219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 20:54:27.36 ID:u4RuVBEe
槐記より
板倉重宗三話
享保十四年四月十六日の記事より
近衛信尋と重宗
板倉周防守(重宗)は形の如き茶人で、応山公とも心易い間柄でしばしば公を訪問したが、所司代であった時にはたびたび茶の湯に公を招いた。周防守は自ら茶臼を持って茶を挽くことを好んだ。
ある時応山公がお訪ねされると、周防守は待合でいつもの小臼で茶を挽いていたが、「この茶は御前に差し上げる濃茶で、今挽いていたところですが、早くもおいでになった面目なさよ。私めは勝手などを見繕って参りますので、おなぐさみに御前もこの臼で茶を挽かれてみてはいかが」と臼を差し上げて勝手に入ろうとするところを呼び返されて、「これを私に挽かせて、防州の茶は時の関白が挽かれたのだと、人々に話そうたくらみであろう」と仰れば、周防守後ろ頭を叩いて、「是非もありません。実を申せば、左様に思い付いた茶の湯でありましたが、見事にお見抜きなされた口惜しさよ」と二人とも大笑いなされたとか。
享保十七年九月十二日の記事より 後光明院と重宗
後光明院は格別の大器のお方であらせられたことを(家煕様は)常々仰せになられていた。板倉周防守が所司代を勤めていた時のことであった。後水尾院が廱にお悩みになられ、日々の御容態をご報告申し上げていたが、それだけでは心もとなく思し召されたか、周防守を召されて近日行啓なさるべきよしを仰せ下された。
周防守が申し上げて、「朝覲行幸のことは並大抵のことではございません。まず関東に申しつかわし、事の次第を調えなければ、にわかにできることではございません」と申し上げると、「それでは行啓は取りやめよう。その代わりに、禁中の辰巳の角の築地より院の御所の戌亥の角まで、梯子で高廊下をすぐに架けよ。禁裏の内を行幸するのは常のことである。廊下から廊下へ移るのを誰が行啓と申そうか。早々に高廊下を仕立てるべし」と仰って、ついに院のもとへ行啓されたという。
享保十九年二月二十四日の記事より 後水尾院と重宗
(修岳寺離宮の庭を誰が造営したのか道安が問うと家煕が答えて)「あれこそ御亭をはじめ一木一草に至るまでことごとく後水尾院の御製になったものだ」
(何故にあのような離れたところにお庭をあそばされたのか尋ねると)「不意にあの山をお手に入れられてより、地勢から山水をお考えなされて、お庭の雛形をお作りなされてから、草木をはじめ踏石、捨石にいたるまでみな土で模型をこしらえ、雛形の処々に置いてみて形良くなるようにあそばされ、七、八分できたころに、お側仕えの女中に庭造りの巧みな者がいたので、こもづつみの輿に乗せて、平松可心と非蔵人の何某などを供につけてたびたび見分に遣わされた。
あそこが法皇の御所になるという噂が周防守の耳にまで届き、御所まで参り、『かくかくの噂を聞きましたが、もし密かに行幸なされるお志のございましたら、何ゆえにそれがしに仰せ下されないのですか。早々に関東へ申しつかわし、どちらへなりとも行幸なされますよう取り計らいますのに、何の仔細がございましょう』と申し上げた。叡聞に達し、『内膳には少しも心配はいらぬ。左様な噂は全く根も葉もないことだ。身がそう言っていると内膳に申し聞かせよ。身がそう言うのだ。誰が何と言おうと、みな虚説であると思え』と仰せ下されたので、周防守は一言もなく退出した」
220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 21:09:49.36 ID:u4RuVBEe
普通天皇の外出は行幸、皇太子などの外出は行啓ですが、ここで
後光明天皇が自身の外出を
行啓と言っているのは、父親である後水尾院のもとを訪れるため、一種の謙譲表現なのでしょうか
221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/31(火) 00:45:01.48 ID:cpU+9pie
後水尾院が偉大な天皇だったことの表現かと