってしまうでしょう。
誠に、御思慮無き義でございます!」

これを聞いた家康は殊の外不機嫌となり、
「それは式部(康政)の逆公事(訴えられるべき相手から,訴えるべき者が逆に訴えられること)と
言うものではないか!一体いつ私が出し抜きをしたというのか。その理由を申し述べよ。
申し述べられなければその分にては相成るまじ!」

そう怒ったが、康政は少しも恐れず
「さればその事についてですが、よくよくお聞きくださるように。
九月一日に江戸を御出立なされたのであれば、その知らせは前日には中納言様に送られたことでしょう。
ところがその知らせが我々に届いたのは、ようやく九日になってでした。そこから昼夜急ぎ向かいましたが、
木曽川に出水があり途中も差し支えたため、この様に間に合わなかったのです。
これは出し抜きではないというのですか!?」

家康はこれを聞くと
「何を出鱈目を申しておる!?私が一日に江戸を出立するという事は、その前日に伝えるよう飛脚に申し付けた。
であるから二日以内には届いているはずである!」

「いいえ、その飛脚が到着したのは九日であること、紛れもありません。その使いの者にどうぞお尋ねください!」

これに家康は即刻詮議をし、使いの者は家康の出立の前日に江戸を出たものの、途中の川で洪水が起こっており
道を通ることが出来ず、そのためようやく九日になって到着したことを申し上げた。
ここで康政は申し上げた

「そういった訳があったのに、ご究明もなさらず中納言様の落ち度とのみ思われ御勘当なされるというのは、
近頃にない御思慮無き事です!」

これに家康は非常に困惑し、「なるほど、そういうことなら尤もである。」と、康政に向かって
謝罪した。そして今晩、夜になってから秀忠と対面したいので、参られるよう申してほしいと
仰せに成った。
こうしてその夜、対面がなされた。その席では父子とも非常に機嫌よく談笑した。
(明良洪範)

榊原康政、秀忠の遅参を弁明するというお話




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 07:45:59.23 ID:xC4xsz6Q
使いの者に嘘を言わせたのか

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 08:18:18.57 ID:PARFqk+2
そして次は早すぎると怒鳴るんだろ?

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 16:40:59.11 ID:XEhV0af4
裏で口合わせしたのかな?面倒くさいな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 18:51:38.04 ID:Tx+sPy36
秀忠の部隊に対し連絡が悪天候で使者が遅れた事が、関ヶ原への遅参と成ったというのは、現代は史実と考えられている。
つまりこの話が一番史実に近いと考えられる。